松本サリン事件発生30年で献花 住宅街で噴霧、8人が犠牲共同通信 / 2024年6月27日 17時27分.松本サリン30年「忘れないで」 地下鉄事件被害の映画監督が訴え2024/06/25.「事件はいまも生きている」 地下鉄サリン事件の被害者、松本で献花毎日新聞 / 2024年6月26日 15時4分.「知識や経験伝承を」=治療に当たった医師―松本サリン30年・長野時事通信 / 2024年6月27日 6時42分等PDF魚拓



長野県松本市の住宅街で猛毒の神経ガスが一般人に向けられ、8人が死亡した松本サリン事件は27日、30年を迎える。県警はサリンの原料となる薬品から背後に見え隠れするオウム真理教の影を捉えた。当時捜査1課刑事だった上原敬さん(69)は水面下の捜査を指揮し、オウム真理教幹部の取り調べも担当。「皆若く、純粋な 奴 (やつ)が多かった。真面目な若者たちがなぜ……」との思いは今も消えない。(塔野岡剛)

 「松本で食中毒のような事案があった」。1994年6月27日午後11時頃、県警本部からの一報で松本市北深志の現場に向かうと、目の前には石垣にへたり込む人や路上で口元にハンカチを当てる人たち――。パトカーや救急車のサイレンで周辺は騒然としていた。

 県衛生公害研究所の水質部門の研究員だった小沢秀明さん(66)も原因物質特定のため、事件翌日に第一通報者の河野義行さん(74)宅の池の水を採取し、分析を進めた。被害者が一様に農薬中毒などに見られる 縮瞳 (しゅくどう)を起こしており、「ガス化するような農薬など存在しないのに」と首をかしげていた。後に「ガスクロマトグラフ質量分析計」という装置で「サリン」と分かり、文献との照合や、さらなる分析でも矛盾がなかった。



 事件から約1週間後の7月3日、県警は「原因物質はサリンと推定される」と発表した。大学時代に農芸化学を学んだ上原さんが理系の警察官で構成する捜査班を指揮することになった。サリンにたどり着く物質や薬品の化学式をつなぎチャート図にまとめ、東京大学の農芸化学の権威だった教授の助言も受けた。

 薬品販売最大手の会社からデータを取り寄せると、大半の購入履歴は研究や実験を目的とするなど不自然な点はない。7月下旬には「メチルホスホン酸ジメチル」というサリンの生成過程にある薬品を大量購入している東京都内の男が浮上。男の住所はオウムの「世田谷道場」。このほか正体不明の4社があった。登記簿上の設立目的は「化学工業薬品の販売」など。業務実態がなく、一度に大量購入した薬品は現金で全額支払い、その後の取引が途絶える点も共通していた。

 調べるとオウム関係者が薬品を手に入れるためのペーパーカンパニーと判明。サリン生成の出発物質となる「三塩化リン」の購入量は計180トンに及んでいた。県警内で秘密保持は徹底され、オウムのことは世田谷道場の最寄りの駅名から「山下」という隠語で話した。捜査を進めるとオウムと事件のつながりは確信に近づいた。4社の登記簿を分析すると、2社の代表取締役と、別の1社の営業担当に同じ男の名前。そんな工作も捜査を難航させた。薬品の購入自体は違法ではなく、拙速な強制捜査で証拠隠滅の恐れもあった。



 翌95年3月20日、このうち1社の山梨県内の倉庫で県警捜査員が張り込み中、地下鉄サリン事件が起きた。「やられた」。オウムの関与を直感し胸が締め付けられた。6月には警視庁との合同捜査本部が発足し、7月16日に松本サリン事件の容疑者逮捕に至った。

 サリンプラントの設計に関わった幹部の男は、オウムの「ワーク」として国立国会図書館で化学を独学したと語った。「プラントができたらサリンを70トン作ることになっていた」との供述には背筋が凍る思いがした。事件から30年。当時作り上げた捜査資料をひもときながら、上原さんは嘆く。「能力を違う方向に使えば良かったんだ。あの若者たちがなぜ事件を起こしたのか、今でも分からない」

松本サリン事件30年、原料の薬品からオウムの影捉えた当時の刑事…「なぜ若者が」今も謎

読売新聞 / 2024年6月27日 16時18分



8人が死亡、140人以上が負傷したオウム真理教による松本サリン事件は、27日で発生30年となった。事件の風化が懸念される中、信州大学付属病院(長野県松本市)の救急医として被害者の治療に当たった中部国際医療センター(岐阜県美濃加茂市)の医師奥寺敬さん(68)は「知識や経験の伝承が必要だ」と訴える。

 現場近くに住んでいた奥寺さんは、被害確認のために消防隊員が自宅を訪れたことで異常を知り、急いで病院に向かった。

 治療した患者は意識がない一方で、瞳孔が収縮するという通常と明らかに違う症状だった。市内の他の病院と情報共有し、似た症状の患者が搬送されていることも分かった。有機リン系の農薬中毒と診断したものの「ガスとは思いつかなかった」と悔やむ。

