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「あるがまま」の心地良さ〜映画「夜明けのすべて」感想〜

※映画本編の内容・描写について触れております。

公開が発表されたその瞬間からずっとずっと映画館で鑑賞することを楽しみにしていた作品、「夜明けのすべて」。
映画を鑑賞することは経験のひとつだと教えてくれた、記憶に刻まれ続けるであろう1本になりました。
こんなに自分自身に寄り添ってくれる作品には実はそう出会えないのだという事実を、もはや忘れてしまいそうになるほどに。


同じ経験は何ひとつとしてしていないのに、藤沢さんの感情はぜんぶ知っていた

早速かなり烏滸がましいことを申し上げていることは重々承知しておりますけれども。
でも、率直にそう思ったので、そのまんま書いている。

私自身はPMSという診断を受けたわけではないし、藤沢さんとは違う境遇の中で生きている。
でも、スクリーンの中にいる藤沢さんの気持ちは、すべて手に取るようにわかってしまったのだ。

ひとつがうまくいかないとドミノ倒しのようにすべて投げやりになってしまうあの感じとか。

ほんとうは表に出したくなんてないのに湧き上がる負の感情が抑えられなくて、葛藤のあまり震えてしまうあの感じとか。

我慢しきれずに零してしまった言葉の重みは自分がいちばん知っているからこそ、直後に相手への申し訳なさよりも自責の念をたっぷり帯びたやけくその謝罪を投げつけてしまうあの感じとか。

ぜんぶぜんぶ、身に覚えがあるのだ。

まるで自分を外から見ているかのようで。
山場のシーンというわけではないのに、冒頭10分やそこらなのに、「わかりすぎる」というたったひとつの理由で、涙が溢れてしまった。
映画を見ていてこんな感情になったのは初めてのことである。

でもそれは、わたしにとって救いでもあった。
休日の夕方、山添くんとプラネタリウムの原稿を練っていたシーン。
土日休みすぎるとかえって月曜辛いよねとか、日々感じるちょっとしたざらつきを零し合いながら、藤沢さんは、幾度となくこう口にする。
「まぁみんなそうだと思うけどね」

そうなのだ。
こうした生きづらさを感じているのは、自分だけではない。
その事実が、何よりわたしのこころを軽くした。
そもそも、「わかりすぎる」描写こそ、ほかにも同じような思いを経験しながら生きているひとがいることの証明だと言える。

みんな、隠すの上手すぎるんだよ。


「貴方そのもの」の尊重

わたしがこの映画全体から感じ取った心地良さの、核の部分である。

藤沢さんも山添くんもそれぞれ、「自分の身体なのにわからない、コントロールできない」と零しており、そのことにとても苦悩しているようだった。
きっと、病気によって自らを蝕まれ、本来の自分でいられないことに焦りや悔しさを抱いているのであろう。
しかし、周囲からはその病気を抱いた姿で自分自身を判断されてしまう。
それはどんなにもどかしいことだろう。
ふたりが分かり合えたことは、この感覚を共有できたことが大きな理由なのではないかと思った。

だからこそ、藤沢さんは山添くんの髪を切ることで(そこまで意図していたわけではないにしろ)素のリラックスした笑顔を引き出していたし、山添くんは藤沢さんのピリつきを感じると外に連れ出すなどしてそれを抑えるための手助けをしていた。
病気とそのひと自身を切り離すという発想があるからこその行動だな、と思った。

そしてふたりが山添くんの部屋でそれぞれやりたいことをしながら過ごすシーンからは、お互いの心からの安らぎが伝わってきた。
普段いろいろなことを気にしちゃうと話していた藤沢さんがお菓子の残りを流し込むようにして食べている姿がチャーミングで、個人的にとてもお気に入り。
それだけ飾らない自分でいられて心を許し合える存在になれたこと、きっとお互い嬉しかっただろうな。

病気がいつ治るかはわからずとも、日々に希望を見出し明日を生きようと思える。
それってすっごく、大きなことだと思うのだ。


見ている者にも「ありのまま」を肯定してくれる空間

わたしはこの映画を、公開前舞台挨拶のライブビューイングのある回で鑑賞した。

そのときの松村北斗さんの言葉。
「何かを感じてもいいし、無理に感じようとしなくてもいい」
「今すぐにどうということはなくても、これからの人生においていい出会いだったな、と感じられる作品であれたら」

