民兵隊から女性を助けようとして追われる身に…イラン出身の難民申請者、先行きの見えない"日本の生活"に不安2024年03月28日 12時34分弁護士ドットコム.イランと女性の人権.イスラムと女性の人権 一国連での討議をとおして-などPDF魚拓



「このところ、国からの迫害を逃れ、庇護を求めて来日しているのに入国が認められず、成田からそのまま牛久に送られてくるアフリカやイランの人が増えています」

茨城県牛久市にある東日本入国管理センター(牛久)に収容された外国人への面会活動を続ける支援団体「牛久入管収容問題を考える会」のメンバーはそう口にする。

イランの首都テヘラン出身の男性Aさんもそのひとりだ。政府当局による迫害を逃れて来日し、現在、難民認定申請中の彼がどのような経緯で日本にやって来て、その後、どのような生活状況に置かれているかを伝えたい。

●民兵隊から女性を助けようとして追われる身に

髪を覆う「ヒジャブ」のかぶり方がおかしいとして、風紀警察に拘束された女性が2022年9月に急死した事件を機に、イラン全土で市民の抗議活動が広がったが、逆に政府当局の弾圧が強まっている。

オンラインのスポーツショップを運営し、妻と娘とテヘランで暮らしていたAさんは2022年10月上旬、友人のBさんと買い物に出かけた先で、バシジと呼ばれる民兵隊が若い女性を車に押し込んで連れ去ろうとしている現場に遭遇した。

「少し離れた場所でデモが起きていたので、おそらく彼女はそのデモに参加したことで、バシジに追われたのだと思います」

Aさんは、女性を助けるためにバシジと彼女の間に割って入った。妊娠中の妻や7歳の娘がいるAさんにとって、バシジによる女性への暴行は他人事ではなく、義憤に駆られた行動だった。

AさんとBさんを含め、その場を通りがかった通行人7人と、バシジ4人の小競り合いは数分ほど続き、女性を逃がすことができると、Aさんたちもすぐに立ち去った。

バシジとは、イスラム革命防衛隊(IRGC)の配下にある準軍事民兵組織で、政府当局がいうところの「法と秩序の維持に反する人々」に対して残虐な行為に及ぶことで知られる。

地域ごとに制服などに多少の違いはあるものの、木の棒や銃を携帯し、グループで行動していることから、バシジの存在はすぐわかるらしい。

中でも市民から最も恐れられているのは私服のバシジで、彼らはデモ隊に紛れ込んで反政府のスローガンを口にしながら、デモ参加者に暴行を加えるという。

Aさんたちはその場で拘束されなかったものの、翌日の深夜、革命防衛隊がBさんを自宅から連行。その後、Aさんの実家にも向かった。

早朝5時頃、母親と兄が住む実家に現れた革命防衛隊は、Aさんの在宅を確認するため、家の中を捜索し、「Aは国家の秩序を乱す者なので、革命防衛隊の事務所に出頭するように」と伝言を残して去ったという。



イラン出身のAさん(弁護士ドットコム撮影)

●友人が連行されたと知り、ドバイを経由して来日した

兄から電話で事情を聞かされ、連行されることを恐れたAさんはすぐに自分の家を離れた。大人数の兄弟姉妹の末っ子であるAさんは、この日から1カ月半近く、兄が経営する店の倉庫に身を隠している。

この間、Aさんの兄や姉は、長姉のツテを頼りにAさんが出国できるように準備を進めた。まずはイラクにわたり、別の仲介者に依頼して日本の短期商用ビザを取得したAさんは、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイを経由して2022年12月上旬に来日した。

Aさんはこの事件以前に、正規のパスポートを取得していたものの、短期商用ビザを手配した仲介者から「旅券を持ったまま日本に入国すると、イランに送還される。機内のトイレで旅券を処分するように」と指示された。

イランへ送還されることを恐れていたAさんは、その指示通りに旅券を破棄して、空港で難民申請をおこなった。だが、庇護を受けられず、牛久に送られ、申請から5週間後に難民不認定処分が出されてしまう。

収容施設では、携帯電話や通信機器が取り上げられてしまうため、右も左もわからない収容者は、事情を把握するまで外部と連絡を取ることもできない。

当初、牛久の旧棟に入れられたAさんは、支援者だけでなく、ほかの収容者とも接触できない状況が続いた。音信不通の夫の身を案じる不安からか、妊娠中だったAさんの妻は流産してしまったという。

その後、支援者とのつながりを得て、弁護士についてもらったAさんは、難民不認定の審査請求と並行して、仮放免を申請した。収容から半年後の2023年6月、仮放免を認められたAさんは支援者の尽力で神奈川県横須賀市のアパートに身を寄せることができた。



イラン出身のAさん(弁護士ドットコム撮影)

●判決文に記された「モハレベ」(=神への敵意)の意味

迫害を逃れたAさんの実家には、Aさんが来日して数週間後、テヘランの革命裁判所から文書が届いたという。

そこには「デモに参加して治安と国家の秩序を混乱させた」という罪状で拘束するという決定が出たことが、「モハレベ」という言葉とともに記されている。

「モハレベ」とは、ペルシャ語で「神への敵意」を意味する。ヒジャブ事件を機に広がった抗議活動で逮捕されて、判決文に「モハレベ」と記された男性が、拘束から2週間足らずで処刑されたケースもある。

イランの居住環境や郵便事情について少し説明をすると、革命防衛隊に追われるまでのAさんは、夜は自分たちの家に戻るものの、日中は妻子とともにAさんの実家で過ごすことが多かった。

結婚後の夫婦が夫の実家で過ごすことは、イランでは珍しいことではなく、革命防衛隊がAさん夫妻の借りている家を知らなかったことで、Aさんは運よく拘束を逃れられたとも言える。

こうした中、裁判所からの重要な文書が実家に届いたのは、イランでは住所登録が必要なとき、移転の可能性がある賃貸の部屋ではなく、実家の住所を記入するからだろうとAさんはいう。

●仮放免後、10カ月間で4カ所を移り住む

イランに留まれば、友人同様、拘束されてしまう――。そう考えたAさんが日本に来たのは、欧米諸国よりビザの取得が容易だったからだ。

日本にツテもなかったAさんは、支援者とつながりを得たことで何とか生活している。だが、難民申請中の仮放免者は就労も、事前の許可なしに県境を越える自由もなければ、健康保険に加入することもできない。

昨年6月に仮放免が認められ、最初に横須賀に滞在して以来、Aさんは10カ月間で4つの部屋に移り住んでいる。仮放免者に部屋を提供・貸与してくれる団体や個人を探すことは大変なことで、支援者は部屋探しに奔走している。

期間限定ではあるものの、支援者同志の連携によって、辛うじて住居を確保していることで、Aさんはホームレスになることを免れている。

Aさんの代理人をつとめ、難民申請の手続きを進めている金子美晴弁護士は、申請者が置かれた現状を憂慮する。

「迫害を恐れ、手を尽くして国を離れた人が空港で難民申請をしているのに1カ月ほどで不認定とされてしまう。本来、難民認定は早期に認定されることが好ましくはあります。しかし日本での入管行政の現状を見ると、早く不認定にして早期に送還することを目的にしているとしか思えません。

早々に仮放免という立場にされてしまったAさんは就労できませんから、フードバンクなどからの食糧支援と個人の支援者の方たちによるカンパなどで何とか生活している状況です。難民申請者を援助する難民事業本部(RHQ)の面接を受けるにも、仮放免から半年、待ちました。ようやく保護費と住居費を受けられることになりましたが、この先の生活費・住居費・医療費などは、個人の支援者の努力だけではどうしても限界があります」

RHQの保護費は1日1600円、月4万8000円。就労も、健康保険への加入も認められず、生存権が脅かされている申請者に対する金銭面での公的な支援は、RHQによる生活費と上限が月6万円(単身者)の住居費しかない。

危険を逃れて辿り着いた日本で、外も見えない部屋に収容され、電話カードがなければ、外と連絡を取ることもできない。犯罪者でもないのに拘束され、自由を奪われ、いつ外に出られるかもわからない状況の下で、多くの収容者は追いつめられ、心身を病んでいく。

ショックやストレスのせいか、Aさんは時々胃が痛くなるそうで、支援者がつないだ無料低額医療の病院で、胃の検査も受けている。

取材中、Aさんは「明日はイラン暦のお正月だけど、また家族と迎えられなかった」と口にした。これまで何度か会う中で、自身の結婚式や娘さんの写真をうれしそうに見せてくれたAさんは、家族を大切にしている。

「日本に来てから1年3カ月。家族と離ればなれになり、いつもほぼ独りぼっちで働くこともできず、精神的にも生活面でも苦しんでいます。日本に来たのは自分の命を守るためで、それ以外の理由はありません。イランの政情が安定したら、私は誰よりも早くイランに帰国します。1日も早く家族のいる国に帰りたい。だけど、今はそれができないことを、日本の政府にはわかってほしいです」

このような気持ちは、Aさんに限ったことではない。国に戻れない難民申請者はみな先行きの見えない生活に不安を抱えながら、支援者の献身によって日々を過ごしている。

(取材・文/塚田恭子)

https://www.bengo4.com/c_16/n_17390/
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ガージャール朝からイラン革命

ガージャール朝の間とイラン革命の初期においては、「ペルシャの大半の女性は、相続や初等教育の受講を含む全ての権利が制限されていた第二階級の市民であった。例えば、部族や遊牧民はそれらの女性を市民の男性と交流させ、時には不本意ながらも一夫多妻やMu'ta(シーア派における一時的な婚姻制度)を認めた。」とされる[4]

1906年から1911年にかけてのイラン立憲革命は、イランに西洋的文明と立憲政治に基いた近代化をもたらし、その背景化に『女性愛国協会』(en:Jamiat Nesvan Vatankhah)が結成された。彼女たちは、近代的ナショナリズムのもとに、現在的な洋服を着て生活し、貧困者や少女の権利の擁護に努めた。また、立憲主義者(constitutionalists)の政治的敗北や、レザー・ハーンによる権力掌握によって女性の権利問題を追及する雑誌や団体が廃止された時においても、政府は女性への集団教育や賃金労働を認めるといった社会改革を行った。レザーは加えてKashf-e-Hijab政策を始め、議論を呼んだ。この政策は公共の場での女性のヒジャブ着用を禁止する物であった。レザーの統治下においては他の社会的階級と同様に、政府方針へ異議を唱える事といった表現の自由が弾圧された[5]

パフラヴィ―朝

1925年に軍司令官のレザー・ハーンがガージャール王朝を打倒し、同年レザーは自身がペルシャ帝国皇帝の地位を表すシャーであると宣言し、これによりパフラヴィー朝が始まった。

権利問題改善の第一歩は1928年の教育分野となった。政府は海外留学への経済的支援を女性へ行った。また1935年にはテヘラン大学への進学が認められ[6]、1944年には女子教育が義務教育となった。1936年にはレザー・シャー・パフラヴィーが女性の社会進出を法的に定めるKashf-e-hijab-aとして知られる法を制定し、ジェンダーによる分離政策を撤廃した。この政策は、社会進出よりも家庭における女性の役割を重視する保守的女性を多く生み出し、また彼女らは警察からの嫌がらせを受けることとなった[7]。しかしそれでもなお社会の一定数の階級にて脱ジェンダー分離が進行した。この改革は教育を受けた多くの女性権利活動家によって、女性の権利獲得をとする団体であるKanoun-e-Banovanを通じて支えられた[8]

その後レザー・シャーのトルコ訪問(1936年)後、イランにおける社会構造と女性の社会的地位は更に改善し始める。当時トルコ共和国の大統領であったムスタファ・ケマル・アタテュルクによって実施されていた西欧化政策に感銘を受けたレザー・シャーは、トルコから凱旋時の演説にて次のように述べた。「私は、女性が各々が行使する権利と受用する権利に目覚めていたことに強く感動した。…母であることの特権に加え、今や女性は他の権利を得るための道中に居るのだ。」[9]。その後のレザーの白色革命は女性の法的地位向上に貢献した[10]

1963年の白色革命以降は、婦人参政権一夫一妻制など、一層の近代化が進められた。しかし地方や農村地域の貧困は改善されず、民衆の不満は高まり、保守的原理主義が台頭し、1979年のルーホッラー・ホメイニーの指導下のイラン革命以降成立した、イラン・イスラーム共和国社会から一掃されることとなる。しかし、イランにおいてトランスセクシャル性別適合手術が合法化され国の支援が受けられるよう認めたのはホメイニーであった。

性的自由

イランではシーア派イスラームのシャリーアに基づく神権政治がしかれており、婚外交渉が非合法(ハラーム)であるなど性的自由はきわめてきびしく制限されている。婚外交渉は発覚した場合石打ち刑であり、国際社会から極めてきびしい非難を浴びている。

服装の自由

イランではヘジャーブをかぶらない女性は宗教警察により逮捕される。また女性の体のラインを強調する服装も禁止されている。しかし現在ではテヘランの若い女性はジーパンに短めのヘジャーブで済ませることもあり、宗教警察から『バッドヘジャービー』として敵視されている。

教育

2022年11月から、女子生徒を狙った「毒ガステロ」が相次いでいる[11][12]。2023年2月までの3か月間で、イラン国内の少なくとも15都市30校が攻撃を受け、700人以上の生徒が被害を受けたという。これは女子教育の停止が目的であるとみられており、マフサ・アミニの死での反政府デモに対するイスラム原理主義勢力による報復であるとされる。

詳細は「イラン女子学校毒物事件英語版)」を参照

社会進出女性の社会進出に関してはイラン・イスラーム共和国はむしろ成功したといえる。これは保守的・教条的イスラームに基づく道徳観を持っていた年長者が社会のイスラーム化によりかえって女子教育や女性の就業に安心感を抱くようになったことが大きい。革命の指導者ホメイニー自身も女性の社会進出は重要であり、女性の権利の拡充も積極的に行うべきとしていた。ただこれはあくまでも『イスラームの絶対的支配に基づく社会規範』に服従する限りにおける女性の社会進出の容認である。近年では、女性の地位向上を含めて人権や民主化の推進のために活躍し、2003年ノーベル平和賞を受賞したシーリーン・エバーディーを中心とした活動家が注目されているが、エバーディーも、たびたび脅迫や投獄を経験し賞金を当局に没収されるなど、依然として困難な状況下にある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E4%BA%BA%E6%A8%A9
イランにおける女性の人権出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


