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狂音文奏楽「文豪メランコリー」

初めて私が夏目漱石の本に触れたのは確か高校の国語の教科書。
今とは違う古めかしい言い回しなのに何故かスルスルと内容が頭に入っていく感覚が不思議で、「こころ」を解説する先生の言葉を聴きつつも、はやる気持ちのまま勝手に先へ先へと読み進めていた。
教科書に載っているのは当たり前だが一部抜粋で、この面白いものをもっと読みたいというシンプルな欲がムクムク湧き上がる。本を読むことは好きだったけれど、純文学というものはどうしても敷居が高くて手を伸ばしたことも無かったのに。
そうして手に入れた文庫本の「こころ」はもう10年は経とうとしているのに今も手元に置いてある。日に焼けてくたびれてしまっているし、引越しの時に置いて行っても良かったけれど、なんとなく手放すことが惜しかった。

「君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
「とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」

物語の中で“先生”が“私”に向けた言葉。
思春期の私には何故かこのフレーズが刺さって離れなかった。
きっと今読み返せば違うところに目が向くのだろう。良くも悪くも感性は変わっていくものだから。

文豪メランコリーという作品を見て、私は確信してしまった。この感情は決して恋では無いけれど、私の心はきっと黒い髪に縛り付けられている。

さて、こんな仰々しい書き出しにするつもりは無かったんだけれど、今回の題材のせいか、はたまた前川さんの言葉に感化される日々を送っているせいか。きっとその両方かなぁ。
多少読みにくいかもしれないけど今回くらいはポエミーでも何でも恥ずかしがらずに好きに書くことにしよう。
誰に頼まれる訳でも無く、これは私の為に書いているものだから、という言い訳だけは一応残しておこうと思う。

改めまして、とても今更ですが観劇当初に書き殴ったはいいものの公開するタイミングを失っていたものを出しています。
ディレイ配信も始まったので今しかないかなと。
ということで、本題に戻りまして。

「これは、狂えるわ」
文メラを現地で見た直後、フォロワーに口走っていた言葉がこれだ。なんて頭の悪い感想だろう。案の定、それから今まで狂いに狂って囚われる日々を送っている。
ライブのような独特の高揚感とその場で生まれる芝居の熱量にただただ気圧されるだけの2時間だった。
MAD朗毒を見た時も、SHAPEを見た時も思ったけど磯貝龍乎の頭の中って一体どうなってるんだろう。

この話はきっと救いの話であり、エゴの話であり、真実であって、フィクションだ。

太宰治
「恥の多い生涯を送ってきました」
こんな鮮烈な書き出しで始まるのは代表作のひとつである人間失格。これは太宰の半自伝的な要素も盛り込まれている。
誰もが知る大文豪だが、とても分かりやすくクズだ。本当に走れメロスを書いた人間と同じか?
酒とタバコと女に溺れた人生。現代の言い方で言ってしまえば相当なメンヘラなのだと思う。
5人の女を惑わせて、心中未遂を繰り返す。その根幹にあるのは「愛して欲しい」という強い願望。まぁ、歪みきってしまっているけれど。それでも「愛されたい」という願いだけは嫌に純粋だ。
満たされない幼少時代の想いを抱えたまま、尊敬する芥川龍之介の死から世界が一変する。彼の人生にとって良い事だったのか悪い事だったのか知らないけれど、それだけ陶酔するほどに鮮烈な文学との出会いだったんだろうなぁと想像するに容易い。4mの手紙を送り付けるのはもはや狂人だろ。
女に溺れ、酒に溺れ、クスリに溺れ、愛と文学に執着した人生。傍から見れば根っからのクズ。
彼らが心中した川のほとりには太宰が最後までもがいたと思わしき下駄の痕が残されていたという。この通説も真偽は定かでは無いけれど、潔くない死に際がどこか彼らしいとも思ってしまうのだ。

