祖父から聞いた戦争体験談

「末期の眼」(まつごのめ)と言う言葉がある。
死期を意識して世界を見ると言う事らしい。

調べたら、川端康成が初めて使った言葉だとか、芥川龍之介が好んで使っていたとか書かれていたが、私的には、近々死ぬとしたらやっておかねば後悔しそうな事は何か?とか、近々死ぬのであれば、優先順位は何か?を考えるキーワードである。

本当は、末期の眼で世界を見ると、すべてが輝いて見えると言う事らしいが... 。

とにかく私は、ここ最近特にやりたい事が無く、何となくやりたい事だらけになったので、「末期の眼」を思い出すと、自然と「いつかはやりたい、やらねばならぬ。」と思っていた事にたどり着いた。

もう今年50歳になるし、いい加減やる事にする。


祖父はよく晩酌の時にニコニコ機嫌良く、戦時中、満州で馬の世話をしていた時の体験を語ってくれた。
自分の馬以外の馬を撫でたら、馬がヤキモチを妬いて、祖父の肩を甘噛みしたと言うものだ。

「本当に優しく、そっと引き寄せるように甘噛む。『いけませんよ。』と言うように。あれが本当の甘噛みと言うものだろうな。」

恐らく、戦地での辛い日々の中、祖父の心を温めた特別な思い出なのだろう。
このお話しが一番晩酌時に語られた。何回も何回も幼い頃から聞かされたお話しだ。

次によく語られたのは、台湾に入った時、五色の建物に見惚れて、
「まるで竜宮城のようだ。」と思った事。

その次が、中国で食べた餃子の美味しさ。
日本に帰国した後、その味を再現しようとしたが、どうしても出来なかったそうだ。

本当に心から良い思い出だったようで、戦後結婚し、子育てもひと段落した後、祖父は台湾旅行をしている。

自主的に語られた辛い体験談は一度だけ。
幼い私が「何故おじいちゃんはタバコを吸い始めたの?」と聞くと、
「戦争に行くと食べる物が無くて、国の配給のタバコを吸うと、空腹を紛らわす事ができた。」
「国が吸え吸えとタバコをよこした。」
「そのタバコも少なくなって、仲間と回し吸いをして、お前吸い過ぎだの、早く回せだの、仲間が吐く煙をみんなで手でこうやって集めて吸う始末だった。」
と、語った。

日本禁煙友愛会会員でありながら、ニコチン1mmの軽いタバコにしても、結局強いタバコに戻ってしまうを繰り返す祖父に、幼心に、そもそも何故タバコを始めてしまったのか?と言う疑問に答える形で語られたお話しであった。

それ以外は周りの親族から、おじいちゃんは運が良くて、その頃日本で重要だった、大町のアルミ工場の技師だったから、戦争が終わる前に満州から呼び戻されて、日本に居たから助かったんだよとか、家が農家だったから、食う物に困らなかったんだよと聞かされた内容くらいである。


だが、私が中学生だった時、担任の先生から出された「戦争体験をしている、おじいちゃんおばあちゃんがまだ生きている人は、その体験を聞いて、ノートにまとめて来なさい。」と言う宿題のせいで、祖父は思い出したくない思い出を、孫に語るハメになるのである。

宿題が出された時は、「そぉねぇ、今のうちに聞いておいた方がいいよねぇ。せっかくうちはおじいちゃんが生きて居るんだから♪」と、軽い気持ちでいたのを覚えている。

祖父にその旨を話し、戦争体験談をねだると、上記したようないつものお話しを語ろうとするので、私は遮り「そうじゃなくて、もっと大変だった事。」そう言うと、祖父は一瞬逡巡し、少し苦しそうな顔になり、観念したのか決意したのかは分からないけれど、嫌々ながら、または渋々と、ポツリポツリ次のような事を話してくれた。

「薄い毛布一枚体にかけて地べたに寝るが、冬の朝は寒くて、毛布の上にうっすら霜が降りていて、その毛布をそぉっと剥いで起きるのが、本当に辛かった。」

「食料や物資を運ぶ時、森の中で休憩して、倒れた大木に座って休んでいると、おじいちゃんの右に座って休んでいた仲間が、いきなり空から撃たれた。
おじいちゃんは慌てて、撃たれた仲間を担いで茂みに隠れたけど、撃たれた仲間は死んでしまった。」

話は以上である。
私は祖父に、銃は撃った事はあるのかとか、前線に出た事はあるかとか、まったく聞く事ができなかった。できなくてよかった。

以上の2つのお話しだけでも、私は聞き出して申し訳ない気持ちになった。

大人になって知った事だが、あまりに辛い思い出は蓋をされ、楽しかった思い出だけ誇張して、自分の心を守るのだそうだ。

私は聞き出した責任として、妹や自分の子供、機会があれば誰かに伝える努力をしてきたが、いつかしっかりと文章にして、S N Sか何かに残そうと思っていた。大好きな祖父から無理矢理聞き出してしまった贖罪の気持ちと、そして、無理矢理聞き出した戦争体験談に意味を持たせる事で、聞き出した自分を許したいからだ。

