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アンチ・オイディプスと格闘する

わからないところを抜き取ってきて、検索して調べていくスタイルです。
今マルクスと格闘する記事書いているのですが、それの簡易版です。

より授業ノートに近い形です。自分の理解よう。人に向けて書かれていません。

河出文庫より


欲望機械

「欲望機械」とは無意識を構成するもののことである。 彼ら は「無意識は機械として働くものであり、機械的なるものである」と述べ、無意識の欲望が「機械」 として働くと考えているのである。

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiJ78T85_b7AhVCUfUHHanUCs4QFnoECBUQAw&url=https%3A%2F%2Fkumadai.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D16926%26item_no%3D1%26attribute_id%3D21%26file_no%3D1&usg=AOvVaw2922ogRdhcs5oPbVOuJqr9
ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』における社会機械の概念
坂本 和啓


第一章第一節
欲望的生産

<器官機械>が<源泉器官>につながれる

アンチ・オイディプス15p

 この機械という言葉のもつ磁場のような意味はなかなかの曲者で、たとえば「原始土地機械」「専制君主機械」「資本主義機械」などとつかわれるかとおもえば、「欲望は機械である」とか「戦争機械」とか「無意識とは機械である」とかというふうに、ギョッとするような用法になったりする。
 いったい何が機械なのか、どういうことを機械的とか機械状と言っているのかというと、ここからはややマジメに解説しなければならなくなるのだが、ドゥルーズ=ガタリは、機械が何かにくっついた状態を強調したいのだ。何に機械がくっついているのかというと、この機械は身体や欲望にくっついている。逆にいえば、身体や欲望や表現や商品が機械にくっついている。
 われわれは原始古代からずっと道具や器具を作りつづけてきた。その道具や器具とともに欲望や思索を開発してきたわけである。
 たとえば、望遠鏡を発明して天体の謎をもっと深く解きたくなったのだし、蒸気機関車に乗ってからもっと速度を官能したくなった。ピストルがあるから離れた相手を殺したくなったのだし、カメラを手にしたから記念や証拠の写真を残したくなった。あるいは破り捨てたくなった。パソコンがあるからハッカーになれたのだし、ケータイがあるからメールをしたくなった。
 そうだとすれば、こうした道具や機械とわれわれの思索や欲望や身体はくっついていると見なしたほうがいい。ドゥルーズ=ガタリはそのように人間の活動と道具や機械がつながっている状態になっていることを「欲望機械」とか「機械状」とかと名付けた。
 これが、ドゥルーズ=ガタリが「機械」という用語を駆使する理由だった。ときに二人によってマシニスム(機械状主義)といわれる。まあ、わかりやすくいえば「みんな機械仕掛けになっている」という意味だ。

https://1000ya.isis.ne.jp/1082.html




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マウロンは死ぬ

p18

作品紹介・あらすじ
死ぬほど退屈なままベットに横たわり、マロウンは、死ぬまで物語をでっちあげ続ける…。グロテスクでコミカルな小説3部作の第2部。

https://booklog.jp/item/1/4560043477

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分裂症の自然主義的な極

19p


《名・造》この上ないところ。頂点。限界点。「疲労の極」「極限・極点・終極・窮極」。以下「ゴク」と読む。 「極上・極意・極寒・極暑・極熱・極月(ごくげつ)・極楽・極悪・極秘・至極」
一方のはて。 「極地・極東・磁極・南極・北極・電極・対極・両極・消極・積極」

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登録と消費は直接に生産を規定しているが、しかも生産そのものの真っ只中で生産を規定している。だから、すべては生産なのだ。

p19

50.【消費も生産である。】登録や消費はドゥルーズにとって生産の一部である。大地機械は、農耕や牧畜、個人の消費、生殖や排泄などもまとめて、エネルギーの流れとしてコード化しているのであって、要するに大地機械を構成する各器官に人々の欲望は従属しており、各人の生産も消費も登記されており、最初から自立した独自の欲望を持った個人がいるとはドゥルーズは考えていない。大地機械の器官を私有化する過程は、肛門期と結びついている。

https://im-lester-the-nightfly.hatenablog.com/entry/2022/05/03/180629


しかし欲望する生産は,『アンチ・オイディプス』の全体における基本的で 中心的な概念となっている。欲望する生産は「生産の生産」(production de production),「登録の生産」(production d’enregistrement),「消費の生産」(productiondeconsommation)という三つの生産によって構成されている。欲望する生産においては,登録や消費すらもが, 生産として扱われるのである。ここでほ,一切は生産なのである)。

