サクラ大戦3 グリシーヌとノルマンディー公の話
スルーしがちだがすごい話
今回の話はサクラ大戦3について。登場ヒロインの一人であるグリシーヌにはこんな設定がある。
「由緒正しきノルマンディー公爵家の血を受け継ぐ、ブルーメール家の令嬢。」(サクラ大戦3 説明書より)
簡単に読み逃してしまいそうな一文ではある。ゲーム本編でもノルマンディー公のことが触れられることはそこまでなかった。ファンであれば巴里前夜を読んで何となく見た覚えのある単語かもしれないが、そこまで注意を払って読むことはあまりないだろう。
しかしこの「ノルマンディー公爵家の血を受け継ぐ」という一文は、歴史という観点から考えると非常に大きな意味を持つ。ほんの少しこの一文が追加されるだけで、単なるフランス貴族とは全く違う存在と化す重要な意味を持った設定になっているのだ。
今回の話はこのノルマンディー公の歴史に注目し、この設定が何故すごいのかを考えていこう。なお今回の話も大半が歴史についての話になる。その辺はご了承いただきたい。
ノルマンディー公とは?
ノルマンディー公とはノルマンディー公国を治める者の称号である。現在のノルマンディー地方周辺を領地としており、フランス国王に仕える諸侯の一つであった。
これだけ読んだら公爵位の重要性はそこまでわからないかもしれない。しかしノルマンディー公の重要さはその歴史と血筋にある。もし高校で世界史Bを習っていた人がいるならこの名前を憶えている人もいるだろう。こうした世界史の教科書にも登場しているノルマンディー公は、ヨーロッパ中世史で非常に重要な役割を果たしていたのだった。
ちなみに本題からは少しズレるが、グリシーヌの設定のすごさはノルマンディー公の血筋であるという以前に「フランス貴族」であるという点もある。
というのも史実のフランスにおいては、フランス革命以降に貴族制度そのものが大幅に変わってしまったからだ。1870年に第三共和政が成立し、国家によって爵位が与えられることはなくなった。法律によって貴族が禁止されたり廃止されたりはことはなかったものの、新たに貴族が増加することもなくなった。こうしたことから近代において爵位は階級を規定する称号から、個人や家柄に対する名誉称号へと変化していった。ナポレオンの統治期や復古王政の際に国家による叙爵が復活したことはあったが、その後においては貴族制度自体が現代では存在していない。
一応現代でも「フランス貴族相互援助協会(Association d'entraide de la noblesse française)」という組織があり、フランス貴族に対する資金援助や貴族としての認定を行っている。しかし彼らは国家に属する組織ではなく、またここで行われるのは家系図や歴史を検証した上で該当の家系が貴族だと認定すること、というのに注意しなくてはいけない。彼らによって新たなフランス貴族が創設されることはなく、そのため叙爵といった貴族制度そのものは現在では存在しない。
よって史実と比較すると貴族制度そのものが存在しているサクラ大戦3のフランスは非常に興味深い。叙爵もろとも貴族とその関連制度が存続していることがすごいのである。フランス貴族が制度も含めて存在していること自体、史実との違いを考えていくと非常に考察のしがいのあるものだと思う。
こうした史実の背景を踏まえて1920年代にフランス貴族として存在しているグリシーヌを考えると衝撃的なものがある。単なる名誉称号としてのみではなく、政治権力や財力を維持した世襲称号が1920年代に存在しているというのがものすごく興味深い。さらに家系をさかのぼるとノルマンディー公にまでたどり着く歴史の長さというオマケ付きだ。ブルーメール家の家系や歴史自体もかなりの考察しがいがあるのだが、長くなるので今回はいったん置いておく。
新サクラ大戦で1940年代にイギリス貴族が元気にしていたのも驚きだったが、こちらはこちらで1920年代にフランス貴族が元気にしているというのもかなりの衝撃を受けた。生きてる、歩いてると泣きながら感激するのび太並みに感動したのが筆者である。このような背景があるのでフランス貴族であるというだけでグリシーヌはすごいのである。もちろんブルーメール家もすごいぞ。
