近代日本舞踊史 Ⅹ

第四節 女性舞踊家の目覚め


3、藤間喜与恵と「喜与恵会」

五條珠美と花柳寿美は花柳界にそのルーツを持っていた。しかし昭和5年前後には芸界とは全くの無縁であった一般の女性たちが舞踊家として活躍するという新しい現象が起こっている。西﨑緑、藤間勘素娥、そして藤間喜与恵の三人である。彼女たちは「令嬢舞踊家」と称され、そのはしりとなったのが藤間喜与恵であった。

藤間喜与恵、本名は能勢君子。能勢家は清和源氏の流れをくむ名家で父は実業家である。教育熱心な母は、歌舞伎のまねごとをして遊ぶ君子を見て「踊りの才能があるのでは」と思い藤間藤太郎に弟子入りさせた。

この藤間藤太郎という人物は「藤間勘翁の三羽烏」に数えられた実力者である一方、根っからの江戸っ子気質で人望も厚かった。君子はこの師匠から「新しい舞踊を創る人になりな」と口癖のように言われていたという。大正15年、君子は名取を許され「藤間喜与恵」を名乗る。

しかし、その翌年に藤太郎が病没。敬愛する師匠を失ったことで喜与恵はしばらく抜け殻のようになるが、藤蔭静枝らの新舞踊から刺激を受けたことで舞踊家になることを決意し、昭和3年(1928)帝国ホテルの演芸場で「喜与恵会」を催す。これは五條珠実をはじめとした昭和初期に活躍するどの女性舞踊家よりも早く開催された個人の舞踊会であった。

その後も喜与恵会は開催されたが、彼女がその才能を一番よく発揮したのは民謡の振り付けであった。初めは当時流行していた新民謡に振り付けをほどこしていたが、次第にそれが評判となり日本各地からその土地の民謡に振り付けてくれというオファーが殺到。こうして喜与恵は日本全国を渡り歩くこととなった。

また、藤原義江のレコード「佐渡おけさ」と昭和4年に開催されたアルヘンティーナの帝劇公演がきっかけで古くからの、より土俗的な民謡に傾倒してゆく。こうして喜与恵は膨大な数の民謡を振り付けていった。

また、戦後の混乱期において後輩の育成に尽力し、戦後の舞踊界復興に多大な功績を残した。謙虚であるが芯の強いその人柄は多くの人から慕われたという。さらに夫の桧健次と「創作舞踊集団」を運営し、日本舞踊の枠を超えた活動を行った。

4、西﨑緑と「若葉会」

西﨑緑の両親は共に岡山県出身である。父は東京帝国大学の薬学部を卒業し、東京衛生所長を経て東京女子薬学専門学校長を務めた。母は富裕な醤油問屋の出身であり、その父は倉敷町長を務めていた。この母も聡明な人物であり、後に仏英和高等女学校(現在の白百合学園)の理事に就いている。このような家庭に生まれた緑はピアノに声楽等、良家の令嬢としての教養をたっぷりと身につけて育った。舞踊は西川流喜洲派家元の初代西川喜洲に入門し、踊りの基本のみならず明朗快活な気質も受け継いだ。

昭和3年、緑は17歳で名取となり「西川喜代美」を名乗る。この年に仏英和女学校を卒業した緑は仏語専門部へ進み、フランス語とフランス文学について学ぶ。また、母の知り合いから「子供に踊りを教えてほしい」と依頼され、昼は学校、夕方からは稽古という生活が始まる。この稽古では子供たちになじみが深く、楽しく踊れるだろうと童謡に振りをつけて教えた。教え子たちは緑のことを「お姉ちゃま先生」と呼んでとても懐いていたという。

仏語専門部卒業後、緑はいよいよ踊りに傾倒してゆく。これにはリベラルだった母も困惑し、再三結婚するように説得するが緑は全く取り合わない。この問題に決着をつけたのは普段は寡黙な父の一言だった。


