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直近10年を振り返るはなし

こんにちは。30歳になったので…、、直近10年の振り返りでもしてみようかなと思った次第であります。私自身が次の10年の過ごし方を考えたいので書く、そんなイメージです。この記事を開いてしまった昔からの仲の方、懐かしがって読み飛ばしてもらえると幸いです。。



20歳(2014年)

5月1日に20歳になりました。20歳最初の大きな出来事は、友人の死でした。高校時代仲良くしていた、クラスも部活も同じだった友人が、北アルプスを登山中に滑落死。ショックすぎる出来事でした。7月生まれの彼は19歳で命を落としたので、20歳になれず。私は今、30歳になりました。

彼の死後、山を恨みそうになりながらも山と向き合うことに関心を持った私は、林業の現場見学に行ったり、群馬の山に通いまくるようになったり、林業家となり起業したりしました。彼の分も生きるとか、そんな薄っぺらいことは言えないのですが、たしかに私に影響を与えた出来事でした。

またこれまでの塾講師のバイト以外にレンタカー屋でのバイトも始め、トラックの運転の面白さに気付き覚醒したのもこの頃。4トン超ロング(オバケ)の運転手になりたいという夢が生まれました。あとアカペラサークルでのコンサートのマネジメントもしていたな…(懐かしい)



21歳(2015年)

4月から新しいゼミに入りました。特定の学問を学ぶゼミではなく、ソーシャルプロデューサー(社会的価値を創造する人)となるために分野を問わず行動している人たちが集まるゼミです。正直ゼミで何を学んだのかよくわかりませんが、意欲とか熱量とか人脈とか、教科書からは得られないものを多く得ました。

年数十回も横浜から通い、やがて住むことになる「群馬県南牧村」と出会ったのもこの年ですね。ゼミの先輩経由で知った村で、高齢化率日本一などのデータはさておき「なんとなく面白そう」程度の直感から関わり始めました。その後毎月のように南牧村でイベントを行うようになります。

初めて村へ行ったときの投稿。まさか住むことになるとは思っていなかった頃。

また高校生対象にキャリア教育やプロジェクトベースドラーニング(PBL)の機会を提供する活動をし始めたのもこの年で、アカペラサークルでコンサートのマネジメントをまたやったのもこの年で、多分ほかにも色々。2015年は明らかに睡眠不足だった記憶が…。ありますね。



22歳(2016年)

初めて車を買いました。メカ面の面白さと実用性に惹かれて決めた、スバルのサンバー(バン)。当時は大学、バイトのほか、課外活動で群馬や福島や長野に毎週行っていたので、車内にベッドや着替えが常にあって車上生活のような日々を送っていました。

初めて買ったサンバー。イジり方が、若さを感じる。

そしてこの年は大学4年。多くの人は就活をするお年頃かと思いますが、私は就活をほぼしない選択をしました。当時調子に乗っていたので、「組織に属して働くよりも、高収入や生活の安定よりも、若くて効率よく手に職をつけられる20代のうちに技術を磨く」と言っていました。一応この考えはその後しばらく大事にしています。

就職先の内定よりは4トン超ロング(オバケ)乗りこなせる技術のほうが欲しかったので、中型免許を取得。夏休みのサークルの合宿は自らバスを運転して行きました。奇遇にも合宿先は、6年後自分が管理することになるキャンプ場。そして秋から宣伝トラックの運転手の仕事を始めました。

バスでキャンプ場。ちなみに同じバスを後に共同所有で買う。


23歳(2017年)

はじめのうちは見習い運転手だったので、小さめの車の乗務をしていましたが、2017年はじめから念願のオバケの運転を許可され、乗務するようになりました。東京のど真ん中で大きな車体を転がすのは、それだけで楽しかったですね。

4トン超ロング(オバケ)の広告宣伝車。長さは日産キャラバン2.5台分。

しかしながら、学外活動のし過ぎもあって2単位足りず留年。誇れる留年ではありませんが、ホッとした感覚があったのも事実です。県内トップの大学附属の高校に入り、学歴面でこれまでレールを大きく外れることのない人生だったので、ちょっと息苦しかったのかもしれません。

結果として卒業が半年遅れることに。就職先も決まっていないので、卒業後はこれまでの学外活動の続きと、週3くらいでベンチャーで働いていたり。ちなみに半年遅れでの卒業式には4年後に妻となる人との写真が。当時は全くそんな予定はありませんでしたが…。。



24歳(2018年)

当時は平日に東京でトラックを転がし、休日に群馬か長野でイベントを開き、という生活。ギャップが激しいんですね。渋谷スクランブル交差点を行き交う人々を高い運転席から見つめたり、スクランブルの信号1回分の横断者数くらいしか住んでいない村に行ったりですから。

懐かしきコロナ前の渋谷スクランブル。

トラックの運転手って、運転中はかなり暇なんですね。そのため結構悟りを開く?時間が長かったので、地域間格差の問題、人口バランスの問題、環境問題、資本主義への違和感など、運転席でたくさんの人々を眺めながら自分なりに考えていました。今でもこの時間は有意義だったなと思います。

あとこの年は厄年だからか、都庁前で水を飲めなくなって救急搬送されたり、実家の自分の部屋が燃えて消火活動中に左足の裏火傷したりと散々でしたね。足を地面に付けないので松葉杖だし、運転手の仕事はオートマ車充ててもらっていました。



25歳(2019年)

いよいよ東京オリンピックまであと1年というタイミングでしたね。オリンピックを東京だけでなく日本各地から盛り上げよう、という企画がありまして。そのイベント用トラックの運転手の仕事を任されました。北海道や青森なども含め、東日本は全部このトラックで廻りました。

