憲法なう(31) 表現の自由とわいせつ表現規制民医連から考える刑法175条が憲法21条に違反する可能性及びろくでなし子裁判の記事と刑法175条廃止求める署名.刑法175条濫用事例としての松文館裁判の事例について。

憲法なう(31) 表現の自由とわいせつ表現規制民医連から考える刑法175条が憲法21条に違反する可能性及びろくでなし子裁判の記事と刑法175条廃止求める署名.刑法175条濫用事例としての松文館裁判の事例について。



【「わいせつ表現」は表現の自由のもとでも規制されるのはなぜ?】
 表現の自由の下でも、例外(してはいけない表現)があります。その一つが「わいせつ表現」です。
 わいせつ表現を規制しても憲法に違反しない、とされる理由はさまざまですが、「人が自然に持ち合わせる恥じらいの気持ちを刺激する表現をする権利は、最初からない(ので、立憲主義の下でも制限してよい)から」などの考え方があります。
 しかし何が「恥じらいの気持ちを刺激する表現」かは、文化や考え方などに左右されます。その文化や考え方にそもそも対立がある場合も多いのです。例えばレイプなど暴力的なテーマのゲームは規制されないのに、性器そのものを描写しただけで逮捕されるのはアンバランスではないか(最近も「ろくでなし子」さんの事件がありました)などの批判があります。

明日の自由を守る若手弁護士の会

(民医連新聞 第1591号 2015年3月2日

https://www.min-iren.gr.jp/?p=21608
憲法・平和

2015年3月3日

憲法なう(31) 表現の自由とわいせつ表現規制


わいせつ表現の定義と規制について公権力が規制するのではなく市民が判断すべきとし、わいせつ表現の定義と規制について刑法175条が日本国憲法21条に違反するのではないかとチャタレー事件判決、「悪徳の栄え」事件判決、は青少年に対する「淫行」を処罰することの合憲性を認めた福岡県青少年保護育成条例事件判決の判例から考察されている論文わいせつ表現規制に関する一考察がありました。
規制側の問題点としては、わいせつ物が青少年健全育成条例における有害図書と区別されず規制されている点もあるように思えます。

https://www.h-bunkyo.ac.jp/university/subject/welfare/society/img/2022/2022-3.pdf


