文章が下手なのはわかってるんだけど、何がどう下手なのかわからないし、上手い人はなんとなく上手いのはわかるけど、具体的にどこがどう上手いのかわからない人へ
家賃今月払えないからネット乞食してます
お仕事ください
どうも。
タイトルがもう下手です。
最近作曲が楽しいです。ソシャゲ初心者みたいなハマり方してます。ゲームになぜ依存するのかというと、ちょうど良い具合の「吊り上がった問題」を解決したいという欲求があるからです。「あとこのクエストさえ終われば、あの高級武器が手に入る」「あとこのモンスターさえ倒す事ができれば次のステージにいける」といったような「いまのままで放っておくとなにか気持ちの悪い」問題があるからゲームがやめられないのです。
ゲームがわからない人は、皿洗いで残り一枚を残して終わることはないと思います。それは不完全な状態が気持ち悪いからです。依存する説明として「手軽に達成感を味わう事ができる」という事が挙げられますが、背景にこの「吊り上がった問題」を解決したいというものがあるのですね。
音楽ソフトにおける作曲も全く同じです。「この音楽ソフトさえダウンロードしたらプロみたいな音に近づける」から始まり、そのソフトをいれると「新しいおもちゃが来たぞ!ちょっと触ろう!!」と探索してなにか成し遂げたような気がして何もせずに深夜の時間に入るのです。まじでゲームやんってなりました。
しかもこの「良い音楽ソフトをあつめたい」という欲求は作曲初心者がおちいるあるあるの現象です。この音楽ソフト集めが作曲のモチベーションにつながりますが、それが目的となって全く作曲しなくなるという現象が起こるのです。わかるなぁ。
毎週月曜日はnote更新するぞ!と決めたにもかかわらず英語の本も読み切っておらずもう期限すぎちゃいました。深夜0時回って書いてます。ニートだからいつでもかけたのに。前まではnoteは書きたい事が決まったら書こうと思っていました。ですが方針を変えて期限がまず先にあって、それにあわせて必ず書くというのを決めました。だからそれに合わせてインプットをする努力をしなければならないし、書く事なくても書くということを決めました。
メイドインアビスの作者の方の言葉が我が家の家訓となっていまして「どの道を選んでも地獄だから好きな地獄を選びなさい(にっこり)。」とおっしゃっていました。労働による人間が疎外されることの地獄と、インプットに迫られる地獄ならば僕はインプットに迫られる地獄の方が好きです。
今ニートで店の家賃が今月で払えなくなるのでなにかお仕事いただけませんか?
3/30土曜日 14:00〜15:00大阪の東淀川にある「ピラティスとサウナ」にてボードゲーム会、鍋会を開催します!お一人2000円ぐらいになるので是非とも遊びに来てください!ご連絡はpilatesutosauna@gmail.comまで!
本題
文章が下手なのはわかってるんだけど、何がどう下手なのかわからないし、上手い人はなんとなく上手いのはわかるけど、具体的にどこがどう上手いのかはわからない
僕は大学の時に社会人三年目には独立したいなと思い、その通りになりました(イキって書いてるけど誰でもできる笑)。そして僕は三年後には本を出版するつもりです。僕もモノ書いて家賃返したーい!
