画面の奥に、つい思いを馳せてしまう

このところ、わたしはテレビドラマ「作りたい女と食べたい女」を日々楽しく見ている。

その中の描写に、主人公がSNSを介してひととつながる姿が出てくる。
SNSの画面を見ている様子、文字を打ち込む様子、それにいいねをつける様子。
その様がテレビ画面の左側と右側に、同時に映し出される。
投稿を見てどう思ったか、どんな思いがゆえの「いいね」なのか、知ることができるのだ。

「Twitter(現X)は生息地です!」と言えてしまうほどSNSには日々お世話になっているわたしだが、そんな自分を客観視することも、その奥にいるひとのことが見えることも、当然、ない。
それでそのドラマのシーンを見て、ちょっと羨ましくなったりした。
画面の奥のひとのこと、そうやって知ることが出来たらいいのにって。

SNS、普段なら知り合うことすらできないひとのことを知ることができ、繋がることができる、魔法のようなツール。
でもどうしたって、少しだけ淡白。
誰かに思いを伝えたくても、そこにあるのは「いいね」だけ。
もちろんリプライやDMという方法はあるが、お相手にお返事の手間をかけさせちゃうかなとかぐるぐる考えちゃって、そう頻繁には活用できない。(考えすぎちゃうというわたしの悪癖)
目にした投稿ひとつひとつ、ひとりひとりに送るわけにもいかないしね。

とはいえ、見ているといろいろなことを思う。
「わかる〜」とか、「なるほどそういう考え方もあるのか」とか、「そう考えてた時期あったから共感できるな」とか。
「いいね」では必ずしもないけれど、心を動かされる瞬間が、数々ある。
でも抱いた感情は「いいね」とは少し違うとき、それを押すのを躊躇ってしまい、結果的に無視してしまったかのようになってしまうことがあって、なかなか難しくてもどかしい。

「いいね」とちょっと違うというの、理由は様々。
わかりやすい例でいくと、苦しんでいる趣旨の投稿にはエールを送りたいけど「いいね」ではないよな、とか。
いいね欄ってひとに見られるので、「わかるけどこういう思考の持ち主だって決めつけられるのはちょっと違うな」って思ったから押さない、っていうパターンもある。

今度は、受け手側の視点に立ってみる。
「いいね」がもらえると、自分の考えに共感してくれるひとがいるとわかり、それを正しいものだと認めてもらえたようで、うれしくなる。
もらえないと、なんだか孤独感さえ感じてしまうこともある。

でも、「いいね」は「いいね」でしかない。
ちょっとバズったとて、ツイートの下に表示される数字が増えていくのみ。
そうか、それ以上でも以下でもないのだよなと、あるとき気づいたのであった。
(極小アカウントが何言うとんねんというツッコミは、心の中でお願いしますね)

画面に映る範囲では、やはりなんだか淡白なSNS。
でも、その奥には、たしかに「ひと」が存在するのだ。
わたしはその事実を忘れないようにしたいし、なんなら日々意識していたい。
画面の向こうに届くのは「いいね」でしかなかったとしても、出会った言葉は、忘れられないものになったり、自分の価値観を形成するものになりえたりすることもあるのだ。

ということで、今回はそこに徹底的に目を向けたい。
普段SNSを見ながら思っていることについて、ちょっとこの場で、綴らせていただこうと思うのだ。

(なんとびっくり、本題はここからだよ!)

ちなみに。
これから綴ることに、明確なターゲットはいたりいなかったりする。
それなりに長いことSNSを使っているわけでして、いろいろなひとを見ているわけでして。
ただ1度目にしただけのひともいれば、一定の期間にわたって繋がらせていただいているひともいるわけだけれど。
そういうすべてを、詰め込んだつもりです。
もし貴方に当てはまる何かがあれば、それは間違いなく貴方に向けてのメッセージです。
どうぞ遠慮なく、ラブレター受け取ってくださいまし。


楽しくいてくれる貴方へ

声を大にして言わせてくれ。
「本当に、いつもありがとう!!!!!」

いろいろあるSNS。
正直、くさくさしてしまう投稿だって、いっぱい目にしてきた。
そしてわたし自身、時に何はなくともなんとなく気持ちが沈みがちな日がある。
わたしは普段、Twitterをアイドルのオタクという肩書きのもとで使っているのだが、「自分にはもうオタクを続ける資格がないのかも…」とか思うことさえあり、そんな瞬間に、かなり気持ちが落ちてしまうのだ。
でもそんなときに。
「好き!!!」「楽しい!!!」の言葉を見かけると、溢れんばかりのエネルギーをおすそ分けしてもらえたような気持ちになる。

貴方が楽しくいてくれたおかげで、わたしは自分の好きを、楽しいを、今も手元に持ち続けられています
これからもどうか貴方の好きに、真っすぐに
そんな言葉たちを見続けていたいです
引き続き、何卒よろしくお願いいたします


