自分のために

こんばんは。


これからの人生、ある分だけ生きようと思っています。今のところですが。

で、生きるなら、日々を、遺言を伝えるように生きたいです。自分の思ったこと、感じたこと、それらを使って、他の人たちに少しでも良い影響を。

特に書き残しておくこともありません。「死」というものを考えるのは、怖いものがあります。日本人も含めて、世界中の人が、「どう生きるか」を、迷っている、そういう時代に、自分はいるんだと思います。漠然とした不安に囲まれて生きる。その中で、一定数の人は考えることをやめて、本能や、欲望や、惰性、直感、人の意見、そういうものに自分をゆだねる。それも普通のことで、昔の人は特に、そうして日々を生きていた面もあるのでしょう。今のところ、自分は、そうすることを選べません。それは、つまり、悩みながら生きていく、ということ。そしてそれは、なかなかに、大変なものなんじゃないか。そう思います。

自分が家族や親族に強く支えられているように、自分の家族や親族も、自分に支えられている面がある、最近、そう思ったりします。一人息子、同世代の親族でも唯一の男子。自分がいなくなったら、彼らに、悲しい影響を及ぼすのではないかと思います。なぜ生きるのか、という問いの答えとして、彼らのため、というのも、ある、と思います。

宗教に身を委ねて、神のために生きる。贅沢で、気高くて、理解もできる生き方です。しかし自分は、それに納得することはできていません。

触れたいと思った異性(自分の場合は。)に触れることのために生きる。自然で、楽しそうで、楽そう。この生き方が全面的に肯定されない、という意味で、人間は進化しすぎたんだな、と思います。地球を救おう、なんて言えるようになってしまったのだから、進化しすぎです。

ごまかしながら、生きるしかないのかな。ちょうど、往年の名投手が、使い古した体をだましだまし使い、シーズンに臨むように。人と話したり、楽しんだり、触れたい人に触れたり。そうやって気を紛らわし、生きていくのだろうか。自分は将来、「人と話したり、楽しんだり、触れたい人に触れたり」するのを目的にして、生きていけるようになるのだろうか。
「死にたくないから生きている」のは、「生きている」のだろうか?

宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」を見るまでは、元気でいないといけないですね。


ばいばい。

2020年5月16日

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