イラン立憲革命(イランりっけんかくめい、ペルシア語: انقلاب مشروطيت ايران‎; Enqelāb-e Mashrūṭiyat-e Īrān)は、1906年から1911年にかけてイランで発生した革命カージャール朝専制に反対し憲法議会の獲得と維持を主要な目標とし、国内の広範な集団を糾合した運動と、これを巡る一連の政治変動を指す。なお、イラン革命1979年イラン・イスラーム革命を指す語として定着しつつあるが、1980年ころまでは立憲革命を指した。このため本項で扱う20世紀初のものを「イラン立憲革命」、1979年のものを「イラン・イスラーム革命」として区別することが多い。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E7%AB%8B%E6%86%B2%E9%9D%A9%E5%91%BD
イラン立憲革命出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



ムスタファ・ケマル・アタテュルク[注釈 1][注釈 2]トルコ語: Mustafa Kemal Atatürk1881年5月19日[注釈 3] - 1938年11月10日)は、オスマン帝国軍の将軍、トルコ共和国元帥、初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。

概要

第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国において、トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導してトルコ共和国を樹立。宗教(イスラム教)と政治を分離しなければトルコ共和国の発展はないと考え、新国家の根幹原理として政教分離世俗主義)を断行。憲法からイスラム教を国教とする条文を削除し、トルコ語表記をアラビア文字からラテンアルファベットへ変更[注釈 4]一夫多妻禁止や女性参政権導入[2]スルタン制廃止などトルコの近代化を推進し、トルコ大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号を贈られた。現代トルコの国父[3](建国の父)とも呼ばれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AF#bodyContent
ムスタファ・ケマル・アタテュルク出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)とは、国家宗教団体の分離の原則をいう[1][2]

また、教会と国家の分離原則(: Separation of Church and State)ともいう[3]。 ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し広義には「君主」や「国家」を指す[4]世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている[5]

国家により、フランスなどに見られる国家による一切の宗教的活動を禁止する厳格な分離(分離型)や[4]、国家が平等に宗教を扱えばよいとする英国などに見られる緩やかな分離(融合型)[6][7][8] などに分かれる。 信教の自由制度的保障として捉えられ[9]、政教分離と信教の自由は不可分である[10]。 本項では信教の自由との関連、各国における政治と宗教、また国家と教会との関係についても扱う。

類型

融合型・分離型・同盟型

国教」、「コンコルダート」、および「政教一致」も参照

歴史的条件の違いを反映して、政教分離は国によって様々な形態をとる[11]。1977年にジャック・ロベール英語版)の試みた類型化によれば、国家と宗教の関係には融合型、分離型、同盟型がある[12][13][14]融合型フランス語: la confusion[13])は国教型ともされ、バチカン市国、イスラム諸国のほか、イギリス、イタリア、北欧諸国も含まれる[12][14]
分離型フランス語: la séparation[13])のフランスやアメリカ合衆国などにおいては、国家と宗教が完全に分離され、教会は私法上の組織にすぎず、国はその運営に関与しない[11][12]。ただし、分離型とされる中でも、宗教に友好的ないし同調的なタイプ、宗教に非友好的ないし中立的なタイプ、宗教に敵対的なタイプ(フランス語: la séparation hostile[13]唯物論に立った旧ソビエト連邦など)の3タイプに分かれる[12][15]井上順孝によれば、ピューリタンの影響を受けて建国されたアメリカ合衆国は友好的なタイプ、19世紀を通じてカトリックの影響力が削がれていったフランスライシテは中立的なタイプに該当する[15]。また井上修一によれば、国教を禁じるアメリカ合衆国憲法は中立的なタイプに該当する一方、フランスの政教分離はカトリックから抵抗を受け、第一次世界大戦後の友好的な時代を経て、今日は同調的なタイプに変わってきた[12]
同盟型(コンコルダート型)においては国家と教会は独立しているが一定の協力的制度関係が存在する[12]。同盟型における国家の教会への関与の例としては、司教の任命、司祭の報酬の決定などが挙げられる[13]。ドイツにおいては、教会は憲法上の地位を持って活動するが、政治と競合する領域ではコンコルダート(政教協約)を結んで解決する[11]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%95%99%E5%88%86%E9%9B%A2%E5%8E%9F%E5%89%87
政教分離原則出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



世俗主義(せぞくしゅぎ、: secularism)とは、ラテン語で「現世的」「世俗的」を意味するサエクラリス: saecularis)に由来する語、および概念である。俗権主義(ぞくけんしゅぎ)とも呼ばれる[1]

概説

世俗主義と称されるものは、以下の3原則を中心としている。政教分離原則(Institutional Separation)


国家政権および政策または政府機関が、特定の宗教権威および権力教権)に支配や干渉されず、それらから独立した世俗権力(俗権)とその原則によって支配されていなければならないという主張や立場。あるいは宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。
対義語は聖職者主義(教権主義、英: clericalism)。信教の自由(freedom of belief)


個人が宗教的規則や宗教教育から自由でいる権利、支配者による宗教の強制からの自由。宗教差別の禁止(No discrimination on the basis of religion)


人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張。宗教差別英語版)の禁止。

世俗主義はマルクス・アウレリウスエピクロスのような古代ギリシャ=ローマ哲学者にルーツを持ち、ドゥニ・ディドロヴォルテールトマス・ジェファーソントマス・ペインのような啓蒙思想家、そしてバートランド・ラッセルロバート・インガーソルアルバート・アインシュタインサム・ハリスのような現代の自由思想家、不可知論者無神論者によって描写されている。

世俗主義を支持する目的は多様である。ヨーロッパでの世俗主義は、宗教的伝統の価値観から離れ、社会が近代化へと向かう運動の一部であった。この種の社会的、哲学的世俗主義は、国家が公式な国教への支援を続けている間に起きた。アメリカ合衆国では、社会レベルでの世俗主義は一般的ではなく、それよりもむしろ宗教を国家の干渉から守るために国家世俗主義が推進されたと主張されている。世俗主義を支持する理由は、一つの国の中でも立場によって異なる。

中近東では、汎アラブ主義シリアナーセル時代のエジプトサッダーム・フセインまでのイラク)は世俗主義と見なされる。また、トルコは、イスラム主義系のAKP政権与党であるが、トルコ共和国憲法に世俗主義が明記されている。

概要

世俗主義という語はイギリスの作家ジョージ・ホリオークによって1846年に最初に使われた。しかしこの概念は歴史を通して存在し、自由思想の基盤を作った。特に宗教と哲学の分離の概念を含む初期の世俗主義はイブン=ルシュドと彼のアウェロス主義学派まで遡る。ホリオークは社会秩序の宗教からの分離という視点を表すために世俗主義の語を作った。ホリオークは不可知論者として、「世俗主義はキリスト教からの独立であって、それへの反対ではない」と述べた。

世俗的な知識とは明白に現実世界に基づく知識で、現実の生活の指針となり、現実の幸福を増すためのものである。そしてそれは現実世界の経験に基づいて検証することができる。「社会と文化の世俗主義研究財団」のバリー・コスミンは実際の世俗主義をハードなものとソフトなものに区別する。コスミンによれば、ハードな世俗主義は宗教を理性的にも経験的にも正当化できず認識論的に誤りだと見なす。ソフトな世俗主義は絶対の真実へ達することは不可能であり、したがって科学と宗教の議論にとって懐疑主義と寛容さはそれらよりも優越した価値を持たなければならないと主張する。

最も顕著な形の世俗主義は、宗教に関し「迷信ドグマ(教義)を強調し、理性科学的探求を軽視し、人類の進歩を阻害するもの」と批判する。

国家世俗主義

政治的には世俗主義とは、通常は政策の宗教からの独立、いわゆる政教分離原則を指す。これは政府と国教の結びつきを分解し、教典に基づく法律を市民法に置き換え、宗教に基づく差別を社会から取り除くことである。宗教的マイノリティの権利を守ることは民主主義の促進に繋がると考えられている。

ヨーロッパでは世俗主義は啓蒙主義時代に大きな役割を果たした。アメリカ合衆国の「教会と国家の分離の原則」やフランスにおけるライシテは世俗主義と結びついている。

世俗国家は中世後期にイスラム世界にも存在した。世俗主義者は政策決定者が宗教的な理由よりも非宗教的な理由で政策を決定することを好む。この点で、例えばアメリカのセンター・フォー・インクワイリーのような世俗主義団体は、人工妊娠中絶同性婚性教育ES細胞研究のような政策決定に関心を寄せる。

ほとんどの主要な宗教は、民主主義社会と世俗主義の優越性を受け入れているが、それでも(例えばコンコルダートロビー活動宗教教育などを通して)政策への影響力を維持しようと努めたり、何らかの(例えば財政的)特権を維持しようと試みている。ほとんどのアメリカのキリスト教徒も国家世俗主義を支持しており、またその概念が聖書の教え(例えば「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に与えよ」)に合致すると認めることができる。

しかし一部のキリスト教原理主義者は、特にアメリカでは、世俗主義に反対する。彼らはしばしば今日採用されているのはラディカルな世俗主義イデオロギーであり、「キリスト教徒の権利」と国家の安全に対する脅威だと見なしている。

現代で最も深刻な宗教原理主義は、キリスト教原理主義とイスラム原理主義である。同時に世俗主義の重要な潮流の一部は、権利の平等が重要であると見なす宗教的マイノリティに由来した。フランス、インド韓国トルコ、アメリカなどは、憲法国教の廃止や世俗主義であることが明記されている「憲法世俗主義」である。

世俗社会

宗教学において、現代の西洋社会は世俗的であると一般に認められている。これはおおむね完全な宗教の自由と、宗教が究極的には政策決定に指示しないという一般的な確信による。それでも、宗教的伝統に基づく道徳観は各国で重要なままである。例えば世俗社会の本質を描写したD.L.マンビーによれば、世俗社会は次のように特徴付けられる。世俗社会は宇宙の性質と人間の役割についていかなるものであれ唯一の視点があるという立場を拒否する。
それは均質的ではなく多元的である。
それは寛容である。
それは個人の意思決定の範囲を拡張する。
あらゆる社会はいくつかの目的を共有するものだが、そのために問題解決の手法とルールの枠組みが構成員の間で共有され、同意されていなければならないことを意味する。世俗社会では可能な限りそれが最小限に抑制される。
現象の調査を通して、問題解決は理性的に図られる。
世俗社会はいかなる全体主義的な目標も設定しない一方で、それは構成員個人の目標を理解する助けとなる。
それはいかなる公的な偶像も持たない社会である。どんなことにでも応用できるような「社会から」是認された一般的な行為はない。
個人と小グループへの深い尊敬
全ての人々の平等。各人は各人の長所を理解し合うために助けあわなければならない。
身分制度や階級制度の破壊。


伝統的な西洋宗教の権威に対する挑戦の結果として生まれた現代社会学は、デュルケーム以来しばしば世俗化された社会における権威の問題や社会学的、歴史的プロセスとしての世俗化に注目した。D.L.マンビー、マックス・ウェーバーカール・ベッカーカール・レーヴィットハンス・ブルーメンベルク、M.H.エイブラムス、ピーター・L・バーガーポール・ベニシューらが20世紀にこの問題の理解について貢献した。

世俗主義はまた宗教と超自然的信念が世界の理解の役に立たず、むしろ自主自立や理性といった現実的な問題から人々を隔離すると主張する。この意味では世俗主義は科学や理性、自然主義思想の推奨と結びついている。また、世俗主義はそれら三つの理念(のどれかひとつでも)を推進する習慣と言うこともできる。そのため世俗主義の主唱者は必ずしも宗教的に中立ではないかも知れない。同時に世俗主義が必ずしも無神論であるというわけではない。社会や政府に対する宗教の影響を認める無神論者がいるかも知れず、同時に信心深い世俗主義者も存在しうる。世俗主義は世俗的ヒューマニズムの必須の概念である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E4%BF%97%E4%B8%BB%E7%BE%A9
世俗主義出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



女性参政権(じょせいさんせいけん)とは、女性が直接または間接的に地方自治体の政治に参加するための諸権利のこと。かつて婦人参政権(ふじんさんせいけん)と呼ばれていた用語を現代的に言い換えた表現である。

概説

欧米

詳細は「フランスにおけるフェミニズム」および「フェミニズム」を参照

18世紀末のフランス革命で、普通選挙が実現したが、参政権が付与されたのは男性のみであった。

欧米社会にあっても、社会参加は男性が行い、女性は男性を支えていればよいとの意識が強かった。

女性参政権は19世紀後半にごく一部で実現したが、欧米において女性参政権が広まったのは20世紀に入ってからであった。

スイスでは1870年代に女性運動が組織化され、1886年には女性の法学者エミリー・ケンピン=スピリの法曹団体への参加が認められなかったことがあったが、1971年には女性参政権(選挙権)が可決された[1]

世界初

世界初の恒常的な女性の参政権は、1869年にアメリカ合衆国ワイオミング州で実現した(ただし選挙権のみ)。

1871年フランスパリ・コミューンで短期間ながら女性参政権が実現された。

被選挙権を含む参政権の実現は、1894年のオーストラリアの南オーストラリア州が世界初である。

現代

女性参政権は20世紀を通してほとんどの国で認められるようになった。ヨーロッパで比較的遅いスイスでは、1971年(連邦レベル)、1991年(全土)であった。

21世紀に入ってからは、ほぼ全ての国で女性参政権が認められるようになり、現在でも女性参政権を認めていない国は、バチカン市国のみである。

イギリスの事例については「en:Women's suffrage in the United Kingdom」を、アメリカの事例については「en:Women's suffrage in the United States」を、オーストラリアの事例については「en:Women's suffrage in Australia」を参照