ちなみにフランス貴族と関連してイギリス貴族についても前に話をしているので、比較や参考にしてみてもおもしろいかもしれない。
ノルマン人の北フランス略奪
ノルマンディー公の歴史を考えるために、まずはその成立から考えていこう。グリシーヌの設定の一つであるヴァイキング要素は初代ノルマンディー公に由来しているように、ノルマンディー公を考える上ではその根源にあるヴァイキング、ノルマン人の存在を見過ごすことはできない。
ヴァイキングと聞けば略奪・襲撃といった海賊のようなイメージを思い浮かべる人もいるだろうが、実際のところ彼らはそれだけが目的でヨーロッパ各地に出没していたわけではない。ノルマン人は9世紀から11世紀という長期間にわたり、植民や交易、そして略奪などを行いながらヨーロッパ各地に広がっていった。
こうした海をまたいだ盛んな人々の移動は、ヨーロッパ各地に大きな変化をもたらした。移動した後にノルマン人がその地に植民、ないしは征服することで国を形成するようになっていったためである。大陸の東ではリューリクに率いられたノルマン人の一団がスラブ人を征服し、ノヴゴロド国が成立した。これはのちのロシアを形作る源流となる。また11世紀にはノルマン人が現在のイタリアにまで進出し、シチリア王国を形成するに至った。
ノルマンディー公国の成立
ノルマン人の移動が進展する中、最初に大規模な征服と定住がなされたのはロロに率いられたノルマン人たちによってだった。ロロを首領とするノルマン人の一団は10世紀にフランス北岸地域へ侵入、その地域を襲撃していた。
この時代はブリテン諸島やヨーロッパ各地にノルマン人の集団が出現しては略奪を行うことが度々ある時代にあり、当時フランス西部を支配していた西フランク王国もその襲撃に悩まされていた。さらに西フランク王国には南からはイスラム勢力・サラセン人の脅威があり、東にはウラル方面からやってきたマジャール人が存在していた。そうした脅威に加えて西にはノルマン人の襲撃があり、こうした多方面の脅威にどのように対応するかが重要な課題となっていた。
911年、ロロ率いるノルマン人たちがパリを襲撃したことで西フランクとの間に戦闘が発生する。パリの南西に位置する都市、シャルトルにおいて行われたノルマン人と西フランクの戦いは、最終的に西フランクの勝利によって終結した。ここで当時の西フランス国王であるシャルル3世はロロとの間に協議を申し入れ、彼らノルマン人に土地を与える代わりに西方の守りを任せることを提案した。この提案をロロらノルマン人は受け入れ、サン=クレール=シュール=エプト条約が成立する。これによって現在のノルマンディー地方東部にノルマンディー公国が成立した。
ここまでノルマン人の進出とノルマンディー公国の成立を見てきた。しかしノルマンディー公の重要性とその複雑さは、この後の時代になって表れてくる。
なお911年に成立したノルマンディー公国であるが、のちにこの地方からノルマン人が地中海へ進出し、11世紀にノルマン人によるシチリア王国の成立に繋がる。ノルマンディー公国の成立は11世紀のシチリア王国の成立、そして後述するイングランドへの進出など歴史の転換点へと繋がる第一歩だった。
ノルマン・コンクエストによる複雑化
ノルマンディー公がヨーロッパ中世史において重要な意味を持つのは、その血縁関係や領地、フランス国王との関わりなど様々な要素が関係しているからだ。そしてその根本的な要因となったのがノルマン・コンクエストである。
結論から言えば第7代ノルマンディー公であるギヨーム2世がイングランドに侵攻し、イングランド王位を得てウィリアム1世となったことが問題になる。フランス国王に対してはノルマンディー公として主従関係にあり、また一方ではイングランド国王として対等な立場になったことが複雑さに繋がっている。結果としてノルマンディー公国の領地は事実上イングランド国王の領地となり、イングランドがフランス北岸に勢力を広めることになった。
