赤ちゃんポスト、慈恵病院理事長「命の保障は匿名と引き換え」…実名化要求に懸念6/14(金) 13:19配信.実名化が前提なら「存在否定」 熊本ゆりかご、市側に反論6/13(木) 19:38配信. 熊本の赤ちゃんポスト、9人増え累計179人…身元明かさぬ「内密出産」は2年間で21人2024/05/29 20:24 赤ちゃんポスト15年…内密出産「数件の相談」、慈恵病院理事長が説明2022/05/10 08:11等PDF魚拓


親が育てられない子を匿名で託せる「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」を運用する慈恵病院(熊本市西区)は13日、熊本市の専門部会が「匿名は容認できない」とした報告書について、理由や見解を求める公開質問状を市に提出する方針を明らかにした。病院の蓮田健理事長は「ゆりかごは、女性の匿名と引き換えに赤ちゃんの命と健康を保障している」と述べ、実名化を求めることへの懸念を示した。

 病院によると、赤ちゃんの預け入れは、誰とも話さずに扉を開けて保育器に託す方法か、インターホンで看護師らを呼び出して相談してから判断する方法が選べるという。後者は、ためらいを持つ人や身元を伝えたいという意思がある人が選択することが多い。

 しかし、報告書の公表後、匿名での預け入れを希望する女性がインターホンを鳴らし、「『匿名はやめてほしい』というニュースを見た。預け入れの流れが分からなくなった」という趣旨の相談をした事例があった。

 蓮田理事長は、赤ちゃんの託し方に混乱が生じている可能性を指摘し、「(預ける)選択肢がなければ、生まれたときにパニックで殺してしまうこともある」との危機感を示した。

 医師や弁護士らで構成する市の専門部会は、ゆりかごの運用状況を検証し、5日に報告書を公表した。

赤ちゃんポスト、慈恵病院理事長「命の保障は匿名と引き換え」…実名化要求に懸念

6/14(金) 13:19配信


親が育てられない乳幼児を匿名で受け入れる「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を運営する熊本市の慈恵病院の蓮田健院長は13日、報道陣の取材に応じ「匿名が認められないと、ゆりかごの存在否定になる」と強調した。市の専門部会が5日、「最後まで匿名を貫くことは容認できない」として、実名化に向けた環境整備を求めたことに反論した形だ。  部会は専門家5人で構成され、ゆりかごの課題を検証する。5日発表の報告書では、出自を知る子の権利を守り母親の支援態勢を整えるため、秘密は守りつつ、預け入れる家族の「実名化が必要」だと指摘した。  蓮田氏は、ゆりかごに子を預け入れた女性が匿名性を否定するような報告書の内容を伝える報道を見つけ「不安だ」と懸念を示した例を紹介した。「ゆりかごは匿名性を保障している」と改めて強調し、疑念を生じさせるような市側の発信に苦言を呈した。

実名化が前提なら「存在否定」 熊本ゆりかご、市側に反論

6/13(木) 19:38配信



親が養育できない子を匿名で託せる慈恵病院(熊本市西区)の「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」について、熊本市は29日、2023年度に9人が預けられたと発表した。22年度と同数で、07年の開設以降、累計179人となった。

慈恵病院

 市によると、内訳は男児4人と女児5人。生後1か月未満の新生児が7人、乳児と生後1年以上の未就学児が各1人だった。出産場所は4人が自宅、3人が医療機関、2人は不明。2人は預け入れ後に父母らが引き取った。5人は身元情報がなく、市が戸籍を作った。

 ゆりかごを巡っては、子どもが出自を知る権利をどう保障するかが議論になっている。病院と市は昨年5月に検討会を設置。年内に報告書をまとめる予定。



 慈恵病院では、病院以外に身元を明かさずに出産できる「内密出産」も導入しており、21年12月からの約2年間で21人が利用したことが明らかになっている。

熊本の赤ちゃんポスト、9人増え累計179人…身元明かさぬ「内密出産」は2年間で21人

2024/05/29 20:24


親が育てられない子どもを匿名で託せる「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト )を設置している慈恵病院(熊本市西区)の蓮田健理事長は9日、病院にだけ身元を明かす独自の仕組み「内密出産」に関する相談が今年に入って数件寄せられ、実際に出産に至った例もあると明らかにした。