反橋宗一郎さん
反さんの色気とオーラが稀代の色男ぶりを更に加速させている気がする。その色気と端々に滲む軽薄さが女を惑わせた感満載。かと思ったら中也と喧嘩する子供っぽさもあったり、その多面性が可愛いね。反さんにぴったりな役だ。いや、反さんがクズだとは微塵も思ってないですけども。
ソロ曲がもろウタカ〇ララバイで笑ったけどめちゃくちゃ良かった!とにかくかっこいい。
ど頭にあの曲でこの舞台の世界観とテーマを打ち出してくるの度肝抜かれたし、もうここから私はこの文豪メランコリーの世界に心を掴まれてしまったんだと思う。

中原中也
「親友に恋人を寝取られる」というエピソードは太宰治の後に聞くとパンチが弱い。
もう既に色々な基準がおかしくなっている。怖い。
色んな人物の酒クズのエピソードを聞いたことがあるけど、ここまでの酒クズを見てしまうと他の人たちが可愛く見えてくるから不思議。
ところで、中原中也にとっての決定的な「喪失」って弟や我が子の死なんだろうけど、今回は深く触れられなかったので次の機会があるならこの辺も掘り下げてくれないかなぁと思ったりする。太宰に浮気をしたか問われ、してないの一点張りだったところに案外性格が出ているかもしれない。葬儀が終わり火葬をするまで我が子の亡骸をひと時も離そうとしなかったというエピソードが残っているくらいの人なのだ。あまりにも不器用だけれど、自分の懐に入れた人物への愛はどこまでも深い人でもあったのかもしれない。
身長が低いことを笑われて拗ねたり、喧嘩が弱いのに喧嘩ふっかけたり、なんだか憎めないのが尚更おもしろい。その人間性が独特の詩を生んでいると思うともはや愛おしくなってしまうかもしれない。
悲しみや喪失感を埋めるのが酒しかない人間は今でも存在する。酔うことでしか現実から逃げられない人たちを嫌という程知っているし、その人たちが辿る道も想像に容易い。アル中患者って本人に断酒の意思が無ければこちらに出来ることは何にもないので。
しかし彼には妻や太宰を含めた悪友が確かに存在している。まぁ、太宰は友人と称されることを厭うかもしれないけれど。でも彼らと飲んだ酒が少しでも彼の心を満たしていたらと思わずにはいられない。

秋沢健太朗さん
秋沢さんの声帯ってどうなってんの?どこからあんな声出して尚且つ喉潰れないの何で?まじで凄い。
中原中也といえばハットがトレードマークですけど、カテコでハット脱いだ瞬間めちゃくちゃ見た目のイメージ変わるのすごく好きだったなぁ
あと夏目先生にちょっかいかけるの大好き。私の初見ブチギレ(?)がペットボトル投げつけブチギレだったんだけどそれでも飄々としてんの本当に悪童すぎて笑う

与謝野晶子
そもそものイメージから「強い女性」だと思っていた。世間に迎合することが正解で、出る杭は打たれる、女なんて以ての外、家庭で静々と過ごすことが良しとされる世界に反旗を翻した女なのだから当たり前だ。じゃなければ戦争に染まりお国のために命を落とすことを最上とされた日本で「君死にたまふことなかれ」と皆が押し殺した本心をぶちまけられるはずが無い。
そう、強い女だとは思っていたのだけど、まさかここまで「強すぎる女性」だったとは。
略奪婚はよろしくない。ほんとに。不倫ダメ、絶対。これは倫理観の話。
まぁ、よろしくはないんだけど、それほどまでに身を焦がすほどの大恋愛ってこの世の女の中で一体何人が体験出来るんだろうか。
なんか意図せずシャボン玉みたいなこと書いちゃったな。
略奪婚を肯定することは出来ないけれど、なりふり構わずに愛することの出来る相手が出来ることはある意味とても羨ましいかもしれない。
あの時代に周りに流されず自分の意思を貫き通せる強さに私は尊敬の念を抱かずにはいられない。
でも不倫ダメ絶対!!