「学者が学問を研究するような態度で、踊りの道を進む舞踊家が一人くらいいてもよかろう。」


こうして遂に母も折れ、以後は積極的に緑を支援していくこととなる。そして昭和5年「若葉会」が誕生した。

若葉会の第一回公演は昭和5年10月12日、日本青年館で開催された。演目は源氏物語から題材をとった「紫」そして古典という番組である。ちなみに若葉会は西川流の名取・西川喜代美としてではなく、本名の西﨑緑として行っている。これは素人舞踊家として自由に創作活動をしたいという緑の思いによるものであった。

翌年に第二回を開催。この年には恩師である西川喜洲が他界していた。緑への最後の言葉は「もっと腹に力を入れてしっかり、そらもう一度!」だったという。昭和7年は若葉会の公演は無かったが、白木屋ホールで「子供練習会」を開いている。また、この頃緑は市川猿之助、八百蔵兄弟と知己となり、その指導を受けている。猿之助兄弟との交流は緑の踊りをお嬢様芸から脱皮させ、さらなる高みへ飛躍させることにつながった。昭和9年(1934)4月7日には日比谷公会堂で第四回を催している。この回に配布された小冊子に緑の舞踊観がよく表れているので少し長くなるが引用する。


「私共は、申すまでもなく、日本舞踊を志すものでございます。が、必ずしも昔ながらの古典舞踊を其儘踏襲するわけではなく、今日に生きる人間の気持ちから、新しい解釈や振付、乃至は所謂新舞踊をも研究してみたいと思って居ります。然しながら、それには、まづ日本舞踊の基礎を充分に固めることを前提としたいのでありまして、日本舞踊西洋舞踊の何れにも確りした根拠を置かぬためにどちら付かずの舞踊となることを避けたいのであります。日本舞踊の精神と技巧を、近代的な頭で生かして行きたいと言ふのが私共の理想であります。日本舞踊の経済化も亦、私共の目的の一つであります。成るべく無駄な費用を省き、従来兎角贅沢視された日本舞踊を合理的に演出したいのであります。公演毎に出演者が必要以上の費用を負担するが如きことは私共素人としては既に趣味の域を脱したものと存じます。
素人の趣味と申しましたが、私共全体としての立場から言へば、舞踊は結局趣味であることを忘れてならぬと思ひます。別の言葉を用ゐるならば、人間を造る邪魔とならぬ範囲内で舞踊を嗜むべきものであります。凡そ一芸を習得する以上、其途に達しようとするのは極めて自然なことであり、殊に舞踊は独特の魅力を有しますけれども、之に熱するの余り、普通の子女としての教養が閑りにされることだけは絶対に慎まねばなりませぬ。舞踊に於ては、他の総ゆる芸術にも勝ってその人格や日常生活が表現されますから、この意味からしても、本末を転倒した技巧は意味を為さぬように存じます。また、趣味としての舞踊といふ気持ちが徹底してゐればこそ、私共お互の間に競争めいた気持ちが一微塵もなく、公演の際も、補導者が総ゆる点から最良と考へて割当てた踊りを無邪気に楽しく演ずることができるのであります。(後略)」(『若葉会第四回新作舞踊公演』)


舞踊を趣味として、また、教養の一部としてとらえているのは銀閃会の林きむ子と似ている。注目すべきは「日本舞踊の経済化」に言及していることだ。それまでの新舞踊運動では採算を考えず、金と手間を惜しげもなくつぎ込むことがたびたび見られるが、この理由としては「芸術の実験に経済的な見返りを求めるのは不純である」という考えが支配的だったことが挙げられる。緑はこの新舞踊の在り方に一石を投じたのである。これまでの新舞踊家たちとはバックボーンも、世代も違うからこその合理的な思考であると言えよう。

また「公演毎に出演者が必要以上の費用を負担するが如きことは私共素人としては既に趣味の域を脱したものと存じます。」と語っていることから当時の舞踊界には相当の「必要以上の費用」が動いていたと想像できる。緑はそれを取り除く、舞踊界の経営の改革を志していたのではないか。