日本

日本の「婦人参政権運動(婦人運動)」の中では以下の3つを合わせ、「婦選三案」[2][3]あるいは「婦選三権」[疑問点ノート]と呼ばれてきた[誰によって?]。国政参加の権利、衆議院議員の選挙・被選挙権。
地方政治参加の権利、地方議会議員の選挙・被選挙権(公民権)。
政党結社加入の権利(結社権)。


日本における女性参政権獲得までの歴史

新婦人協会の第1回総会(1921年)。平塚らいてう奥むめお市川房枝ら。

1929年3月15日、女性参政権を求める集会「東京市政浄デー」が開かれた。集会に参加する婦選獲得同盟のメンバーたち。

第1回婦選デーのためのポスターを作成する山高しげり市川房枝ら(1932年)

戦後初の総選挙で誕生した女性代議士(1946年)

欧米で女性運動が高まりつつあった1880年代、女性参政権を検討したスイスの法律書は、女性参政権を否定する内容に誤訳され、『国会議員選挙論』として伝わり[4]、大日本帝国憲法においては女性参政権は成立しなかった。

日本で普通選挙が実現したのは、1925年(大正14年)であった。しかし、フランス革命当時の欧米と同じように、男性のみの参政権が明文化された。

日本の婦人運動は、戦争の激化による中断はあるものの明治末年からの歴史を有し、女性の中には政治的権利を希求する意識が醸成されていた[5]

明治の末年から大正デモクラシーの時期にかけて、女性参政権を求める気運が徐々に高まってくる。堺利彦幸徳秋水らの「平民社」による治安警察法改正請願運動を嚆矢として、平塚らいてう青鞜社結成を経て、 平塚と市川房枝奥むめおらによる新婦人協会(1919年)の設立[6]や、 ガントレット恒子久布白落実らによる日本婦人参政権協会(1921年、後に日本基督教婦人参政権協会)が婦人参政権運動(婦人運動)を展開。続いて各団体の大同団結が図られ、婦人参政同盟〔日本婦人協会〕(1923年)〈理事山根キク〉、婦人参政権獲得期成同盟会(1924年、後に婦選獲得同盟と改称)が結成、さらに運動を推進した。

これらの運動は、戦前の日本において、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年)や、女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。

1931年には婦人参政権を条件付で認める法案が衆議院を通過するが、貴族院の反対で廃案に追い込まれた。

1932年1月22日、無産婦人団体を含む4団体で「婦選団体連合委員会」が組織された[7]。同年2月13日、同委員会は全国一斉に第1回婦選デーを開催した[8]

その後、市川は戦争遂行の国策に協力することで女性の政治地位向上を目指し、婦人参政権運動団体は最終的に大日本婦人会へ統合され、市川は大日本言論報国会の理事として活動した。これは戦後に市川の公職追放理由となった。

1945年10月10日幣原内閣で婦人参政権に関する閣議決定が独自になされた。また、終戦後10日目の1945年(昭和20年)8月25日には、市川房枝らによる「戦後対策婦人委員会」が結成され、衆議院議員選挙法の改正や治安警察法廃止等を求めた五項目の決議を、政府及び主要政党に提出。同年11月3日には、婦人参政権獲得を目的とし、「新日本婦人同盟」(会長市川房枝、後に日本婦人有権者同盟と改称)が創立され、婦人参政権運動を再開している。

1945年11月21日には、まず勅令により治安警察法が廃止され、女性の結社権が認められる。次に、同年12月17日の改正衆議院議員選挙法公布により、女性の国政参加が認められる(地方参政権は翌年の1946年9月27日の地方制度改正により実現)。1946年(昭和21年)4月10日の戦後初(かつ帝国議会最後)の衆議院選挙(第22回衆議院議員総選挙)の結果、日本初の女性議員39名が誕生する。そして、同年5月16日召集の第90特別議会での審議を経て、10月7日に大日本帝国憲法の全面改正案が成立し、第14条の「法の下の平等」で女性参政権が明確に保障された日本国憲法が同年11月3日公布、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。しかし、新憲法施行に先立ち4月25日に行われた第23回衆議院議員総選挙では女性当選者は15人に激減し、1976年の第34回衆議院議員総選挙ではさらに6人まで落ち込んだ後、2005年の第44回衆議院議員総選挙で43人が当選するまで22回、59年間にわたって1946年総選挙の39人を超える事はできなかった。なお、参議院では1947年の第1回参議院議員通常選挙で10人の女性議員が登場した[9]

日本初の女性参政権

投票する日本の女性たち

1878年(明治11年)の区会議員選挙で、「戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないというのはおかしい。」と楠瀬喜多高知県に対して抗議した[10]。しかし、県には受け入れてもらえず、楠瀬は内務省に訴えた。そして1880年(明治13年)9月20日、3ヶ月にわたる上町町会の運動の末に県令が折れ、女戸主に限定されていたものの、日本初の女性参政権が認められた。その後、隣の小高坂村でも同様の条項が実現した。

この当時、世界で女性参政権を認められていた地域はアメリカワイオミング準州や英領サウスオーストラリアピトケアン諸島といった極一部で、欧州の殆どの国では実現してはおらず、日本でのこの動きは女性参政権を実現したものとしては世界で数例目となった。しかし、4年後の1884年(明治17年)、日本政府は「区町村会法」を改訂し、規則制定権を区町村会から取り上げたため、町村会議員選挙から女性は排除された。

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女性参政権出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol55/index.html







白色革命(はくしょくかくめい、: White Revolution、: انقلاب سفید‎)は、イランの第2代国王(シャーハンシャーモハンマド・レザー・パフラヴィー(パフラヴィー2世)が、1963年にイランの近代化、西欧化を提唱して発動した広範囲にわたる改革の総称である。白色革命は上(つまり王の命令)からの革命を意味するが、その強引な手法は、旧来の伝統を色濃く残していた当時のイラン社会に大混乱をもたらした。

概要

国王パフラヴィーは、米国民主党ケネディ政権による継続的なイランに対する改革要求により、上からの近代化による経済成長を計画。米国の支援のもと、農地改革を実施して農民の不満解消に努めると共に、工業化、労働者の待遇改善、女性参政権、教育の向上などの西欧化を推進した。また、イラン国内の資本と支持基盤を地方の地主層から中央のブルジョワジーに移し、近代的な産業社会の現出を試みた。

また、国家の西欧化や、イスラームといった宗教よりもアーリア人に起源をもとめる西洋的ナショナリズムを改革の柱とするなど、世俗的な政策を実施する一方、石油歳入にからんだ利益供与や協調組合制度の導入にも尽力、自らの権力を確固たるものにしようとした。それら1974年に起きたオイルショック後の急速な原油価格の値上げで得た収入をこれらの政策に注ぎ込んだ。

しかし、産業基盤の実情を計算に入れず工業化などの近代化政策ばかり先行したため、外国から商品を輸入したはいいが港の荷揚げ設備の不備で船は長い間待機させられた。インフレも急ピッチで進み、庶民を苦しめ失業者が増大し、貧富の格差が増大した。大規模な汚職も横行し、オイルダラーを狙った商社から王室周辺や政府高官へ賄賂攻勢が行われた。文盲率の高かった当時のイランはそもそも近代化の基礎構造を欠いていて、改革の恩恵は一部の市民にとどまった。石油価格の暴騰で政府には金が有り余り、投資ばかりが先行した。こうした状況で国王はイラン軍の整備を進め、米国から大量の兵器を購入する。

そしてオイルショック後の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入ると白色革命は破綻した。それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、政治への不満も高まりを見せ、国王の求心力も急激に低下した。貧富の差が増大し、革命の影響は上流中産階級と下層階級との対立、特にリベラルなテクノクラートと厳格で保守的なシーア派宗教指導者との対立を激化させ、これが後に起こるイラン革命の下地となった。

なお、シーア派の宗教学者でありイラン革命の指導者となるホメイニーは、これら一連の諸改革自体には直接反対しなかったものの、これら諸改革に潜むその国王独裁的な性格を熾烈に非難し、結果逮捕され、国外追放を余儀なくされている。

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白色革命出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



イラン革命(イランかくめい、ペルシア語: انقلاب ۱۳۵۷ ایران‎)は、イランパフラヴィー朝[1]において1978年1月に始まった革命である[6]。亡命中であったルーホッラー・ホメイニーを精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派シーア派)の法学者たちを支柱とするイスラム教勢力が、パフラヴィー朝イランの第2代皇帝モハンマド・レザー・シャーの親欧米専制に反対して、政権を奪取した事件を中心とする政治的・社会的変動を指す。イスラム共和主義革命であると同時に、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。イスラム革命ペルシア語: انقلاب اسلامی‎, ラテン文字転写: enqelâb-e Eslâmi[注 1]英語: islamic revolution)とも呼ばれる。

革命の経過

パフラヴィー朝下のイランは、石油国有化を主張してアメリカ合衆国の干渉政策と皇帝によって、1953年8月にモハンマド・モサッデク首相が失脚したのち、ソビエト連邦の南側に位置するという地政学的理由もあり、西側諸国の国際戦略のもとでアメリカ合衆国の援助を受けるようになり、脱イスラーム化と世俗主義による近代化政策を取り続けてきた。

皇帝(シャー)モハンマド・レザーは、1963年農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」を宣言し、上からの近代改革を推し進めたが、宗教勢力や保守勢力の反発を招き、イラン国民のなかには、政府をアメリカの傀儡政権であると認識するものもいた。パフラヴィー皇帝は、自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧し、近代化革命の名の下、イスラム教勢力を弾圧し排除した。

1978年1月、パフラヴィーによって国外追放を受けたのち、フランスパリ亡命していた反体制派の指導者で、十二イマーム派の有力な法学者の一人であったルーホッラー・ホメイニーを中傷する記事を巡り、イラン国内の十二イマーム派の聖地ゴムで暴動が発生。その暴動の犠牲者を弔う集会が、死者を40日ごとに弔うイスラム教の習慣と相まって、雪だるま式に拡大し、国内各地で反政府デモと暴動が多発する事態となった。

皇帝側は宗教勢力と事態の収拾を図ったが、9月8日に軍がデモ隊に発砲して多数の死者を出した事件をきっかけにデモは激しさを増し、ついに公然と反皇帝・イスラム国家の樹立が叫ばれるようになった。11月、行き詰まった皇帝は、国軍参謀長のアズハーリーを首相に起用し、軍人内閣を樹立させて事態の沈静化を図ったが、宗教勢力や反体制勢力の一層の反発を招くなど事態の悪化を止めることができず、反皇帝政党である国民戦線のバフティヤールを首相に立てて、翌1979年1月16日、国外に退去した。

バフティヤールはホメイニーと接触するなど、各方面の妥協による事態の沈静化を図ったが、ホメイニーはじめ国民戦線内外の反体制側勢力の反発を受けた。2月1日、ホメイニーの帰国により革命熱がさらに高まり、2月11日、バフティヤールは辞任、反体制勢力が政権を掌握するに至った。

4月1日、イランは国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制の構築を掲げた。

革命の特徴

冷戦下の1970年代当時、アメリカ合衆国ソビエト連邦の覇権争いと、その勢力圏下の国家や民間組織による代理戦争や軍事・政治・経済的な紛争が世界的に発生・継続していた。しかしこの革命は反米・反キリスト教を掲げながらもソ連には依存せず中立の姿勢を堅持し(しかし反米的な外国政府や団体からの支援は受けている)、米ソのどちらの勢力にも加わらなかった。

また、伝統的宗教であるイスラム教を原動力にしているのも特徴である。革命の成功後、日本ではそれが政治的な変革にすぎず、宗教的、文化的なものではないという議論が支配的だったが、次第に新たな運動のタイプであると認識されるようになった[7]

革命の国外に対する影響

イスラム共和国体制は、アメリカ合衆国連邦政府が背後から支援して樹立したパフラヴィー朝を打倒したので、アメリカ合衆国から敵視された。

1979年11月には、イランアメリカ大使館人質事件が起こり、アメリカは1980年4月にイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動した。またパフラヴィー朝が西側諸国に発注していた兵器の開発・購入計画が全てキャンセルされた事で、イギリスのシール(チャレンジャー1戦車やアメリカのキッド級ミサイル駆逐艦など、多くの西側諸国の兵器開発に影響を及ぼす事になった。一方で、イスラエルはキャンセルされたF-16戦闘機を代わりに購入する事で、イラク原子炉への爆撃(バビロン作戦)が遂行可能になった。

一方、サウジアラビアなどの周辺のアラブ諸国にとって、十二イマーム派を掲げるイランにおける革命の成功は、十二イマーム派の革命思想が国内の十二イマーム派信徒に影響力を及ぼしたり、反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内のムスリム(イスラム教徒)全体に波及することに対する怖れを抱かせることになった。

また、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻は、ソ連がイスラム革命のアフガニスタンへの波及を防ぎたいと考えたのも要因とされている。

1980年9月22日、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、かつ国内に多数の十二イマーム派信徒を抱えてイラン革命の影響波及を嫌った隣国イラクがイランに侵攻、イラン・イラク戦争が勃発した。イランの猛烈な反撃によりイラクが崩壊し、産油地域が脅かされたり、アメリカはもちろんヨーロッパ諸国やソ連、中華人民共和国などはイラクを積極支援し、外交的にも完全に孤立したイランはイラクへの降伏を検討しなければならなくなるほど追い詰められた。この戦争は8年間の長きにわたり、イランの革命政権に対して国内政治・国内経済に対する重大な影響を及ぼした。

革命後の国内

革命後、人々は国王という共通の敵を失い、政治集団内では新体制を巡り激しい権力闘争に突入した[8]。最終的にホメイニーを頂点とするイスラーム法学者が統治する体制が固まり、そこではイスラム法が施行されるイスラーム的社会が目指されることになった[9]

しかし、イランにはイスラームの他にも少数ではあるが複数の宗教が存在している。このような宗教少数派の一部、すなわちキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒は、公認の宗教少数派としてイラン・イスラーム共和国憲法第1章第13条で認められている[10]。彼らが運営する私立小学校では、教育省が作成した宗教少数派用の教科書に従って宗教教育を実施することが義務付けられている[11]

