近代日本舞踊史 関東大震災から戦前まで Ⅱ

 二、花柳舞踊研究会の出発


時代は少し遡って大正7年(1918)。藤蔭会がにわかに脚光を浴び始めたその頃、日本舞踊界を代表する名門、花柳流において若き青年家元が誕生した。その名は花柳芳三郎。二代目花柳寿輔である。


新しい舞踊の試みがさまざまに展開されてゆく中にあって、当然この若き家元も「自分も何かやってみたい」という情熱がたぎっていた。だが、自分の研究会を持ちたいと言い出しても古老たちに「まだその時ではない」と一蹴されてしまう。いくら若いといっても、もう立派な花柳流の家元である。好き勝手ができる立場ではなく、時が来るのを待つしかなかった。


しかし、この雌伏の時も決して無駄ではなかった。春秋座と羽衣会の振り付けに携わるという貴重な経験をし、そして何より杵屋佐吉という優れた作曲家と親交を結ぶ。これは寿輔にとって大切な財産となった。
時は思わぬ形でやってきた。大正12年(1923)東京を中心に関東を大地震が襲ったのだ。この震災で初代が残した貴重な資料がすべて灰になってしまい、家も焼け、門弟たちも散り散りになってしまう。寿輔は機能不全に陥った東京を離れ、大阪へと落ちて行った。その大阪で、同じく大阪へ難を逃れてきた小山内薫と運命的な出会いを果たすのである。


「或る日、私はとうとう我慢ができなくなって、私は小山内先生に身の振り方をご相談しました。当時、私はパブロヴァやアルヘンチーナ(注・アルゼンチン出身のスペイン人舞踊家。昭和四年(一九二九)に来日し、パブロワと共に日本の舞踊界に大きな示唆を与えた―引用者)の影響を受けて、なんとかして新しい舞踊の道を開きたいと考えていたのです。
「君がもし仕事をする気だったら、今までのように人を頼みにしていては駄目だ。人間、生まれる時は一人なのだ。まず独立するのだ、君の出発点を見定めなけりゃあ…」
小山内先生はそう言って私を励まして下さるのでした。私は今まで古い殻に挟まれて、うろうろしていた自分に気がついたのです。我ながら滑稽な姿でした。しかしこの時になって、漸く人がなんと言おうと自分の道を一人で行く勇気が出たのでした。花柳舞踊研究会創立の直接の動機はこうして小山内先生によって点火されたのです。」(『寿輔芸談』)


小山内によってジレンマから解き放たれた寿輔は堰を切ったように新舞踊に邁進してゆく。初仕事は震災の翌年、関西を巡業していた猿之助の「鷺」である。これは震災前から携わっていた。寿輔は上野動物園に通いつめて鷺の生態を隈なく観察し振り付けたという。これはなかなか評判がよく寿輔はさらに自信を深めた。


東京の復興が予想以上に早く進んでいるのを知った寿輔は、満を持して花柳舞踊研究会を旗揚げ。第一回公演の会場も帝国ホテルの演芸場に決まった。しかし、またもや古老たちが強硬に反対した。何故彼らはこれほど嫌がるのだろう?それについて寿輔はこう語る。


「当時の舞踊の師匠は弟子に舞踊は教えても、公演の形で、お客に舞踊を見せるということは考えられないことだったのです。その上、私が家元という微妙な立場にあったので、私の行動がその人たちの職業的権威?を傷つけるような感じがしたのでしょう。」(『寿輔芸談』)


新舞踊が盛んになってきた時代ではあったが、依然として旧来の慣習も強い力を持っていた。踊りの師匠は教えるのが本職で、舞台に上がって踊るのは歌舞伎役者や芸妓なのである。新しいことをしようとするには「花柳流家元」という肩書は重荷でしかなかった。

