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ボクらの輝ける“アラフォーの青春”を奪った彼をボクは許さないし、絶対に忘れない。

盆がやってくる。

日本では昔からこの期間は、ご先祖様をご自宅にお迎えしてご供養する行事とされている。大変に素晴らしいことだ。
我が家も昨日から田舎に帰省きせいしており、両親、姉貴夫婦と一緒に墓参りをする予定である。

子どもたちは夏休み終盤戦。
前半はキャンプに、プールに、北海道に、船釣りに。すでに三人とも真っ黒な顔。
思う存分、満喫している。

はっ、と気になった。
こやつら、宿題をちゃんとやってんのだろうか、と。

そう思って、小学3年生の長女が、
終業式でもらってきたプリントを改めて確認してみた。

「こころのおなやみそうだん」

タイトルにそう書かれた1枚のプリントが目にとまった。

どうやら子どもが心の中で抱えている悩みや問題を相談できる居場所を、夏休み中も学校が開放してくれているようだ。


人の気持ちや痛みを表層だけでなく理解することは難しい。もしかすると我が子であっても不可能かもしれない。ボクは中学高校の思春期に特定のグループに属することもなく我が道を生きてきた人間だから、いじめられていた人の繊細な痛みを真に理解することも、いじめのニュースをみて経験者と同じように胸を痛めることも出来ないと自覚している。

だからイジメで我が子が悩んだり、辛くなったときに、家族以外でこういったプロの相談窓口があることは非常に心強い。

本当にありがたい。

ボクには忘れられない過去が、胸の奥底に眠っているから。

突如結成された、アラサーおっさんのA・RA・SHI

さかのぼること5年前の5月。
大学時代に一緒につるんでいた5人仲間の一人が亡くなった。互いの結婚式に参列しあって、彼の披露宴の余興では5人で嵐を歌って踊った。

“Love so sweet”

ボクが櫻井君で、歌のうまい彼は大野君だった。おっさん5人がアイドルばりのお揃い衣装を着て、各々が薄っすらとメイクをして、年甲斐としがいもなく思いきりやりきったボクら非モテ5人衆は、会場から割れんばかりの大喝采を浴びた。

輝いていた。
最高に楽しかった。

“アラサー過ぎの青春だな”
二次会後、屋台のラーメン屋で、皆でそう語らい合い、残りの未婚者、松潤役の結婚式では再結成しような、
そう堅く誓いあい、

ボクらは一夜限りで“マイクを置いた。”


固い絆で結ばれた仲間の一人の死。
彼の死をボクは奥様から送られてきた賀状の喪中ハガキで知った。

びっくりした。
葉書きを持ったまま身体が強張こわばって、ボー然と立ち尽くして動けない。学生時代から深くつながっていた人が、この世からいなくなったという現実をボクはしばらく受け入れられずにいた。 

闘病していたのだろうか。

…そうだ、っと思い
年始に交わした賀状を引っ張りだしてみてみた。

しかしそこには、
満面の笑顔で子どもとニコニコして写る素敵なパパの姿があって、
“みんなで会おうぜ!”
と、あいつらしくたった一言、ぶっきらぼうな言葉が添えてあった。普段のあいつに、変わらぬ体型。ボクが見る限り、彼が病に侵されていたようには到底思えなかった。

嫌な予感がした。

居ても立っても居られなくなり
喪中はがきの送り主である奥様に返信する形で手紙を書いた。

彼との思い出。
お墓参りをしたいこと。
ご遺族に直接お悔やみの言葉をかけたいこと。

ボクは解けないパズルをどうにか組み立てようと、頭を整理させながら、言葉を選びながら慎重に綴った。


1週間後に返事が届いた。

“あまりにも突然のことで、家族も未だに心の整理がついていない状況なので…。”
とあり、お会いすることには丁重な断りの文面が綴られていた。
死因の核心部分のその“フレーズ”は奥様からは明確にされなかったが、あとで情報が入って来たところによると、嫌な予感のそのとおりで、

自死のようだった。

遺書はなかったらしく理由はもう誰にもわからない。もう永遠にわからないだろう。
前兆はなかった。少なくとも比較的近くにいたボクら友人でさえも誰一人として、一切感知できなかった。


死のハードルは誰にでもある。
いまは全然見えないところにあるけれど、ボクにだってあるはずだ。人それぞれその高さが違うだけで、危ういバランスのもとでそれぞれが生きている。

何かの拍子。
わずかなきっかけ。きまぐれ。そんなものでふと越えられてしまう高さにそのハードルはあり続けている。

でも、その危うさのもとで生きているから、ただ“生きる”というだけでも素晴らしく価値があるものだとボクはそう思っている。

誤解を恐れずに言おう。

「早世した彼のため」
墓参りを4人でしたときに、
相葉くん役と、ニノ役が言った。

生きていくってのは正直、つらいことがたくさんあるので、生きることにそういう1つの理由をつける行為そのものをボクは否定しない。実際、ボクもそういう考えを持つこともあるし。だが、一方で亡くなった者を理由にするのは、生きている人間のエゴだと思うところもある。

考えてみると生きることに理由や言い訳をつける生き物は人間だけであり、ボクは人間を人間たらしめているそういった機能や行動は、美徳であると同時に欠点でもあるんじゃないか、とそんなふうに考えている。

誰のためでもない、自分のために楽しく生きる目標を置いて前向きに生きるそれ自体。
人生に意味があるとしたら、きっと、そういったプロセスなんじゃないか。そんなふうに、今、ボクは考えている。

これはボクの考えであって、同意や反論も要しない。生死は、すべての人間が抱えている問題なので、それぞれ異なる答えがあってしかるべきだからだ。

彼に何があったかの詳細を知るよしもない。きっと苦しんで、悩みまくったのだろう。でもそれすらもわからない。
人の気持ちはブラックボックスで、推測はできるけれども、完全に中身を知ることはできないから。

しかし、なにが理由であれ。
自死は一切、肯定できない。
肯定できる要素はない。

悪いけれども親友の彼にボクは、
最後の最後で裏切られた気分になった。
あいつに大バカヤローと言いたい。

あいつだけではなく、あいつにかかわってきたすべての人の人生の一部が、それぞれのレベルでそれぞれの分量で奪われて苦しめてしまったことへの怒り、そして無念さが込み上げてくるのだ。

最後まで独身を貫いてきた松潤役が
結婚するとの案内が先日届いた。

大野くんのいない嵐。
再結成できるわけないじゃん。

なにやってんだ、おまえ。

“アラフォー過ぎの青春の1ページ”
をボクから奪った彼を絶対に許さない。

同時に、絶対に忘れない。
嵐のメンバーがテレビに出るたびにお前のことを思い出してやる。

そしてボクはおっさんになれなかったお前が羨ましがって幽霊になって出てくるくらい楽しい人生を送ってやろうと思っている。

だから、
盆には、オレの元にもきてくれな。
もう一度、5人で嵐を歌って踊ろうじゃないか。

思い出ずっとずっと忘れない空
ふたりが離れていっても。

って。

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