イランのロウハーニー大統領によれば、イランには二級市民は存在せず、いずれの宗教に属していても憲法のもと平等な市民権を有しているという[12]

しかし、憲法においてはイスラム教徒に加えてゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒に対し宗教儀礼の自由が認められており、非シーア派のムスリムに対して“完全な敬意”を払わなければならないと定められている(第12条)ものの、これらの4宗教から外れる宗教の信者は、教育権や参政権などの基本的人権も保障されておらず、とりわけ無神論者やバハイ教徒[13]、国内における生活自体が認められていない。

バハイ教徒であったモナ・マフムードニジャードは、バハイ教徒として改宗を拒み、また子供たちに対してバハイ教について教えた罪により、1983年に処刑された。

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イラン革命出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目では、1978年にイランで起こった革命について説明しています。1906年〜1911年にかけての政治運動については「イラン立憲革命」をご覧ください。



ヒジャブは、アラビア語で「覆うもの」を意味するアラビア語由来の名詞 حِجَابٌ(転写:ḥijāb, ヒジャーブ英語: Hijab)の日本における一般的なカタカナ表記である。

ヒジャブはイスラム教を信じている女性(ムスリマ)、非ムスリマを含めた着用を法的に義務付けているイスラーム教国内の女性が、や身体を覆う布を指して使われることが多い。

元となったアラビア語での発音ではヒジャーブペルシア語では元のアラビア語の母音iがeに置き換わったヘジャーブと発音されるが、日本では長母音部分を抜いてヒジャブ、ヘジャブとカタカナ表記することが多い。

語義

حِجَابٌ(転写:ḥijāb, ヒジャーブ)は、アラビア語の動詞 حَجَبَ(ḥajaba, ハジャバ, 「覆う、覆い隠す;隠す、(視界などから)さえぎる」の意[1][2][3])の動名詞で覆い、カバー
カーテン
遮蔽物、仕切り、衝立、パーティション
(女性の頭を覆い隠す)ヴェール、ヘッドスカーフ


といった意味を持つ[4][5][6]

概要

形状は地域によって様々である。

イランのヘジャブを例にすると、チャードルと呼ばれる大きな半円形の布で全身を覆うタイプと、ルーサリーと総称されるスカーフは頭巾型のメグナエといった簡易なタイプの、大きく分けて二つの種類が存在する。

イスラーム法とヒジャブ

ミーラージュの伝説に含まれているハディースによれば、ムハンマドはブラクとガブリエルと一緒に地獄を訪れ、見知らぬ人に髪を見せたことで「恥知らずな女性」が永遠に罰せられるのを見る。イランのミニアチュール(15世紀)。

イスラームでは女子の服装に関してシャリーア(イスラーム法)で規定される。その根拠となる法源には以下の様なものがある[7]クルアーンの第24章31節には「また女の信仰者たちに言え、彼女らの目を伏せ、陰部を守るようにと。また、彼女らの装飾[注釈 1]は外に現れたもの以外、表に表してはならない」とある[8]。他に33章でも女子の服装に言及している。
クルアーンの第24章30節は「男の信者たちに言ってやるがいい。(自分の係累以外の婦人に対しては)かれらの目を伏せ、貞節を守れ。それはかれらのために一段と清廉である。アッラーはかれらの行うことを熟知なされる。」とあるように男性信者にも「目を伏せて婦人をじろじろ見るな」と教えている。従って第24章30-31節は女性の隔離でなく、異性に対する道徳的行儀作法を教えている。
ハディース預言者ムハンマドの言行録)では「成人に達した女性は、ここを除きどの部分も見られてはならない、と言って預言者は顔と手を示された」など、服装への言及がある。


イスラム法学では、法源を基にウラマー(イスラーム法学者)が解釈を行う。ヒジャブ着用が義務になるかどうかは時代や社会環境により一定ではない。最も一般的な解釈では、「女性が婚姻関係にない男性からの陵辱から身を守るために、ヒジャブは必要である」とされる[7]

社会

ヒジャブを着用したバレーボールイラン女子代表の選手たち

ヒジャブを着用したマレーシア空軍の女性兵士(右)

イスラム教国内の未着用や髪だし度合いへの罰則規定の厳格さは時の政権によって変化し、イスラム穏健派政権の際にはインターネットで欧米の価値観を知る若い女性たちが着用しないことも罰されずに放任されていた。逆に、政権交代後は前髪を出していたことで逮捕された女性が暴行死する事件が起きている[9][10][11]。女性を通じて社会全体を支配している非世俗的イスラム教国にとっては、ヒジャブの強制を辞めることは、体制崩壊に繋がるアキレス腱となっている[12]

ヒジャブに対する対応はイスラーム教諸国や、イスラム圏以外でムスリムが暮らす地域によって様々である。イスラームの地方的慣習法(ウルフ)により、人目を引く派手な色や模様のヒジャブは同じ国の中でも地域によって非難の対象となる場合と、ならない場合がある[7]

後者の例では、アメリカ合衆国のように、素材や色彩、デザインの面でファッション性を高めたヒジャブが販売されている地域もある[13]

イスラーム教が主な宗教となっている中東を始めとする諸国では、女性の一般的な服装である。ムスリムが多数を占める国でも、トルコチュニジアなど世俗主義政教分離を掲げる国では公の場所での着用が禁止されていたが、両国ともに近年規制が緩和されつつあり、ヒジャブを付ける女性も珍しくはなくなっている。

イスラームを国教としていたり戒律に厳格な信徒が主流派の政権下では、婚姻、血縁関係のない男性がいる場での着用を法律で義務化している場合もある。イランでは西欧的近代化を目指すパフラヴィー朝が1936年に禁止したが、着用を望む女性の反発を受け1941年に禁令を撤廃した。パフラヴィー朝を打倒したイラン革命で成立したイラン・イスラム共和国は罰則や風紀警察による取り締まりにより義務化したが、浅くかぶって前髪を見せたり、人前で脱いだりする女性も一部で現れている[14]

イラン・イスラム革命後のイランでは7歳以上の少女はヒジャブが強制されており、髪を隠さない少女・女性と学校へ行くことも禁止されており、むちで打たれたり、刑務所に入れられ、人によっては殺される。アメリカに亡命したイラン人ジャーナリストで反体制人権活動家のマシー・アリーネジャードMasih Alinejad)は、イラン訪問時にセゴレーヌ・ロワイヤル(フランスの大臣)や、イタリアのフェデリカ・モゲリーニ(欧州連合(の外交安全保障上級代表(EU外相))氏ら欧米の女性政治家が、イラン政府に言われるままヒジャブを着用したことを糾弾している[15]

サウジアラビアについては近年、着用は任意であるとする王室の見解が出るなどしており、ヒジャーブを着用しない女性や髪を多く出して着用する女性が増え、急速な開放政策の影響が見られる。

一方、フランスでは1905年に制定されたライシテ(政教分離)法に基づいて2004年に公立学校における「これみよがし」な宗教的標章等の着用を禁止する法律[16]が制定されたため、ヒジャブもその対象とされ、内外のイスラム教徒から反発を受けている。

世界第3位のイスラム教徒の人口を抱えるインドでは、ヒジャーブそのものが「女性抑圧の象徴」だとしてカルナタカ州で、公立学校での女子生徒のヒジャーブ着用を禁じる通達が出されている。

また、スポーツの試合中における着用についても、国際競技連盟によって認める場合と一切認めない場合に分かれる[17][18]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%96



【10月15日 AFP】イスラム教徒の女性が髪を隠すスカーフ「ヒジャブ」は、イラン政府にとって抑圧の道具になるかもしれないがアキレス腱(けん)にもなり、「ベルリンの壁(Berlin Wall)」崩壊のような事態につながるのを政府は阻止しようと努めている──米ニューヨークを拠点に活動するイラン人ジャーナリストで人権活動家のマシー・アリネジャド(Masih Alinejad)氏(45)はAFPにこう語った。

 2009年にイランを離れたアリネジャド氏が知られるようになったのは2014年。イラン人女性にヒジャブ着用義務への抗議を呼び掛ける運動「mystealthyfreedom.org」をソーシャルメディアで立ち上げてからだ。

 イランでは先月ヒジャブの着用をめぐり「道徳警察」に逮捕されたマフサ・アミニ(Mahsa Amini)さん(22)が拘束下で死亡。この出来事に抗議するデモが全土で続いている。ツイッター(Twitter)で50万人、インスタグラム(Instagram)で800万人のフォロワーを持つアリネジャド氏は、亡命先の米国で毎日、抗議に連帯する投稿をしている。

「私から見て、ヒジャブ着用の強制はベルリンの壁のようなものです。この壁を壊せば、(イラン・)イスラム共和国は存在しなくなる」とアリネジャド氏はAFPに語った。「ヒジャブの強制は(イラン・)イスラム共和国にとってアキレス腱。だからこそ政権はこの革命を本当に恐れています」

 ヒジャブは「私たちを抑圧し(中略)女性を支配するための道具」であり、「女性を通じて社会全体を支配するためのものです」。

 イラン人女性が「服装を指図する人側にノーと言う」ことができるようになれば、独裁者にノーと言う力を持つようになるとアリネジャド氏は主張する。

 また、政府のイデオロギーを示すための政治的プラットフォームとして女性の体が使われていることに、若者は抗議しているとも指摘した。
アリネジャド氏は、フランスで大臣を務めたセゴレーヌ・ロワイヤル(Segolene Royal)氏や、欧州連合(EU)の外交安全保障上級代表(EU外相)だったイタリアのフェデリカ・モゲリーニ(Federica Mogherini)氏ら欧米の女性政治家が、イランを訪れた際にヒジャブを着用したことを痛烈に批判している。

「ヒジャブは、世界中のすべての女性が自分の着たいものを選べるようになって初めて選択肢となり得るのです」

「イランでは7歳の時から、この髪を隠さなければ学校へ行けません。むちで打たれ、刑務所に入れられ、殺されるのです」と、ヒジャブの強制についてアリネジャド氏は、全てのイラン人女性にとっての問題だと語った。(c)AFP/Andréa BAMBINO

https://www.afpbb.com/articles/-/3428166
イラン抗議デモは「ベルリンの壁」に匹敵 米在住女性活動家

2022年10月15日 10:00 発信地:ニューヨーク/米国 [ 米国 北米 イラン 中東・北アフリカ ]




ムタワアラビア語: مطوعين‎)は、イスラム教において悪徳とされる行為を禁止し、徳のある行いを推奨すること(勧善懲悪)を目的としたイスラム価値観における倫理道徳的な立場から一般人に教育的指導を行う組織である。欧米では宗教警察であると解釈されている。

概要

ムタワと呼ばれる組織はサウジアラビアイランイラクアフガニスタンパキスタンエジプトイエメンナイジェリア北部、マレーシアなどのイスラム教圏の国に存在している。国によって組織の規模も社会的な扱いも異なり、国家機関から宗教法人の一部門、民間団体までさまざまである。元々はイスラムの教えに従った生活指導を行うボランティア組織的なものであり、文明の進歩とともに新しく現れたものや社会の変化がイスラムの教えに対してどのように解釈されるのかについての倫理判断を行う組織でもあった。しかし、近代になって西洋文化がイスラム教圏に流入するようになると激しい拒絶反応を起こし、西洋文明の排除を目的として活動する組織が多くなった。特にアフガニスタンなどでは処刑から破壊活動まで行うほどに過激化した。このため、他国だけでなく自国内からすらも人権侵害組織として批判されるようになった。

サウジアラビア

サウジアラビアにおいては、勧善懲悪委員会と呼ばれており、社会的に極めて強い影響力を有している。司法警察権や裁判権は持っていないが、活動には警察官が同伴し、委員の依頼で警察が逮捕を行い、委員会の告発によって刑事裁判が行われるなど、実質的に司法警察権と裁判権を持っているかのような活動をしている。1990年代以前は生活指導を行うボランティア組織的なものでしかなかったが、近代になって西洋文化が流入するようになると極端な拒絶反応を示し、厳しく取り締まるようになった。海外からは人権侵害組織として批判されており、国内でも不満の声が強まったことから近年は権限の縮小が進められている。

詳細は「勧善懲悪委員会」を参照

アフガニスタン

タリバン政権時代に活発に活動していたが、アフガニスタン侵攻で一時期廃止されていた。しかし、2003年に再編され、現在も活動している。

詳細は「勧善懲悪省」を参照

イラン

道徳警察」も参照

イスラム革命後に再編成され、イスラムに反するものへの弾圧組織となっている。

インドネシア

近年になってイスラム法に基づく条例が増えるにつれ、公務員としてのムタワの職員が増員され、取締りが厳しくなってきている。誤認逮捕や冤罪などが問題になっている。日本のニュースでは道徳警察と紹介されていた。

マレーシア

マレーシアでは人権侵害が問題視されるほどの活動はなく、倫理委員会としてムスリムに模範的な指針を示す組織として活動している。

イギリスシャーリア・ポリス (Sharia patrols) を名乗るイスラム団体が存在している

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%BF%E3%83%AF
ムタワ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







昨年9月の「ヒジャブ不審死」を機にイラン全土に広がった抗議デモが6ヵ月目に入り、女子生徒を狙った「毒ガステロ」が相次いでいる。女子校の閉鎖を求めるイスラム原理主義者たちがテロの背後にいるという疑惑も強まっている。



英BBCなどによると、先月28日、首都テヘラン近郊のパルディスのハイヤム女子校で、呼吸困難、めまい、嘔吐の症状を訴える女子生徒37人が病院に搬送された。有毒ガスの被害と推定され、中毒症状が現れる直前に腐った魚の臭いがしたという。



女子生徒を狙った毒ガステロは、昨年11月30日、イスラム教シーア派の聖地であるゴムで最初に起こった。ここには保守的な聖職者が多く居住しており、現在までに少なくとも3校の女子校でテロが発生したという。被害生徒は病院治療後も数日間、めまいや手足の麻痺の症状があったという。一部の生徒と保護者は恐怖に震え、オンラインでの授業を要求している。現地メディアは、昨年11月以降3ヵ月間、イラン内の少なくとも15都市30校が攻撃を受け、700人以上の生徒が被害を受けたという。