祖父が亡くなって、もう25年以上経つ。

自分勝手なもので、私は祖父から右隣の人が撃たれて亡くなった話しを聞いた時、心底祖父でなくて良かったと思ってしまった。
右隣の人が誰か分からないから言える事ではあるのだが、それでも、人が亡くなった話しだと言うのに、自分勝手な思いが出てしまい、会ったこと無いその亡くなった方と、亡くなった方の関係者の方々に、申し訳ない気持ちになる。
話を聞いた妹と息子も「おじいちゃんでなくて良かった。」と言う同じ気持ちだと知り、自分の中の申し訳ない思いが分散され、それもほとほと自分勝手で申し訳ない気持ちになる。
祖父が大好きで出てくる思いではあるのだが、その知らない右隣りの誰かも、きっと誰かの大好きな人であったのだろうから、この申し訳ない気持ちは忘れてはならないと、今も思っている。

甘噛みをした馬の話しは、今回文章に起こしてみて思ったのは、あの辛い戦時下で、祖父はとても大切に心を込めて可愛がっていたのであろうと思い至った。そうでなければ、ヤキモチを妬くほど馬が懐くとは思えないからだ。また、馬を可愛がる事で、祖父も心を癒していたのであろうと考える。
とても思慮深い優しい祖父であったが、辛い気持ちを動物を可愛がる事で癒す話しは、優しい祖父らしい話しであると改めて思う。

そして、経験した事が無いので分からないのだが、霜が降りる程の寒い朝、冷たく硬い地べたに空腹の状態で、いったいそんなんで眠れたのだろうか?
眠れない日々を重ねて、ある日気絶するように眠るのか?毎日寝つけない中、疲れからそのうち眠っていたのか?毎日栄養失調と過労で、気絶するように眠っていたのか?
今となっては確認のしようがないが、凍死していてもおかしくない状況だったと思う。丈夫な祖父で本当に良かった。

祖父は本が大好きで、少年時代は家の農業を手伝うより読書がしたくて、木の上に隠れて、友達と回し読みしていた本を読んでいたそうで、結婚は本屋の一人娘を狙って婿入りし、本屋の店主になったと話してくれた。
この一人政略結婚の話しを親族にすると、どうやら私にだけにしてくれた話のようで、「おじいちゃんらしい話しだし、おじいちゃんが言ったのなら、本当の話しだと思うよ。」と言われ、私だけにしてくれたという事が何だか誇らしく、くすぐったい気持ちになる。
そんな祖父が好んでよく読んでいたのが、岩波書店から出ている三国志や水滸伝。
松本清張とかも読んではいたが、晩年繰り返しよく読んでいたのは水滸伝とかであった。
私がバラエティ番組やアニメを観ていると、可愛い孫に仕方なくチャンネル権を譲ってる感があった祖父だが、堺正章の西遊記を観ていると、「これなら良い。」とニコニコしていた。

祖父は、戦争で満州や台湾に行ったが、中国の文化や歴史が大好きだったのだと思う。
少年時代から三国志が、水滸伝が、西遊記が、戦中戦後からは本場中国の餃子も、五色の建物のある台湾も、大好きだったのだと思う。
戦争に行っても、好きの気持ちが変わらなかった祖父。
だから私は、政治的に仲が微妙でも、国民同士は仲良くありたいと願う。
日本にもどの国にも、いい人も悪い人も居るのだから、何国人だからと雑に括る事はしたくない。自分の中の偏見と戦える自分で居たい。そう願う。

祖父が亡くなって何年後であったか、私は薄桃色を基調とした七色の世界を、視界一面一杯に、透き通った多くの人々がゆっくりゆっくり天へと登って行く中、祖父が寝て起きたばかりのような顔で、しかも寝癖がついた姿で、ニコニコ本当に幸せそうな顔をして、昇り行く透明な人々の流れに逆らい...しかし誰ともぶつかる事なく、ゆっくりと一人降りて来る夢を見た事がある。
すごくハッキリとした夢で、今もその時の祖父の顔を思い出す事ができる。
おそらく、死後、天界でゆっくり寝ていた祖父は、目が覚めたので、里帰りに降りて来たのではないかと勝手に想像している。
たかが夢ではあるが、祖父が死後幸せで居ると嬉しいので、夢が本当であってほしいと思っている。


長々と書いたけれど、祖父が話してくれた戦争の辛い体験が、誰かの心に届くと嬉しい。

お腹を空かせた状態で毎夜地べたに寝て、朝、霜の降りた薄い毛布を剥がして起きる事を、どの人も経験する事が無いように、誰も空から撃たれず、撃たれ死ぬ事の無いように、心から願います。

読んでくれた方に感謝します。
心が救われます。ありがとう。


おわり

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