2024年4月4日 0:00英語で読める民主主義、不完全でも独裁に勝るマーティン・ウルフチーフ・エコノミクス・コメンテーター.Democracy Does Cause Growth.今、民主主義を見つめ直す平地秀哉教授が考える「熟議民主制」とは?PDF魚拓




筆者は3月末、インドの報道機関が開催したウェビナーで民主主義の窮状について話した。講演後、インド人はそもそも民主主義に興味を持つべきなのかと聴衆の1人から質問があがった。民主主義は、西側諸国が他の国々に対して押し付けている思想ではないのか。途上国は、従来の強権政治のままのほうが成長できるのではないか、と言うのだ。

筆者はこの質問に戸惑うと同時に、喜ばしくも感じた。戸惑ったのは、教育水準が高いインドのエリート層の一員が公の場でこの質問を提起したことに何らかの意味があると思ったからだ。喜ばしく思ったのは、同じ疑問を持っている人が多いことに筆者は気づいていたからだ。それは途上国だけではない。独裁国家の魅力は高まっている。
独立系シンクタンクのフリーダム・ハウスは報告書「世界の自由度2024」の中で、「世界の自由度が23年に18年連続で低下した」と述べている。この10年間、多くの途上国で参政権と市民権が大きく後退した。モディ首相率いるインドも残念ながら、そのうちの一つだ。

こうした自由度の悪化は、経済を急成長させるために払う価値のある犠牲だろうか。世界全体を見渡すと、到底そうとは信じがたい。資源国数カ国と香港、シンガポールを別にすれば、世界で最も豊かな国はすべて自由民主主義国だ。これは本当に偶然なのか。
貧しい国が豊かになる最善の方法は民主主義ではないという懐疑的な声は依然、あるだろう。そう主張する人々は中国を例に挙げ、同国が過去40年間、目覚ましい成長をしてきたと言うかもしれない。

だが、研究でこの見方は裏付けられていない。米マサチューセッツ工科大学(MIT)のダロン・アセモグル教授は19年に公表した論文「民主主義は確実に成長をもたらす(Democracy Does Cause Growth)」の中で「民主主義は将来の1人当たり国内総生産(GDP)に対して経済的、統計学的にかなりの好影響を及ぼす」と述べている。したがって「民主化から25年後に、長期的なGDPは20〜25%前後多くなる」という。経済成長の初期段階にある国にも当てはまることは重要だ。

そしてこれよりはるかに大切なのは、オスロ大学(ノルウェー)のカール・ヘンリク・クヌトセン教授が19年にスウェーデンの独立調査機関V-Dem研究所に送った報告書の中で、強権政治下の経済成長には大きなばらつきが見られると述べていることだ。つまり、強権指導者は良いときは非常に良いかもしれないが、悪いときには悲惨になる可能性がある。

スターリン、ヒトラー、ポルポト、毛沢東は百万人単位で人々を死に至らしめた。彼らが望んだ結果かもしれないし、気にも留めていなかったのかもしれない。肝心なのは、強権政治は説明責任を負わない政治形態であり、説明責任のない政府はやりたい放題だということだ。
歴史学者のティモシー・スナイダー氏は最近発表した文章で以下のように述べている。「独裁体制は幻想だ。独裁者が国民のために独裁体制を敷いているという考えが必須だが、そうではない。民主主義では、選出された代表者は有権者の意見に耳を傾ける。我々はこれを当然のことと考え、独裁者も有権者に恩義を感じるだろうと想像する。だが、独裁者に一票を入れた時点で、有権者が無意味であることが確定する。重要なのは、独裁者は有権者に何の借りもないということだ。我々は虐げられ、その状態に慣れてしまう」
事態はもっと深刻だ。将来の独裁者は普通の人間ではない。独裁者はまず間違いなく、権力欲に取りつかれている。求めているものをひとたび手に入れた独裁者が正気でないとわかっても、どうやって排除するというのか。国の中核を担う制度機構を独裁者からどうやって守るのか。指導者をどうやって交代させるのか。