はじめに
何が禁止される表現行為なのかが明確でないと、憲法上保護されるべき表現に対して萎縮的効果をも
たらしうるため、表現内容に基づいて規制する立法については、特に規制対象を明確に規定すべきであ
るといえる。日本においては、性的表現に関する法的規制として、青少年保護育成条例のほかに刑法 175
条のわいせつ物頒布等を禁止する法律1、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律
(いわゆる児童ポルノ禁止法)等の制度が存在する。
これらの規制のうち、青少年保護育成条例における有害図書類規制の合憲性が争われた岐阜県青少年
保護育成条例事件判決2において、最高裁が先例として引用した判例は、わいせつ表現規制の合憲性が争
われたチャタレー事件判決3および「悪徳の栄え」事件判決4、さらには青少年に対する「淫行」を処罰す
ることの合憲性を認めた福岡県青少年保護育成条例事件判決5であった。最高裁が、このようなわいせつ
1 刑法 175 条は1項において、「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、
又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は 250 万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び
罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とす
る。」とし、2項において「有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管し
た者も、同項と同様とする。」と規定する。
2 最高裁平成元年 9 月 19 日第三小法廷判決(刑集 43 巻8号 785 頁)。松井茂記「『有害図書』指定と表
現の自由」長谷部恭男・石川健治・宍戸常寿編『憲法判例百選Ⅰ[第7版]』(有斐閣、2019 年)113 頁参
照。
3 最高裁昭和 32 年3月 13 日大法廷判決(刑集 11 巻3号 997 頁)。池端忠司「わいせつ文書の頒布禁止
と表現の自由—チャタレイ事件」長谷部他編・同書 114-15 頁参照。
4 最高裁昭和 44 年 10 月 15 日大法廷判決(刑集 23 巻 10 号 1239 頁)。阿部和文「わいせつの概念—『悪
徳の栄え』事件」長谷部他編・同書 116-17 頁参照。
5 最高裁昭和 60 年 10 月 23 日大法廷判決(刑集 39 巻6号 413 頁)。村西良太「刑罰法規の不明確性と広
範性—福岡県青少年保護育成条例事件」長谷部恭男・石川健治・宍戸常寿編『憲法判例百選Ⅱ[第7版]』
(有斐閣、2019 年)240-41 頁参照。
井上(幸):わいせつ表現規制に関する一考察
8
表現に関する判決を岐阜県青少年保護育成条例事件判決の先例として引用したことについて、憲法学界
から批判がなされている6。それは、有害図書の規制が青少年にとって有害ではあるが、わいせつな表現
とまではいえない表現を規制するものであるにもかかわらず、「有害図書」と「わいせつ表現」とを区別
せずに同一視しているためである。確かに、有害図書規制をめぐる問題とわいせつ表現規制をめぐるそ
れとは共通する点もあるといえるだろう。しかし、有害図書およびわいせつ表現とは何かについて明確
に定義しておかなければ、表現者が表現することを萎縮してしまう可能性があり、当該表現が有害図書
に該当するにも関わらず、わいせつ表現として規制されるおそれも存在するといえよう7。また、有害図
書およびわいせつ表現の定義を明確にすることも重要なことであるが、そもそも、いかなる根拠に基づ
いてこれらの表現を規制することが許されるのかということを議論する必要があるといえよう。そこで、
本稿においては、わいせつ表現を規制する根拠について、改めて整理するとともに、そもそもなぜわい
せつ表現を規制することは許されるのかということについても若干の検討を加えたいと思う。
1. わいせつ表現規制の合憲性が争われた日本の最高裁判決の整理
わいせつ表現の規制根拠について検討する前に、わいせつ表現の規制の合憲性が争われた最高裁判決
を整理しておきたい。まず、わいせつな文書とは何かについて検討を行っているのが、チャタレー事件
判決である。同判決において提示された、わいせつ三要件とは、「猥褻文書たるためには、(普通人の)羞
恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される」と
いうものであった。そして、このわいせつ性の判断基準をより具体化しようとしたのが、「四畳半襖の下
張」事件判決であった。同判決は、文書のわいせつ性の判断にあたっては、第一に、当該文書の性に関
する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、第二に、当該描写叙述の文書全体に占める比重、第三に、
6 戸松秀典「判例批評」判例タイムズ 717 号(1990 年)44 頁。長谷部他編・前掲注(2)113 頁参照(松
井茂記執筆部分)。
7 この点に関して、成人向け漫画のわいせつ性が問題となった事例がある。この事例は、男女の性交場面
などを描写した成人向けコミック『蜜室』が刑法 175 条のわいせつ図画にあたるとして、松文館の代表
取締役、著者である漫画家、編集局長が逮捕され、著者及び編集局長には罰金 50 万円の略式命令が出さ
れたが、代表取締役は全面的に争う意向を示したために東京地裁に起訴されたというものである。東京
地裁判決(平成 16 年1月 13 日)において、懲役1年、執行猶予3年の有罪判決が下されたが、原告で
ある代表取締役が控訴し、高裁判決(平成 17 年6月 16 日)では地裁判決を破棄し罰金 150 万円に減刑
された。最高裁は二審判決を支持し、有罪が確定した。『蜜室』事件の評釈として、高佐智美「マンガの
“わいせつ”性と刑法 175 条」法学セミナー592 号(2004 年)114 頁、園田寿「コミック性表現と刑法 175
条−『蜜室』事件東京地裁判決を契機に」法律時報 76 巻9号(2004 年)44 頁、梶原健佑「判例研究 公
法判例研究(2)漫画本について刑法 175 条にいう『わいせつ図画』に当たるとされた事例(東京地裁
平成 16.1.13 判決)」法政研究 71 巻 2 号(2004 年)499 頁、臼木豊「漫画本と『わいせつな図画』―『蜜
室』事件」長谷部恭男・山口いつ子・宍戸常寿編『メディア判例百選[第2版]』(有斐閣、2018 年)120
頁参照。
井上(幸):わいせつ表現規制に関する一考察
9
当該描写叙述との関連性、第四に、文書の構成や展開、第五に、芸術性・思想性等による性的刺激の緩
和の程度、第六に、これらの観点から当該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味
に訴えるものと認められるか否か、という六項目に関する事情を総合した上で、その時代の健全な社会
通念に照らして、それが「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、
善良な性的道義観念に反するもの」といえるか否かを決すべきであるとして、具体的に考慮すべき要素
について指摘している。
また、これらのわいせつの定義を誰が判断するのかについては、チャタレー事件判決では「社会通念」
に従って裁判官が判断するとされ、その判断の客観性を保つものは社会通念の限界を画する「性行為の
非公然性の原則」であるとする。そして、同判決において、最高裁は、「芸術性と猥褻性とは別異の次元
に属する概念であり、両立し得ないものではない」ため、芸術作品であるという理由で作品のわいせつ
性が否定されるというわけではないと判断している。一方、「悪徳の栄え」事件判決では、チャタレー事
件判決をほぼ踏襲しているが、文書の猥褻性と芸術性・思想性との関係性の捉え方に変化がみられる8。
つまり、「悪徳の栄え」事件判決において、最高裁は「芸術的・思想的価値のある文書であっても、これ
を猥褻性を有するものとすることはなんらさしつかえない」と述べつつ、「文書がもつ芸術性・思想性が、
文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させる場合があることは考えられる」との立場
を示し、さらに、文書のわいせつ性の判断にあたって、わいせつ性の有無は文書全体との関連において
判断されなければならないとする、いわゆる「全体的考察方法」を採用しているのである。
以上のように、最高裁はチャタレー事件判決以降、わいせつ性の判断方法・基準を具体化しようと試
みており、この点については憲法学説においても評価されているが、そもそも国家がわいせつ文書の頒
布・販売を規制することができるのかという、規制根拠について問い直す必要があると批判されている9。
そこで、今一度刑法 175 条の保護法益としてあげられているものを確認したいと思う。
2. 刑法 175 条の保護法益について
刑法 175 条の保護法益について、チャタレー事件最高裁判決では、「性的秩序を守り、最少限度の性道
徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がない」と述べ、わいせつ文書の
規制根拠を「性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持すること」であるとしているが、これについて
は、具体的な害悪を防止するためではなく、漠然とした性道徳および性秩序を維持するということを理
由に表現の自由を規制しうるのか問題であるという批判がなされている10。また、「悪徳の栄え」事件判
8 チャタレー事件判決と「悪徳の栄え」事件判決とを比較し、後者の判決において「規範的な社会通念と
いうトーンが弱まった」と指摘するものとして、阪口正二郎「わいせつの概念—『悪徳の栄え』事件」
芦部信喜・高橋和之・長谷部恭男編『憲法判例百選Ⅰ[第4版]』(有斐閣、2000 年)121 頁参照。
9 芦部他編・同上参照。
10 浦部法穂『憲法学教室』(日本評論社、2007 年)166-67 頁参照。また、チャタレー事件最高裁判決で
井上(幸):わいせつ表現規制に関する一考察
10
決においてあげられた、わいせつ文書の規制根拠も「性生活に関する秩序および健全な風俗を維持する
こと」であり、チャタレー事件判決と同様の批判がなされており、憲法学説においては、以上のような
規制根拠を支持するものは少ない。わいせつ文書の規制根拠を「性道徳の維持」とすることについて、
批判的な見解は、性道徳を害するという理由でわいせつ文書を禁止するということは表現の自由の根本
原理に相反すると指摘している11。つまり、表現内容の良し悪しの判断は、公権力が行うべきではなく、
市民に委ねられるべきであり、反道徳的な内容の表現物であってもそれを理由に公権力が規制すること
ができないのが原則である。そのため、それにもかかわらず公権力が当該表現を規制することができる
というためには、なぜ公権力がわいせつ文書をほぼ全面的に禁止することができるのかを説明する必要
があるだろう。また、わいせつ文書が性犯罪等の誘発につながるという理由で、わいせつ文書を規制す
るということも、実際にわいせつ文書を見たものが性犯罪等を犯したということが科学的に実証されて
いるならば、規制根拠として説得力があるが、そうでないかぎり規制根拠としては不適切であろう12。
一方、わいせつ文書の規制根拠としては、「わいせつ物を見たくない人の性的感情の保護(性感情ない
し性的自己決定権の保護)」や「青少年の保護」があげられよう13。まず、前者については性表現を規制
は、表現の自由といえども絶対無制限のものではなく、公共の福祉によって制限されることを示したが、
この点について、阪本昌成教授は以下のように批判する。つまり、通説は「公共の福祉」とは、基本的
人権の相互間の衝突対立を調整するための公平の原理であると捉えており、公共の福祉をこのように捉
えるならば、「性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持すること」や『悪徳の栄え』事件判決で挙げら
れていた「性生活に関する秩序および健全な風俗を維持すること」というわいせつ物の頒布・販売を規
制する根拠は、通説のいうところの「公共の福祉」には該当しないことになる。チャタレー事件が提示
した規制根拠は、「ある人の基本権保護のための規制ではなく、『道徳原理』に基づく制約といわざるを
えない」と指摘する。そして、この「道徳原理」(リーガル・モラリズム)とは、「他者への危害の有無
にかかわらず、反道徳的な基本権行使は制約されてよいという理論」をいい、これを制約根拠とするこ
とは、「多数者の道徳的選好に基づく基本権の制約を正当化するものとなって、妥当ではない」と批判し
ている。阪本昌成「わいせつ文書の頒布禁止と表現の自由—チャタレイ事件」芦部他編・前掲注(8)
119 頁、阪本昌成『憲法理論Ⅲ』(成文堂、1995 年)65-6頁参照。
11 市川正人『ケースメソッド憲法』(日本評論社、1998 年)119-20 頁、松井茂記『マス・メディア法入
門[第5版]』(日本評論社、2013 年)177 頁参照。また、「わいせつ文書が性道徳や性秩序に一体いかな
る具体的影響を与えるのか、なぜ国家が性道徳や性秩序を維持すべきなのかは明らかではな」く、そも
そもなぜ国家がわいせつ文書の頒布・販売を規制することができるのかについて考える必要があると指
摘しているものとして、芦部信喜他編・前掲注(8)121 頁参照(阪口正二郎執筆部分)。
12 浦部・前掲注(10)167 頁、市川・同書 119 頁参照。
13 これらの規制根拠について問題があると指摘する見解もある。つまり、この見解は、「頒布・販売の方
法を規制することによって、見たくない者がわいせつ文書を見せられたり、未成年者が直接に販売ない
し頒布を受けて入手することはなくなるが、未成年者が成人を通じてわいせつ文書を間接的に入手する
のを防ぐことはできない」ため、「見たくない者の見ない自由、未成年者の保護を確保するために、特定
の態様の頒布・販売等の行為を規制するので十分であるのかという問題がある」と批判している。野中
井上(幸):わいせつ表現規制に関する一考察
11
する正当な理由となりうるという指摘がある14。つまり、全国民がわいせつ表現を見たくないというわけ
ではないだろうが、わいせつ表現を見たくないという人の「見ない自由」を侵害するような方法(たと
えば、日常的に利用するスーパーやコンビニ等で販売する)でわいせつ文書の頒布・販売等が行われる
場合には、実質的な害悪をもたらすものとして、わいせつ文書の規制が正当化されうるというのである。
ただ、刑法 175 条がわいせつ文書をほぼ全面的に禁止するものであるため、わいせつ物を見たくない人
の保護を目的とするならば、表現の時、場所、方法を規制し、わいせつ物を見たくない人の目に触れさ
せないようにすれば十分であろう。他方で、「青少年の保護」をわいせつ文書の規制根拠とする場合であ
るが、青少年を保護するために成人への頒布・販売をも禁止するとなると、それは成人が有する表現に
アクセスする機会を奪うことになるため違憲であるとの指摘がある15。したがって、青少年の保護を規制
根拠とするならば、わいせつ文書を全面的に禁止するのではなく、青少年の目に触れないように、また
青少年が入手できないように時、場所、方法の規制にとどめておかなければならないだろう16。なお、こ
れらをわいせつ文書の規制根拠とする場合、特定の態様の頒布・販売等の行為のみを規制すれば十分で
あるため、わいせつ文書をほぼ全面的に禁止する刑法 175 条は、過度に広汎な規制を定めるものとして
憲法 21 条に違反するとの見解が示されている17。
これらの規制根拠の他に、「社会環境としての性風俗を清潔に保つこと」、すなわち「性風俗の維持」
もわいせつ文書の規制根拠としてあげられる。これはポルノ写真誌事件判決において、団藤重光裁判官
が補足意見の中で提示したものであるが、同裁判官は「性風俗を維持するということは、…端的に社会
環境としての性風俗を清潔に保つことじたいを本来の目的とする」と述べた上で、「たとえば市街等の美
観風致を保持するために広告物等の制限や一定地区内における建築物の制限などが刑罰の制裁のもとに
認められていることを考えるとき、…風俗的にいかがわしい商品等が世上に氾濫することのないように
して、いわば精神的社会環境ともいうべきものを保護することが許されないはずはないであろう」と論
じている18。これについては、「一定の性倫理を強行するために刑罰を用いることは許されない」が、わ
俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ[第 4 版]』(有斐閣、2006 年)366 頁参照。
14 この規制根拠を評価する者に阪本昌成教授がいる。同教授は、わいせつ文書の規制が憲法上の正当な
基礎をもつためには、刑法 175 条が、性的表現からの自由を保護するという『感情侵害原理』を満たす
必要があるという。つまり、回避できない状況において、不特定多数の者にわいせつ文書を開示して、「明
らかに強度の不快・嫌悪の念を抱かしめる表現行為を処罰の論拠とするのであれば、憲法上、正当な基
礎をもつといえる」と論じている。阪本・前掲注(10)68-9頁参照。
15 阪本・同書 69 頁。なお、阪本昌成教授は、わいせつ文書の規制根拠として青少年の保護がたびたび言
及されるが、これについては一般化されてはならないと批判的である。
16 市川・前掲注(11)121 頁、浦部・前掲注(10)167 頁参照。
17 野中他・前掲注(13)366 頁、浦部・同上参照、芦部他編・前掲注(8)121 頁参照(阪口正二郎執
筆部分)。
18 最高裁昭和 58 年 10 月 27 日第一小法廷判決(刑集 37 巻8号 1294 頁)。この見解を支持するものとし
井上(幸):わいせつ表現規制に関する一考察
12
いせつ文書によって一般人の「性的感情」が傷つけられるのを保護することは許されるとの観点からは、
妥当であると評価できるとする見解がある一方で19、「見たくない人が強制的に見せられるということの
防止であればともかく、一般的な精神的社会環境を国家が判定しそれを維持することは許されぬ『お節
介』で」はないのかという批判もある20。
以上のように、わいせつ文書の規制根拠としてどのようなものがあげられているのかを概観したが、
どの規制根拠が妥当であるのか学説においても定まっていないように思われる21。ただ、強いていうなら
ば、「見たくない大人の保護」を規制根拠と捉えれば、わいせつ文書の頒布・販売の場所や方法を規制す
れば十分であり、そうであれば、刑法 175 条の規定は過度に広汎な規制を定めるものであり違憲である
と捉える見解が妥当ではないだろうか22。
3. 国家はなぜわいせつ表現を規制するのか
刑法 175 条の規制根拠を概観してみると、いずれの規制根拠も憲法 21 条との関係で正当化することは
困難なものであるといえる。それにもかかわらず、国家がわいせつ表現を規制するのはいかなる理由か
らなのだろうか。この点、最高裁は、わいせつ表現の規制は憲法 21 条に違反しないと述べている。先述
したが、チャタレイ事件判決において、最高裁は「猥褻文書たるためには、(普通人の)羞恥心を害する
ことと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される」と定義した上で、
表現の自由といえども絶対無制限のものではなく、「公共の福祉」によって制限されることを示した。上
記のわいせつ表現の定義から、わいせつ表現が国民に与える弊害とは、「人の羞恥心を害し、性欲を興奮・
刺激し、性的道義観念に違反する」という三つの弊害であるといえ、これら三つの弊害を防止し、これ
らの弊害から国民を保護することこそが「公共の福祉」であると、最高裁は捉えているといえよう23。果
て、高橋則夫『刑法各論〔第二版〕』(成文堂、2014 年)561 頁参照。
19 芦部信喜『憲法学Ⅲ人権各論(1)[増補版]』(有斐閣、2000 年)333 頁参照。
20 芦部他編・前掲注(8)121 頁参照(阪口正二郎執筆部分)。
21 先にも述べたが、なぜわいせつ文書の頒布・販売が規制されなければならないのかを明確にしなけれ
ばならない。
22 なお、刑法 175 条の合憲性については、同条が「『わいせつ』文書の頒布・販売などの方法(頒布の仕
方、売られ方)に着眼しつつ(文脈的アプローチ)、通常人にとって明白に嫌悪的なものでかつ埋め合わ
せできるような社会的価値を全く欠いている文書類の規制に限定するよう適用される必要がある」と刑
法 175 条の規定自体は合憲であると解する立場もある。佐藤幸治『日本国憲法論』(成文堂、2011 年)
264 頁参照。そして、佐藤幸治教授は、「このような規制が憲法上容認されるとすれば、『わいせつ』的
表現はそれをみたくない人にとって苦痛事であり、ポルノ大量陳列などがその周辺の生活環境にある種
の衝撃を与えることは否定できないこと、専ら公職的興味に訴えて商業的利潤追求の対象としていると
認められるものは結局埋め合わせできるような社会的価値を認め難いこと、などに求めるほかはないで
あろう」と論じている。
23 奥平康弘『ジャーナリズムと法』(新世社、1997 年)279 頁参照。
井上(幸):わいせつ表現規制に関する一考察
13
たして、これら三つの弊害は国家が取り締まらなければならないものなのであろうか。加えて、そもそ
も、わいせつ文書等の頒布は、名誉毀損的表現などと異なり、他人の自由や権利に明白な危害を加える
ものではない24。強いていえば、わいせつ表現を見たくない人が当該表現を見たことによって嫌悪感を抱
くという程度であり、これを理由に当該表現を公権力がほぼ全面的に禁止することを正当化することは
困難であろう。したがって、わいせつ表現といえども表現内容に基づく規制を行う場合、当該表現規制
は憲法 21 条に違反するといわざるを得ないのではないだろうか 25。
では、実質的な害悪が存在しているというような、明確な規制根拠が存在しないとなれば一体、いか
なる理由でわいせつ表現の規制は正当化されているのであろうか。おそらく、それは性器および性行為
等の叙述描写があまりにも行き過ぎでいやらしいという、もっぱら主観的な考え方に基づいて当該表現
を公権力が規制しているのではないだろうか25。仮にそうであれば、このような「いやらしい」などとい
う主観的な考えをもとに、当該表現をわいせつ表現として規制することは何ら説得力がなく、加えて、
当該表現が「いやらしい」という評価は、最高裁がわいせつ表現を規制すべきであるとする弊害には該
当しないといえよう。そして、このような理由で公権力が当該表現をわいせつ表現として規制するので
あれば、そこには不正な政府の動機が隠されているといえるであろう。この点、アメリカ連邦最高裁判
所の Kagan 裁判官は、彼女が学者時代に執筆した論文の中で、「不快」であるとか、「好ましくない」な
どの理由は「憲法上、容認しえない不正な動機」に該当し、そのような不正な動機に基づき、政府があ
る特定の表現を規制することは許されないと指摘している26。よって、国家が当該表現をいやらしく、好
ましくないと評価したとしても、表現内容の良し悪しの判断は公権力ではなく国民に委ねられており、
そのような判断を公権力が行い、当該表現を規制するのであれば、その表現規制は表現の自由(知る自
由)を侵害するものであり、憲法 21 条に違反することになるであろう。
おわりに
2020 年7月 16 日、最高裁は、わいせつ表現規制が問題となった、いわゆる「ろくでなし子」事件にお
24 樋口陽一・佐藤幸治編『憲法の基礎』(青林書院新書、1975 年)299 頁参照(浦部法穂執筆部分)。
25 この点、長谷部恭男教授は、問題となる文書、図画などが全く社会的価値のないハード・コア・ポル
ノであれば、それは憲法 21 条によって保護されず、「たとえ規制と規制目的との事実上の因果関係がは
っきりしない場合でも、合憲性の推定が働くためただちに違憲との結論は導かれない」と指摘している
が、仮に当該表現物が社会的価値が低い、あるいはないと評価されたとしても、社会的価値があるか否
かの評価は人それぞれ異なるため、社会的価値の存在を根拠として当該表現を規制することはやはり正
当化できないのではないだろうか。長谷部恭男『憲法第4版』(新世社、2008 年)212-13 頁参照。また、
表現の社会的価値に関する記述としては、奥平・前掲注(23)277-81 頁を参照。
25 奥平・同書 275-81 頁参照。
26 Elena Kagan,
Private Speech, Public Purpose: The Role of Government Motive in First Amendment
Doctrine, 63 U. CHI. L. REV. 413 (1996).
井上(幸):わいせつ表現規制に関する一考察
14
いて、被告人ろくでなし子の上告を棄却し、一部無罪・一部有罪という一審の東京地裁判決と二審の東
京高裁判決を支持した27。本件は、ろくでなし子と名乗って活動しているアーティストが、3D スキャナと
3D プリンタを利用し、自身の性器をかたどったアート作品をアダルトショップ内で展示したことがわい
せつ物公然陳列罪に、自身の性器の 3D スキャンデータを第三に提供したことがわいせつ電磁的記録頒布
罪に問われた事案であった。同判決においても、刑法 175 条の憲法適合性について十分な検討が行われ
ないまま、同条は憲法 21 条に違反しないと判示された。しかし、わいせつ表現規制の憲法適合性ならび
に、そもそもわいせつ表現を公権力がなぜ取り締まるのかについて、今一度考え直す必要があるのでは
ないだろうか