欲望する諸機械の中で生きる子ども : ドゥルーズ=ガタリ 『アンチ・オイディプス』を手がかりとして
森田, 裕之


彼らは,欲望を機械として定義することを提案して いるのである。「欲望は機械であり,欲望の対象もまた,接続された機械である」。したがって欲望は,機械として,流れという実在的なものを生産する。欲望ほ,決して幻想的な対象を生産せず.実在的なものを生産するのである。このような欲望イコール機械という考え方にドゥ ルーズ=ガタリの独創の一つがある。このような欲望する諸機械の接続的な形態が生産の生産である。生産の生産は,欲望する諸機械を「これとあれ」という仕方で接続するので「接続的総合」ともいわれるのである。

同上

欲望する諸機械と器官なき身体との関係を把握するために,次のような例を考えてみよう。 分節化され,発音された語つまり区別された諸々の音素の接続があるとする。すると他方に ほ,全く分節化されていない息や叫びというものが存在する。分節化され,発音された語があれば,その語には,分節化されていない,未分化な息や叫びが常に寄り添っている。ドゥルーズ=ガタリによれば,分節化され,発音された語と分節化されていない息や叫びとの関係はそのまま,欲望する諸機械と器官なき身体との関係に対応している。すなわち欲望する諸機械は,分節化され,発音された語に対応している。それに対して器官なき身体は,分節化されていない息や叫びに対応している10)。欲望する諸機械とは,分節化され,区別された諸々 の器官の接続的な体制であり,それに対して器官なき身体とは,分節化されない,「未分化な巨大対象」である11)。分節化されていない息や叫びは,分節化され,発音された語の隣に第三項として形成される。それと同様に器官なき身体ほ,欲望する諸機械の隣に第三項として形成される。欲望する諸機械があれば,器官なき身体は,それらの 諸機械に寄り添うように存在するのだ。このように器官なき身体は,未分化の対象によってのみ構成されている。したがって器官なき身体は,分節化され 区別された諸器官をもっていない。器官なき身体にほ,口も胃も腸も肛門もない。つまりそれは,非有機体的な塊である。

同上

ドゥルーズ=ガタリによれば,欲望する諸機械が,器官なき身体に侵入すると,器官なき身体は,諸器官としての欲望する諸機械を備えた有機体となってしまう。器官なき身体は,そのように有機体化されることに耐えられない。器官なき身体は,諸器官を必要としない。したがって器官なき身体は,欲望する諸機械に対して 反発し,それらの諸機械を外に追い出す。器官なき身体は,欲望する諸機械による侵入に対して反発で応えるのである。このようにして欲望する諸機械と器官なき身体との間には相互作用が生じる。すなわち欲望する諸機械が器官なき身体へ侵入する作用と,器官なき身体が欲望す る諸機械に対して反発する反作用とが生じる。ドゥルーズ=ガタリにおいては,この反発つまり器官なき身体による欲望する諸機械に対する反発こそが,根源的な抑圧なのである14)。しかしドゥルーズ=ガタリによれば,このような反発の後に,器官なき身体は,欲望する諸機械の上に折り重なり,それらの諸機械を引きつけ,わが物とする。こうして欲望する諸機械 は,器官なき身体の上に付着し,登録されることになる。吸引が反発に取って代わったのである。そして器官なき身体は,欲望する諸機械の登録表面となり,欲望する諸機械の土台となる15)。

同上

登録の生産の後に続く消費の生産についての説明をしよう。 ドゥルーズ=ガタリは、器官なき身体の上に離接的に登録された欲望する諸機械を,諸々の「強度」(intensit占)として捉え直す。すなわち器官なき身体の上に登録されたある一つの欲望 する機械は,ある一つの強度であり,別の一つの欲望する機械は,別の一つの強度である。こうして,器官なき身体の上に離接的に登録された欲望する諸機械は全体として,一連の諸強度 になる24)。では強度とは何であろうか。父,母,子どもといった人物は,外延的なものである。強度とは,この外延という概念に対立する概念である。すなわち強度は,非外延的,内包的なもので ある。強度は,外延的な人物ではなく,非外延的で,内包的な乳房や口といった欲望する機械 を示している。したがって諸強度は,非外延的,内包的な諸部分としての欲望する諸機械である。またドゥルーズ=ガタリによれは,器官なき身体の上の一連の諸強度は,円環を形づくる。 その円環が収赦する中心は,接続的形態の欲望する諸機械である。先に述べたように,器官なき身体ほ,接続的形態の欲望する諸機械に対して反発し,それを抑圧していた。しかしこの抑 圧されたものとしての欲望する諸機械は,「抑圧されたものの回帰」(retour du refou16)とし て,円環の中心に回帰してくるのである25)。

同上

あーだめだ、ここから消費の生産からわからない。意味わからない。

論文全体としては60%理解したかな。ただ多分読んていくともう少し深く理解できるかも。

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