 後になってサリンが原因で、製造には医療関係者が関わっていたことも判明。「とても人に対して使うものじゃない。医学的知識の悪用以外の何物でもない」と怒りを覚えた。

 知り合いが2人亡くなったこともあり、奥寺さんは心的外傷後ストレス障害(PTSD)を負った。しかし、事件から10年が経過した頃、若い医学生が事件を知らないことを危惧し、当時の話をしなければいけないと思い始めた。

 名誉教授を務める富山大学での講義や、中部国際医療センターの研修などで、体験を伝え続けている。人の命を救う医師としてのモラルと正しい知識を身に付けることが重要とし、「未知の現象が起きたからといって、やることは一緒。きちんと診られるよう、教える責任がある」と話した。 

[時事通信社]

「知識や経験伝承を」=治療に当たった医師―松本サリン30年・長野

時事通信 / 2024年6月27日 6時42分



長野県松本市の住宅街で猛毒のサリンが噴霧され、8人が犠牲となったオウム真理教による松本サリン事件は27日、発生から30年となった。1人が死亡した明治生命の会社寮跡地「田町児童遊園」には献花台が設けられ、次々に市民らが訪れた。「若い人たちが語り継いでほしい」と語る人もいた。

 「気が重く足が向かなかったが、30年たって来られた」。同市の自営業女性(54)は、会社寮で亡くなった榎田哲二さん=当時(45)=の部下だった。会社の懇親会を途中で切り上げて帰宅した榎田さんが被害に遭ったと聞き、「運命の分かれ道だった。なぜ榎田さんだけが…」と肩を震わせた。

松本サリン事件発生30年で献花 住宅街で噴霧、8人が犠牲

共同通信 / 2024年6月27日 17時27分



 松本サリン事件から30年となるのを前に、続く地下鉄サリン事件で被害に遭った映画監督さかはらあつしさん(57)が25日、松本市で記者会見し「今日も苦しみながら生きている被害者がいることを忘れないで」と訴えた。

 松本サリン事件では多数の中毒者が出た。さかはらさんは95年3月、東京で通勤中に事件に遭遇。手足のしびれや疲れやすさが年々ひどくなり「サリン被害には遅発性がある」と訴えた。

 さかはらさんは2021年、オウムの後継団体「アレフ」幹部との対話を試みたドキュメンタリー映画「AGANAI 地下鉄サリン事件と私」を公開。以降、毎年松本市の現場に訪れ、手を合わせている。

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松本サリン30年「忘れないで」 地下鉄事件被害の映画監督が訴え

2024/06/25

Published

2024/06/25 19:19 (JST)



 オウム真理教による地下鉄サリン事件の被害者で映画監督のさかはらあつし(本名・阪原淳)さん(57)=京都府長岡京市=が25日、松本サリン事件から30年になるのに合わせて、長野県松本市の事件現場付近で献花した。さかはらさんは「私は生きさせてもらった。その分、頑張ります」と被害者に誓った。

 東京都内の広告代理店に勤務していたさかはらさんは1995年3月20日、通勤途中にサリンがまかれた地下鉄の車両に乗っていて被害にあった。

 事件後、「やりたかったことをやらなくては」と退職し、映画製作の道へ。オウム真理教の後継団体「アレフ」の幹部と事件について対談したドキュメンタリー映画「AGANAI(あがない)」を製作し、2021年に公開した。

 献花を前に松本市内で記者会見したさかはらさんは、サリン被害の後遺症は、時間がたった後に症状が出る「遅発性」のものがあると指摘し、「被害者にとって事件は風化どころではなく、現実の中で生きている」と訴えた。

 さかはらさんも手足のしびれがあったり、疲れやすかったりする。献花のために松本市内で花を買った際には、被害にあって今も調子が悪いと言っている人がいると聞いたという。

 さかはらさんは現在、大学の非常勤講師をしているが、働き先を探す時も後遺症の問題などで苦労した。自身は以前、サリン事件の被害者と分かったため生命保険に加入できないことがあったという。そういった現状から「被害者だと自分から言う人はほとんどいない」と説明する。

 08年にオウム被害者救済法が施行され、教団が起こした一連の事件の被害者救済を目的に、遺族らに政府から10万~3000万円の給付金が支給された。だが被害者への救済が行き届いているかについては疑問を感じる。

 「事件当時は遅発性の後遺症などの知見がなかった。30年を機に、広く被害者救済のあり方が妥当だったのか、政府に検証してもらいたい」と求めた。【鈴木英世】

「事件はいまも生きている」 地下鉄サリン事件の被害者、松本で献花

毎日新聞 / 2024年6月26日 15時4分