中山永嗣さん
とにかく歌がうめぇ。
ワンフレーズだけで世界が変わる。凄い。個人的にメロディとか雰囲気だけで言うと与謝野さんの曲がいちばん好き!めちゃくちゃかっこいいし、歌詞も文学的で良い!(と思ってたんですけどね。先日のIso会で小学生レベルの下ネタを濃縮還元しただけだったことが判明して死ぬほど笑ったので追記)
初舞台でとんでもないものに出くわしてるのに、初日より前から終わることが寂しいと言ってくれていたと聞いた時、本当に素敵な座組なんだなぁと思いました。

谷崎潤一郎
バカと天才は紙一重なんて言う言葉もあるけれど、あそこまでネジが外れて吹っ切れてしまえばそれはひとつの才能に変わるのだと思う。
まぁ、そりゃそうだ。あんな作品が書ける人間がマトモなはずが無くないか?
根底にあるのは純粋なマゾヒズム。それは表に出すことは憚られることではあるけども、突き詰めた先にあるものをあんな形で昇華されてしまうともはや潔くて、美しいのかもしれない。
そういう変態性ってきっと大なり小なり誰でも持っているのだろう。
「禁忌」という言葉に人は弱い。大昔からきっとそう。だからアダムとイブは禁断の果実を口にしたんだろう。禁じられてしまうほど気になるのが人間の性というものなのだ。
現代において薄暗い欲望はフィクションの中であれば許される。文学を通してならば「禁忌」に触れられる。だからこそ作品が売れるのだ。みんな本当はどうかしているから。誰もがその心理を知り、禁断の果実を味わいたいから。
とはいえ谷崎本人は奥さんの妹に恋してるし、友人に妻を譲渡してるし、フィクションでもなんでもない面はあるけれど。
美の追求に掛けた人生はある意味で至高の文学者であり芸術家なのかもしれない。

校條拳太朗さん
校條さんの初見がこれで本当に良かったのか未だに分からない。(なお、3ヵ月後に別作品で校條さんを見ることになるがそれもそれでぶっ飛んでたので本来の校條さんが今も謎に包まれたままです)
あそこまで爆発力がある人見たことない。1人でずーっと場を荒らし続けられるあの忍耐力本当にすごい。穏やかに狂ってるかと思えば、盛大に狂っててもう何が何だか分からなかった。顔と声がめちゃくちゃいいことだけはよく分かった。
あまりにも独壇場すぎる。校條拳太朗オンステージ。おもろすぎるから再演のときはもっとバージョンアップしててほしい。再演してもらう気満々。