立憲君主制が機能することはわかっている。シンガポールのような小国で法の支配と財産権の確保が必要だと認識されていれば、強権指導者が手腕を発揮することはある。韓国や台湾で経済の急成長に火をつけたのは、強権的な政府だった。中国では、個人の権力に溺れなかった鄧小平氏が最高指導者だった。そのため、中国人が言うように「良き皇帝」に恵まれることもあるだろう。だが、往々にして悪しき人物が指導者になることもある。そうなったら、どうすればいいのか。
民主主義はそうした悲惨な事態を食い止められる。是正する方法が組み込まれているからだ。民主主義国家でも、市民権、参政権、法的権利が不十分な場合は多い。だとしても、選挙で状況が変わる可能性はある。23年のポーランドの総選挙、そして最近のトルコ地方選がそうだった。選挙の要素はインドでも抑止力になっている。議会制民主主義では、英国でジョンソン元首相とトラス前首相が交代を余儀なくされたように議員が反旗を翻すことができる。

民主主義が優れた統治をもたらすから民主主義が素晴らしいのではない。嘆かわしい統治を防げるというのが、民主主義を支持する十分な理由になる。統治の欠如、つまりは無政府状態を別にすれば、嘆かわしい統治こそ、社会にもたらされる最悪の事態だ。国民に認められる権利が完全になればなるほど、独裁体制を抑止する力が強くなる。そうすれば、開かれた議論、抗議行動の自由、自由な報道、独立した国家制度も出てくるだろう。
民主主義は常にもろい。独裁者になりたい人間がいて、彼らを信じたい人間があまりに多いからだ。人々が求めるもの(帰属意識、安心感、尊重されているという感覚)をもたらせなければ、民主主義はもろくなりやすい。

米政治学者のヤシャ・モンク氏が「アイデンティティーのわな(The Identity Trap)」で論じた通り、不平等で多様性の高い社会では民主主義が余計に脆弱になる。その要因の一つは、将来の独裁者がそうした分断につけ込むからだ。実際のところ、そうした社会ではそもそも自由民主主義が生まれにくい。英ワーウィック大学のシャラン・ムカンド氏と米ハーバード大学のダニ・ロドリック氏は「自由民主主義の政治経済学(The Political Economy of Liberal Democracy)」でそう述べている。

民主主義は最近生まれたという点において、冒頭のウェビナーで筆者に質問した人物は正しい。だが、彼は間違ってもいる。民主主義が最近になって生まれたからといって、そこに価値がないわけではないのだ。民主主義が不完全で、独裁体制が一時的に機能することがあったとしても、民主主義に価値がないわけではない。民主主義で政府には説明責任が生じ、国民には発言権が生じる。専制君主の気まぐれに振り回されるより、そのほうがずっといい。

By Martin Wolf

https://www.nikkei.com/prime/ft/article/DGXZQOCB0315Z0T00C24A4000000
2024年4月4日 0:00

英語で読める

民主主義、不完全でも独裁に勝る マーティン・ウルフ

チーフ・エコノミクス・コメンテーター

https://economics.mit.edu/sites/default/files/publications/Democracy%20Does%20Cause%20Growth.pdf





社会の行く末を決めるには、みんなできちんと議論したほうがいい――ということは、私たちは感覚的に知っている。しかし、SNS上でのやりとりをみても、今がなんて議論や対話が成立しにくい世の中なのか、ということも、日々体感しているはずだ。
 世界規模で議論が進む「熟議民主制」について、憲法学を基礎としながら思索を広げているのが、平地秀哉・法学部教授だ。「熟議民主制」を成立させるには、社会保障から、インターネットやメディアの情報設計に至るまで、考えるべきトピックは多い。世界をベターなものにするための議論は、どうしたら形づくることができるのだろうか。



 社会の行く末を左右するような重要な決断は、いきなりイエスかノーかを多数決で決めたり、誰かが鶴の一声で決めたりしたほうがいいのか。それとも、みんなでいろいろ話し合って決めたほうがいいのか。どちらが望ましいでしょうか。
 きっと多くの人が、「いろいろとみんなの意見を出し合って決めていったほうがいい」と思うでしょう。小学校の学級会とほとんど同じようなもので、ガキ大将がこうしようというよりは、ちゃんと議論したほうがいい。
 実は「熟議民主制」(deliberative democracy)の出発点は、これくらい素朴なものなんです。



