近代日本舞踊史 Ⅶ

 五、藤間静枝から藤蔭静枝へ―その後の藤蔭会


舞踊に対する行き詰まり感と勝本と別れた痛手。その気晴らしにと静枝はパリへ向かう。元々踊る気はなかったが、パリ在住の日本人たちの肝煎りでパリ・テアトル・フェミナで公演を行うことになる。ヨーロッパでの公演は日本舞踊家としては初であった。ちなみにこのとき小森敏も登場しているが、パリっ子たちにとっては単なる異国趣味に過ぎなかったようだ。


財布がだんだん心細くなっていった静枝は昭和4年7月2日に帰国。帰国後は経済的に立ち直る必要もあり遠くは台湾まで公演に行った。
帰国してから初の藤蔭会は昭和5年10月5日、仁寿講堂で開催されプッチーニの「マダム・バタフライ」の第三幕を舞踊化した「お蝶夫人」リストの「ハンガリア狂想曲」に乗せ現代的な群舞を試みた野心作「衆舞」を上演。既成の洋楽の名曲を日本舞踊に取り入れたことが大きな話題となった。 
翌昭和6年(1931)の第二十一回藤蔭会では「戦い」、「故郷」、そして都市の建設を群舞で表現した「構成231」(いずれも河田清史・作)の三部作が波紋を呼ぶ。この三部作はプロレタリア的な色彩が色濃いものであった。さらにこの年、静枝は国民文芸賞を受賞。また、藤間流の抗議により藤間姓を返上し名実ともに「藤蔭流家元・藤蔭静枝」となる。


同じく昭和6年、改名披露公演となった第二十二回藤蔭会が日本青年会館で開催された。「ヴォルガ河の暴風雨」、そして「明日を支配する舞踊」の題する「歯車一九五〇」(どちらも河田清史・作)が上演された。この回も社会主義的な傾向が強い回であった。
昭和6年にはさらにもう一回藤蔭会が開かれる。二十三回目となるこの公演で上演された「新興舞踊・巴里戦士のパイプ」(北里拓也・作)は静枝の一つの到達点となった。原作はイリヤ・エレンブルクの「コンミューン戦士」。これを見て分かるように、パリ=コミューンをめぐる「血の一週間」がその題材である。極めて演劇的な要素が強く、それまでのどの舞踊よりもイデオロギッシュであった。


ところで、藤蔭会をプロレタリアに染め上げた河田清史と北里拓也とは何者なのだろうか?どうやら、その正体は村山知義であるらしい。村山と静枝がいつどこで知り合ったのかは不明であるが、静枝の渡仏前にはすでに親密な間柄であったようだ。岡田嘉子の証言によると藤蔭流の紋章をデザインしたのも村山であったらしい。
ではなぜ偽名を使ったのか。実は当時村山は熱烈な共産党支持者として特高警察に目をつけられていた。よって村山の名前をそのまま出しては藤蔭会の公演が潰されてしまうかもしれなかったのだ。


後、村山は逮捕され、出所後は朝鮮に難を逃れた。これによって藤蔭会は優秀な頭脳を失ってしまう。また、戦争へ向かって次第に窮屈になっていく時代の雰囲気、そして何より静枝自身が老齢に差し掛かっていたこと、家元として門弟たちの育成に力を注がなくてはならなかったことが原因で、その後の藤蔭会は古典的な日本風の作品が主流となっていった。とはいえ、年三回の公演と精力的な地方巡業を展開しており、静枝の情熱は健在であった。

藤蔭会は昭和18年(1943)の第五十回までコンスタントに活動を続け、この公演をもって一旦活動に幕が下りる。

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