1.はじめに
『沈黙』は宗教を題材とした作品であり神を信仰する人間の思想と神を信じない人間の思想の戦いである。本作の根幹は基督教を禁止にした日本がどのようにして棄教させるかといういわば肉体的精神的苦痛の頂点、拷問だ。この批評ではいかにして人間の思想を変えるべく拷問をかけその結果人間の思想、宗教観がいかにして変わっていったのか、この作品はそれから何を伝えたいのか考えたい
 
2.人の思想は変われない
2‐1.なぜ拷問という手段を取ったのか
『沈黙』における世界観は基督教を悪としキリシタンを迫害する日本に残されたキリシタンを救済しようと2人の司祭がやってくるという話である。要するにこの話は基督を絶対の正義とする思想と基督を悪だと考える思想の戦いであり後者は様々な手で前者の思想を変えようと試みている。しかしながら人間の思想というものはあまり変われない。表面上は変わったように見えても本心、もしくは無意識の中では変わっていないのだ。そしてこの『沈黙』に出てくるキリシタンは表面上すら変えない者が多くそのため日本側が用意したものが拷問である。はたしてこの拷問は意味を成すのだろうか。
2‐2.棄教ができない司祭とできる百姓
作中に登場する拷問は雲仙の山から湧く熱湯を柄杓で掬い全身に浴びせるものや汚物や腐敗物で埋めた穴に逆さ吊りし耳の裏に穴をあけ一滴ずつ血を垂れ流していくものがあげられる。これらは無論日本側が棄教、および踏み絵をさせるために用いたものだが司祭や神父、修道士はこれらに屈しなかった。しかしガルペとともに死んだ百姓やキチジロー、トモギ村の者たちなど、日本の者はすぐに棄教してしまっていた。それはなぜなのだろう。
これに関しては2つ理由があると考えられる。
一つ目は神に対しての信仰心、もとい『信仰したことによる救い』があったかということが大きいだろうと考える。現代に生きる人類も他人とは特別なことをしたことによる成功例には惑わされやすいものだ。それと同じ理屈で彼らは『信仰したことによる救い』があったかで考えているのだろう。恐らくガルペやロドリゴは幼いころから神を信じ身に起こるすべての事象を神の試練だのご加護だのと思ってきたのだろう。作中でも度々ロドリゴは神の試練であるのだからこの後善き方向に進んでいくに違いないと考えている。人間は成功体験をもとに考える生物だから彼は信仰していることにより救われると思っているのだ。そのため彼らは棄教することにより加護がなくなりこの先の人生が終わると思ってしまうのだろう。電化製品に囲まれた生活から原始人の生活に戻るよりも死を選ぶ現代人のように。しかし百姓はどうだろう。救われていたか?彼らは信仰したところで状況は何も変わらずむしろ悪化の一途を辿った。極めつけに彼らはキリスト教を知る前仏教を知っていた。そのため信仰するだけで救われるという感覚はなく、仏教が災厄の時に仏像を立てるように物体を媒体にして信仰、もとい心の拠り所にしていたというのが近いのだろう。その拠り所が消えれば精神的には不安になるが死にはしない。ならば踏んでもいいと心のどこかで考えているはずだ。
二つ目は進行したことによるメリットが歪んで伝わってしまっていることだ。ポルトガルの人々は神に祈りをささげることによってご加護を受け物事がいい方向に進んでいく、要は「今この瞬間にメリットが発生する」と思っているのである。嵐に遭遇しなかったときも日本で奇跡的に教徒に会えたときも司祭は神が用意した結果だと思っている。それに対して百姓は「今はこんなに苦しくても死ねばなんの苦もない世界に行ける」、要は「死後に救いがあると思っている」のだ。生きている間ずっと信仰することによって死んだあと幸せになれるという歪んだ考えに感化された百姓たちが棄教しろと迫られれば在るかもわからないあの世に賭けるよりは今この瞬間を生きた方がいいと考えるのは必然だろう。
これにより百姓達の棄教は司祭に比べれば簡単であると言える。
ところでこの百姓から学べることは「救いを与えてくれる存在よりさらに多くの救いを与えてくれる存在がいれば人は思想を変えてしまう」ということだ。なぜ日本側は司祭たちにそのようなことをしなかったのだろう。それはロドリゴが作中何度も神に問いかけていることから分かる。
2‐3.『宗教』という歪んだ恋愛感情
恋愛とは肉欲や番になりたいという欲求からくるものではないかと思う気持ちは分かる。しかし恋愛からその要素を完全に消した時、何が残るのだろう。例えば相手がすでに存在しない場合や絶対に会えない存在だった時に人間はどのような行動に出るだろうか。そう、「自身に都合のいいよう人物像を変えてしまう」のだ。そしてその対象を崇め始める。これは別に宗教でなくてもいい。アイドルや二次元でも同じようなことが起こる。宗教とはその最たるものである。要は棄教ができない人間ほど神に恋しているのだ。ロドリゴが神学生の頃、神の顔が聖書のどこにも記されていない故数え切れぬほど神の顔を美化し胸に抱きしめたと書いてある。恐らくガルペもフェレイラも同じようなことをしていたのだろう。現存しないものを美化して考えあまつさえ自身に道を標してくれると考えている。これを恋愛と言わずして何というのだろうか。私自身そのような考えや経験を持ち合わせていないので憶測の上語るが本当に好きな相手のためならなんでもできるのが人間なのだろう。