イラン政府は当初、「暖房機器の使用による現象」と疑惑を一蹴した。しかし、ガステロが複数の都市に広がると、司法当局は意図的な攻撃の可能性を認め、捜査に着手した。ユネス・パナヒ保健・医療教育副大臣は先月26日、テロの背後について、「一部の勢力が全国の学校、特に女子校を閉鎖しようとしていることが確認された」と明らかにした。



過去にもイランでは女性を対象にしたテロはあったが、今回のように女性の教育権を狙った攻撃はなかったと、AP通信は伝えた。1979年のイスラム革命でヒジャブ着用義務化法案が成立した後も、女性の教育権を否定する動きはなかった。



今回のガステロがヒジャブ不審死で引き起こされた反政府デモに対する報復という主張もある。イスラム原理主義勢力が密かに反撃に出たということだ。イラン人権センター(CHRI)のハディ・ガエミ事務局長はAP通信のインタビューで、「社会全般に広がった原理主義思考が表面化した」と懸念を示した。





キム・スヒョン記者 newsoo@donga.com

https://www.donga.com/jp/List/article/all/20230302/3994600/
イランの女子校30校で毒ガス被害

Posted March. 02, 2023 08:21,

Updated March. 02, 2023 08:21



【2月27日 AFP】イランのユネス・パナヒ(Younes Panahi)保健・医療教育副大臣は26日、テヘラン南方の聖都コム(Qom)で女子生徒が「何者か」に毒を盛られる事件が起きたとして、女子教育の停止が目的とみられるとの考えを示した。国営イラン通信(IRNA)が報じた。

 昨年11月以降、コムで、呼吸器の異常を訴える女子生徒が多数報告されている。一部は病院での手当てを必要とした。

 パナヒ氏は、故意による行為と示唆。「コムの複数の学校で生徒たちが中毒症状を訴え、学校、特に女子校の閉鎖を求める声が上がっている」と、IRNAに述べているが、それ以上の詳細は明らかにしていない。

 これまでに逮捕者は出ていない。

 IRNAによると今月14日には、中毒症状を訴えた生徒の保護者たちが市庁舎前に集まり、当局からの説明を求めた。

 イランでは、服装規定違反の疑いで逮捕されたクルド系のマフサ・アミニ(Mahsa Amini)さん(22)が道徳警察の拘束下で死亡した問題をきっかけに抗議運動が続いている。(c)AFP

https://www.afpbb.com/articles/-/3453020イラン聖地で女子生徒に毒物 「教育停止目的」か

2023年2月27日 15:36 発信地:テヘラン/イラン [ イラン 中東・北アフリカ ]



マフサ・アミニの死(マフサ・アミニのし)は、イラン・イスラム共和国の首都テヘランにおいて2022年9月13日ヘジャブの着け方を理由に道徳警察(風紀警察)に拘束されたイラン国籍のクルド人女性[2]マフサ・アミニマサ・アミニ[1]、Mahsa Amini、22歳[1])が、3日後の16日に死亡した事件である。彼女の死はイラン各地での大規模な抗議デモとその弾圧に発展した。

経緯

2022年9月13日[3][4]、アミニはイランの首都テヘランの駅で、風紀警察に逮捕された[5]。その理由は、ヒジャブの着用方法が不適切だったことと[6][7]、タイトなズボンを着用していたことであった[5][8]

アミニはバンに乗せられ、警察署に連行された[5]。連行後、アミニは意識を失い、カスラ病院に救急車で搬送された[5][9]。そして16日、死亡が確認された[4][9]。同じく逮捕されバンに乗せられていた女性は、アミニがバンの中で暴行を受けていたとアミニの父親に証言している[5]。暴行疑惑が浮上する中[10]、16日にイランの大統領エブラヒム・ライシが、内務省に対しその調査を指示した[9]

警察当局はマフサの死因について心臓発作が原因であると主張しているが[7]、アミニの家族は、これまでに健康上の問題はなく、健康的な22歳であったと説明しており、イラン政府による彼女は健康上の問題を有していたという主張とは対立している[5][11]

マフサ・アミニについて

マフサ・アミニは、1999年9月21日に[12][13]、イラン北西部コルデスターン州サッゲズクルド人家族のもとに生まれた[14]。マフサ(Mahsa)は彼女の正式なペルシャ語の名前であったが、クルド語の名前はジナ(Jina、Zhina)であり、彼女が家族によく知られた名前であった[15][16]。弟が1人いた[11]。父親は政府組織の職員で、母親は主婦である[17]。アミニはサッゲズのTaleghani Girls' High Schoolに通学し、2018年に卒業している。死亡した当時、アミニは大学入学を認められたばかりで、弁護士になることを切望していた[18][19]

アミニの死後、コマラ英語版)に所属する左翼政治活動家で、イラクのクルディスタン英語版)で亡命生活を送っているペシュメルガの戦闘員であるいとこが、アミニの家族としては初めてメディアに対して話をした[20][21]。彼は、アミニは何らかの政治活動に関わっているというイラン政府による主張が誤っていると暴露した[20]。アミニは政治を避け、ティーンエイジャーとして政治的な活動はしたことがなく、活動家ではなかった。アミニの家族によると、アミニはサッゲズに住む「恥ずかしがり屋で、内気[22]」な人物だったと描写されている[17]

抗議運動

詳細は「2022年イラン抗議デモ英語版)」および「2022年イラン抗議デモのタイムライン英語版)」を参照

イラン国内での抗議行動

イラン国内

抗議デモ

アミニの死は、イラン全土での大規模な反政府デモに発展した[5][23]。デモ参加者の多くが女性であるという[23]

デモでは、「女性、命、自由」というスローガン[24]や以下のようなシュプレヒコールが見られた[23]。「ムッラーは消えろ」
「イスラム共和国なんかいらない」
最高指導者に死を」


この他、同年10月8日には、国営テレビがハッキングされ、最高指導者ハメネイ師が炎に包まれた映像が流れる事態も発生した[6]アメリカ合衆国の日刊紙『ニューヨーク・タイムズ』は「デモ隊はイスラム共和国の終焉を訴え」ているとも報じた[23]。またロイター通信はこの抗議デモが、最高指導部にとって「イスラム共和国樹立以降で最大とも言える試練」と評した[25]

弾圧

抗議デモが拡大する一方、政府当局による弾圧も激しさを増し[26]、デモ隊への発砲・銃撃も確認されている[10][27]。一連の抗議デモの犠牲者は、子供も含め200人を超えると報じられている[27][28]。また、多数の市民が政治犯として拘束されている状態で、拘束されている人物のリストも作成されている[29]

2022年12月8日には、イスラム革命防衛隊傘下の民兵組織「バスィージ」隊員を刃物で負傷させるなどしたとして、今回の抗議運動参加者では初の死刑が執行された[30]。治安部隊員殺害の科で死刑が執行されたのは20~30歳代の男性4人で、取り締まり側を含めた抗議運動に伴う死者数は、イラン当局による2022年末の発表でも200人以上[31]。イランの人権活動家通信によると、2022年時点で犠牲者数は約470人、拘束者数は約1万8000人に達し、12月5日から3日間のゼネラルストライキ(ゼネスト)も呼びかけられた[32]

女子生徒への毒ガステロ

2022年11月から、女子生徒を狙った「毒ガステロ」が相次いでいる[33][34]。2023年2月までの3か月間で、イラン国内の少なくとも15都市30校が攻撃を受け、700人以上の生徒が被害を受けたという。これは反政府デモに対するイスラム原理主義勢力による報復であるとされ、その目的は女子教育を停止することであるとみられている。

抗議と弾圧の継続

2023年春時点では、デモなどには訴えないものの、テヘランなど大都市圏では女性がヒジャブを着けない「静かな抗議」が続いている[31]。取り締まりを担う風紀警察は街頭で見かけなくなり、廃止されたとの報道もあった[31]が、同年9月には復活が報じられた[35]

ナルゲス・モハンマーディ

イランの女性人権活動家ナルゲス・モハンマーディは投獄の身で抗議運動に連帯し、マフサ・アミニの命日である2023年9月16日には、刑務所内でヘジャブに火をつけた[36]。獄中から密かに持ち出されたナルゲスのメッセージによると、2023年のノーベル平和賞が彼女に授与されることが刑務所内で伝わると、「女性、命、自由」がスローガンが女子房に響いたという[24]

イラン国外の反応

抗議行動は、ドイツ、アメリカ合衆国の首都ワシントンロサンゼルスでも行われている[37]。ドイツのデモには、8万人が参加したという[37]。日本の東京都では、同年10月9日、外務省前にて在日イラン人らが抗議デモを行い、日本政府に対してイランへの圧力を求めた[6]。9月27日にオーストリアで開催されたイラン代表セネガル代表のサッカー親善試合では、イラン代表選手全員が国歌斉唱の際に、イランの国旗がデザインされたユニフォームを隠すように黒い上着を着用した[38]。同チームのエースであるサルダル・アズムンは試合前の25日、インスタグラムに「イラン女性の髪の毛1本のために犠牲になってもいい。イラン女性万歳」と投稿した[38]。また、11月6日にアラブ首長国連邦ドバイで行われたインターコンチネンタル・ビーチサッカーカップで、男子イラン代表の選手が政府に対する抗議デモへの連帯とされるジェスチャーを示した[39]

マフサ・アミニが描かれたボーイング787型機(機体記号:P4-787)

パイロットで俳優・映画監督のエンリケ・ピニェイロ英語版)は、自身が保有し、難民の避難など人道的な活動に利用しているボーイング787型機に特別塗装を施した。垂直尾翼の左側にはマフサ・アミニ、右側には、アミル・ナスルアザダニ英語版)を大きく描き、胴体には "NO WOMAN SHOULD BE FORCED TO COVER HER HEAD" "NO WOMAN SHOULD BE KILLED FOR NOT COVERING HER HEAD" "NO MAN SHOULD BE HANGED FOR SAYING THIS"との標語を描いている[40]

EUや各国政府による措置欧州連合(EU):女性の死と抗議デモの弾圧を受けて、風紀警察とその幹部、イッサ・ザレプール情報通信技術相らに制裁を科した[41]
アメリカ合衆国:バヒディ内相やザレプールらがデモ弾圧を主導したとして高官7人を制裁対象に加えた[25]
カナダ:「女性を組織的に迫害している」として風紀警察等に制裁を科した[42]
イギリス:風紀警察、イラン革命防衛隊幹部への制裁を科した。外相のジェームズ・クレバリーは「女性を抑圧し、国民に激しい暴力を加えたことについて責任を追及する」と述べた[43]


イランによるイラク北部クルディスタン地域への攻撃イラン国内でデモが始まった直後の2022年9月24日以降、イラン革命防衛隊は在外クルド人武装勢力が扇動しているとして、イラク北部のクルディスタン地域弾道ミサイル自爆ドローンで攻撃し、イラク外務省から抗議を受けた[44][45]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%95%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%81%AE%E6%AD%BB
マフサ・アミニの死出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





男子のみがそれ(教育)に携わって、女性が知識の探求ということから、まったく除外されて差支えないという理由が、どこにあるのだろうか。……彼らは男性と同様の、鋭敏なる精神と知識に対する能力とを与えられているのである。(否しばしば、男性よりもすぐれた能力に恵まれているのである。) — コメニウス『大教授学』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%AD%90%E6%95%99%E8%82%B2
女子教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』






シーリーン・エバーディー(شيرين عبادي Shīrīn Ebādī、シリン・エバディ、1947年6月21日 - )は、イラン弁護士で、人権活動家、民主運動家。2003年10月10日に、ノーベル平和賞を授与されており、ノーベル賞を受賞する最初のイラン人で、最初の女性イスラム教徒(ムスリマ)である。

来歴・人物

左からエバーディー、ロベルタ・メツォラ欧州議会議長、宇宙飛行士のサマンサ・クリストフォレッティ(2023年3月)

ハマダーン出身。テヘラン大学法学を学ぶ。1975年にイラン初の女性裁判官となり、テヘランの裁判所に勤務するが、1979年イラン革命により失職。のちに弁護士として法曹界に復帰した。

イスラム法学者が指導するイスラム共和国体制下で、イスラム法(シャリーア)の厳格な施行のもとで女性や子供の地位が制限されていることを訴え、現代の人権思想に適合した法改正を訴えて活動。欧米の短絡的なイスラム観にも批判的な立場を取っている。反体制運動家や改革運動家の弁護を進んで引き受けたために保守派に警戒され、数度の逮捕と投獄を経験した。2001年にはテヘランにイランの国内人権機関である人権擁護者センター(DHRC)を創設しその代表者となった。副代表は2023年にノーベル平和賞を受賞したナルゲス・モハンマーディが務めている。

2009年11月に、貸金庫に保管されていた2003年のノーベル平和賞のメダルおよび賞状がイラン当局によって押収された。イラン大統領選再投票を求める反政府デモを政府が弾圧したことを批判したことによる圧力と見られている。また平和賞の賞金130万ドル(約1億1000万円)に対し、約1/3の41万ドルを税金として支払うことも要求していたといわれ、代表を務める人権団体事務所もイラン警察当局によって封鎖されている。なお、ノーベル賞が国家によって押収された初めての事例となる[2]

テヘランに住み、弁護士として活動する一方、母校テヘラン大学で教鞭をとり、法学を講じていたが、2009年6月以降は、反体制派への弾圧が激しくなったこともありイギリスに亡命している

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC
シーリーン・エバーディー出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



【ロンドン=松井学】ノルウェー政府は二十六日、二〇〇三年にノーベル平和賞を受賞したイランの女性人権派弁護士シリン・エバディさん(62)のメダルと賞状が、イラン当局によって押収されたことを明らかにした。AP通信が伝えた。

 ノルウェーのストーレ外相は「ノーベル平和賞が国家によって押収されたのは初めて。われわれに衝撃と不信をもたらした」とする声明を発表した。欧米諸国が核開発問題に続き、人権問題でもイラン政府への非難を強めるのは必至だ。