夏目漱石
一言でいえば“エゴイズム”の塊。
歌詞にもあるけれど人格者で教養のある文豪。スーパーエリートで英語教師。先生と呼ばれ、崇められる存在。聖人君子であるべき人。
しかしそれは仮初かもしれない。
あの有名なILoveYouを「月が綺麗ですね」と訳したという逸話も実はソースは無いのだという。「月がとっても青いから」と訳したという伝聞ならば数十年前からまことしやかに広まっていたそうだが、それすらもどこかに記載が残っているわけではないのだそうだ。
また信者ともいえる熱狂的なファンを窘めるために送った手紙なども残っているがそこには「あなたの思うような人はこの世界に1人もあるはずが無い」ときっぱり書かれている。一体どんな手紙貰ったんだよ、夏目漱石。
でも私はオタクだから手紙の送り主の感情は少しだけ理解出来る。好きという感情は時に盲目で、純粋だからこそ厄介だ。ファンというフィルターを通して見た世界はそこにある事実を自分の都合の良いように簡単に捻じ曲げてしまう。一方的にしか知らないはずの相手のことを分かった気になってしまう。
そして、自分の理想とする人の範囲からで外れてしまった途端に人は裏切られたと感じて失望する。簡単に手の平を返す。だから私はずっとファンと呼ばれる人間は常に自分勝手で自己満な存在だと思っている。まぁ、その感情の全てが悪い事だとも思ってはいないけれど、行き過ぎた想いは好意も悪意も紙一重なので。これは自戒。
さて、話が逸れてしまったけれども、夏目先生はきっと世間から見た自分のイメージと本来の自分の乖離していくのが耐えられなかったのではないかと思うのだ。
だからこそ谷崎さんのあの言葉に深く感銘を受けるんだと思う。まぁ、そのあとすぐに近づきたくないとか言い出すけど。
そもそも夏目漱石の描く人物だとか、彼が好んだとされる人って呆れるほど実直な人が多い。裏表のない人物を好んだとされる彼自身が自分のイメージが独り歩きしていくのを良しとするはずがない。
さぞかし偉いんでしょう?という皮肉めいた歌い出しが尚更その気持ちを加速させてしまう。
実父には愛されず養子に出されては戻されを繰り返した幼少期、大人になってからは養父に金の無心をされる。愛しては貰えなかったのに、有名になった途端に手のひらを返したように擦り寄られられる。
「人間は誰もが身勝手だ」と全てを達観し、冷めてしまうのも頷ける。彼の人生の〝本当のこころ〟を知っているのはそれこそ悪妻と呼ばれた彼の妻、鏡子夫人だけなのかもしれない。
エピソードを見ればとんだモラハラDV夫とヒステリック妻の夏目夫妻。
瞬きもせず時に淡々と、かと思えば激昂しながらDVや虐待の事実を並べるその姿にゾッとした。その唐突なスイッチの入り方はまさに精神疾患患者かもしれない。
少し調べたら鏡子夫人が投身自殺未遂を起こした川が私が前に住んでた場所のわりと近くだったので想像しやすくて尚更「ひぃ……」という気持ちになった。これは余談。
さて、この鏡子夫人だけれどもめちゃくちゃ良妻では……?という気持ちになってしまう。現代の基準では、という注釈は着くけれど。
変な占いにハマったりヒステリーは本当らしいのでお互いに悪い所もありつつ……という感じではあるが。
エピソードを掘れば掘るほど感じるけれど、鏡子夫人、まじで気が強い。明治~大正っていう時代背景を考えたら尚更。
夏目先生ってきっと男でも女でもそういうさっぱりした実直で図太い人が本当に好きなんだろうなぁ。女性が大口開けて笑うのがはしたないとされてた時代に歯並びの悪さを隠そうともせず笑う所に惚れた男なだけある。趣味が一貫している。だいぶ喧嘩もしたようだけれど。
神経衰弱って現代で言う鬱病とか統合失調症を指すらしい。中也の言葉に癇癪を起こすシーンがあるけど、家でもきっと少し気に触っただけであんな風に怒り出してたんだろうなぁというのが想像にかたくない。なんなら鏡子夫人に対しての方が手をつけられなさそう。
そんな状態で、漱石本人からも離縁を言い渡され、実家からも帰っておいでと言われる中で「夏目が精神病なら尚更私はこの家をどくわけにはいきません」と言い切れる腹の据わり方は恐ろしさすら感じる。
「病気の時は仕方がない。病気が起きないときのあの人ほど良い人はいないのだから」
鏡子夫人はこんな言葉も残していたそうだ。『これは病気が引き起こしていることでこの人本来の意思では無い』と考えられる人なんて現代ですら圧倒的に少ない。たとえ病気のせいだと分かっていても自分も人間だから耐えられないことなんてザラにあるのが現実だ。
それでもそばに居られるなんて並々ならない覚悟の上だ。
夏目先生は「誰も吾輩のことなんて分かっちゃくれないんだ」と叫ぶけれど、こちらから歩み寄りもせずに誰かが理解してくれるというのはそれこそエゴでしかない。その人間味がとにかく好きだった。
そんなエゴと癇癪を真正面から受け止めて、ずっと隣で支え続けてくれた人。
これを「愛」と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。
もしかしたら「愛」なんて生ぬるいものじゃないかもしれない。