https://www.h-bunkyo.ac.jp/university/subject/welfare/society/img/2022/2022-3.pdf
井上(幸):わいせつ表現規制に関する一考察
7
【論 文】
わいせつ表現規制に関する一考察
井上 幸希
Yuki Inoue



裁判所の「わいせつ性」の判断基準

山口貴士氏(以下、山口):まず裁判所の判断の大きな枠組について、弁護団が主張した大きな点である「刑法175条は憲法21条・31条に反していて、無効ではないのか?」という問いについては、残念ながら裁判所に受け入れられませんでした。

裁判所はこのように言っています。

「表現の自由といえども絶対無制限なものでなく、公共の福祉のため、必要かつ合理的な制限を是認するものであって。表現の内容や手段が、他人の権利等のほかの公益を不当に害するようなものは許されていない、というべきであるところ、この法理は性表現についても同様である。

刑法175条は、表現の自由として保障され、性表現を一定の場合規制するものであるが、その規制は性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持する、あるいは性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するためのものであり、このような保護法域ないし立法目的は、価値観が多様化しつつある今日においても十分、合理性・必要性を有していると認められる」

と書いてあります。まあ、そういうことです。

裁判所の判断の中でけっこう危険なのが、女性器を模したいわゆるアダルドグッズとか、インターネットで過激な性表現にアクセス可能とか。「立法目的自体が失われてるんじゃないか」と主張してるんですけれども。

ただ、裁判所としては、「このような時勢の変化はかえって性的秩序や基礎となる最小限度の性道徳あるいは健全な性風俗の維持に脅威を及ぼしかねないものである」というかたちになっています。

裁判所は、結局「インターネット上の過激なわいせつ表現の氾濫等によって、性生活に関する秩序や健全な性風俗を脅かす事態に対応すべく、175条が活用されなくてはいかんのだ」という考え方をしてるということです。

それから、「175条の定義が明確性を欠いていて、憲法31条に違反して無効ではないか?」ということもあったんですけれども。これについても、「十分明確なんだ」ということを言っていて。この辺は、残念ながら相手にされていないということになっています。

それから、わいせつ性の判断のあり方について、今回のように物品とデータと、いわゆる文書についてのわいせつ性というのは、別の判断のあり方をすべきではないかと思うんですけれども。基本的に、この判断枠組みは同一だというのが、裁判所が取っている立場のようです。

だから「わいせつ性の判断というのは、閲覧者足りうる普通人・平均人を基準として判断するべきだ」と言っているということになります。

「デコまん」はなぜ無罪?

