近代日本舞踊史 Ⅱ

第二章 歴史的叙述

第一節 逍遥と時雨―舞踊の改革を目指して


「舞踊」という言葉は明治37年(1904)坪内逍遥の「新楽劇論」において初めて用いられた。これは江戸の歌舞伎に基礎をおく「踊り」と上方の座敷芸に由来する「舞い」の二つを掛け合わせた造語である。この著書において逍遥は国劇刷新の必要性を声高に叫んでいる。そして、彼はそれを担うのは舞踊を基礎とした振事劇でなければならないと確信していた。

しかし、それは舞踊が優れていたからというわけではない。逍遥は他の二つの国劇(能と歌舞伎)がそのまま手を加えず保存すべきものとして珍重しなくてはならないとしており(しかし一方で歌舞伎から楽劇的要素を取り払い、科白劇のようにするべきであるとも言っている)いわば、消去法的に選ばれたのが舞踊だったのだ。こうして逍遥は歌を基調とするヨーロッパのオペラに対抗しうる、舞踊を中核とした日本独自の新楽劇の確立を目指すのである。そして、新楽劇の記念すべき第一作として逍遥は大作「新曲浦島」を世に送り出す。

「新楽劇論」の二年後「新曲浦島」は本郷座で序の幕のみが上演された。今日でも序の幕は海の様々な表情を格調高く表現している良曲として人気がある。しかし、結局「新曲浦島」自体は2007年まで全幕上演されることはなかった。舞踊、音楽、演劇の集大成としてかつてない程の壮大なスケールを持つ「新曲浦島」の全幕上演は、当時においてはあまりにも非現実的であった。もっとも、逍遥は「本作は今の劇場又は楽壇に上さんが為に作したるものに非ず」と述べており、そのことを充分承知していたようである。

以後、逍遥は幾分かの現実的な手馴らしのための作品を上演し続ける。とはいえ、その理想は広く賛同を得るものの、いずれの作品も思ったような出来ではなく、「新楽劇」の確立は困難を極めた。

そんな逍遥の盟友に才気あふれる若き女流作家がいた。長谷川時雨である。
明治41年(1908)に「花王丸」で日本初の女流歌舞伎脚本家として華々しくデビューした時雨は逍遥に師事。逍遥も彼女の才能を高く買い、全幅の信頼を寄せた。時雨は明治45年(1912)「舞踊研究会」を立ち上げ、約2年間で7回開催された公演において数々の新曲を発表する。その中には今なお評価が高い「絵島生島」や男女優の共演や筝、長唄、舞楽を合奏させるという新たな試みを行った意欲作「空華」がある。第1回~第3回までは時雨の母が経営していた高級社交場・紅葉館の女中たちが出演していたが、その後は六代目尾上菊五郎をはじめとする、当時でもトップクラスの陣容で臨んだ。

一方で、時雨は六代目菊五郎とともに「狂言座」を結成。こちらでは「純日本物」を中心とする新たな舞踊への模索がなされた。ちなみに、顧問には師にあたる坪内逍遥のほかに夏目漱石、森鴎外、佐々木信綱というまさに綺羅星のような顔触れが並んでいた。大波のようにヨーロッパ演劇が押し寄せ、それが持て囃されていた当時において、時雨は別のベクトルを向いていたのだ。

ところが、この野心的な狂言座の試みはわずか二回で終焉してしまう。第一の理由は時雨の家庭に次々と不幸が襲ったからであった。元々採算を度外視して開催されていた狂言座はこれで完全に立ち行かなくなり、時雨もまた家族を養うために舞踊から手を引き、割烹旅館を経営する傍ら、もっぱら執筆業に専念することとなる。また、一流の人材を集め、期待の中で船出した狂言座ではあったが、その理念は高く評価されるものの、肝心の上演の評価は決して芳しいものではなかった。時雨の会について演劇評論家の楠山正雄はこう評している。

「日本の踊を今あるよりももっと大きなアムビシャスなものにしようといふには、根本から形をぶちこわしてかからねばだめである」(『シバヰ』四・五月合併号「最終便」)


逍遥は壮大すぎ、時雨はつつましすぎた。結局、坪内逍遥と長谷川時雨という二人の俊英をもってしても、新しい舞踊の種をまくことすらできなかった。

だが、その土壌を深く、しっかりと耕していったとは言えるだろう。大正に入り、この二人から刺激を受けた一人の芸妓が「新舞踊運動」の狼煙を上げ、やがてそれは一大ムーブメントを巻き起こすのである。

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