 「熟議民主制」が、どのような過程で生まれてきた考え方なのか、順を追って振り返ってみましょう。
もともと憲法学においては、裁判所の違憲審査権をめぐって、ずっと議論がなされてきました。日本の最高裁判所の判事は15名ですが、アメリカの連邦最高裁判所はさらに少なくて9名。過半数はたったの5名で、それによって選挙で民主的に選ばれた連邦議会がつくった法律などもひっくり返ってしまう。かつて“Nine Old Men”と揶揄されたことがあるように、それでいいのか、民主主義に反するのではないか、という議論はずっとアメリカではあったのです。
 一方で、民主主義そのものに対する議論は、長い間放っておかれていました。それが1980年代後半から90年代に入るころ、裁判所を批判しているだけではだめだ、民主主義もきちんと考え直さねば、ということで出てきた議論のひとつが「熟議民主制」でした。
 つまり、民主主義の側も、単に多数決でいいのか、という話ですね。法案の審議もそこそこに多数決をとる、というのは、今の私たちの社会でもよく見かける光景ですが、そこに正当性はあるのか、と問うのが「熟議民主制」です。私も大学院時代、こうした議論を一生懸命学んでいました。

 ただ、公共にかかわる話し合いに参加したくても、自分が食べるので精いっぱい、という人もいます。だったら、熟議の前提として、人々にはそれなりの暮らしを保障しなければいけない。憲法でいうところの生存権ですね。
 社会保障がしっかりとなされていなければ、本当の熟議はできない。人種や出身をめぐる差別も、当然解消されなくてはいけません。不平等によって声を上げられない人がいれば、それは理想の熟議ではないのですから。
 そもそも学際的で、他の分野の知見も取り込んでいく向きが強い憲法学を足場にしながら、私はこうした「熟議民主制」の議論を追いかけてきました。海外の文献もひっきりなしに刊行されるくらい、現在進行形で研究が進んでいるものなのです。私自身は基本の理念について研究していますが、アメリカでは模擬熟議というべき社会実験も行われるようになっています。

 もちろん、課題はあります。
 インターネットの登場は、議論のあり方そのものを大きく変えてきました。それまではメディアが提供するものを消費していた我々も、ひとりひとりが発言できる世の中になった。国境を越えて、自分の声を発信できるようになったということは、「熟議民主制」にとってもいいことだったはずです。

 しかし、自分の見たい情報だけを見るようになっていくという「フィルターバブル」の問題が指摘されているように、熟議の前提自体がゆがめられていってしまう、という側面もあるわけです。
 これから私が述べることは、きっと少数派に属する意見だと思います。私は、インターネットの情報空間に、ある程度の国家による介入・コントロールはあってもよいのではないか、と考えています。

 憲法学では国家による検閲は問題だとされますし、そもそも熟議を十分に行っていない国家権力が介入してくることをどうやって正当化するのか、という問いも残る。それでも私は、熟議のためのコントロールはあっていいと思うのです。たとえていえば、道路の信号や、交通ルールのようなもの。みんなが好き勝手運転していては危ないし、改造車なんてもってのほか。そうした情報空間の弊害に対して一定の介入をすることは、実は「熟議民主制」を基礎づけるのではないか、と考えています。
 同様に、インターネットに対して劣勢とされる旧来のマスメディアにも、期待をしたいと思っているのです。種々の議論に目を配り、反対側の意見にも――インターネット的な比喩を用いれば――“リンク”を張ることは、テレビ・新聞・雑誌といったメディアに残された役割だと思うのです。
 最近のテレビニュースでは、画面の端に、SNSで発せられた視聴者の意見を流しているものがあります。しかしただ、画面に流すのであれば、私たちはわざわざテレビを見る必要はないでしょう。むしろメディアの内輪で「こんな意見もあるのだ」としっかりと消化した上で世間に報道していくべきものではないでしょうか。そうした多様性を鑑みながら、発する情報を構成していくのが、メディア本来の役割であると感じます。





 みんなで議論するための「熟議民主制」のためには、社会そのものを根本的に設計していく必要がある――自分でも、決して矛盾がない意見だとは思いません。しかし、そもそも「熟議民主制」とは、「よりよい議論ができればいい」というもの。理想に少しでも近づくことが大事で、何か決まった制度がある、という話ではないのです。完璧な熟議は、永遠にできないかもしれない。しかし、それに近づく努力をすることこそが、重要なのだと感じています。











平地 秀哉

研究分野

憲法

論文

「平等と自由・再考——平等実現に向けた違憲審査の諸類型」(2022/11/15)

「デジタルプラットフォームの公共性と表現の自由」(2021/07/01)詳しく見る

https://www.kokugakuin.ac.jp/article/119704
今、民主主義を見つめ直す
平地秀哉教授が考える「熟議民主制」とは?