その上で「デコまん」については、なんで無罪という判断をしたのかというと、結局、まず形状ですよね。女性器を連想させるものではあるんだけれども、例えば色が違うじゃないかと。

例えば、「造形物・その1」については濃い水色と。女性器や周辺部の皮膚の色とはまったく異なる色に着色されてるじゃないかと。

あと、非現実的な凹凸もあるじゃないかと。あと、女性器周辺の皮膚まで忠実に再現してるとは言いがたいじゃないかと。

明らかに人毛とは違うファーで覆われているじゃないかと。だから、一見して女性器と言えるものじゃないでしょと。

それから「造形物・その2」、「デコまん・その2」についても、白色や銀色でやっぱり実際の女性器とかけ離れた色をしているし、ラメ加工もされているし、女性器の陰影も明らかじゃないし、人毛じゃないことは明らかなファーがいっぱいついてるじゃないか。

「造形物・その3」についても、クリーム色のものが散りばめられ、茶色の着色料とクリーム色と相まって、全体として洋菓子のようなイメージをむしろ与えている。ケーキみたいなイメージ。「スイーツまん」というんですから、たしかにそうなんですけども。洋菓子のようなイメージを与えてるじゃないかと。

しかも、各造形物は石膏でできているから、触感は冷たくて硬いものだ。実際の女性器とは触り方が違う。そういうことを言ってるわけですね。

それから、本件各造形物の上記の形状に照らせば、女性器を模ったものだとしても、一見して人体の一部と言えるものではないし、直ちに実際の女性器を連想させるとは言えないと。こういう判断をしているんです。

その上で、ある程度ポップアートの一種として捉えることが可能だと言っていて。フェミニズムアートの思想を直ちに読み取れるかどうかはさておき、女性器というモチーフを用いて、見る者を楽しませたり、女性器に対する否定的なイメージを茶化すという制作意図を読み取ることができるものがあって。結局、芸術的な要素によって、性的刺激は緩和されていると。

そういう理由で、「わいせつにはあたらない」という判断をしています。

裁判所の判断の仕方の中で、前からのテーゼである、「女性器そのものが写ったらダメだよ」という判断を前提にしてるわけですよね。

デコまんについては、「女性器そのものとはかけ離れてるじゃないか」というところを重視して判断してるので。「『性器そのものが露骨に写ってればわいせつなんだ』という考え方を裁判所は出し得ていないのに……」と思いました。

3Dデータはなぜ有罪?

それに引き換え、(有罪判決が下った)今回のデータについては、結局、「女性器周辺部についての形状が、起伏や細かいところも含めて、立体的に忠実に再現されてるじゃないか」ということを言っていて。結局、「女性器の精密な再現だ」ということをものすごく重要視してるわけなんですね。

これを見たら、「実際の女性器を強く連想させ、閲覧者の性欲を刺激することは明らかであって……」と言ってますから、「女性器というのが明らかであれば、見る者の性欲を強く刺激することは自ずと明らかである」と、そういうテーゼを前提にして判断をしているということなんです。

その上で、はたして「芸術性によってわいせつな要素が緩和できるか」ということについては、裁判所はけっこう辛い判断をしてると。

つまり、3Dプリンターという新しいテクノロジーを用いているが、芸術性を認めるわけではないし。「プロジェクトアートとかプロセスアートとしての芸術性や思想性を直ちに読み取ることもできないんだ」と言っています。

この判断の前提としては、「芸術性というのは、その物を見た上で判断すべきであって、前後のコンテキストを理解すべきではない」と裁判所は考えているということになります。

判決の概要は今言ったような内容で、山口のほうからは以上です。ほかに追加したい方?

ろくでなし子弁護団の見解

南和行氏:弁護士の南です。なし子さんが「ポップアートとして認められて……」ということをおっしゃってましたので、そこの部分について説明します。

裁判所の判決で、「デコまんはわいせつ物ではない」ということを言ってるなかで、「本件各造形物はポップアートの一種であると捉えることが可能である」という言い方をしています。

その中で「女性器というモチーフを用いて、見るものを楽しませたり、女性器に対する否定的なイメージを茶化したりする制作意図を読み取ることはできるのであって、本件各造形物には、このような意味での芸術性や思想性、さらにはその反ポルノグラフィックな効果が認められ、表現された思想と表象との関連性も見出すことができる」という言い方をしてるんですね。

これはまさに、なし子さんが裁判でずっと、「見る人に楽しんでもらいたい」と言っていて、「なんで女性器隠さないといけないんだろう? それはおかしい」ということ、「茶化す」という表現をよくしたかと思うんですけど、それを本当にその言葉どおり汲み取ったと。

その上で、「わいせつ物ではない」という結論を導いているということで、「ろくでなし子さんのこれまでの活動を評価してくれていると読める面もあるのかな」と理解しております。

森本憲司郎氏(以下、森本):弁護人の森本です。本日の判決は一部無罪だということで。私が調べたレベルなので、正確かはわからないんですけれども。

昭和55年、一審判決は昭和53年の6月ぐらいなんですけど、日活ロマンポルノの事件で無罪判決が1件出てるんけれども。「愛のコリーダ事件」とか。

そういう昭和50年代以降の、刑法175条のわいせつ性が問題になって、はっきりと無罪という判決が出たのは、本日がひさしぶりに出た判決というか、画期的な判決だったと思っています。

南弁護士の言ったとおり、なし子さんの「女性器に対する否定的なイメージを茶化したりする」という制作意図が作品から読み取れると裁判所が認定してくれたので、非常に納得できるというか、この判決は一定の評価ができるだろうと思います。

最高裁の判例上は、思想性・芸術性が、その物自体から読み取れるものしかなかなか判断していただけないということなので。

3Dのほうはまさにデータそのものなので、そのデータから思想性や芸術性はなかなか読み取れないというところで、ろくでなし子さんのプロジェクトアートとかクラウドファンディングとか、目的の部分がなかなか判断に入ってこなかったのかなと思っています。

控訴審ではその辺もよく考えて、判例の分析等を行って、データだけで判断するのではなくて、無罪方向であれば、明確性も関係ないだろうと思うので。ちょっとむずかしい話になるんですけれども。

できるだけ制作意図とか芸術性とか、「なぜ3Dデータを頒布したのか」「なぜ3Dデータの入った記録を人に渡したのか」というところをしっかりと理解してもらうように控訴審では頑張ってまた戦いを続けたいと思っております。

歌門彩氏:弁護人の歌門でございます。この度の判決は、デコマンについては無罪というかたちで、「ろくでなし子さんの作品、フェミニズムアートの思想を読み取れるかどうかはともかくとして、ポップアートの1つである」というような趣旨でした。

また、わいせつ性の度合いも性的刺激の度合いもそれほど強い強いものではない。その上で芸術性による刺激の緩和も認められる。そういったかたちで無罪ということになり、その点、非常に評価すべき判決だと思います。

ただ、これがデータの頒布といったかたちになりますと、女性器の形を、女性器であることを強く想像させてしまうというもので、そのままストレートにわいせつだと認めてしまった。この点に関しては非常に納得はいっておりません。

裁判所の判断基準の考慮要素としては、例えば、主として好色的興味に訴えるものと認められるか否かといった観点が入ってくるんですが。ろくでなし子さん、好色的興味に訴えて頒布したものではないと言っていることは明らかですね。

そういった点をどのように裁判所に理解させるのか、これから上訴審で戦っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

写真集のわいせつ性が争われた「メイプルソープ事件」

山口:弁護団からはこれぐらいにして、会場から質問を受けたいと思います。希望される方は挙手をお願いいたします。

メディアの方の場合は、所属とお名前を名乗ってください。そうじゃない方は別にけっこうです。

質問者1:写真家の〇〇と申します。先ほど、「『愛のコリーダ事件』以来の判決だ」という話を聞いたんですけれども。僕の理解では、2008年の(写真集のわいせつ性が争われた)「メイプルソープ裁判」……。

山口:あれは刑事事件じゃないんですよ。

質問者1:ええ。175条の兼ね合いというのはあると思うんですけれども、それで表現の自由的なものは開放されたのかなと思ったんですけれども、そのへんの認識についてちょっとお聞きしたいです。