ところでロドリゴやフェレイラが棄教した最大の要因は『棄教することによって多数の信者を守れたから』だ。この時のロドリゴは神に対する信仰心が薄れていたのは確かだ。なぜまだ沈黙を貫いているのか何度も神に問いかけるほどには信仰心がなくなっていた。だが恋人の顔を踏んでまで自分の想像している恋人とはかけ離れたナニカを信仰する人間を助けたのは何故なのだろう。単純に考えれば人間の心を持ち合わせていたから自分の信仰心より他人の命を優先したとなるだろう。そもそもロドリゴは信仰を結局捨てきれなかったところを見ると神の顔を踏んでも信仰する形に妥協したとそう考えるだろう。しかしながら私は別の考えを提示する。「沈黙する神にはどれだけの冒涜を働こうと何も起こらないと気づいてしまったから」だ。この作中、神に祈り続けても結局状況は好転しなかった。それどころかどれだけ教徒が悲惨な目にあっても救いはなかった。その時点でロドリゴは神という存在よりも神による救いの存在を疑ったのではないか。その結果例え棄教をしこの先も主を貶す存在になろうとも沈黙を貫く主は自分に救いを与えなければ罰も与えない、やるべきことは信徒を助けることだと考えたのだろう。後にロドリゴの妄想の中で神が「私は沈黙などしていない、一緒に苦しんでいただけなのに」というシーンを見るにロドリゴが神に対し一方的な理想を押し付けすぎていたということが読み取れる。人に理想を押し付けすぎるとその人の意見など聞こえないものだ。
2‐4 思想は変われたか
最後に拷問は人を変えられるかを読み取る。結論から言って無理だ。なぜならこの作品における拷問と本来用いられる拷問には大きな差がある。この作品の日本は恐らくそれを理解していないのだろう。まず本来の拷問は情報を吐かせる時に行う一時的な極限の苦痛と機密情報を秤に掛けるものだ。これは状況にもよるがほとんどの場合つり合っている。自身の命と仲間の命はいつでも等価なのが人間の考えだ。しかしこの作品における拷問はどうだろうか。一時的な極限の苦痛と死ぬまで続く精神的な苦痛を秤にかけている。全くつり合っていない。司祭としては今この場で死ねば華々しい殉職と称えられる、百姓としては死ねば天国にいける。ただ棄教してしまえば命はあってもそれ以外全てを失うような脱力感に襲われるだろう。そんな拷問で思想を変えようなどとは無理である。死ぬ寸前まで天秤が死ぬ方が良いというならそもそも拷問として機能していない。そこで考えられたのがロドリゴが受けたような拷問なのだろう。棄教しないことにより信徒が死に続け自身が拒めば拒むほど死人が増え続けるとは悪魔の所業だ。最初はつり合わなかった天秤も時間が経てばつり合うという珍しい拷問だと感じた。しかしそんな拷問でもやはり思想を変えるのは困難を極めている。思想というのは先述した通り成功体験から歪んでいく。そんなものを拷問で変えようなどそもそも無理な話だ。そのためこの作中ではさらに効率が良い思想の変え方を実践している。ただ失敗体験を与えればいいのだ。キリスト教を信仰したことにより信徒を死なせてしまったこと、そして無意識下であっても信徒の苦しんでいる声を煩わしいと感じてしまったこと、なにより日本という国に歪んだキリスト教を広めてしまったこと。主を疑い主に背いた教徒の思想はいとも簡単に変えられるとこの作中からは読み取ることができる。
このように思想を変える拷問とは肉体ではなく精神的、そして失敗体験を与えることである。
3結び
作中拷問をかけられた人間ごとに考え結びとする。まずフェレイラと他の神父だがフェレイラは棄教しその他は殉教した。恐らくロドリゴと同じように失敗体験を与えるためわざわざ拷問にかけたのだろう。そして彼はキリスト教が日本で歪んだ形で伝わっていることを嘆きキリスト教を批判する本を出版している。結局彼は最期までキリストを信じていたのかは明記されていないが恐らくは信じていたのではないかと考える。同じキリストという者を信仰していても国単位でみれば性質が全く違うものを信仰してしまっているということに気付いてしまいそれを認めてしまっている。彼は神を信じていても宗教観は変わってしまったのだろう。次にトモギ村の百姓について考える。彼らは全員死後に救いがあると思っているので結局宗教観は何も変わらなかった。やはり棄教することと命を捨てることの天秤が最期までつり合わなかったことが大きい。最期にロドリゴについて考える。結局彼も棄教し日本名を貰ったわけなのだが宗教観は大きく変わったと考えられる。彼は最期まで神を信じていたわけなのだが救いなど存在しないこと、神の顔を踏みキリスト教の祈りを捧げず日本の生活をしていても天罰が下ることがない状況から奇蹟など信ずるに値しないと思い始めたのだろう。
結局拷問によって宗教観が変わったのは祈りを捧げなければいけないと考えるポルトガル人たちだけであると考えられる。この作品はこれらを伝えることによって一度通常から外れた思想であってもそれを心の底から正しいと思える人間の頑固さ、人は些細なことでは変われやしないという不変の事実から目を背けてはいけないということを読者に伝えたいのだろう。


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