このノルマンディー公とイングランド国王が同一となったことでフランス国王はイングランドとの間に領地問題などを抱えることとなり、後々のイングランドとフランスが争う原因の一つとなっていく。
このような複雑な状況を理解するため、まずはノルマン・コンクエストに至る経緯をみていこう。ここでも問題になったのは血縁であり、ノルマン・コンクエストの頃にはイングランドが難しい状況に置かれていたことがわかるだろう。
さてそろそろ忘れかけている人もいるかもしれないが、今回の本題はグリシーヌとノルマンディー公の関係がすごいということになる。なのになぜ10世紀や11世紀までさかのぼっているかといえば、ノルマンディー公のヨーロッパ中世史における重要性を説明しなければいけないからだ。この辺まで読んだ人はなんとなーくわかりつつあるかもしれないが、ノルマンディー公の話は掘り返すとものすごーく長いわ複雑だわでエライことになるのである。そんな要素をゲームのヒロインに取り込んだんだからすごいぞ、という話になるのだが、途中で忘れられると困るので時々思い出してもらいたい。
〇ノルマンコンクエストの背景
そもそもの原因はイングランドの国王であるエドワード懺悔王が世継ぎとなる息子をもうけなかったことにある。直接の後継ぎがいないまま亡くなってしまい、後継者が誰になるかが問題になった。
まず国王として即位したのはハロルド・ゴドウィンソンだった。彼がハロルド2世としてイングランドの国王に即位したのだが、これにハロルドの弟であるトスティが異を唱える。イングランド王位を狙うトスティは、同じくイングランドを勢力下に収めたいノルウェー国王ハーラル3世と手を結んだ。こうしてトスティとハーラル3世の軍勢が東部からイングランドに攻め込んでくることになった。
さらにもう一人、ハロルドの即位に異を唱えた人物が大陸にいた。ノルマンディー公ギヨーム2世である。彼はエドワード懺悔王の母、エマ・オブ・ノーマンディーがギヨームの大叔母であること、さらに懺悔王から直接王位継承の約束を取り付けたと主張してイングランド王位を請求した。ギヨーム2世は軍勢を率いて南からイングランドに攻め込んでいく。
こうしてイングランド、そしてハロルド2世は東と南から別々の軍勢に攻め込まれることになった。
〇戦闘の経過と結果
2つの軍勢がイングランドに押し寄せていたものの、それぞれが上陸し侵攻するのは全く違うタイミングとなった。まず1066年9月、イングランドに上陸したハラール3世の軍勢とハロルド2世の軍勢がイングランド北部で衝突。このスタンフォード・ブリッジの戦いの中でハーラル3世とトスティが敗死したことで、ハロルド2世は東部の危険性を取り除くことに成功した。そして返す刀で南部に押し寄せるギヨーム2世の軍勢を攻撃することになる。
ノルウェー軍を壊滅させたハロルド2世であったが、ギヨーム2世はすでにイングランド南部のヘイスティングズに上陸していた。ハロルド2世の軍勢が南下して防御陣形を整える一方、イングランド側の陣形が整う前に攻撃することが勝利の要と考えたギヨーム2世の攻撃によって戦端が開かれた。
1066年10月、ギヨーム2世の軍勢約6000人、ハロルド2世の軍勢約7000人との間でヘイスティングズの戦いが行われる。騎兵中心の軍勢であったギヨーム2世の軍勢は重装歩兵を中心とするハロルド2世の軍勢に苦戦したものの、最終的に戦闘の中でハロルド2世は敗死。戦いはギヨーム2世の勝利で終結した。
戦闘後、ギヨーム2世はイングランド各地を占領し、そして1066年12月にはイングランド国王ウィリアム1世として戴冠するに至る。
こうしてノルマン・コンクエストは終結し、ノルマンディー公とイングランド国王が同一になるという複雑な状況が生まれた。この状況が後々のイングランド・フランス間で行われた戦争の際に問題の一つとなっていく。
フィリップ2世の策略とノルマンディー公国
フランス国王であるフィリップ2世とイングランドの戦いが始まる13世紀ごろになるまでの間、イングランドはその版図をさらに拡大させていった。一時はイングランドとノルマンディー公国に加え、婚姻による称号の取得などによってアイルランド、フランス王国の西半分を加えた広大な国へとなっていった。この時期のイングランドは統治していたプランタジネット家、そしてその原点であるアンジュー家からとってアンジュー帝国とも呼ばれる。ただしこれは初代プランタジネット朝の王であるヘンリー2世がそれぞれの爵位と領地を持っていただけで、全体を一つの国として統治しているわけではなかった。