山口:ごめんなさい。メイプルソープの事件はいわゆる行政訴訟のほうで、刑事事件として訴追されたというものじゃない。ただ、解釈の仕方としては、わいせつと同じ要素の判断なんですけども。

メイプルソープの事件というのは、結局1冊の本が対象なわけですよね。無罪というか、要するに「わいせつでない」と判断した基準としては、個々の写真を見ればどうかわからないんだけども、全体として見れば、男性器が露出して大きく写っているものは全体の一部分を占めるものに過ぎないということと。

あとは、「メイプルソープが非常に写真家として高名であって、これを購入する人はいやらしい目的で買うんじゃないだろう」と。そういうことを考慮して「わいせつではない」ということを出したわけなんです。

なし子さんの事件とどこが違うかというと、なし子さんのものは1品ものなんですよね。本で何個かそういうカットがあるわけじゃなくて。

今回無罪の「デコまん」というのは、1個の作品が女性器を模った作品ということです。1品ものについて、どういうふうに判断するかという点で、メイプルソープの判決とはちょっと違う。

ただ、メイプルソープの判決も、男性器が写った写真だけを単体で取り出して配ったりした場合にどうなるかというのは、あの基準だとよくわからないということで、違うところがあると思います。

メイプルソープ事件で、性表現の開放という、自由になる方向に大きく動いた判決であるということは否めませんけども。若干対象になってるステージというか場面が違うものになると理解しています。

森本:弁護人の森本です。今ご指摘されたとおり、メイプルソープの最高裁の判決というのはすごい重要な意味があって。我々もメイプルソープの写真集も証拠で提出しております。

というのは、検察官、捜査機関側は「性器=わいせつ」という概念を取ってるように思われるので。メイプルソープの写真集、この中で見られた方いらっしゃるかわかりませんが、露骨な男性器がたくさん写ってるわけですね。

その写真集について、はっきりと「わいせつではない」と判断したのがメイプルソープなので。裁判所に「性器=わいせつ」だと判断しないでほしい。それはメイプルソープの写真集もしっかり見て判断してほしいと思って、証拠も提出しております。写真集原本を裁判所に出して、それを見てもらってます。

それから、メイプルソープの事件は、関税法で関税定率法の21条1項4号の輸入規制になって、それの対象として取り消し訴訟を起こしてる事件で。

例えば、なし子さんの「デコまん」を海外からもう1回持ち込んだときに、そこで「日本に入れちゃいけません」という税関からの処分をもらって、その取り消し訴訟をやれば、同じような事件になったんですけれども。

メイプルソープのほうは刑事罰を課されたわけじゃなくて、ちょっと事件としては質が違うのかなと思います。

山口:よろしいですか? じゃあ、そちらの女性の方。

2回目の逮捕について

質問者2:朝日新聞の○○です。今日、「デコまん」については「無罪」が出たということで。「2度目の逮捕というのはなんだったのかな?」というのを改めて思うんですけれども。「けっこう無理があったんじゃないかな?」という印象を受けたんですけれども。

検察のほうでもまた控訴するかもしれませんけど、今後、国賠訴訟とかは検討されてるんでしょうか? もう1つの質問もまとめてしまいます。

一方、3Dデータのほうは「罰金」ということになったわけですけれども。これもまだ確定したわけじゃないのであれなんですが、いろいろ判決が出たことでの波及的な影響というのはありえると思うんですけれども。このことによって、今後世の中にどんな影響がありえるのか。

3Dデータで真っ白なものであっても、「性欲を刺激する」と認められたわけなので。例えばこういうアート作品にデータを使う場合とか、アダルトグッズで3Dデータを使って作るとか。いろんな使い方の可能性があると思うんですけれども、今後社会にどんな影響が出ると思いますか?

山口:最初の「そもそも2回目の逮捕が不当なものだったんじゃないですか?」というのは、それはその通りですね。

最初に逮捕されたときに、結局勾留できなかったんですね。準抗告が通って釈放されたと。

それはどういうことかというと、共犯のいない事件だったから、在所隠滅をすると疑うに足る相当の理由が認定できない、ということで蹴られてるわけですね。

そうすると、今度はなにがなんでも共犯事件にしないと事件として立たないと。共犯事件にした上で、なし子さんを勾留して取り調べて自白させようと。そういう意図が絶対あったということは間違いないんだろうなと思うわけです。

共犯が必要だから、北原みのりという人も一緒に引っ張ったということですね。一方が「罰金刑」で有罪を受け入れてしまっていれば、こっちのほうもなかなか(無罪が)認められないだろうというのがたぶん戦略にあったと思うんですよ。

そういう逮捕のやり方について、いろいろ言いたいこともあるし、不満もあるんですけども。最終的に国賠とかどういうことをするかということについては、それは全部決着ついてからでしょうね。それまでに考えてもちょっとしょうがないと思うので、それはそのときに考えたいと思います。

今後の性表現・アート作品に与える影響

それから、「(3Dデータの)白いものでも影響を与える」というのは、裁判所の心の読むだに、すごく細かいところを再現できてるということを重要視していて。

「デコまん」はそこまで精密ではないということを重要視してるから、写真で撮った場合と同じような感じに考えてるんじゃないかなというイメージがあるわけですよね。

女性器を写真で撮った場合について、わいせつになると扱われることは、実務的にはあんまり争いないと思います。

もちろん医学書とかは別ですよ。『日本女性の外性器』とか、ああいう集めた本とか、あれは普通に流通してますし。「アート的な文脈で……」というのはなかなかないのかもしれないですけれども、医学とかそういう関係ではたぶんそういう影響はないのかなと思うんですけれども。

ただ、やっぱり女性器を使って、スキャンして、というかたちになってくると、1つの新しい表現技法とか、そこのところの関係では萎縮効果が広がってしまうということは当然あると思うんですね。

往々にして、今回の判決で「全部そういうものはダメ」と言ってるわけじゃないんだけども、必要以上に「3Dはダメなんだ」みたいな感じで萎縮効果広がっていってしまうというのは懸念されるところだと思います。

ただ、それは裁判所の責任という面もあるし。弁護団の責任もあるんですけど、編集者とかの責任も大きいと思うんですよね。作家の人とかはわからないわけですよ。

そこのところで、キューレーターとか編集者の人がちゃんと正確な知識を持って、「ここまでは大丈夫かどうか」ということについて、きっちり考えるというのは、必要以上に萎縮しないということについての1つの有効な予防策ではないかと思います。

今回の件とぜんぜん関係ないですけど、昔の東京都の非実在青少年のときの話でも、編集者が必要以上に怯えてて、結果的に作家による創作活動が萎縮するというケースをずいぶん見たんですよね。それと同じようなことになるんじゃないのかなとは懸念しています。

須見健矢氏:今回、非常に裁判所に失望したのは、いわゆるプロジェクトアートという概念を用いて、なし子さんのやっている活動が、データの頒布というその行為自体を切り取って見るのではなくて、全体の過程がアートなんだということを林(道郎)先生が証人に立っていただいたり、美術の牧先生など、たくさんの先生方に意見書を出していただいたんですが、そこがちょっと裁判所に理解してもらえなくて。そこが非常に残念です。

裁判所も「そういう芸術性・思想性を見るも余地もある」ぐらいにしか評価してないんですね。本来、そこをもう少し評価するべきなんじゃないかなと。

そういうところで、こういったプロジェクトアートみたいな活動をしてる方にとって、萎縮的な効果を生むのは、非常に残念と思ってますので。そこを今後は頑張っていきたいと思います。

「わいせつのK点を超えるか超えないか」

質問者3:イラストレーターの〇〇と申します。裁判で問題になってるのは、「わいせつか、わいせつでないか」だと思うんですけれども。

今お話を聞いてたら、その「わいせつか、わいせつでないか」の基準で、「芸術性があるか、ないか」「精密であるか、精密でないか」という判断基準がまた2つあって。結局、「芸術性があって精密でなければ、わいせつじゃない」という判断をされたということなんですか?

