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ラストダンスへの敗北


好きな本を聞かれて「アシモフが好き」と答えた人がいた。

その世界に潜らないと出てこないアシモフという名前。その名前を聞いて「古典SFですね!」と盛り上がれる人が一体どれだけいるだろうか。
「本が好き」という言葉には様々な深さのグラデーションがあるように思う。わたしは自分の「好き」の世界を最初から全開で人と話すことに抵抗がある。「ゲーテが好き」と言っても古典に興味なければ「???」だし、読んでいただいた場合、それを好きと思うかどうかは読み手によってかなり大きく分かれるだろう。
そもそも、この話題について中身全開で話すことは、知り合って間もない間柄の雑談にしては難易度が高い。好きなものがコアで知名度低めだった場合、その世界に引き込むにはいかに自分の好きなものが魅力的か、欠片も知らない人が聞いても興味を持てるように話す必要がある。相手の心を掴める確率の低さからすると、余りにもリスキー。
そういった点で「アシモフが好き」と言ったあの人は、自分の好きなものにはまっすぐ真摯で、かつ相手との雑談をこなすことをしない、もしくはできない、愚直さがあった。

けれどもその漏れ出た愚直さに惹かれずにはいられなかった。この人の世界観は一体何で構成されてきたのだろうと知りたくなる。知識の深さも然ることながら、好奇心(あるいは孤独)の強さとそうなるに至った経緯に触れたくなる。

そうしてわたしはあの人から論理学の書籍をいくつか紹介してもらい、わたしは文学を勧めた。あの人の読書メーターには、わたしが紹介した書籍の感想記録が残る。わたしの本棚には、論理学の本が散らばる。わたしは相手から一色わけてもらい、わたしの色も相手に色移りして混ざっていった。

なにより、そういうかかわりが素直に面白かった。お互いに違う好きなものを色移りさせてじんわりと自分の世界を広げる感覚。自分の好きなものを知ってもらって、相手の世界が広がっているように感じられる瞬間。面白いものを面白いと言えること。自分一人で完結しかけていた「好き」の世界が深みを増してゆく。

けれども、今となっては彼とは連絡は取れない。
わたしのエゴ(自覚があるだけましかもしれない)によって、関係を終わらせた。愚かにも未だに「友人としてなら今もなお良い関係でいられただろうに」と思う。そう思うことは、彼がわたしに対して恋愛的意味で好意を寄せていてくれたのならば、非常に失礼なことだ。一方で、再び連絡が取れたところであの交わり方をすることはないだろうとも思う。二人の間に漂う、過去を思うが故の沈痛が、交わりを損なわせる障壁となる。永遠に取り返しはつかない。

わたしは男女であるが故に、欲を起因とする色恋沙汰で、面白く交われる人を亡くした。そうやって何人も何人も何人も、惜しい人を亡くしてきた。喪失を悼むにも記憶は綯い交ぜになってしまっていて、もはや葬式は間に合わない。

夫も読めるこのnoteに(後から睨まれそうだが)あえて記録する。自身への戒めとしたいのだ。

「男女の友情は成立するのか?」という先人が幾千として繰り返してきたであろう議題にわたしは踊らされ続けている。踊らされ続け、敗北の一途を辿っている。(夫は別枠だが。いつも面白く交わってくれてありがとう)

もう十分に疲れた。そして自分に呆れている。何度やれば気が済むのか。
性別によって一瞬で交わり続けることのできなくなる囚われから、もう、いい加減に抜け出したい。

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