「貴方のこと」を教えてくれる貴方へ

先述のとおり、わたしは普段、Twitterをアイドルのオタクという肩書きのもとで使っているため、当然、繋がらせていただいているのもそのような方々だ。
基本的にはそのアイドルという同じ対象を見つめ、それぞれに気持ちを語っているわけだが、中にはときどき、それに限らない自分自身の日常や、その中で浮かぶ考えを教えてくれるひとがいる。

わたしはつい画面の向こうにいるのはどんな方なのか想像してしまう癖があるので、その答えをひとつ、教えてくれることがたまらなくうれしいです

同じ時を生きる人間同士なんだなって、実感できることに喜びを感じるというか
Twitterでオタクをフォローすることには、オタクのオタクになるという側面もあると、個人的には思っていたりします
貴方が話してくれたそのことについて、日常の中で目にすると、ちょっと気に留めてみたりなんかしちゃいます

とはいえ、もちろん、知れたとてそれ以上を詮索することはありませんので
どうか、ただそのまま、話すことをやめずにいていただけたらわたしはとてもうれしいです
ここにひとつ、たしかに需要があるのです


日々頑張っている貴方へ

勉強、お仕事、家事、…生きるためのすべて。
頑張っている趣旨の投稿を見る度に、心の中で、親近感をたっぷり含ませたエールを送っている。

わたし以上に、どう足掻いても真似出来ないほどに、頑張っている貴方

心の底から尊敬し応援しています、でも無理しないでね

わたしにも頑張るべきフィールドはある
勝手ながら仲間と思っている貴方の存在を心に宿しつつ、わたしもわたしを生きてゆきます

1日のスクリーンタイムが29分だった、
そんな日もあったりする
人生ってイージーではないんだよね


寂しさを感じている貴方へ

貴方がどうしようもなく寂しくなってしまったとき、自分はひとりぼっちなんだって思っていないといいなって思うよ
わたしは貴方のこと想っているよ

寂しいと零せること、それもひとつの強さだと思う
そうしてくれたことに一種の嬉しさを感じているという側面、わたしにはあるのでね
(もちろんわたしを思い浮かべたうえでそう言葉にしたわけではないことくらい、当然わかってはおりますけども)

わたしとて寂しさとは決別できないんだって、もうわかってしまったので
遠くない感覚のわたしが存在すること、心のどこかに留めて思い出してくれたらうれしいな〜なんつって
わたしだって貴方のその勇気に、共感できることに、ひそかに救われているんだ


この場では会えなくなってしまった貴方へ

このところ、本当にいろいろなことがあった。
それがゆえなのか、それとも自らの内面や環境に変化があったためなのか。
理由は知る由もないけれど、SNSという場を去ってしまったひとたちを何人も見てきた。
繋がっていたひとはもちろん、そうではない、ただ何度か見かけていたというだけのひとであっても、その瞬間を目の当たりにするのはどうしたって寂しくて。
TLにそのひとがいてくれることは当たり前なんかじゃなかったんだなって、その度に痛感してきた。

いまでもときどき、貴方のことを思い出します
そのたびに、今どうしてるかな、元気かなとも同時に思います
どこかで楽しいこと見つけて、幸せに生きてくれていたら、わたしはとっても嬉しいな
あの頃の思い出は今も胸に息づいています
幸せなひとときを、本当にありがとう


出会ってくれた貴方へ

ここを、Twitterのアカウントを、見てくれている画面の前の貴方へ。

どんな方が見てくれているんだろうって、わたしはよく思っています
直接会って言葉を交わす機会はきっとないのだろうけど、わたしの言葉のうちなにか少しでも、貴方の心に届けばいいな
見つけてくれて、時間を使ってここまで読んでくれて、本当にありがとう
いつも見守ってくれている貴方も、本当にありがとう
見てくれているひとがいると思えるからこそ、わたしは言葉を紡げます
これからもどうぞよろしくお願いいたします


散々思いの丈を書き散らしてきたけれど。
こんなこと、直接は絶対に言えない。
とても届いてほしい自分が確かにいるけれど、きっと怖がらせてしまうよねって引かれてしまうよねって十二分に自覚していて。

だからこそ、こんなことを話す場はnoteなのだ。
Twitterでは書いたことがまっすぐ目に飛び込んできてしまうし、フォローされていれば相手にほぼ確実に見られている。
でもnoteは違う。
ハッシュタグをつけたりTwitterでリンクを共有したりしなければきっと誰の元にも流れてゆかないし、サムネイル次第で読む/読まないの判断だって自由自在だ。
それがもどかしいこともあるけれど、でも、きょうのわたしはそんなnoteの性質に感謝している。

たまたまわたしのこのアカウントに辿り着いた誰かが、たまたまここをノックしてくれたとして。
それでもしちょっとでも心に届いてくれたら、それだけでわたしは充分なのだ。
...かなり直接的な表現を使ってきたので、「ちょっとでも」なんて奥ゆかしいものではないかもしれないが。

noteって、Twitterに比べて流れるスピードがゆっくりなので、今は想像できない未来の誰かに見つけてもらえる可能性にかけることだってできるんだもんね。

これからも、使い方を考えつつ、SNSには末永くお世話になりたい所存です。
もはや何度目かもうわからないけれど、変わらず楽しくい続けるので、これからも何卒よろしくね。

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