山口:そこはわかりやすく言ってしまうと、わいせつの3要件というのがあります。その中で実質的に一番強いのは「いたずらに性欲を興奮もしくは刺激せしめるかどうか」とあるわけですよ。

本当はおかしいんですよ。だけど、裁判所が取ってるテーゼというのは「絶対的わいせつ物がある」という発想で、「これを見れば、みんなが発情するような絶対的わいせつ物があるのだ」ということがあります。

そんなことないんですよね。耳を見て興奮する人もいるし、鎖骨の形を見て興奮する人いるし、太ももが好きという人もいるんですけれども、「性器を見ると興奮する」という前提で裁判所は考えてるわけです。

そうすると、性器がよりリアリティですよね。精密に再現されていれば再現されているほど、性欲の刺激レベルが上がっていくんだ、ということになるわけです。

一方で、芸術性があれば、いやらしいことじゃなくて、アーティスティックな観点で見るとか、学術的な観点とか、そういう意味で見るから、性欲の刺激がどんどん弱っていくんだとなっていくわけです。

つまり、一方は強める要素、一方は弱める要素と考えていて。「これ以上性欲を刺激させたらやばいだろう」という、「わいせつのK点を超えるか超えないか」という判断基準になってるとご理解していただければと思います。

「デコまん」はなぜ無罪?
ろくでなし子裁判で争われた“わいせつのK点超え”


山口貴士氏:まず最初に、ここにいらっしゃる方々はご存知でないかもしれませんけれども、今回の判決は「一部無罪」の判決でした。

大手各社の報道を見るに、「罰金」と書いてあると思うんですけれども、一部無罪というのは175条の事案において非常に珍しいと。

関係する限りにおいては、ひょっとしたら「愛のコリーダ事件」以来の、30年ぶりくらいかもわからないということで、非常に歴史的な価値の高い判決ではないかと考えておりますので、報道される際にはその旨も報道いただいたほうが、より多くの視聴者も集まるのではないかと思いますし、国民の知る権利にも奉仕することができるのではないかと思います。

単に「罰金刑」と書くだけでは、ここに来る必要もないと思いますので、その点をご留意いただければと思います。

3Dデータの頒布は有罪、デコまんは無罪

どの部分が有罪かということなんですけど、3Dデータを頒布した件。いわゆるクラウドファンディングでお金をくれた人に対して、3Dデータをメールで送ったという件と、画廊でCD-Rに入れた3Dデータを渡したという件については有罪ということです。

これに対して、女性器を樹脂で型どって、石こうを流し込んで固めたものに、着色とかデコレーションをほどこした、いわゆる「デコまん」と言われるアート作品については、すべて無罪というのが裁判所の結論でした。検察官の求刑は「罰金80万円」で、それに対する判決は「罰金40万」と。

なお、一部無罪になった部分については、なし子さんの単独犯ということではなく、北原みのりと共謀してやったことになっているので、北原さんのほうは略式命令で罰金刑が確定していますので、ここでは判決の結論が分かれたということになります。じゃあ、須見先生。

須見健矢氏:主任弁護人の須見です。本日はお集まりいただきありがとうございます。これまで8回公判を開きまして、多くの傍聴人の方に来ていただいて、大変関心をもっていただいて、応援してくれる方もたくさんいらして、今日「一部無罪」という結論ではあったんですけど、最低限の結果が出たかなと思っています。

データの頒布については、残念ながら有罪となってしまいましたが、先ほどまた控訴をしてまいりました。これからまた控訴審で無罪を目指して戦っていく所存ですので、引き続き応援よろしくお願いいたします。

「デコまん」はポップアートとして認められた

ろくでなし子氏:今日は雨のなか、説明会にお集まりいただきありがとうございました。「一部無罪」ということで、私は全部無罪を確信していたんですけど、なかなか私の活動が世の中の方々に理解されていないということもあって、裁判官の方がはたして認めてくださるのか不安だったんですけど、私の「デコまん」という作品について、「ポップアートとして認められる」と認識してくださったことは、とてもうれしかったです。

それ以外のデータに関しての判決については、とうてい不服ですので、これらも上告して争っていきたいと思います。あっ、失礼いたしました。控訴して、最高裁まで争っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。あっ、次は高等裁判所でした。失礼いたしました。

Occurred on 2016-05-09, Published at 2016-05-09 16:13

ろくでなし子「デコまんはポップアートとして認められた」歴史的な“一部無罪”判決にコメント


開始日

2021年8月6日

署名の宛先

衆議院2人の別の宛先

この署名で変えたいこと



署名の発信者 塚本 紘士

何の科学的根拠もなく、歴史的春画や成人向けの表現等の性表現をモザイクや黒塗りで規制し、表現者やそれを見たい人々を迫害している刑法175条の廃止を求めます!

※直筆の署名も募集しています。詳しくはこちら。

https://note.com/stopcc175/n/nc5cdff85b876



※もし過去に類似の署名を行っていた場合でも、改めて署名していただけると幸いです。

※名前を公開されたくない方は、「賛同した際、自分のアカウント名及びコメントを表示させる(チェックを外しても賛同はできます)」のチェックを外せば公開されなくなります。

※ Short Description : https://www.reddit.com/user/stopcc175/comments/qv3u4m/japans_antimosaic_movement/


ものすごく簡単に言ってしまうと、問題だらけの悪法である刑法175条の廃止を求める署名です。刑法175条はこんなとんでもない法律なのです。

科学的根拠一切無し、明治の古い価値観が残ってしまった悪法

・権力者が表現規制を行い、芸術家や表現者を差別、弾圧、脅迫、拘束する悪法

・歴史的春画や成人向けの表現に、不当なモザイクや黒塗りを強要する原因

・女性や性暴力被害者を守ったり、レイプや公然わいせつを取り締まるような法律ではない


刑法175条は、明治時代に導入された検閲制度が元になっています。西洋文化が日本に流れ込む時代で、日本の伝統的な性風俗が悪いものという価値観を押し付けるため、春画などの表現物を規制する制度が誕生してしまいました。この、科学的根拠のない古い考えが、100年以上後の現代にも刑法175条という形で残ってしまっています。こんな人権侵害とも言える法律を、令和に入った現代に残しておいていいのでしょうか?


現在の刑法175条の条文はこのようになっています。

(わいせつ物頒布等)

第百七十五条 わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。

2 有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。



刑法175条が指す「わいせつ」として、1957年のチャタレー事件の判例があります。これによると、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」とあります。また、この「わいせつ」の基準の元は、1951年のサンデー娯楽事件の判例が元となっています。

なぜ、性欲を興奮又は刺戟せしめるといけないのでしょうか?

普通人とはなんですか?多様性が叫ばれる現代で、普通とは誰を指すのですか?

善良な性的道義観念とは何ですか?どこにそれが定義されているのですか?それに反したら一体何が起こるというのですか?

このように、刑法175条が指す「わいせつ」は極めて曖昧です。さらに、その根拠も全く示されていません。乱暴な言い方をすると、権力者や警察、裁判所等が、古い価値観でもって、芸術家や表現者に対して自由に表現規制や迫害をできるように、この刑法175条が残っているようなものです。


この刑法175条を悪用し、実際に警察や裁判官が、表現者やその家族を差別したり恐喝するといった出来事も起きています。それが松文館裁判です。逮捕された漫画家や出版社の方々は、既に性器表現に網掛け修正の自主規制を行っていたにもかかわらず、世間への見せしめとして逮捕されました。さらに、取り調べの際、検察官が「争うなら社員を全員逮捕するぞ」「文句を言うなら釈放を取り消すぞ」と脅したり、警察が「認めなければ社員や家族を全員逮捕して、マークして何度でも逮捕してやるぞ」と脅すなど、人権を無視した違法な捜査が行われていたとの証言が存在しています。さらに第一審裁判長は「40%の網掛け修正は小さすぎるため違法」「反省する態度は全くみられない」という何の科学的根拠もない感想を述べた上で懲役1年を科しています。これはもはや、権力による弾圧と言っても過言ではありません。刑法175条という悪法は、このようなことに利用されているのです!



近年の判例ですと、「性器」そのものが描写されているかどうかだけで、不当な逮捕や起訴がされています(特にろくでなし子裁判)。なぜ、「性器」そのものが描写されていると、刑罰に処されるのでしょうか。誰かに無理やり見せた、とか、誰かを傷つけた、不利益を与えた、などはしていないのです。多くの人間が持っている「性器」の描写の一体何が問題なのでしょうか。どんな科学的根拠があってこのような迫害をしているのでしょうか?「性器の修正が十分」なものが「性器の修正が不十分」になった瞬間、どんな不都合が生じるのですか?そもそも、何を根拠に「性器の修正が不十分」とするのですか?性器修正何%なら健康被害を抑えられる、等の明確な根拠はあるのですか?

何の科学的根拠もなく、人々を迫害し続けている悪法 刑法175条は、今すぐ無くさなくてはなりません。


また、この刑法175条の問題点は、見たくない人は見なくていいような自主規制をしていても関係なく、対象となってしまうことです。見せたい人が表現し、見たい人だけが見るものを対象にしています。誰も傷つけたり、不幸になる人も居ない、被害者が全く居ない。しかし刑法175条によって、多くの表現者があらぬ罪を着せられているのです。性犯罪や性暴力を取り締まるような刑法ではありません誰も傷つけず、むしろ元気を与えようとする表現者だけを、本当に何の科学的根拠もなしに不当に処罰する刑法となっています。

(ちなみに、刑法175条が無いと路上で性器を無理やり見せられるじゃないか!と思うかもしれませんが、それは刑法174条の対象となるので、刑法175条は無くても全く問題がありません。)



この刑法175条がある限り、日本の表現者や、それを見たい世界中の人々が不利益を受け続けます。権力者が自由に表現者を迫害することが出来ます。誰も幸せにはなりません。もう既に100年以上、この刑法175条に様々な人々が虐げ続けられてきました。表現の自由を侵害し、表現者や、それを見たい人の不利益となっている刑法175条の廃止を求めます!