ゆりかごの必要性を訴える蓮田理事長(右)(9日、熊本市の慈恵病院で)

 同病院は2019年から内密出産の仕組みを導入。昨年12月に10歳代の女性が初めて行った。今回、新たに明らかになった出産例について、蓮田理事長は取材に対し、「親の意向を確認しており、今後整理して報告する」として具体的な件数や内密出産に当てはまるかどうかについての言及は避けた。

 一方、同病院は9日、「ゆりかご」の設置から10日で15年となるのを前に記者会見を開き、蓮田理事長が「一人でも多くの赤ちゃんの遺棄を防ぎ、命を救わなくてはならない」と意義を強調。課題とされている子どもの出自を知る権利については、「最大限尊重しなくてはならない」としつつ、「全ての赤ちゃんにそれを提供できないのも現実。出自よりも命だ」と理解を求めた。

 「ゆりかご」には、運用が始まった07年5月から21年3月末までの14年間で159人の子どもが預けられている。最多だった08年度の25人を境に減少傾向となり、20年度は4人だった。

 熊本市の大西一史市長は「ゆりかごは多くの命を救ってきた一方、孤立出産や子どもの出自を知る権利をどう保障するかなど解決すべき課題は多く残されている。市としてより緊密に連携する」との談話を出した。

赤ちゃんポスト15年…内密出産「数件の相談」、慈恵病院理事長が説明

2022/05/10 08:11




3歳児と聞いて、美光さんは「そんな小さい子、大丈夫かな」と戸惑った。それでも、「かわいいに決まっとったい」というみどりさんに背中を押され、児相に赴いた。対面した瞬間、美光さんは「もう心配せんでええよ」と幼い航一さんをそっと膝の上に抱き上げていた。「天使がやってきた」と、夫妻は思ったという。

オープン当初は閑古鳥だったマクドナルド1号店、「救世主」きっかけに若者が次々と列…「路上でハンバーガー」普通の光景に

宮津さん夫妻に迎えられた頃の航一さん(中央)。最初は甘えることができなかった=宮津さん提供

 航一さんを家に迎えた夫妻は、1日1回は抱っこして、夜は川の字で寝た。ニコニコとよく笑う航一さんだったが、夫妻がそれとなく実の両親について聞くと、体中に電気が走ったように固まってしまった。預けられた時、赤ちゃんではなかっただけに「ゆりかご以前」の記憶を抱えていた。

 「言葉じゃうまくいえないけど、小さいなりに色々と感じているんだなと思った」。みどりさんは語る。

 当時、宮津家の五男は高校生。そのお兄ちゃんに優しくしてもらったり、「100均」に行っておもちゃを買ってもらったり。普通の暮らしを重ねていく中で、航一さんは夫妻を「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになった。テレビでゆりかごが報じられると、「ぼく、ここに入った」と屈託なく言った。

 一方で、実の親の情報はないまま。児相の担当課長だった黒田信子さん(71)は「必死に捜そうとしたが、手がかりがなかった」と振り返る。法律の上では、航一さんは「棄児」(捨て子)となり、熊本市が新たに戸籍を作った。

 「航一」という名前も、市が付けたものだ。美光さんはこの名に、「広い海を渡る一 艘(そう) の船のように、力強く生きてほしい」との願いが込められていると解釈した。成長し、その意味がわかるようになった航一さん本人も、この解釈をすごく気に入った。