こんな言葉もあった。
「(登場人物同士の関係性などについて)すべてを台詞で説明していない、見てくれる方が自由に想像してくれたら」

(記憶を頼りに書いているのでどちらもニュアンスです、間違っていたらすみません)

このような、見る者に楽しみ方を委ねてくれるその姿勢。
映画を見るということについて経験が浅いわたしにとって、「自由に楽しんでいい」と楽しみ方を指南してくれたことは、とてもありがたいことでもあった。
こうして自由を、ありのままを許してくれることは、この映画全体を包み込んでいる心地良さとも地続きのような気がして。
まるで自分も映画の中に取り込んでくれたかのような。
そんな安心感が、とっても嬉しかった。

実はこのところ、わたしは少々参ってしまっていた。
ここ最近の自分は、なんだか感性が鈍くなってしまっているなと日々思っていて。
もともと感受性豊かに生きることに喜びを感じるのに、社会ではそれを抑えることが必要であり。それを長きにわたって強いられると、どうしても心に負担がかかってしまい、うまく動いてくれなくなってしまう。そういう窮屈な感覚を、抱いていたところだったのだ。

しかしこの映画を見ている間は、舞台挨拶での助言もあり、自分の心を自由に動かすことができた。
音が心地良いなとか、目に映る情景が美しいなとか。
このひとはどんな思いでこの言葉を発したのかなとか、どういう意図でこのアングルから撮影されたのだろうとか。
別に何も生産性はないし、取るに足らない発想であるがためにその場に置いてきてしまったものさえたくさんある。
でもこの時間こそ、わたしがわたしを取り戻すために必要なものであった。

映画って、こういう経験をさせてくれるんだ。
この1本を通じて、少しかもしれないけど確かに、自分の世界が広がったような気がする。


しなやかに、たおやかに

この映画の心地良さに通ずる価値観は、上白石萌音さんの言葉にも。
「生理の辛さについて、言いたいと思えれば気軽に言える世界になればいい、言いたくなければ絶対に言わなくていい」

どんな姿勢があったって、いいのだ。
「〜すべき」という声ばかりが大きく響いてしまう世間、「〜しても、しなくてもいい」と言ってくれることは、わたしにとってとてもありがたいことであった。

また、こんな言葉も。
「自分は生理が重い方なんですよね。
でも、藤沢さんと周期が被ったことがあって、わたしのなかにも藤沢さんがいるんだなぁって(嬉しくなった)」

この世界で生きていると、自分にとって受け入れ難いことがいくらでも起こる。
ただでさえ自分自身をコントロールするって難しいことで。
そのうえ、たくさんのひとがそれぞれに意志を持って生きているのだから、軋轢だって当然生じてしまうものだ。
そこで生まれる不平不満は、怒りに乗せてしまうのは簡単なことだけれど
あれこれ渦巻く気持ちをどうにか柔らかいかたちに変換して、しなやかに生きていく。

実はこれはわたしにとって理想の生き方である。
マイナスの感情が渦巻いてしまうことは、生きていると当然、ある。
しかしそれをマイナスのまま持ち続けることはとても居心地の悪いものであり、どうにか肯定できる方向に自分を持っていきながら生きていきたいという感覚が、ずっとある。
近頃、他者を正義感のままに否定したり、嘲笑ったり揶揄したりという風潮をよく目にするが、それが本当に苦手なのだ。だがそんな自分は少数派なのだろうかと、ふとしたときに自信をなくしてしまうことがある。

だからそんな理想を体現してくれる存在がいることが、自分自身を肯定してくれたかのようで。
わたしにはそれが、とても嬉しかった。
まだまだうまくそうできることばかりではないけれど。
このまま目指していいんだと思えたことが、絶対にこれからの人生においてわたしを支えてくれる。
そんな確信を得ることができたのだ。


出会えて良かった

この映画は、1本を通して何か大きなことが起こったり、劇的に何かが変わったりする過程を描いているわけではない。
でもたしかに、わたしの心を動かしてくれるものであり、知らず知らずのうちに凝り固まっていた自分自身を優しくやわらかくほぐしてくれるものであった。
この映画を心から楽しめたことはわたしにとって大きな喜びを感じられる経験で。こんな出会いがあるのなら自分の生きづらさも悪くないな、とさえ思えた。
この映画の良さ、わからずに生きる人生よりわかることができる人生の方がずっといい、と。

映画「夜明けのすべて」出会えて良かった。
本当に、良かった。

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