署名の提出は、衆議院の請願・陳情書・意見書の手続に沿って、参考資料として添付して行います(参議院はこちら)。

過去の請願提出実績は下記の通りです。

https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/seigan/208/yousi/yo2081904.htm

https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/seigan/211/yousi/yo2112645.htm

署名の募集期間は未定です。

収集された個人情報は本署名運動のみに利用し、不要になった時点で破棄します。

https://www.change.org/p/%E5%9B%BD%E4%BC%9A-%E5%88%91%E6%B3%95175%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BB%83%E6%AD%A2%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%99
刑法175条の廃止を求めます

1957年のチャタレー事件の判例

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/271/051271_hanrei.pdf

1951年のサンデー娯楽事件の判例

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/650/054650_hanrei.pdf






松文館裁判(しょうぶんかんさいばん)とは、松文館から発行された成人向け漫画わいせつ性をめぐる裁判である。

概要

2002年、「松文館」から発行された成人向け漫画がわいせつ物にあたるとして、同社の社長貴志元則、編集局長及び著者である漫画家のビューティ・ヘアが逮捕された。

原審 東京地方裁判所刑事第2部 平成17年刑(わ)第3618号、控訴審 東京高等裁判所第6刑事部 平成16年(う)第458号。上告審 最高裁判所(第一小法廷)平成17年(あ)1508号。 控訴審では漫画家のちばてつやが証言をしている。

経緯

2002年8月、平沢勝栄衆議院議員(自由民主党)の元に、支援者の男性から「高校生の息子が成人向け漫画を読んでいる、なんとかして欲しい」といった内容の投書が届いた。警察OBである平沢は、その手紙に自身の添え状を付けて警察庁に転送した[1]

これをもとに当局が捜査を行った結果、同年10月、同社から発行されていた成人向け漫画の単行本「蜜室」に対して、刑法第175条(わいせつ物頒布等)に抵触するわいせつ物であるとし、著者の漫画家、松文館の社長、編集局長を逮捕した。なお、著者と編集局長については、逮捕直後に略式裁判により、それぞれ罰金50万円が確定している。

成年誌「姫盗人」のうち、「蜜室」だけが取り上げられて起訴された理由として、検察側は裁判の中で「絵が上手すぎるから」と説明した。また、この漫画では生殖器を作画した部分には、範囲の40%に当たる面積を黒く隠蔽する「網掛け」が自主規制として行われており、これは成人向け漫画のなかで一般的な水準、ないしは厳しい方だった[2][3]。これらの事から考えて、「蜜室」が他の作品と比べてことさらに違法性があったわけではなく、見せしめとして摘発されたと考えられる。

なお、一審の判決で中谷雄二郎裁判長は「市場に出回っている多くの成人向け雑誌は、摘発していないだけで本来違法である」と明言しており、その上で「40%の網掛け修正は小さすぎるため違法」と述べている[2]

なお、取調べの際に検察官が「争うなら社員を全員逮捕するぞ」「文句を言うなら釈放を取り消すぞ」と脅したり、警察が「認めなければ社員や家族を全員逮捕して、マークして何度でも逮捕してやるぞ」と脅すなど、人権を無視した違法な捜査が行われていたとの証言が存在する[2]

裁判内容

第一審

2004年1月、東京地方裁判所刑事第2部中谷雄二郎裁判長は「被告人は、当公判廷において、本件漫画本を頒布したことは認めながらも、そのわいせつ性について争うばかりか、本件漫画の描写がリアルかどうかなどは専門家でない警察官や検察官には分からないなどと広言して、自己の行為が社会に与えた悪影響について反省する態度は全くみられない」として、わいせつ図画頒布の初犯としては異例の懲役1年・執行猶予3年の判決を下した。被告人側は即日控訴した。なお、判決文読み上げ中に不当判決を叫ぶ傍聴者が、退廷を命じられる一幕もあった。

控訴審

控訴審では一転、2005年6月に 東京高等裁判所第6刑事部田尾健二郎裁判長の判決文には、「検察官の取調べにおいては、本件漫画本がわいせつ物に当たることを認め、本件犯行について謝罪の気持ちを有していたという事情もある」「漫画のわいせつ性は実写に比べて相当の開きがあり懲役刑は重過ぎる」として一審判決を破棄、罰金150万円の判決を下した。

最高裁

被告人側はあくまで無罪を主張し上告したが、2007年6月14日に、最高裁判所第一小法廷(才口千晴裁判長)は、二審判決の漫画もわいせつ物に当たるという判断を支持。また、チャタレー事件の最高裁判決等を判例として、憲法における表現の自由の侵犯には当たらないと判断、上告棄却を決定。これにより、二審判決が確定した。

影響



この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "松文館裁判"ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年7月)

実際に、初版のコミックスの修正を確認すると、かなり薄いカケアミのトーンが局部部分に貼られているだけで、ほぼ全ての作画(性器)が見える状態であり、局部修正としては半ば意味をなさないものと言える状態であった。

裁判後、局部の修正の強化が各社でなされ、モザイク修正・黒ベタ修正・ホワイト修正などが施され、局部が一部または全部が見えない状態が一般的となった。

脚注^ 毎日新聞 東京朝刊 「表現の規制、新たな動き 漫画「蜜室」わいせつ裁判」 2003年8月19日
^ a b c 松文館裁判
^ 長岡義幸『「わいせつコミック」裁判 松文館事件の全貌』道出版、2004年1月、ISBN 486086011X


関連項目チャタレー事件
四畳半襖の下張事件
悪徳の栄え事件
萎縮効果

松文館裁判出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



一部有罪が確定した最高裁判決



(女性器3Dデータ送信「ろくでなし子」被告有罪確定(2020年7月16日) テレ東ニュース公式チャンネル)

日本国憲法21条は「一切の表現の自由」を保障している。規制があるとしたら、誰かの権利(人格権や著作権など)を害しているか、社会の安全を害するような行為だ。しかし刑法175条はその例外として、被害者がいない場合でも「わいせつ」な表現内容を処罰の対象としている。

しかし、ここにまた例外がある。いったんは「わいせつ」に当たるとされた作品が裁判で「芸術的・思想的価値」が認められ、「わいせつ」に該当しないと判断される場合がある。「ろくでなし子」事件はこれをメインの争点とする裁判となった。

7月16日に出た最高裁判決は、ろくでなし子さんの上告を棄却し、一部無罪(先に確定済み)・一部有罪(今回の上告で不服とされた部分)という一審の東京地裁判決と二審の東京高裁判決を支持した。判決文は判決直後に裁判所サイトにアップされた。見ると、ほとんどが刑事訴訟法に関する判断である。簡単に言うと、この最高裁への上告は、刑事訴訟法上そうすべき理由が認められないので、二審までの判決内容でよい、というものだった。

刑事訴訟法では、二審までの判決(原判決という)に憲法違反があった、または憲法解釈が間違っていた、という場合(405条)に、最高裁に上告できる、となっている。今回の最高裁判決は、そこを認める余地はない、と言い切っている。また、最高裁が原判決を破棄しなければ著しく正義に反する場合(411条)にも当たらない、とわざわざ言っている。

判決後、Zoomで報告会が行われ、筆者も参加した。その席上で、ろくでなし子さんをはじめ何人かが、こんな判決のためにわざわざ「判決言い渡し」をする意味があったのか、と疑問を語っていた。たしかに、この判決に意味を見出すとすれば、「裁判所は憲法違反の疑義を持ってきても受け付けません」と宣言しているのか、という気がしてしまう。それ自体も論じる価値のある「問題」なのだが、ここではこの裁判の中身のほうに目を向けてみたい。

ろくでなし子事件 何が裁かれたのか

最高裁は、二審の東京高裁判決をほぼそのまま支持している。二審の東京高裁判決は、一審の東京地裁判決をほぼそのまま支持している。だから、この判決の内容を理解するには一審の東京地裁2016年5月9日判決までさかのぼらなくてはならない。

本件被告のろくでなし子さんは、2014年、都内アダルトショップで、女性器をかたどった立体造形物を展示した。後に裁判所からは、写実性が薄く装飾の要素の多い造形物、と評されることになる。これを作品Aとする。

また、3Dプリンタによって女性器をかたどった立体造形物が再現できるデータを送信し、このデータを記録したCD-Rを販売したり、頒布したりした。これを作品Bとする。この両方が、刑法175条に問われて、起訴された。

2016年5月9日の判決で、東京地裁は、Aについては「無罪」、Bについては「有罪」(罰金40万円)との判決を示した。ここでは、従来の「わいせつ」の定義を踏襲した上で、そこに「芸術性・思想性」があるものについては例外的な考慮をする、という考え方がとられている。その考慮をすべき作品かどうかで、有罪・無罪の判断が分かれた。

これまでの判例と争点、「歴史的判決」

刑法175条「わいせつ」について、日本では、1957年の「チャタレー夫人の恋人」判決(以下、「チャタレー」判決)以来、《羞恥心を害すること、性欲をいたずらに興奮させたり刺戟したりすること、善良な性的道義観念に反すること》が「わいせつ」とされた(筆者による趣旨要約)。以後、1969年の「悪徳の栄え」事件判決、1980年の「四畳半襖の下張」事件判決といったいくつかの最高裁判決の中で、判断の枠組みが作られてきた。

