近代日本舞踊史 Ⅲ

第二節 「新舞踊」の開拓―関東大震災まで


 一、藤蔭会の活躍


「そのころ、舞踊の世界は、前には坪内博士の文芸協会や、長谷川時雨さんによる狂言座や舞踊研究会などの運動があり、大正の初めにはローシーが帝劇に迎へられて、西洋舞踊の種がまかれるなどで、新しい舞踊のための動きがだんだん盛になってきたときでしたが、わたくしもなんとかして、わたくしなりの舞台をもちたいと思ひました。


歌舞伎の役者たちの、あの条件のそろった舞台は、とてもわたしたちのもてるものではありません。そうかといって、わづかの弟子をとって教へるだけの師匠で終わる気はありません。そのころの日本舞踊は、役者と師匠と芸者だけに―つまり歌舞伎の舞台とおさらいだけに代表されていたものですが、わたくしは「舞踊家」として、わたくしなりの舞台を持ちたいと思ったのでした。」(「藤蔭静枝藝談」東京新聞1950)
こう語ったのは藤間静枝。後の藤蔭流の創始者、藤蔭静枝となる人物である。


元々、市川九米八に憧れ、女役者を目指し、川上音二郎・貞奴の「オセロ」にも出演していた静枝であったが、結局そちらでは大成することができず、藤間勘右衛門(後の館翁)に弟子入り。並行して芸者としても活発に活動しており、芸者時代に築いた人脈は後々まで彼女を助けることになる。さらに、この頃永井荷風と結婚するもののすぐに破局。この心の痛手から立ち直るため、また、38歳になろうというのに一介の余興芸者に甘んじている惨めな現状を打破するために始めたのが「藤蔭会」であった。この藤蔭会がやがて「新舞踊運動」という偉大な試みを力強く牽引していくことになろうとは、このとき誰が思ったであろうか。


第一回藤蔭会は大正6年(1917)5月29日、日本橋の常盤木倶楽部で開かれた。坪内士行やあの長谷川時雨も観客として来ており、その評価も上々であったが、温習会としての色彩が濃く、特に真新しい試みはなされなかった。前衛化の兆しを見せたのは同じ年の第二回である。第二回からは会場を有楽座に移している。


この時上演されたのは「出雲於国」。かつて長谷川時雨が狂言座で上演した「歌舞伎草子」を時雨の許可をとって改題したものである。この「出雲於国」は何よりも「日本人ののみが味わえる華麗な背景だったのである」とまで評されるほどの舞台美術で話題を呼んだ。それもそのはず、舞台装置を担当したのは大物洋画家の和田英作だったのだ。それまでは劇場附きの画家が舞台装置を担うのが普通で、それ以外の者にやらせることはなかったのだが、藤蔭会はあっさりとその慣習を破ってしまった。そして、その結果がどうであったのかは前述の通りである。第三回には仲間であった藤間藤代が抜け、藤蔭会は実質静枝一人の会となる。第四回は大阪で開催された。

しかし、「出雲於国」はある舞踊の欠点をいよいよ無視できないものにした。背景と伴奏席の問題である。背景が美しければ美しいほど、黒い着付けをした地方が目障りになってしまうのであった。この問題については大正8年(1919)の第五回藤蔭会で上演された「朧の清水」において、地方に背景と同じ色の着付けをさせることで一応の解決を見るが、地方をどこに配置するべきかという問題は後々まで尾を引きずることになる。ちなみにこの「朧の清水」は「新楽劇論」の影響を受け、出演者に歌を歌わせたがあまり好評ではなかった。とはいえ、この五回の公演で自信を深めた静枝はついに芸妓を辞め、舞踊に専念するのである。


第六回~第八回までも藤蔭会は着実に歩みを進めた。第六回で上演された「乱髪夜編笠」のお七は静枝のはまり役になったし、第七回は静枝の故郷、新潟での凱旋公演となった。続く第八回では藤蔭会において初めて「新舞踊」と銘打った「浅茅ヶ宿」を上演。そして第九回藤蔭会では舞踊史に残る問題作、「思凡」を発表する。


「思凡」の原作は中国明朝時代の古劇である。作曲は当時邦楽五線譜化を目指していた落合康恵と西山吟平に依頼。衣装、装置は和田英作門下の田中良が担当。「舞踊の舞台はできるだけ簡素なものでなければならない」という彼の信念に基づき、これまでの華麗な舞台美術とは一線を画したものとなった。また、この「思凡」で藤蔭会に初参加した気鋭の照明家、遠山静雄は田中良と共に多くの業績をあげてゆくことになる。

…ここまでだったらあれほど非難はされなかったであろう。「思凡」が最も問題視されたのは、その振り付けに中国劇の技法を大胆にちりばめたことであった。これによってこの「思凡」は藤間流という枠組みから大きく逸脱した作品となったのである。


こうして「思凡」は当然のように非難の集中砲火を浴びる。特に先輩の藤間政彌と藤間寿枝を筆頭とする同門衆の非難はすさまじかった。こうして静枝は藤間流に留まることが困難となり、弟子を手放さざるを得なくなってしまう。しかし、このことで静枝はもっぱら舞台で踊ることを生業とする者―舞踊家―としてはっきりと自立することになるのであった。


一方で、本当にわずかではあったがこの作品の革新性を認める者たちがいたことも確かだ。六代目尾上菊五郎は羨望混じりに「何が何でもやった者が偉い」と述べ、むやみやたらに批判する連中を黙らせている。また、勝本清一郎は批判するべきところは批判しているが、それは建設的なもので、全体としてはこの藤蔭会の試みを称えている。後にこの青年は藤蔭会のブレーンとして活躍することとなる。とにかく、この「思凡」という作品によって退路を断たれた藤蔭会は、いよいよその前衛性を先鋭化させてゆくのである。
しかし、藤蔭会の経済基盤はわずかな寄付と同人たちの持ち寄りで成り立っており、思う存分舞踊の研究・実験を行うにはあまりに脆弱であった。そのため、春におさらい会、秋に新しい創作舞踊の発表を行うこととし、以後これが基本的なスタイルとなる。


第十回は静枝が急病に罹ったため開催されず。大正11年(1922)の第一一回藤蔭会はこの年来日したロシアンバレエの名人、アンナ・パブロワの歓迎公演であった。この回では童謡、民謡に振り付けたもの、そして歌が無い器楽に振り付けを施した「秋の調」「落葉の踊」を上演した。前者は後に盛行する童謡舞踊の先駆けと位置付けられるし、後者もおおむね好評だった。


関東大震災の直前の大正12年(1923)の第一二回では舞踊時間が短い小作が中心であった。これは新舞踊の舞踊時間がいささか冗長であるとみなされたからである。また、このときに芸術座主催・水谷竹紫の妹である水谷八重子が同人として参加。さらに岡田嘉子が門下に加わっている。

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