事故死だった実の母親、写真の中の優しい笑顔



 「ゆりかご以前」のことが突然判明したのは、小学校低学年の頃だ。航一さんの親戚にあたる人物が、「自分が預けた」と名乗り出た。自責の念に駆られたという。

 この親戚は、ゆりかごの扉を開けた人しか持っていない「お父さんへ お母さんへ」の手紙を持っていた。間違いなかった。
この出来事により、航一さんの本当の名前が分かった。正しい年齢は推定していたものとほぼ同じ。そして、航一さんの実の母親が、航一さんが生後5か月の時に交通事故で亡くなっていたという重大な事実も分かった。

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 「空っぽだったものが埋まったというか、『ああ、そうだったんだ』って分かって、気持ちが晴れた」

 生後5か月といえば、航一さんがゆりかごに預けられるずっと前だ。実父のことは分からない。しかし、少なくとも実の母は、自分を捨てたわけではなかった。

航一さんの実母の写真(上)とお骨代わりの石。高校を卒業した日、航一さんは「たぶん見てくれていると思う。喜んでいるんじゃないかな」と言っていた

 その年の夏休み、航一さんは東日本の寺にある実母の墓を訪ねた。「お骨代わりに」と、そばにあった滑らかな黒い石を大切に持ち帰った。

 生前の実母の写真も手に入った。「どんな人なんだろう」と想像していたその母は、自分と同じようにゆるくウェーブのかかった髪をして、優しい笑みを浮かべていた。

 ゆりかごより前の人生が分かった航一さんは、「ゆりかご以降」の日々をはつらつと生きている。

自宅で両親と高校卒業を喜ぶ宮津航一さん(中央)。「大学でも陸上や子ども食堂を続けたい」と語った(5日、熊本市で)=中嶋基樹撮影

 中学・高校では陸上部に入り、100メートルで「11秒の壁」を破るべく練習に明け暮れた。高3の時、ついに自己ベストの「10秒96」を記録。高2の冬には、宮津さん夫妻と正式に養子縁組した。

「他者の幸せ」考え、子ども食堂の活動に熱中



 宮津家では、航一さんの後も多くの里子を受け入れてきた。そうした環境もあって、航一さんは昨年から、「子ども食堂」の活動に熱中している。熊本市内の教会で月1回、地域の子どもたちに昼食を用意したり、一緒に遊んだり。「子どもにとって、居場所ってとても大切だと思うから」

 ゆりかごに預けられた当時の看護部長だった田尻由貴子さん(71)は、航一さんが高校生の時に手紙をもらっている。「他者の幸せのため何ができるのか考えていきたい」と書かれていた。田尻さんは「宮津さん夫妻が航一君を人として尊重し、大切に育ててくれたことが、今の彼につながっている」と思う。

 18歳になった航一さんは、高校を卒業した今春、大きな決断をした。自分の名前を明かし、ゆりかごについて語っていくことにした。

 「どんなに時間がたっても、賛否両論はあると思う。ただ、僕自身はゆりかごに助けられて、今がある。自分の発言に責任を持てる年齢になったので、自分の言葉で伝えたい」

 預けられるまでの期間に比べたら、それから先の人生のほうがずっと長い。一番言いたいのは、「ゆりかごの後」をどう生きるか、だ。

 真っすぐな航一さんの決意は、ゆりかごを巡る様々な声を受け止めてきた慈恵病院の蓮田健理事長から見ると、批判対象となって傷つかないか、心配な面もある。「でも、本人が考えた末に決めたこと。見守ろうと思います」

 4月から熊本県内の大学に進学する航一さん。社会や福祉、そして政治も、広く学びたい。あの時、首相の一言で世論が左右された。市長が決断しなかったら、ゆりかごは始まらなかった。世の中は、いろんな所で 繋(つな) がっている。

 「僕にできるのは、預けられた実例として自分のことを語ること。親子の関係がしっかりしていれば、『ゆりかご後』はこんなふうに成長するよって、知ってもらいたい」。発信する覚悟を、口にした。

赤ちゃんポストに座っていた男の子、18歳になり「宮津航一としてその後を伝えたい」…2007年5月[あれから]<22>

2022/03/27 05:00あれから