横が開いて200インチくらいのディスプレイとステージが出てくる。

この仕事がきっかけで、生まれて25年目にしてやっと47都道府県を制覇。最後は秋田県でした。また日本最長の国道である4号線も東京の日本橋から青森の青い森公園前まで制覇。まだまだ知らない場所も走りたい道もたくさんありますが、一旦運転手の仕事をやりきった、と思うことにしました。

さすがに20代後半で生活スタイルの見直しのタイミングとなり、考えたり相談したりした結果、東京で週5日働くスタイルは自分には厳しすぎると判断。とりあえず生まれ育った横浜から拠点を移すことに決めました。ちなみに久々に車を買いました。またスバルのサンバー(バン)。2回目。

2回目の購入、サンバー。


26歳(2020年)

2020年のはじめ、これまで5年で70回ほど通っていた群馬の村に新たな拠点を構え、現地での仕事として林業を始めました。親方の下につきひたすら修行。間伐、下草刈り、苗の植付、獣害対策ネット張りなど、森を作る仕事である「造林」メインで普通作業員として働きました。

経年劣化で廃棄する獣害対策ネットを山奥から人力で運ぶ。髪伸びすぎ日焼けしすぎ。

当初は村と横浜と車の3拠点生活を送るつもりであったものの、コロナの影響も大きく結局村暮らしになったんですね。当時の田舎はコロナへの警戒心が都会より数倍強く、絶対罹ってはいけない空気感だったのでなかなか身動きが取れず、ずっと山。山。山。

「下流域を災害から守るには適切な森林の手入れや管理が必要である」このことが、もともと防災に関心が強かった私には強く刺さりました。林業の現場各所で見る災害の前兆が頭から離れず、林業の会社を作るモチベーションとなりました。チームで毎週起業に向けた会議をしていました。



27歳(2021年)

ということで、会社を作りました。会社に関しては紆余曲折を他の記事に書いているので飛ばしますね。

会社設立の2ヶ月後、結婚。その後は引き受けられる仕事を増やすために、重機の資格を片っ端から取りまくりました。一部抜粋すると車両系建設機械、不整地運搬車、高所作業車、小型移動式クレーン、玉掛け、など。

伐った木を重機でつまみ、引きずり出す。

あとこの頃は結構現場にも出ていたので、週4日か5日は山で重機乗って木を引きずり出していて、残りで社長業みたいな生活。おかげで社長業は相当おろそかになっていました。ちなみにその後パン屋の窯を借りてパン屋となりましたが、まさか自分がパン屋になる人生だとは思ってなかったな…。



28歳(2022年)

林業とパン屋の2本柱でスタートしたこの年。おかげさまでパン屋の方はメディアにも多く取り上げられまして、ありがたいことによく売れました。

そのような中、村有のキャンプ場の管理者を引き受けようとしていたのに、議会で否決。以前取得できていた旅館業の許可がなくなったダメージが大きく、大赤字スタート。この年のキャンプ場の売上は、その後の年のGW数日分より少ないです…。厳しい現実。。

議会で否決された件の記事の抜粋。

さらに妻の妊娠が判明したなか、林業パン屋キャンプ場の3本柱をやりくりするのが相当厳しかったですね。体調は数え切れないくらい崩したし、精神的にもダメージがでかかった、そんな歳でした。



29歳(2023年)

子が生まれました。仕事はいろんな意味で大変な中でしたが、無事生まれてきてくれて本当によかったですね。と思っていたら数日後に退職届が出されて、結果林業の部門を休業することに。会社発足時からいた役員やメンバーは、全員私の周りからいなくなりました。

その後パン屋も採算性や人手の問題があり、廃業することに。2年弱という短い間でしたが、ご愛顧いただきありがとうございました。そこからは会社の事業としてはキャンプ場だけに専念することになりました。事業規模縮小というのか、事業整理というのか。

まあ、前年に酷使した心と身体を回復させる時間がやっと生まれた、という感じですね。考えてみると酷使したのは前年だけでなく、直近5年くらいは悩みながらも走り続けた期間だったので、一旦落ち着けってことですかね。

そして子育てのしやすさを求め、また村との距離感を見直そうと思ったこともあり、環境を改めることを決意。年末に長野県に引っ越しました。引っ越した結果、10年前友人が命を落とした山が遠くに見えるようになりました。なんだか、たまに彼に見られているような気がします。

長野県小諸市より。天気の良い日は遠くに北アルプスが見える。


こう振り返ってみても人生伏線だらけというか、少し言葉にしたことが時間をかけて叶っているんですよね。

高校生の頃、東日本大震災の復興支援の一貫でツアーの運営をやっていました。その頃「バスが運転できたらみんなを連れてこられるのに」とか「重機が運転できれば復興の力になれるのに」とか思っていましたが、結局まあまあ叶っています。

山と向き合いたいということも、オバケ乗りこなしたいということも、収入や安定より技術重視ということも、どれも概ねその通りになったのかなと。また30歳までに結婚と子育てをしていることは正直全く想像していなかったので、そこは妻やその周りの環境に感謝しているところです。

「人生0点もなければ100点もない。」高校生の頃たまたま参加していた、その5年後に大学で入る(奇遇すぎる)ことになるゼミの教授の講演での言葉です。この10年、正直うまくいかなかったことの方が多いけれども、100点なんてないのだから決して自分を責める必要もない、そう捉えています。

次の10年も心身ともに健康第一に、80点くらいの満足いく人生をどう歩んでいこうか。基本的にゆるく、たまに攻めて考えていければと思ってます。今後も引き続きお世話になる皆さま、これからもどうぞよろしくお願いいたします。未熟者の私ですが、懲りずに付き合ってください…。。

去年の誕生日は妻と息子が里帰り中だったので、初めて家族揃っての私の誕生日。


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