 エバディさんは、六月のイラン大統領選の再投票を訴え、当局が反政府デモを弾圧したことを批判していた。押収は当局が政治的な圧力をかけるために行った可能性がある。

 平和賞のメダルや賞状はイラン国内の貸金庫から約三週間前に押収された。イラン当局は平和賞の賞金百三十万ドル(約一億一千万円)に対し、約三分の一の四十一万ドルを税金として支払うことも要求していたという。昨年十二月にはエバディさんが代表を務める人権団体の事務所が、イランの警察当局によって封鎖されている。

 エバディさんは女性と子供の人権擁護活動を続けたことなどが評価され、イスラム教徒の女性として初めてノーベル平和賞を受賞した。欧米の短絡的なイスラム観にも批判的な立場を取っている。

https://web.archive.org/web/20091130170937/http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2009112702000223.html


2.女性差別撤廃条約との抵触点
以上述べたイスラムの慣習については女性差別撤廃条約のレポート審議で女性差別として問題とな
ったものが多くある。前述のとおり、イスラムにおける女性の人権観については各国対応が分かれて
おり、一様ではない。それでも概して、イスラムでは結婚や家族に関する権利の考え方が西欧諸国と
はかなり異なっている。よって西欧諸国主導で作成された女性差別撤廃条約の条文とイスラムの価値
観の抵触が生まれるのである。本節では前節であげたイスラム法的慣習の女性差別撤廃条約との抵触
点を指摘する。
まず、一夫多妻制は、第16条1項(a)「婚姻をする同一の権利」に抵触する。
親が子の意思に関係なく結婚相手を決める幼児婚は、第16条1項(b)「自由に配偶者を選択し及
び自由かつ完全な合意のみにより婚姻をする同一の権利」、第16条2項「児童の婚約及び婚姻は、法
的効果を有しないものとし、また、婚姻最低年齢を定め公の登録所への婚姻の登録を義務付けるため
のすべての必要な措置がとられなければならない」と対立する。
男性からの離婚が容易である点は、第16条1項(c)「婚姻中および婚姻の解消の際の同一の権利
及び責任」に触れる。
子の監護が父親に有利な点は、第16条1項(d)「子に関する事項についての親(婚姻をしているか
していないかを問わない。)としての同一の権利及び責任」、同項(f)「子の後見及び養子縁組又は国内
法令にこれらに類する制度が存在する場合にはその制度に関る同一の権利及び責任」に抵触する。
女性への暴力については、女性差別撤廃条約に直接の言及はない。しかし、第12条1項「保健の分
野における女子に対するあらゆる差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとる」などとの関係に
より、割礼のように女子の健康に有害となる伝統的慣習を根絶するための「一般的勧告第14」が、1990
年第9会期において採択された。また、夫による暴力や名誉の殺人など、女性に対する暴力全般につ
いては、1987年に「一般的勧告第12」が、1992年に「一般的勧告第19」が採択された。これにより、
女性に対する暴力も、女性差別撤廃条約で禁止されているとの解釈がなされたのである。また、委員
会は、締約国に、あらゆる性に基づく暴力を撤廃するために適切かつ実効的な措置をとることを勧告
している。この一般的勧告は、委員会による条約解釈の意味を持ち、各国のレポート審議やコメント
に当たっての解釈原理となる。
このように、特に婚姻・家族関係における差別撤廃を定める第16条に、多くのイスラム法及びイス
ラム法的慣習が抵触していることがわかる。そしてこの16条こそ、女性差別撤廃条約が最重要視する
条項なのである。次章では、この抵触をめぐるイスラム諸国と西欧との対立の様子を、主に女性差別
撤廃委員会の討議からみることにしたい。



Ⅱ.女性差別撤廃条約におけるイスラムとの衝突



本章では、イスラム法と国際法との女性の人権に関する見解の相違とそれに伴う衝突の様子を女性
差別撤廃条約に関する議論を事例に検討する。女性差別撤廃条約は前述の通り1979年12月18日、第
34回国連総会で採択された。この条約の中心理念は、固定化された男女の役割分担観念の変革にあり、
政治参加、国籍、教育、雇用、保健、経済活動、農村女性、家族関係、刑罰規定、売春といった、ま
さに「あらゆる形態」の女性差別の撤廃を締約国に義務付けている。積極的な女性運動の後押しもあ
り、採択以後締約国数は増え続け、2006年8月11日現在182カ国となっている36。この締約国数は「児
童の権利関する条約」の192カ国に次いで国際人権条約中2番目の多さである37。この批准状況だけを
みると女性差別撤廃条約の理念が国際的・普遍的に受け入れられていると考えられる。しかしその内
実を見ると、本条約の趣旨が必ずしも普遍的に受け入れられているとは言い難い。本条約には実に55
カ国もの締約国が留保を行っており、国際人権条約中最も多くの留保を負っているのである。この条
約は当初から、無数に穴の開いたスイス・チーズのようだといわれ、本条約に対する締約国の態度に
疑問が呈されてきた38。無数の留保によって条約が無力化され形骸化されているのである。女性差別撤廃委員会は留保問題を「条約に対する最も重大な挑戦」と位置づけ、各国政府に対して留保の制限、
撤回を繰り返し要求している39。ここで、留保理由として最も多く援用され、問題視されているのが
イスラム法を理由にした留保である。イスラム法を理由に行われた留保に関して女性差別撤廃委員会
は重大な懸案事項として議論してきた。
本章では第1節でイスラム法を理由にした留保の状況をみる。そして第2節では、女性差別撤廃委
員会でのイスラム法を理由とした留保の審議過程を概観する。

1.イスラム法を理由にした女性差別撤廃条約への留保
女性差別撤廃条約には、実に多くのイスラム法を理由にした留保が存在する。
モーリタニア、サウジアラビア、リビアは条文を特定せずにイスラム法(シャリーア)を優先して
いる。2条(締約国の差別撤廃義務)には、バーレーン、バングラディシュ、エジプト、リビア、モ
ロッコ、イラクが、5条(役割分担の否定)7条(政治的・公的活動における平等)9条(国籍に関
する平等)にはマレーシアが、そして16条(婚姻・家族関係における差別撤廃)にはバーレーン、エ
ジプト(1項c,f)、イラク、モルジブ、マレーシア、バングラディシュ、リビア、クウェートがイ
スラム法を理由に留保しているのである。また、2004年10月に批准したアラブ首長国連邦は、国連に
よると留保がないことになっているが、実際には2条と9条が留保されているという40。
このように多くのイスラム国がイスラム法を理由に留保している背景には、同条約の定める義務が
極めて広範囲に及んでおり、伝統、文化、慣習に関わる事項を多く含んでいることが指摘されている41。
女性差別撤廃条約の画期的な点は、それが公的分野における女性差別のみならず、家族や社会など私
的分野における実質的な差別をも規制の対象においていることである。しかし、その画期的な理念ゆ
えに問題が起こっているのである。慣行を変えることについては制定過程より反対意見が提示されて
きた。しかし、女性差別の多くは、事実上の問題であるとの意識が条約制定者にはあり、それがこの
条約の立法意思とされたのである42。よって、この条約の理念を実現するためには、社会の慣習、慣
行における差別の廃止が不可欠なのである。そしてここにシャリーアを生活の法と位置づけ、それを
厳格に守ることを義務としているイスラム諸国が条約を一部ないし包括的に留保する理由がある。
女性差別撤廃条約は28条1項で、批准または加入の際に留保を行うことを認めてはいる。しかし、
2項では、「この条約の趣旨及び目的と両立しない留保は認められない」との但し書きがある。ここで、
この「条約の趣旨及び目的」が何を意味するのかが問題となる。
女性差別撤廃委員会が、明らかに2項違反として問題にしているのが、条約を特定しない一般的留
保と、2条(締約国の差別撤廃義務)、16条(婚姻・家族関係における差別撤廃義務)への留保であ
る43。2条は、この条約に批准した国が女性差別を撤廃するための政策を国内において行うように求
めたものである。また、16条はこの条約がもっとも重視している私的分野における事実上の差別の撤
廃を実現するために不可欠な条文である。
この許容されない留保にあたるのが、前述のようにイスラム法を理由にした一般的留保3カ国、2
条への留保6カ国、16条への留保8カ国である。次節では、このような留保を行ったイスラム諸国の
主張と、女性差別撤廃委員会における審議及び勧告を概観し、それぞれの主張を見ていくことにした
い。



2.バングラディシュのレポート審議におけるイスラム諸国との衝突
条約の運用にあたっては、締約国が条約の定める差別撤廃義務を正確に履行しているかチェックす
る必要がある。女性差別撤廃条約の場合、締約国はレポートを提出し、それに基づき女性差別撤廃委
員会が審議を行い「最終コメント」を提示する。現在までに182カ国の加盟国のうちそのほとんどが
レポート審議を行っており、多くの国は第5次、第6次のレポートを提出している。
ここで、イスラム教の教義の解釈をめぐって議論が行われたバングラディシュのレポート審議を見
ていきたい。バングラディシュは1984年という早い段階から女性差別撤廃条約を批准しており、女性
問題に関して積極的に取り組もうとしている国であるといえよう。しかし、条約にとって根幹となる
規定である第2条と16条とをイスラム法を理由に留保している。



(1)バングラディシュの留保とレポート審議
① 留保の状況
条約第2条(締約国の差別撤廃義務)、第13条(a)(家族給付についての権利)、第16条1項(c)
(婚姻における同一の権利)、(f)(子の後見および養子縁組に関わる同一の権利)に対してイスラム
法を理由に留保を付している。
② 第1次レポート審議44
バングラディシュの第1次レポート審議は、女性差別撤廃委員会第6会期(1987年3月30日から4
月10日)において行われた。
政府代表は、バングラディシュ政府が女性のための法的措置はとっているものの教育の欠如、社会
の伝統的価値観、経済状況のため、その法律の恩恵に充分浴していない状況を報告した。
レポートに対して委員は、女性差別撤廃条約第2条を留保の再考を望んだ。また、法律と実際面の
状況には大きな開きが感じられるとの見解も示された。
③ 第2次レポート審議45
第2次レポート審議は、CEDAW第12会期(1993年1月18日から2月5日)において行われた。
第2条、第13条(a)、第16条1項(c)、(f)の留保に関して質問があった。政府代表は、人に
関する法(personal law)は宗教法なので、簡単に変えることはできないと返答した。
④ 第3次、第4次合併レポート審議46
第3次、第4次合併レポート審議は、CEDAW第17会期(1997年)において行われた。政府報告で


- 134 -

は、条約第13条(a)、条約第16条(f)に対する留保を撤回することを宣言した。
委員会は、第13条(a)および第16条1項(f)の留保撤回を、他の同様な留保国をリードするも
のとして歓迎する一方、条約の根本的かつ核心部分である第2条と女性の権利の享受にあたって決定
的である第16条(a)に関する留保に関心を示した。委員会は、あらゆる形態の女性に関する暴力、
特に辛殊な言葉を投げかけること、石を投げつけ殺すこと、ダウリにかかわる死など、緊急を要する
残酷な暴力の犠牲者を直接救済できないことに関して大きな関心を寄せた。また、女性への罰に宗教
を利用した正当化が行われていることに関心を示した。
CEDAW審議が実を結び、条約第13条(a)、条約第16条(f)に対する留保が撤回されたことは
大きな前進であった。そして留保の核心部分である残る第2条および第16条1項・2項の留保撤回に
CEDAWの関心が高まった。
⑤ 第5次レポート審議47
第5次レポート審議はCEDAW31会期(2004年)において行われた。
留保に関連して、政府代表は、法、正義、議会省によって第2条および第16条1項・2項の留保撤
回に関する賛意が得られたと述べた。ついに、条約の核心部分である第2条と第16条の留保撤回に大
きな前進が見られたのである。
委員会は留保撤回の意志を歓迎する一方で、女性に対する暴力を許容している社会的、文化的、伝
統的な態度を変える手段を政府がとること、婚姻、離婚、後見、離婚後扶養、財産相続について、条
約諸規定に一致する家族法を直ちに採択することを勧告した。
⑥ 現在の状況48
第5次レポート審議で、第2条および第16条1項・2項の留保撤回に関して前向きな報告を行った
バングラディシュだが、その後、政権の変更に伴って婦人の地位向上政策(National Policy for
Advancement of Women:NPAW)を変更した49。バングラディシュ政府の政策変換によって、CEDAW
で表明した留保の撤回は暗礁に乗り上げる形となった。このことはイスラム法の解釈を変更すること
がいかに難しいかを物語っている。バングラディシュは女性差別撤廃条約を他のイスラム国に先駆け
て早い段階から批准しており(1984年)、イスラム諸国のなかでも女性の地位向上に熱心な国である
といえよう。そのバングラディシュの女性政策の転換は他のイスラム諸国にも影響が出ることが懸念
される。



(2)女性差別撤廃委員会第6会期における決議4の採択と国連での討議
① 第6会期
前節のとおり、女性差別撤廃委員会第6会期(1987年3月30日~4月10日)バングラディシュの第
一次レポート審議では、第2条、第16条が留保されていることが問題となった。バングラディシュは
イスラム法との抵触を理由に当該条項を留保しており、他のイスラム諸国も同様にイスラム法を理由