これに対し重大な懸念を抱いたのがフランス王家であった。当時フランス王家だったのはカペー家だが、その家系は10世紀後半のユーグ・カペーにまでさかのぼることができる。ユーグ・カペーはもともとパリ伯であり、その支配領域はパリ周辺などのごく限られた領地でしかなかった。このため領地を引き継いだカペー家も王権は限られており、ノルマン・コンクエストによってノルマンディー公がさらに強力な力を持つとその王権は脅かされることになった。こうした背景からフランス国王の王権を強化しようとするカペー家、そして領地・王位を巡って対立するプランタジネット家との間で争いが続いていくことになっていった。ここからイングランドとフランスの争いが度々発生する。
イングランドに対してフランス・カペー家が行ったのはヘンリー2世の息子たちに対するさまざまな反乱支援だった。非常に多くの爵位と領地を持っていたヘンリー2世には4人の息子たちがおり、誰にどの領地を与えるかが問題になった。ここでの爵位と領地、そして個人間の不和など多くの理由が重なり、ヘンリー2世とその息子たちの間にはしばしば対立や反乱が発生していた。カペー家はこの状況を利用してイングランドにたびたび介入しており、当時のフランス国王であったフィリップ2世も謀反や反乱の支援によってイングランドの弱体化を図っていくことにした。これが結果として兄弟間の不和のみならず、イングランドやフランスの諸侯を巻き込んだ領地争いや大規模な反乱と繋がっていくことになる。
こうしたイングランドとフランスの争いはジョン欠地王の時代、12世紀末から13世紀初頭にかけて大きな変化をもたらすことになる。
そもそもジョン欠地王は4人兄弟の中で当初領地が与えられず、そこから欠地(lackland)の名がついたことが兄弟間の不和が巻き起こることにもなっていく。土地を与えることのできなかったヘンリー2世は彼を憐れみ、溺愛するようになった。この偏愛にほかの兄弟たちは納得がいかず、ジョン自身も王位を求めて行動を起こすことさえあった。ヘンリー2世の次代に即位した兄のリチャード1世がイングランドを離れた際、ジョンはフィリップ2世の援助で反乱を起こして国王になろうとするなど兄弟間の不和は致命的になっていた。ちなみにリチャード1世への反乱も国内の諸侯の賛同が得られず失敗しているが、こののちもジョンは歴史に残る失政・失策でイングランドを弱体化させていく。
ジョンがイングランド国王に即位する際、彼の甥であるブルターニュ公アルテュールとの間で対立が起こる。この際にはジョンがイングランド諸侯の支持を集めたことで国王に即位したが、ここでの対立は後々まで尾を引いた。
その後、1200年にジョンの結婚問題を巡ってフィリップ2世がフランス国王の臣下としてジョンを法廷へと呼び出すという事態が起こった。これに対してジョンは出廷を拒否。そのためフィリップ2世はこれを口実にジョンの領地を没収することとし、こうしてイングランドとフランスの間で戦闘が発生することになった。この際アルテュールもフィリップ2世を支持してイングランドとの戦いに参加している。
この戦いの最中、アルテュールはジョンの軍勢によって捕らえられて幽閉されてしまう。その後アルテュールは消息不明となり、このことに対してジョンが対立していたアルテュールを暗殺したのではないかという噂が流れることになった。実際に暗殺したかどうかの事実は不明であるが、この噂によってフランスの諸侯たちはジョンに対する不信感をあらわにした。人望を失ってからの変化は瞬く間に進み、ノルマンディーやアンジュ―など多くの大陸諸侯が戦わずにフランス側へ降伏した。こうしてフィリップ2世はフランス南部のガスコーニュを除き、イングランドの領地となっていたフランス西部の大部分を回復することになった。