前川さんについてはバカデカ感情が抑えきれないのでここでは割愛させてもらっても良いだろうか?
思ってることは本当にたくさんあるんだけれど文章にした途端にどれもチープになってしまって書いては消してを繰り返している。
ただ、揺り動かされたこの感情を私の心の奥底に捨てたくはないので、いつか文字にして残したいとは思う。

芥川龍之介
この文メラという作品の主軸になる人物なわけですが、さて、どこから話そうかしらという気持ち。
光を苦手として身を縮めたり、他の人が話している最中に後ろで煙草をふかしている姿が印象的だった。そこに確かにいるのに、その姿はどこか虚ろというか、さっきまで輪の中に居て他の人にやいのやいの言っていたというのに、ふと気がついたら1歩引いているその温度差が少し不安になる。そのまま居なくなってしまうような気がした。
彼もまた幼少期に深い傷を負っていた人だ。負の感情が渦巻くなかでもがき苦しんだ人。
キリスト教を題材にした作品をいくつも書いておきながら、聖書を抱いて死ぬなんて神への最大の冒涜だ。もしかしたら彼を救わなかった世界への最期の当てつけだったのかもしれない。
自分の光とも言える夏目先生が谷崎さんを自分を救ってなどくれなかった神様に見立てて十字を切る姿を彼は一体どんな気持ちで見ていたのだろうと思わずにはいられない。

「死」は幸福では無いが、「生」よりは平和に違いない。芥川の悲痛な叫びはあんなにも苛烈であるのに、ひどく脆くて虚しく響く。
私は、「希死念慮」をひとつひとつ紐解くと「逃避」に辿り着くのではないかと思ってる。
いま、この一歩を踏み出せばこの苦痛から逃れられるという甘い誘惑に突き動かされた先に「自死」があるのでは無いだろうか。
というか少なくとも私の場合はそうという話。
ここから誰得な自分語りだから次の段落まですっ飛ばして読んで欲しい。
とにかく辛くて現実から逃れたくて仕方がなかった時期にふと今ここで1歩踏み出せば現実に向き合わなくて済むのではないかという想いが頭をかすめたことが幾度となくある。たとえば電車がホームに入ってくる瞬間、ビュンビュンと車が行き交う道路の前、他にもたくさん。ともあれ私には生憎本気で決行する勇気は持ち合わせていなかったのでその思考が湧いては消えて「死にたい」という言葉を独りで繰り返すだけだったけれど。
そんな私にとっての蜘蛛の糸は先輩がくれた「じゃあバンジーでもしてみる?飛び降り疑似体験。次、死にたいって思ったら一緒に飛んであげる。」という言葉だった。
後にも先にも私が「死にたい」という思いを他人に伝えたのは先輩が辛抱強く聞き出してくれたその一度だけだ。今でも時々死にたくはなるし、もうその先輩は近くには居ないけれど冗談めかしたその言葉に私は今でも救われている。

だからこそ芥川が夏目先生の一言に、その存在に、救われるという気持ちが痛いほどよく分かった。分かってしまった。
たったひとりでも誰かが自分を認めてくれる。それだけで世界は光に包まれる。
たとえば、芥川が先生に送った手紙に「自分のような者から手紙をもらうのはご迷惑かもしれないが」と書いたことがあるそうだが、それに対して先生は「僕なら斯う書きます。『なんぼ先生だつて、僕から手紙を貰つて迷惑だとも思ふまいから又書きます』」と返事を返したらしい。夏目先生の好む人物像って本当に分かりやすい。
床に伏しても夏目先生は芥川へ手紙を返していたというのだからどれだけ目をかけていたのかが分かるだろう。夏目先生と芥川の交流は1年ほどだったというが、これだけ認められていることがどれだけ彼に光を与えたかなんて分かりきったことだ。彼のモノクロの世界が一気に色づくのも頷ける。