これら一連の裁判で繰り返し問われてきたことを整理すると、以下のようになる。

(1)刑法175条は表現の自由を不当に制約しており、法令として憲法21条に違反しているのではないか。

(2)刑法175条にいうわいせつの概念は、漠然不明確であるため刑罰法規としては憲法上要求される適正性を欠いているのではないか。

(3)刑法175条は法令として合憲であるとしても、本件の表現物は、これまでの判例に照らすと、本条にいう「わいせつ」に該当しないはずではないか。

(1)の点について、最高裁判所は、1957年の「チャタレー判決」以来、「最小限度の道徳」を維持するという立法目的を正当と認めて、刑法175条を憲法違反とする可能性を認めてこなかった。また、(2)の点も、裁判所は退けている。とくに今回の最高裁判決は、この点の主張を真っ向から否定しているように読める。そして、起訴の対象となった表現が175条に該当するかどうかの判断だけが、裁判所が取り上げる争点として生き残ってきた。

こうした裁判の積み重ねの中で、「わいせつ」に当たる部分があっても、作品の全体を見て判断して「わいせつ」に当たらないとする場合がある、という考え方が示されるようになった。1980年の「四畳半襖の下張」事件判決では、作品の芸術性・思想性を総合してみたときに作品を「わいせつ」ではないとする場合もあるとする考え方が示された。

判断のための理論としては、こうして作品の芸術的・思想的価値を考慮する余地が開かれてきたわけだが、これらの裁判ではどれも、それでも有罪とされている。この種の裁判で無罪判決が出たのは、約40年前、1982年の「愛のコリーダ」事件判決くらいのものではないだろうか。そのくらい、実際に無罪判決が出るのは稀有なことなのである。ろくでなし子さんが「歴史的判決」と書いた旗を掲げたのは、その意味だろう。

(刑事事件ではないが、作品の「芸術性」を評価して「わいせつ該当性なし」とした最高裁の判決としては、2008年、税関検査での処分が問題となった「ロバート・メイプルソープ写真集」事件最高裁判決もある。)

芸術性=装飾性?

こうした積み重ねがあった上で、2016年東京地裁判決は、ろくでなし子さんの作品が「芸術性・思想性が…わいせつ性を解消させる場合」にあたるかを検討したわけである。そして作品Aについては、「女性器を連想させうるもの」だが、「それだけでわいせつ性を肯定できるほど強いものではない」と評価している。その理由として、「本件各造形物はポップアートの一種であると捉えることは可能」であり、「女性器に対する否定的イメージを茶化したりする制作意図」や、「このような意味での芸術性や思想性」が認められるため、「性的刺激が緩和され」、今日の健全な社会通念に照らして、「刑法175にいうわいせつ物に該当しない」と判断された。

次に、3Dデータ送信を行った作品Bに関しては、本件データは「実際の女性器を強く連想させ、閲覧者の性欲を強く刺激することは明らか」であり、芸術性・思想性等による性的刺激の緩和を「大きく評価することはできない」ため、今日の健全な社会通念に照らして「刑法175にいうわいせつ物に該当する」と判断され、有罪とされた。



(記者会見する「ろくでなし子」被告 2016年5月9日 時事通信映像センター公式チャンネル)

無罪となった作品については、検察が上告しなかったために、二審で無罪が確定した。ろくでなし子さんは、二審で有罪となった部分だけを不服として、上告した。その上告審の判決が、16日の判決だったわけだが、この最高裁判決の中には、これまでの蓄積から後退しているのではないか、と思えるところがある。

作品Bの3Dデータによる造形作品について最高裁は、「結局のところ、わいせつ物の頒布自体を目的としたものとしか言えない、だからわいせつに該当するのだ」という意味のことを述べているのだが(筆者による趣旨抽出)、では、作品Aのように飾りがあれば飾りの部分に芸術性や思想性を認めることもあるが、飾りのない「そのもの」の表象に価値があるという思想は、思想として認知されない、ということになるのだろうか。引き算をすると、芸術性・思想性を認めることができるのは飾りの部分だということになるのだが、これは美術を少しでも勉強したことのある人なら、呆れてしまう古さだろう。

明らか、と言ってしまうことへの疑問

最高裁への上告は、この作品B有罪の部分を憲法違反だとして行われたのだが、それが16日、まったく否定されたわけである。

その否定を理由づける中で、刑法175条は不明確な条文ではない(明確な内容を持っている)と最高裁判所は言う。しかしそこで言われる「わいせつ」とは生殖器の描写を言うのか、性行為描写の誘淫性を言うのか。この判決で参照された先例はすべて性行為場面の文章表現を問題とした判例である。標本のような人体模型について、同じことが言えるのかどうか。

筆者は、有罪となった作品Bを見ることができないので、そこを論評することができない。しかし、Zoomで行われた会見でも代理人の弁護士たちが、「標本か、地形の断層、立体地図の等高線のようなものにしか見えない」と発言しており、3Dプリンタで出力した後の立体物で性欲が刺激されることは常識的に考えて難しい、と首をかしげている。

裁判官が「明らかだ、明確だ」と言っているのだからそうなのだろうと思い込むことは、できないようである。むしろ、実際にその表現を見ていない人間たちがその「明らか」を鵜呑みにすることを求められているという、この思考法に、危ういものがあるのではないだろうか。

ある表現を刑事罰の対象とするということは、こうした「議論不可能」の状態を引き起こす。「表現の自由」の理論は本来、こうした「議論不可能」な状態を防ごうとする理論である。ところが、日本でもアメリカでも、「わいせつ」問題については、「表現の自由」の理論が使われないことが、判例の中で慣例化している。「わいせつ」裁判では、そのような規制手段が手段として必要最小限のものなのかどうか、もっと人権制約の度合いの少ない手段は考えられないのか、といったことが論じられないのである。

なぜですか、本来使うべき理論を使うべきだと言ってもいいのではないですか、と日本やアメリカの判例に精通している学者たちの集まりの中で言ってしまうと、おそらく筆者のほうが「不勉強」とみなされて失笑を受けるだろう。奇妙だが、どの角度から問題を見ようとしても、議論不能のままやんわりと視界が塞がれているような状態である。

筆者自身は、刑法175条はもう廃止して、差別・虐待を煽るような性表現を対象とする新たな規制を作り直すのが理にかなった道だと考えている。刑法175条そのものの憲法適合性について、裁判所が取り上げようとしないならば、社会で、本格的な議論が必要になってきたと思っている。

 ↓参考のため、そのあたりの論点を筆者なりに整理したインタビュー記事を挙げる。

「わいせつ表現」規制と女性差別克服は関係ない? 憲法学者・志田陽子氏インタビュー

この楽し気な空気は…

そんな中で救いなのは、「不当判決」「歴史的判決」というメッセージを手にしたろくでなし子さんの、晴れやかな表情だろう。ツイッターに投稿された顔写真のマスクには、けいさつ、ありがとう、とも書かれている。

この写真、ツイッター経由でご本人の了解を得て、この記事のトップ画像に使用させていただくことができた。

これを見れば、刑法175条に何の意味があるのか、とますます問いたくなる。もうこんなゲームに警察を使うのはアホらしい、こんなことに目くじらを立てるだけ、税金と人的資源の無駄遣いではないかと。多くの人がそう感じたのではないだろうか。その意味で、ろくでなし子さんはこのゲームに勝ったのかもしれない。

記事に関する報告

志田陽子



武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/6780da94b0155399c2ffcfb55d66600d25e2ee7b
ろくでなし子裁判・最高裁判決は何を裁いたのか ――刑事罰は真に必要なことに絞るべき



志田陽子



武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

2020/7/17(金) 7:00




第211回国会 請願の要旨

新件番号 2645 件名 刑法第百七十五条の廃止に関する請願 要旨  現在我が国では、刑法第百七十五条の規定により、わいせつ物(画像、漫画、動画など)の頒布が禁止されている。わいせつ物とされる表現物は時代ごとに無根拠に変化し、今の警察や裁判所では、性器が明らかに確認できる無修正やそれに近い表現物をわいせつ物とする運用がなされている。刑法第百七十五条は百年以上前に制定された科学的根拠のないものである。わいせつ物の頒布は、刑法第百七十五条の保護法益である性的秩序や性道徳を害することを示す調査結果が一切把握されていないことが、法務省と警察庁によっても示されている。そもそも性的秩序や性道徳、わいせつ物の定義についても、その具体的な内容を示すことはできないと法務省と警察庁は回答しており、明らかに刑法第百七十五条は、憲法で保障されている表現の自由を無根拠に制限するものである。刑法第百七十五条に違反すると判断されたクリエイターは身体を拘束され、無意味に重い刑罰を科される。今まで男女問わず多くのクリエイターが、身体や表現の自由を公権力に奪われた。現在もこの刑法第百七十五条によって、我が国の多くのクリエイターが、自身が本当に表現したいものを表現できない状態にある。刑罰を恐れ、表現したいものを必要以上に修正する萎縮効果も生まれている。現在、全世界で驚異的な進化をしているAIについても刑法第百七十五条に該当することを恐れ、国内産AIの進化が他国と比較して遅れる可能性がある。長きにわたりクリエイターが無意味に抑圧されている状況を解決すべく、全国で刑法第百七十五条の廃止を求める声が高まっている。かねてより刑法第百七十五条は違憲の疑いがあると法学者にも指摘されてきた。刑法第百七十五条を廃止すれば、クリエイターはより自由な表現を安心して行うことができるようになる。
 ついては、次の事項について実現を図られたい。

一、刑法第百七十五条を廃止すること。

https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/seigan/211/yousi/yo2112645.htm
第211回国会 請願の要旨

新件番号 2645 件名 刑法第百七十五条の廃止に関する請願