でも僕は大学三年生まで読書した事がありません。
だから文章を書くという行為に関してコンプレックスがあります。
「俺下手だろう笑」というものです。
しかも「きっと下手であるということはわかるが、具体的に何がどのようにへたなのか」わかりません。さっきの作曲の話とも重なるんですよね。せっかく頑張って作っても、いざ聞いてみるとなんかスカスカに聞こえるんですよね笑。でもなんでスカスカなのかわかりません。反対にプロの曲聞いてみるとなぜそんなにカッコいいのかわかりません。何をどうしてカッコ良くなっているのかわかりません笑。
これを解決するのはやはり言語能力なんですよねぇ
音楽は資本主義でお金をつぎ込めば注ぎ込むほど高級な楽器機材変えるので、正しくはお金なのですが「高級機材買う事が正義」と思えてる時点である程度の言語能力が担保されているんですよね。
ここでいう言語能力とは、「たくさん語彙を知っている」というのもそうなんですけどそれは言語能力の低い人が持つ「言語能力の高い人像」だと思っています。僕が大学三年生までそう思っていたので僕に向けて厳しく書いています。てか、そんな人読まないでしょ?この記事。
たくさん語彙をしっているという感覚止まりの人は、言葉を所有するだけのモノとしか捉えられていません。ただの知識、雑学なだけで意味がないと僕は思っていました。語彙力があることはとても価値がある事で、知識ではなくて身体に染み込んだ知性になります。僕の人生の大テーマなのでいつもくどく書いています。
ここでいう「言語能力が高い」とは「ある知の枠組み(フレームワーク)を持つという事です」。
ものすごい単純でシンプルな基準軸を持つ事で技術は向上していくのですね。自分の中で全てがあるテンプレートに収束していくように考えたり、全てをそのテンプレを通して考えるという発想法です。作曲の例で言うならば「音楽のソフトが1つだけに絞る!」みたいに、有限だから曲を完成させやすくなります。この基準をもつと自分にとって何が足りないのかがが明らかにわかってきます。基準におさまらなかったモノが足りないものになります。
・・・ふわっとした話になってきました。
では文章が上手いとはどう言う事でしょうか。
谷崎潤一郎「文章読本」をみていきましょう
谷崎潤一郎「文章読本」
多分谷崎潤一郎が初めて文章の養成法について書いたのではないでしょうか。調べてません。その後様々な文豪が「文章読本」をお書きになった感じかなと。他の人のはまだ買っていません。次買います。
僕がこれを読んだ時に思ったのは「文章が芸術の最小単位なのかな」でした。
まず最初に言語は不自由なモノであると一言入れています。
その上で、彼は文章の芸術性は「わかりやすさ」にあるといいます。
「わかりやすさ」が文章の美しさである。これはいい基準ですよね。これからはこれを基準に考えたい。難しい言葉をつかう事が美の基準じゃなくて、わかりやすさにあるというわけです。
僕は読んでて面白かったのは、文章の美の基準をこう言うふうに掲げたわけだから文豪たちはもちろんこれを知っていることになりますよね。だからもし例えば難しい言葉が使われていたら、それはその作家にとって「文章のリズム、形式、構造と照らし合わせた上でこの状況を説明するためにはこの難しい言葉がどうしても必要」ということになりますよね。文豪ってすげーーーってなりました。ただ闇雲に難しい言葉をつかうことと、こういう基準を乗り越えて出てきた難しい言葉を使うことは意味が違いますね。
華を去り実に就く
わかりやすい文章として志賀直哉の文章を上げてくれます。
「他の蜂の皆巣に入って仕舞った日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。」
これがものすごくわかりやすいと言うそうです。
この書き方いいですよね。「普通だったらこうなるよね?でもプロが書くとこうなる」っていう違いを説明してくれてるから「わかりやすい」。
気がつけば「メスガキ わからせ」を検索していました。
谷崎潤一郎は名文を音読すること、古文に復る(かえる)ことを薦めています。素読文化がやっぱ良かったらしいです。
論語素読会、寺子屋ひらこうかなぁ
後日談
文章の無駄を削ぎ落とすことでわかりやすくなる、と大谷崎は言っていました。中でも意味が重複する言葉は不必要に言わなくて良いとありました。
今日イズミヤに買い物行ったら、チラシがありました。「価値ある500円 大均一祭」。
もう500円と具体的に書いてあるから「価値ある」なんていらないな、と谷崎潤一郎は思うのかと思いました。
「もう500円の時点で安く買えて価値のある買い物なのに」と思いながら今書いていて思ったのですが、
これは「(安く買えて)価値のある(買い物をしている」なのか
「(こんな500円の物はチープなものしかないように見えるけど、実はそんなことない)価値ある(商品を売ってます)」なのかわからなくなってきました。
この「価値ある」は一体なんの説明をしているのか?その秘密を探しにジャングルの奥に行ってしまうではありませんか。
谷崎潤一郎は文章のスキルは文学と実務において隔たりはないと言っていました。「わかりやすく」書くという行為は、例えば広告においても求められるらしいです。
僕の趣味はこういう「記号」と化した看板や貼り紙を探すことです。例えば工場にある「本日もお疲れ様です看板」は労働者になんら影響を与えません。これがなくなってブチギレる労働者はいません。なのにこの看板に1万円ぐらいお金払っていると思うとホラーです。
あ、ほら。こうもしてる間に「削ぎ落とすべき部分」が出てしまいました。
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