そう思えば思うほどに夏目先生亡き後、彼に訪れた不幸を語る芥川に向かって夏目先生が突きつける「過去に色々あったのは、みんなそうだよ」という言葉が響いてしまう。
ステージ上で終始弟子を気にかけていた夏目先生が初めて彼に向ける厳しい言葉。正論は時に残酷だ。
「でも救われたじゃないですか」という芥川の言葉の響きがどこか突き放しながらもSOSを出す子供のようで苦しかった。
彼にとっての救いが何かも分からず、ただ平和に暮らしたかったと呟く姿があまりにも弱々しい。
そんな彼に先生が言い放つ「それでいいじゃないか。」という言葉。
生まれる意味も生きる意味も本当は無い。それでも意味を持たせようとしている。人は孤独な生き物だから。

あまりにも無責任でぶっきらぼうにも聞こえるが、きっとそれが全てなのかもしれない。

私には「俺たちが救うってことですよね?」というセリフにどうしても違和感があった。たぶんそもそも私が「誰かの思いや思想を他人が簡単に変えられるなんて思うことは傲慢でしかない」と思っているからかもしれない。
きっかけは作れたとしても、最後に決断するのは自分しか居ない。
だからこそ、夏目先生の「あとは君次第だ」という言葉がストンと胸に落ちた。プレッシャーと執着に塗れ、神に助けを求め、神が見放した男を救えるのは、結局彼自身なのだ。
そして、皆の歌を聴いて最後に芥川が高らかに歌い上げる「救いはいらない」というフレーズにどこかホッとせずにはいられない。
死してなお救われなかった彼が周りに手を借りながらも自分でヒカリを見つけることにきっと意義があったのだ。
だって神は誰も救わないし。
事実、彼には「死が救いだった」のだから。
現代に残っているのは彼の作品と自死したという結果だけ。きっとそれでいいのだろう。それが彼の真実だ。
しかし、そこから私たちが受け取ったものはきっと私たちの血となり肉となり知識となる。
この物語で何かを得た人間もいれば、特になにも刺さらなかった人もいるのかもしれない。楽しめた人もそうでない人も必ずいる。きっとそのどれもが等しく正しい。
私たちは私たちの人生を生きるために、自分に必要なものを取捨選択していいんだと思う。
人生に意味なんて無いのだからもっと好きに生きて、死んでいったって構いはしないのだ。

橋本真一さん
初めてお芝居を見てこれほどまでに心を掴まれると思っていなかった。歌のうまさにも衝撃を受けたけれど、芝居で心を揺さぶられるってこういうことなんだなって。
公演後に前川さんがひまわりチャンネルに出演された時、ふたりで話してた内容が本当に素敵だった。お互いに信頼に足る相手だったからあの夏目先生と芥川くんが生まれたんだってことがひしひしと伝わってきたから。
芝居なんてしたことが無い私にとって、板の上なんてものは未知の世界で、俳優の見えてる景色なんて一生知ることはないのだろうけれど、あんな風に大切に愛おしそうに、それでいて私たちにも分かるように二人が語ってくれたのは本当に贅沢だったなぁと思う。きっと俳優のみなさんは受け取ったものに不正解なんてないと言ってくれるだろうけど、あの場で受け取ったものの答え合わせをさせてくれてありがたいなぁと。もう見れないのが残念だけれども。
前川さんも言ってたけど、橋本さんの違う歌を聞いてみたいし違うお芝居見てみたいなぁって思うからどうにかして機会を作りたいです。前川さんのスケジュール次第だけど。あと絶対また共演してくれ。お願い。もっと2人のお芝居が見たい。頼む。なんらかのアンケートとかに書けばいいですか?!?!?!


さて、長々とここまで読んでくださってありがとうございました!本当はもっとたくさん書きたいこともあったんだけどもう記憶が朧気で……。
あと単純にもう力尽きたのでゲスト分は配信で全員分見たら追記します!
本当に楽しかった!!でもきっと数年後にまたこれを見たら受け取るものが変わってるのかもしれない。感情移入の方向性も何もかも。それも人生ですね。
でも、何年も待ってられる気がしないので出来れば早めに文メラ再演待ってます。強欲に生きてこ!!

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