この結果ノルマンディー公国はフランス王領となり、この後も断続的にノルマンディー公が叙爵されることで公国は続いていく。領地を占領されたイングランドもノルマンディー公爵位などを請求していたが、最終的には1259年のパリ条約によってノルマンディーを含むメーヌ、アンジュー、アキテーヌ、ポワトゥーの請求権を破棄することで合意に至った。
その後のノルマンディー公国
ここまでの話でノルマンディー公領はフランス国王の領土となり、その後断続的に公爵位が与えられてきたと説明した。ところが状況はもっと複雑で厄介なのである。
というのも問題は「ノルマンディー公国の大半はフランスのものになったが、すべての領地がフランスのものにならなかった」ことにある。
ノルマンディー公国のうち、フランス北岸にあるチャンネル諸島だけはイングランドの領土として残っている。
このためチャンネル諸島においては21世紀になった現在においてもノルマンディー公の称号が残っており、この地においてはイギリス国王に対してノルマンディー公の称号が用いられる。つまり現在(執筆当時2021年4月)では「ノルマンディー公たる女王(Duke of Normandy,Our Queen)」ということになる。
一方のフランスにおいては、冒頭でも示したように現在ではノルマンディー公どころか、制度としてのフランス貴族自体が存在していない。フランスにおいて最後にノルマンディー公爵位を保有していたのはルイ16世の子であるルイ17世であるが、彼の死によってフランスにおけるノルマンディー公は最後になっている。
このように現在でもノルマンディー公という称号自体は存在しているものの、その効力が及ぶ範囲はチャンネル諸島の一部に限られている。
肝心な話
さてここまで非常に長い話をしてきたが、肝心な話はここからになる。もともとの主題は、グリシーヌの設定にある「ノルマンディー公爵の血を引く」という話がどうすごいかということだった。そのためにここまで長々と話をしてきたのである。
ここまで読んでもらえたならわかるだろうが、ノルマンディー公はノルマン・コンクエスト以降ではイングランド国王と同一になっている。そのためグリシーヌの実家であるブルーメール家がどのタイミングでノルマンディー公家から分離したかによって、グリシーヌの血縁上の意味というのは非常に大きな意味を持つことになる。
ブルーメール家がノルマンディー公家の分家だということは巴里前夜で語られていたものの、それがいつのことかまでかははっきりしていない。しかし時代や状況によってはイングランド王室やフランス王室とも血縁上の関係を考えることができるというのは非常に興味深い。
流石に1920年代ともなれば11世紀のノルマン朝までさかのぼって王位継承者に並べられることはないだろうが、それにしてもこれだけの歴史を持っていることも驚きだ。
どこで分家となったかという血縁上の問題もさることながら、その時代や背景によっては分家となってからも領地はどこだったか、王室やフランス諸侯との関係はどうだったかなど考えられる幅は非常に広い。
中世のみならず近現代においても、フランス革命後において貴族がどのようにしていたか、政治権力との関係性はどうだったかなど考察できることは山ほどあるのが興味深い点だ。
このように単にフランス貴族とされれば、その領地の広さや権力などは幅があるものの、ノルマンディー公という一つのバックグラウンドが付くだけでその意味や深さはまるで違うのである。歴史と深く関わりのある爵位であるからこそ、そこからつながる発想や考察はとてつもなく広い世界を持つことになる。
グリシーヌのノルマンディー公の血を引くという設定のように、サクラ大戦には世界観やヒロインの設定に歴史と深くかかわることが多い。こうした部分は説明書や設定資料集で見逃しがちかもしれない。しかしその意味や理由を考えていくと、歴史との深い関わりや重大な意味が見えてくることもある。世界観を深掘りするとこうした興味深い話に出会えるという点もサクラ大戦の魅力の一つではないだろうか。
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