- 135 -

に留保を付しているのが現状であった。そのため、女性差別撤廃委員会としては、イスラム法の解釈
を正確に研究する必要があると考えた。エジプトのメルバト・タラウェイ委員の提案を受け、CEDAW
はイスラム法と慣習のもとにおける婦人の地位についての研究を国連が促進するよう要請する決議4
を採択した。これは、イスラム法を援用の理由とした留保問題を考えるにあたって有効な糸口を見出
すものであり、これを契機に今後イスラム教との相互理解がすすむように思われた。
② 経済社会理事会、国連総会での反撥50
しかし、その後行われた経済社会理事会第一定例会期(1987年5月4日~5月31日)で状況は一転
する。理事会は、決議4に関して、いかなる行動も取るべきではないこと、CEDAWに対しこの決定
を再検討すべきであることを勧告した。さらに1988年の国連総会第三委員会でも、CEDAWによる決
定に反撥が起こった。アラブ、アフリカ、アジアの多くのイスラム諸国からは、次のような角度から
の反論があった。
①イスラム法は婦人の権利を保護している
②平等については宗教的、文化的価値をも含めた総合的観念が存する、
③委員の見解は偏見に基づきイスラム教を歪曲したものであって到底受け入れることはできない、
④そもそも委員会にそのような権限はない51といった意見である。さらに、イラン代表の女性は、
⑤物質的欲求を規準とし、数量的方法によって平等実現の度合いを決定する西欧のやり方ではな
く、各社会の持つ精神的、道徳的価値をも考慮して判定すべき、との意見を述べ、イスラム諸
国の共感を得た52。
③ CEDAWの対応
一連の反撥について、CEDAW議長のディシリ・バーナード氏は、委員会の意図はイスラム教の批
判ではなく、より深い理解のための研究を進めることにあったのが誤解された、と述べている53。
1989年の女性差別撤廃委員会第7会期ではこの問題について検討し、ステートメントを採択した。
それは、「若干の締約国のレポート及び答弁が、イスラム法の教義、伝統及び慣習に直接、間接言及し
ていたことを想起すべきであり、委員会は、条約17条及び21条にもとづきその義務を遂行するために
研究を要請した。その際いかなる宗教をも国家をも批判する意図は毛頭なかったものである。」といっ
た内容である54。
しかし、国連総会での厳しい決議は、CEDAWの勧告採択への姿勢を消極的なものにした。第7会
期において、アフリカにおける女性の割礼が問題視された。しかし委員会は前述の総会決議の後であ
ることを考慮し、討議を先送りしたのである55。



Ⅲ.対立の分析と考察



女性差別撤廃委員会第六会期ではイスラムにおける女性の地位について国連機関が研究を行うこと


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に各国が積極的であったにもかかわらず、経済社会理事会では一転して反撥を招き、勧告が葬り去ら
れる結果となった。本章では、このような対立の分析と解決方法としての若干の考察を行う。



1.対立の分析
経済社会理事会でのイスラム国の発言で、「イスラム法は婦人の権利を保護している」との主張がな
された。イスラムの女性の人権についての議論がなされる中で、西欧諸国の女性観と対立する発言で
ある。これは、西欧とイスラムとの人権概念の相違に起因する。
イスラムはそもそも西欧のような女性と男性の完全な権利の上での平等を目指していないと考えら
れる。1990年、イスラム諸国会議機構(OIC:Organization of the Islamic Conference)は、「イスラ
ムの人権に関するカイロ宣言」を採択した。この「カイロ宣言」では女性について第6条で「女性は
人間の『尊厳』において男性と平等である」と規定されている。つまり、男女は「尊厳」において平
等なのであって、「権利」についての平等とは規定されていない56。西欧諸国の考え方を土台とする国
際基準は、選挙権に始まり、財産権、婚姻における権利など、男性と対等な権利を得ることが女性の
権利を保護すると考えてきた。一方、イスラムでは、個人の権利より家族、共同体の権利を尊重する。
社会全体のために働くことが、女性を含む共同体の構成員の権利保護につながっていくとの考え方で
ある。権利の上での平等よりも、精神の上での平等が真の平等であると考える。ここに国際基準とイ
スラム諸国との相違が生じている。
人権に対する考え方の相違による留保に対し、他の諸国、特に西欧諸国は、ひとたび国際社会で合
意され自国も批准したならば、いかなる理由であれその条約は遵守すべきであると主張している。
また、もし留保をする特別な理由があるのなら、イスラム法について説明責任を果たすべきである
との意見がある。リビアの審議でも、イスラム法と女性差別撤廃条約の留保の関係について明確でな
い、もっとイスラム法に関する説明が必要である、との意見が出た57。
女性差別撤廃委員会の問題意識としてある「批准したのなら遵守せよ」との考えには説得力がある。
そもそもなぜイスラム諸国は女性差別撤廃条約を批准したのだろうか。その理由として三つ仮説を上
げることができる。第一に、女性差別撤廃条約とシャリーアが矛盾しないと考えたというもの。第二
に、そもそも条約を守る気がなかった、というもの。第三に、すでにシャリーアを厳格に守っていな
いというもの。
第一の女性差別撤廃条約とシャリーアが矛盾しないと考えたとの仮説であるが、これは、前述した
レポート審議でのエジプト等の発言など、ほとんどのイスラム国が委員会での審議においてこの考え
方をとっている。実際、エジプトが付した条約第16条への留保では、シャリーアは条約の趣旨と同じ
く男女の平等をうたっていると述べている。この考え方をとる国は、したがって問題点はイスラム法
ではなく、誤った解釈のほうにあると考える。
第二に、そもそも批准の時点で条約を守るつもりがなかったとの仮説である。これは多のイスラム


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フェミニストの主張でもある。ファティマは、女性差別撤廃条約の批准に対するエジプトの態度につ
いて、「本心では平等性の原理を拒否しているが、原始的で野蛮な国だと非難されるのを避けるために、
外交レベルでは平等性の拒否を表明できない58」と述べている。条約をイスラム法に照らして遵守で
きないことがわかっていながら、批准をしないことによる国際的批判を免れるために、形だけ批准し
たというものである。そのため、批准は留保を前提とするものだった。
第三に、批准した諸国はすでにシャリーアに厳格ではないとの仮定である。アブドラヒは、近代法
及び今日の政策はシャリーアに根ざしていない部分もあるとする59。この仮説では、イスラム法を考
慮せずに、純粋に条約の趣旨に賛同して批准したということになる。
この三点のうちいずれかが正しいというよりは、これらの理由が複合していると考えられよう。い
ずれにせよ、自己の人権概念を持ちつつ国際社会に対応しようとしているイスラム諸国の葛藤がよみ
とれる。次節ではそのようなイスラム諸国との共存への方策を考察する。

2.考察
宗教、歴史的背景、その他多くの点で違いがあるなかで、イスラムと他の諸国との間に価値観の相
違があるのはむしろ当然とも言える。価値観の相違をいかに理解しあうことができるのだろうか。本
節では、イスラムの女性の人権に関する留保に対して国際社会がとるべき対応を提案する。留保への
対応は、広くイスラム国と非イスラム国との人権概念の調整への対応策ともなると考える。大きく分
けて、女性差別撤廃委員会の改革、そして、イスラム国の人権概念の根底に位置する問題について述
べる。



(1)女性差別撤廃委員会の対応
女性の人権に関する意見調整を行う機関である女性差別撤廃委員会が、イスラム国との調整を行い
易くすることができるように改革する余地がある。女性差別撤廃委員会自身に可能な対応として、
(1)条約と両立しない留保に対するコメントの強化、(2)委員会自身の調査があげられる。
① 留保に対するコメント
まず、女性差別撤廃条約と両立しない留保に関して、再考すべきである旨、絶えず国際社会がメッ
セージを送り続ける努力が求められる。委員会は、一般的勧告第4および第20において、条約の留保
を取り上げた。また、世界女性会議の「ウィーン宣言および行動計画」、北京女性会議への報告書でも、
留保を「条約に対する最も重大な挑戦」と位置づけている。さらに、国連女性2000年会議でも、この
ことは繰り返し述べられている60。
女性差別撤廃委員会の締約国レポート審議における具体的なコメントも重要である。これまで女性
差別撤廃委員会は締約国レポートの審議過程で、個別国家の留保問題を取り上げてきた。留保の指摘
ではなく、留保を付した国に対して説明を求めるという「建設的対話」に特徴がある。


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このような勧告や人権会議の文書、そしてレポート審議を通じて、締約国は次第に留保を限定し、
撤回を始めるようになってきた。前章のように、バングラディシュは、条約第13条(a)、条約第16
条(f)を撤回し、リビアは一般的留保について、その範囲を限定する修正を行っている。
② 委員会自身の調査
第六会期女性差別撤廃委員会(1987年)では、イスラム法の下での女性の地位について、国連によ
る研究を要請する決定が経済社会理事会及び国連総会で否決されたが、このような研究は現在でもイ
スラムとの相互理解を図る上で重要であると思われる。この点、女性差別撤廃条約選択議定書第8条
の調査権を活用して、女性差差別撤廃委員会自身が調査に乗り出すことが検討されるべきであろう。
この制度は、女子割礼や武力紛争下の女性に対する暴力など、個別の事例では対処できないときに活
用されることが期待されている。「女性の人権は、偶発的というより、差別的な構造そのものに起因し
て常態的に侵害されている。その点からすると、個別事案を処理する個人通報よりも、むしろ構造そ
のものにダイレクトに切り込む調査制度の方が有効な場合が少なくないかもしれない61」との指摘に
は説得力がある。選択議定書を批准しているイスラム国と協力し、イスラムの慣習下における女性の
地位に関する調査をおこなうことが、相互理解への第一歩となるだろう。



(2)国際社会の対応
国連をはじめとする国際社会は普遍的なものとして人権基準を設定してきた。しかしイスラムは
女性差別撤廃条約への留保および一般的勧告の否定という形で、自己の文化を守る態度を示した。一
般的勧告が否定された直後の国連総会第三委員会では、パキスタン代表が、(女性差別撤廃)条約がイ
スラム教国に対する圧力として使用されることのないように、とのコメントをした62。
しかし、第3章で述べたように、結婚や離婚に関する規定など、女性に対する政策は国によって大
きく異なっている。このイスラム諸国の多様性こそが、イスラムが共通の枞組みではなく、歴史的文
化的背景によって形作られてきたことを如実にあらわしているといえよう。実際、イスラムは西欧世
界が近代以降に生みだした諸価値のうち、自分たちの規範に照らして問題がなければ受容してきた。
トルコがその例である。
一方、イスラムなりの「女性の人権」、そして、女性のエンパワーメントという点に関し、イスラム
法を尊重することによって自らの活動を自由にしようとする女性が現れている。たとえば、ヴェール
やブルカをかぶることによって自由に外出し、学び、外出する女性である。UAEでは、以前は女性が
町を歩くことさえ珍しかったが、最近はヴェールをかぶった女性が外出して買い物や食事を楽しむ姿
も見られるようになった63。また、イランやパキスタン等では、本格的に宗教を学ぶための高等教育
機関である女子宗教学院が次々に開設されている。ここで学んだ女性は、敬虔な女性として家族や地
域で尊敬され、卒業後は宗教集会での説教や子供向けに宗教を教えることで実利を得ることもできる
64。これらは、伝統を壊すことなく、女性の自己実現と地位の向上を図る、許された範囲でのエンパ


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ワーメントといえるだろう。
イスラム教徒は、その論理に基づいて、できるだけ現実の社会情勢に対応しようと努めているとい
えよう。イスラム諸国の女性に対する態度の実態は複雑であり、西欧的なものさしでその評価を下す
ことは、彼女たちの自立の目をつんでしまうことになりかねない。国際社会にはイスラム教徒自身が
見出したイスラムなりの「人権」を認め、見守る度量がもとめられよう。
女性の高学歴化は世界的に進み、それはアラブイスラム地域においても例外ではない。イスラム女
性のおかれている状況について、疑問に思い、声をあげる女性も増えている。それがエジプト出身の
ナワル・エル・サーダウイであり、モロッコ出身のファティマ・メルニーシであり、彼女らの後に続
くイスラムフェミニストたちである。そして、彼女たちが総じて主張しているのが、西欧の圧力では
なく自分たちのおかれている状況がわかっているイスラム女性自身が、自らの進むべき道を選択する
主体者である、という点である。女性差別撤廃条約をはじめとする国際法とイスラム法との接点を確
定するのも、よく知りよく考えたイスラム女性自身でなければならない。国際社会ができることは彼
女らが自由に発言し、選択するのを手助けすることである。そしてその手助けというのは、イスラム
諸国の学者や政府、民間人との女性の人権に関するフォーラム等国際的な対話の場面を持つことはも
ちろん、女性差別撤廃委員会の場で、西欧は西欧なりの「人権」を主張していくことであると思われ
る。なぜなら、自らの手でイスラム圏の男女平等を進めたいと言っていたイスラム女性も、その検討
材料に女性差別撤廃条約をあげているからである65。女性差別撤廃条約の有用性はイスラム女性自身
にも認識されている。



おわりに



以上本論文は、国際人権基準とイスラムの人権基準の違いについて女性差別撤廃条約に照らして述
べた。第1章では、国際人権基準とイスラムの人権基準の相違を論じた。特にイスラムにおける女性
の人権観については、イスラム各国の間でも対応が分かれており、一様ではない点、イスラムの教義
を敬虔に守ることによって自己実現を図ろうとする女性が出てきている点を主張した。
第2章では、女性差別撤廃条に抵触するイスラムの主張についての委員会の反応とイスラム諸国の
対応を見た。特にイスラムにおける女性の地位についての研究を行うべきである旨の一般的勧告をイ
スラム諸国の反撥で否決されたことは、対立の象徴的な出来事として紹介した。
第3章では特に一般的勧告の否決について、それぞれの主張の理由を考えた。また、イスラムが価
値観の相違にも関わらず条約を批准した理由を考えることによって、国際社会に対応しようとしてい
るイスラム国の葛藤を述べるとともに、イスラム女性の人権に対するアプローチを提案した。
なお、本論文は国際社会とイスラムの衝突回避を中心に述べたため、一般的なイスラムの考え方か
ら述べた。しかし、イスラム諸国は多様であり、ひとまとめに論ずることは難しい。今後の課題とし


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て、個別のイスラム国の女性差別撤廃条約に対する対応を検証することが挙げられる。個別の検討に
よって、より詳細なイスラム国の国際基準への対応とその葛藤、対応のあり方を提案できよう。