このように猛烈な反発を受けた寿輔であったが、前とは違って引き下がるようなことはしなかった。彼は「家元・花柳寿輔としてではなく、戸籍名の花柳芳三郎として、つまり、一個人として研究会をする」と決然と言い放ち、若い弟子たちもほとんどが彼を支持した。こうなっては古老たちも黙認せざるを得なく、晴れて花柳舞踊研究会は誕生する。


 大正13年(1924)4月24、25日めでたく花柳舞踊研究会の第一回公演が実現。だが、この時は寿輔自身が「安全第一」と言っているように野心的な試みはされていない。
そのわずか5か月後、再び帝国ホテルの演芸場で第二回を開催。この回で特筆するべきなのは何といっても「春信幻想曲」だろう。この作品の振り付けをしたのは花柳徳次。かつて「惜しむ春」の振り付けを任された女性その人である。ただし、「惜しむ春」は家元預かりだった徳太郎名義であったが、今回ははっきりと徳次の名前がクレジットされていた。もちろん、それより以前に藤蔭(当時は藤間)静枝が「思凡」において「家元以外のも者が振り付けをすることは許されない」という因習を打破してはいる。しかし、その結果激しい批判に曝され藤間流から距離を置かざるを得なくなったのに対し、徳次にはそのようなことが全くなかったことは興味深い(もちろん、「思凡」の振り付けが藤間流から大きく逸脱したものであったこと、徳次には「惜しむ春」の実績があったことは考慮されるべきではあるが)。


 大正14年(1925)の第三回では柳桜会を創設した花柳徳太郎も参加。古典だけではなく「グロテスクなものを」をコンセプトにした「死魔の踊」に出演した。同じ年の11月会場を邦楽座に移して開催された第四回では男性10名、総勢22名が出演した大群舞「紅提燈」を上演。翌年の第五回では「何処へ」、「朝のカーテン」、「こだま」、「花瓶の絵」の四つの新作を発表。同年の第六回は「春信幻想曲」以外はすべて古典であった。


第一回から第六回までを寿輔はこう振り返る。


「初めの四、五回というものは内外共に四面楚歌という有様で、何度研究会を投げ出そうと思ったか知れません。(中略)その頃は舞踊と言う物の社会的立場が非常に弱かったので、一行の批評もなく黙殺されていました。
その頃「私は間違ったことをしているのだろうか」という疑いが絶えず頭の中で渦巻いていて、神経衰弱のようになった私はとうとう研究会を中止する覚悟を決めて福地先生のところへ相談に行くと
「今になって止める位なら研究会など始めなければよいのだ。この仕事は四回や五回で勝負の付く仕事ではないよ、それでも君は芸術家か、帰ってもう一度考えなさい。」と散々先生から小言を言われてしまいました。(中略)その頃は三十代で若さに溢れていましたから、中っ腹で家に帰ってきて私はその晩はまんじりともしないで考えました。」(『寿輔芸談』)


 情熱のままに始めた花柳舞踊研究会を立ち上げ活動していた寿輔であったが、若さのもう一つの面である悩みや迷いも同時に抱えていた。「思凡」上演後の激しい批判に対して「潔く藤蔭会と一緒に心中して仕舞います」と気丈に言い放った静枝とは好対照である。とはいえ、これから男として脂の乗ってくる寿輔の踊りはますます冴えわたってゆく。


 昭和2年(1927)の第七回花柳舞踊研究会も古典中心であったが、「月蝕」、「うちかけ」、「五条の弁慶」という三つの新作があった。その半年後の11月23日、帝国ホテルの演芸場で開催された第八回の新作は「春の訪れ」のみであった。翌年10月28日の第九回は初めて帝国劇場で公演。この回では「陽炎」、「四ッ角」と言う新作を上演する。特に「四ッ角」はロボットのような交通巡査が登場するなど中々奇抜であった。昭和4年(1929)9月22日、同じ帝国劇場で第十回が開催された。古典と再演が中心であったが、山田耕作作曲の「城の島の雨」、「粉屋念仏」という現代的な感性の歌謡曲二曲、「国戦爺合戦」の一部の「虎狩り」、「住吉踊」といった新作も上演している。

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