金銭や生活上の負担を取り除き、誰でも純粋に舞踊を楽しむことを目指した西﨑緑の登場は新舞踊運動が新たな段階へ到達したことの象徴であると思われる。

翌昭和10年(1935)4月29日に第六回若葉会を開催。上演された舞踊劇「南都炎上」は平重衡と千手の前の悲恋を扱った作品である。平重衡役は西﨑緑。ヒロインの千手の前を演じたのは、なんと、あの藤蔭静枝であった。新舞踊期待の若手と大御所の共演は大きな話題を呼んだ。この共演以来、静枝は緑を可愛がり、緑は母と同年の静枝を慕った。そしてこれは終生変わることはなかったという。

昭和11年(1936)日比谷公会堂で第七回若葉会を開催。新作長唄「火焔獅子」を発表した。この回は市川八百蔵も出演しており、好評を博す。また、同年に室生犀星、菊池寛、野上弥生子ら各界の著名人が発起人となり「西﨑緑後援会」が誕生している。

第八回は昭和12年(1937)に開かれ、子供のための新作長唄「時移六色彩」、新作舞踊劇「南北血笑記」を上演した。続く第九回は昭和13年(1939)4月27日、同じ日比谷公会堂で開かれた。新作長唄「雛祭」には子供たちが出演。また、それまでの歴史物舞踊劇とは一線を画し、劇的要素を極力削った「土」を発表。これは戦後に流行する緑の「民俗舞踊」の先駆けとなる。

昭和13年12月「西川喜代美」の名を二代目西川喜洲に返上するが、その後もしばらく「西﨑流家元」を名乗ることはなかった。緑自身が「これが西﨑流の踊りだ」と自信を持って言えるものが、まだなかったからである。独立した流派として「西﨑流」が誕生するのはさらに10年後の昭和23年(1948)であった。

5、藤間勘素娥と「茂登女会」

藤間勘素娥の本名は高橋元子。「ダルマ蔵相」の愛称で知られる高橋是清の次男、是福の三女として生まれた。この是福が大の舞踊好きで、元子が9歳の時に五代目藤間勘十郎に弟子入りさせている。幼少期の元子は麻布の豪邸から下町の稽古場まで人力車に乗って通っていたという。華族の子女の習いごととしては異例の舞踊を習っていたことが評判となり、しばしば御殿に上がって宮家の面々の前で踊りを披露していた。昭和4年に名取となり「藤間勘素娥」と名乗る。

昭和5年10月28、29、30日の三日間にわたって第一回「茂登女会」を新橋演舞場で開催する。古典中心の回であったが「惜春の賦」は勘素娥自身の考案・振り付けによる新作。振り付けは新しいというよりもむしろ伝統に立脚したものだったが「西洋の婦人が帰国後もピアノの演奏で踊れる舞踊」をコンセプトとしており、新鮮な印象の作品だったという。とはいえ、この回は「ダルマの孫が舞踊会をやるそうだ」という話題性ばかりが先行していた。

昭和6年の第二回から昭和10年の第六回まで年一回のペースで公演が続けられている。これらの公演を通して勘素娥の織りなす優雅で清らかな作風が認められてゆき、新しい世代を代表する舞踊家の一人としての評価を確立した。

昭和11年2月26日、陸軍の青年将校による二・二六事件が勃発し予算案をめぐって軍部と対立していた祖父・是清は陸軍の青年将校に殺害されてしまう。これ以後、軍国主義が徐々に日本中を染め上げていくのは周知の通りである。

祖父の無残な死は繊細な勘素娥に大きな動揺をもたらしたことは想像に難くない。この年の11月に第七回が開催されたが、いつもの冴えがなく、不評であったという。

第八回は昭和12年に開かれ、軍国主義的な舞踊劇「神風」を発表。続く昭和13年の第九回でも軍国主義的な「小楠公」を上演した。

昭和14年。この年は茂登女会が誕生してからちょうど10年目で、公演も10回目という節目の年であった。この記念すべき公演で、満を持して新作舞踊劇「あかつき」を発表するが、これはあえなく不評であったという。しかし、大和楽を取り入れた「雪折竹」は勘素娥の傑作の筆頭に挙げられる対策であった。大和楽を取り入れた舞踊は今日では広く普及しているが、その先駆けとなったのは茂登女会の第10回公演だったのだ。

第十一回は昭和15(1940)年9月に歌舞伎座で開催する予定だったが、延期となりそのまま昭和18年(1943)まで茂登女会の公演は行われていない。


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