〔注〕

1 Saadawi,N.El,“The Hidden face of eve:Women in the arab World”,1980. 村上真弓訳『イヴの隠れた顔
-アラブ世界の女性たち』(未来社、1988)237-238頁
2 ただし、このような思想は何もイスラム教に限らない。仏教においても女性を男僧の禁欲修行の妨げになるとし
て遠ざけようとした。例えば、「女の容色・かたち、女の味、女の触れられる部分、さらに女の香りなどに執着
する者は、さまざまな苦しみを知る」(『テーラーガーター』)、「愛執は苦しみの起こる起源であるとこの危険な
災いを知って、愛欲を離れ、執着してとることなく、修行僧は気をつけながら遍歴すべきである」(『ウダーナ
ヴァルガ』)
3 フランスの雑誌『ELLE』は、イスラム女性を特集した記事の中で女性の自由度別にイスラム諸国を5段階に分
類している。選挙権があるか、離婚が可能か、ヴェールの着用が義務付けられているか、といった11の条件を判
断基準にした分類で、①基本的人権が大幅に制限されている国としてはサウジアラビア、パキスタンが挙げられ
ている。②基本的人権を法的に保障しているが伝統に引きずられている国は、セネガル、モロッコ、マリ、ナイ
ジェリア、パレスチナ、ヨルダン、バングラディシュ。③女性の地位が向上しつある国は、イラン、アフガニス
タン、イエメン、オマーンなど。④改革的で女性の地位が男性並みになりつつある国は、イラク、チュニジア、
リビア。⑤男女同権が法的に実現されている国は、シリア、トルコ、アルバニアなどが挙げられる。(『ELLE』
2003年7月号143頁)
4 中村廉治郎『イスラームと近代』(岩波書店、1997)105頁
5 同上
6 白須英子『イスラーム世界の女性たち』(文藝春秋、2003)93頁
7 片倉もとこ『イスラームの日常世界』(岩波新書、1991)83頁
8 マイ・ヤマニ「イスラームにおける異文化結婚一理想と現実」ローズマリー・ブレーカー他編、吉田正紀監訳『異
文化結婚―境界を超える試み』(新泉社、2005)211頁
9 中村『前掲書』104頁
10 泉沢久美子編『エジプト社会における女性一文献サーベイー』(アジア経済研究所、1993)59頁
11 桜井啓子『現代イラン―神の国の変貌』(岩波書店、2001)153‐154頁
12 白須『前掲書』65頁
13 中村『前掲書』110頁
14 同上
15 中西久枝『イスラムとヴェール―現代イランに生きる女たち―』(晃洋書房、1996)79頁
16 Saadawi,op.cit.p. 333-336
17 ibid.,p.336
18 21世紀研究会編『イスラームの世界地図』(文塾春秋、2006)238頁
19 白須『前掲書』92頁
20 中西『前掲書』77頁
21 桜井『前掲書』156頁
22 白須『前掲書』110頁
23 有川志野「マイクロクレジットが「女性に対する暴力」に与える影響についての考察―バングラディシュ農村
の経験から―」『アジア女性研究』第10号((財)アジア女性交流・研究フォーラム、2001)1頁
24 白須『前掲書』101頁
25 白須『前掲書』102頁
26 例えば、国際NGO「アムネスティ・インターナショナル」は、ダルフール紛争下で起きた数千人にも上るレイ
プ被害者が、スーダンの司法制度では「4人の男性目撃者」を裁判の証人として呼ぶことを義務付けるなど、性


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暴力の被害者が泣き寝入りせざるをえない状況であることを糾弾している。(http://secure.amnesty.or.
jp/stopvaw/action_darfur.html)
27 朝日新聞、2006年11月22日
28 イスラム世界の厳格な性道徳と結びついた慣習。婚前の女性に異性との噂話が出ると、その真偽を確かめる前
に、家族の名誉を守るために親戚の男性が集まってその娘を殺してしまう。(塩尻和子「イスラームの女性観―
その理想と現実」『東洋学術研究』第45巻第1号(東洋哲学研究所、2006年6月)72-73頁)
29 アムネスティ・インターナショナル
30 スアド、松本百合子訳『生きながら火に焼かれて』(ソニーマガジンズ、2004)306頁
31 女子割礼の方法は地域によりさまざまだが、もっとも軽い女子割礼は、陰核の表皮をカミソリで切るもので、
男子の割礼に近いものと考えられる。次に切除部分が大きいのが陰核切除であり、もっとも過酷な女子割礼は
陰部封鎖である。これらの手術は大体10歳前後に行われる。医学的な知識のない助産婦や床屋が行うことも多
く、医学上の深刻な後遺症を伴う。手術時のショック死や、出血多量死、手術後の敗血症、傷口の化膿、感染
症、破傷風、尿毒症、膀胱炎、がん、不妊、流産、感染症など。また、大きな精神的なトラウマが残ることも
問題となっている。(河合知子「イスラームの慣習か?―女子割礼再考」『女性学年報』第19号(日本女性学研
究会「女性学年報」編集委員会、1998年11月)27-28頁)
32 城忠彰「アジアにおける性差別的慣習―女子差別撤廃条約の視点から―」『アジア女性研究』第2号((財)アジ
ア女性交流・研究フォーラム1993年)57頁
33 河合「前掲論文」27頁
34 河合「前掲論文」29-30頁、Saadawi,op.cit.p. 87
35 白須「前掲書」230頁
36 外務省(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/josi/3b_001_1.html)
37 外務省(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinken/ichiran.html)
38 山下泰子「女性差別撤廃条約とNGOの役割」山下泰子ほか編集『フェミニズム国際法学の構築』(中央大学出版、
2004年)113頁
39 山下泰子「女子差別撤廃条約における留保」『女性差別撤廃条約の研究』208-237頁
40 石崎節子「模索するイスラム圏女性―国際交流基金「平成17年度中東女性・市民団体交流事業」に参加して―」
国際女性の地位協会『国際女性』No.19(尚学社、2005)、180頁
41 伊藤哲郎「女子差別撤廃条約における留保問題」『レファレンス』(2003)13頁
42 山下泰子ほか『法女性学への招待』ゆうひかく選書、2000年、31頁
43 山下泰子「国際人権保障における『女性の人権』-フェミニズム国際法学の視座」国際法学会/編『日本と国
際法の100年』第1巻、(三省堂、2001)90頁
44 国際女性編集委員全編訳「CEDAW第6会期における各国レポート審議概要―国連報告書の抄訳」国際女性の地
位協会『国際女性』第1号(尚学社、1988)24-25頁
45 国際女性編集委員全編訳「CEDAW第12会期における各国レポート審議概要―国連報告書の抄訳」『国際女性』
第7号(尚学社、1993)34-37頁
46 国際女性編集委員全編訳「CEDAW第17会期および18会期における各国レポート審議概要―国連報告書の抄訳」
国際女性の地位協会『国際女性』第12号(尚学社、1998)55-56頁
47 国際女性編集委員全編訳「CEDAW第31会期および32会期における各国レポート審議概要―国連報告書の抄訳」
国際女性の地位協会『国際女性』第19号(尚学社、2005)30-33頁
48 IPSヘッドライン(http:〟ipsnews.net/news.asp?idnews=29672)
49 IPSヘッドラインは、バングラディシュは2004年政策で特に女性の経済的自立に必要な資産・遺産の均等配分、
土地所有権、雇用促進、政治参加、性差別的暴力の禁止といった項目を削除しており、バングラディシュの婦
人地位向上運動が保守派勢力の台頭で揺らいでいる様子を報告している。
50 国際女性編集委員全編訳「CEDAW第6会期における各国レポート審議概要―国連報告書の抄訳」国際女性の地
位協会『国際女性』第1号(尚学社、1988)25-26頁
51 『同上書』10頁
52 同上
53 同上
54 伊東すみ子「国連総会第三委員会に出席して」『国際女性』第2号(尚学社、1989)19 頁


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55 米田眞澄「女子差別撤廃委員会における一般的勧告採択の動向―女性の地位委員会の影響を中心として」阪大
法学第42巻第1号(1992年8月)198-190頁
56 宮田律『イスラム世界と欧米の衝突』(日本放送出版協会、1998)144-146頁
57 国際女性編集委員全編訳「CEDAW第13会期における各国レポート審議概要一国連報告書の抄訳」国際女性の
地位協会『国際女性』第8号(尚学社、1994)30頁
58 Fatima al-Mernisi,“ISLAM AND DEMOCRACY;Fear of the Modern World”,Reading Masachusetts,
Addison-Wesley,1992,私市正年他訳『イスラームと民主主義―近代性への怖れ』(平凡社、2000)106頁
59 Abdullahi an-na,im,“The Rights of Wonen and International Law in the Muslim Context” whittier Law
Review,1987-1988,p.513
60 UN.Doc.A/42/38, para579, AJ47/38, A/CONF.157 24, PartI, Chap.Ⅲ Sect.Ⅱ Para.39, A/CONR177/7, ParaS.
48-53, A/CONR177/20, Para.230©, A/S-23/10-ReⅥ1, Para.27
61 阿部浩己「国際人権と女性一女性差別撤廃条約選択議定書が意味するもの」『労働法律旪報』第1487号(労働法
律旪報社、2000)
62 野瀬久美子「第44回国連総会第三委員会に出席して」国際女性の地位協会『国際女性』第4号(尚学社、1990)
4頁
63 川喜多嘉寿子「アラブ女性と外出」国際女性の地位協会『国際女性』第13号(尚学社、1999)33頁
64 国際シンポジウム「グローバリゼーションのもとでの少数民族女性のエンパワーメント(国際シンポジウムグ
ローバリゼーションの下での少数民族女性のエンパワーメント実行委員会主催、2006年11月5日)での桜井啓
子氏の発表「シーア派の女子宗教学院」
65 石崎「前掲論文」182頁

イスラムと女性の人権
一国連での討議をとおして-

Islam and Women's Rights:
findings through the deliberations of the United Nations



法学研究科法律学専攻博士前期課程修了
岩 本 珠 実
Tamami Iwamoto











「ヒジャブの強制は女性抑圧のシンボル」 エラヘさん(平和活動家・平和学研究者)



エラへさんは、2013年に実施された第80回クルーズに国際学生として乗船されました。今回はそのご縁でお話しいただきました。

エラへさんは、今回の抗議運動がこれまでになく、保守的な街も含めて全国に広がっている理由のひとつとして、イラン社会に根深く残る女性への差別と、ヒジャブの着用が政治化されてきた経緯を挙げました。

「イランでは社会でも家庭内でも女性の扱いが低く、あらゆる場面で男性が意思決定を行うのが当然とされています。法的にも男性と平等ではありません。また、ヒジャブの着用をめぐっては、イスラム革命(1979年)の直後から当時の最高指導者であるホメイニ氏が、義務化の話を持ち出しています。そのときは全国で抗議運動が起こり、義務化はされませんでしたが、その8年後に義務化されることになりました。

公の場でヒジャブをしていないと犯罪とみなされます。それを監視するために道徳警察が女性を注意したり逮捕しています。屈辱感を与え、他の人たちへの見せしめにするのです。会社でも監視され、SNSにもヒジャブを脱いだ姿を載せられません。ヒジャブをしていない女性は、嫌がらせを受けても仕方ないといった風潮もあります。

女性たちは、これまで様々な形で抵抗をしてきましたが、変わりませんでした。昨年9月にマフサさんが逮捕されて亡くなった事件は、これまで充満していた怒りに火をつけました。だからこれまで公の場にまったく出てこなかったような女性たちが、大勢デモに参加しているのです」。



「ヒジャブの争いは宗教問題ではない」



エラへさんはまた、ヒジャブの着用をめぐる争いが宗教の問題ととらえられることがあるが、それは誤解であると語りました。

「ヒジャブの問題は、宗教の問題ではなく政治の問題です。今回のデモには、強い信仰心のある宗教者も多数参加しています。私たちは、何を着るかを政治家に決められるのではなく、自分で決める社会を求めています。

問題はヒジャブではなく、選択をする権利が与えられるかどうかです。多くの人がそれを理解しているからこそ、ヒジャブを着けたい女性と着けたくない女性の間の対立が起こらないのです」。

こうしたイラン国内の混乱を、各国政府や海外の様々な勢力が利用しようという動きもあります。また、イランに対するより厳しい経済制裁や、場合によっては武力を使ってでも止めるべきという声も出ています。

しかしエラへさんは、「イランの人たちはそうしたことを望んではいません。政府の弾圧は厳しいのですが、おだやかな解決を望んでいます」と語りました。そして、「今回の抗議運動の主体を担っているのはあくまでイランの人々であり、自分たち自身の選択で、変化を起こそうとしているのです」と訴えました。



「石油だけでなく、イランの人々に関心を」



エラへさんのメッセージを聞いた高橋和夫さんは、このような感想を述べました。

「欧米のメディアが発信する情報では、イランを経済的にいじめたり、戦争を仕掛けることが、あたかもイランの人たちを助けるかのような論調が増えています。その流れは危険だなと思っていました。今日エラへさんのお話を聞けて、イランの人たちがそんな過激なことを望んでいないことがよくわかってよかったと思います。

また、女性の社会進出という意味では日本もだいぶ遅れています。イランの女性を支援することも大事ですが、日本ももっと真剣に取り組まれないといけないのではないかと思います。

最後に、人口8000万以上いるイランという重要な国の将来に興味を持ち続けてほしいと思っています。石油だけに関心を持つのではなくて一つでも多くのメディアに触れてほしいと思います」。



女性への抑圧は世界共通の課題



スタッフの畠山澄子

司会を務めたピースボートの畠山澄子は、このように締めくくりました。

「私たちには何ができますか?という質問をいただいていますが、エラへさんの話を伺っていると、正しい情報を得ることやイランの人たちをサポートすることももちろん重要だけれども、自分たちの身近な国や地域の女性の地位向上に真剣に取り組んでいくことが大事なんだと改めて感じました。それが回り回ってイランの女性たちともつながっていくのではないか、というメッセージを受け取りました」。

今回このような形でイランにいるエラヘさんと直接つながり話を聞くことは、女性に対する差別や暴力、抑圧をどのようになくしていくのか、また女性の地位や権利の問題、ジェンダー平等について何ができるかを具体的に考える機会となりました。

ピースボートでは今後もイランで抗議運動を通して声をあげる女性たちとつながっていきます。また、これをイランだけの問題と捉えず、同じような問題に取り組む世界のたくさんの人たちとアクションを続けていきます。

https://peaceboat.org/44635.html
女性が「選ぶ自由」を手に入れられる社会のために~「イランに生きる女性の声」報告~