2024年7月29日時点の大東亜戦争と安倍晋三談話に関する資料PDF魚拓


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大東亜戦争(だいとうあせんそう、旧字体大東亞戰爭英語: Greater East Asia War)は、1941年昭和16年)12月8日から1945年(昭和20年)9月2日にかけて行われた、日本大日本帝国)と中華民国アメリカ合衆国イギリスフランスオランダなどの連合国との全ての戦線の戦争を指す日本側の呼称[1][2][3]

当項目では主に名称関係について記述する。

概要

開戦から4日後の1941年(昭和16)12月12日、当時の東條内閣東條英機首相)が「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と閣議決定をした[4](海軍側は「太平洋戦争」若しくは「対英米戦争」を提案しているという主張もあるが、該当する当時の記録は存在しない[5])。大東亜戦争の目的は、第2次近衛内閣近衛文麿首相)以降の日本が掲げた大東亜共栄圏建設にあるとされた[6]。「太平洋戦争(Pacific war)」という呼称が「第二次世界大戦におけるアメリカ側の対日戦(第二次世界大戦における日本側の対米戦)」のみを意味する呼称であるのに対し、「大東亜戦争」は対米戦争である「太平洋戦争」だけでなく、東アジアを中心に南アジア東南アジア太平洋全体も戦場であった実態には合致している言葉であるとする論者もいる[2][7]

戦後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の連合国軍占領下の日本の期間に使用禁止され、「第二次世界大戦における太平洋での戦い」のみを本来は意味する「太平洋戦争」が代わりの言葉として強制的に使われるようになった。1952年のサンフランシスコ講和条約施行以降の連合国軍占領期後の日本では禁止措置の効力は無くなったものの、その意味で「太平洋戦争」を用いるケースが続いている[8]

経緯

名称議論・発表

1937年昭和12年)7月7日盧溝橋事件を発端とし、北支事変が勃発した。ここが後に、大東亜戦争が開始された地点とされる[9]第1次近衛内閣近衛文麿首相)が「北支派兵に関する政府声明」を発表し、事件を「北支事変」と名付け、今回の事件は中国側の計画的武力行使であり、日本はこれに対して自衛権を行使するために派兵(増員)するとした[10]。同年8月第二次上海事変が勃発するに及び、戦線は中支(中支那、現中国の華中地方)、そして中国大陸全土へと拡大し、日華事変や日支事変と呼称されるようになり、日本中国の全面戦闘の様相を呈した。9月2日には、「北支事変」は支那事変が正式の呼称であるとされた[11]

1938年(昭和13年)、第1次近衛内閣が発表した支那事変(日中戦争)の戦争目的を発表した「東亜新秩序」声明では「大東亜」は使用されておらず、1940年(昭和15年)7月26日第2次近衛内閣で閣議決定された基本国策要綱において「大東亜」の名称が初めて用いられたとされる[12]。この中では「日ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニアリ」という文言がある[12]。また8月1日には松岡洋右外相が「大東亜共栄圏」という用語を初めて用いた談話を発表した[12]

1941年(昭和16年)12月8日に日本と英米との間に戦争が発生前の検討の時期から発生後まもなくは、「対中戦争」「対英米戦争」「対英米戦争」「対英米蘭戦争」など交戦相手の名を用いた戦争名が用いられていた。対蘭に関しては、1941年(昭和16年)12月1日御前会議で開戦を決定したものの、同月8日の「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」では宣戦布告の対象から除かれており、1942年(昭和17年)1月11日の対蘭戦の開始および翌日の宣戦布告まで公式には「対英米蘭戦争」とは呼んでいない。日本の政府および軍部ではこの戦争を正式にどう呼称するかについて検討が開始された。

大本営政府連絡会議

12月10日大本営政府連絡会議は「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期ニ関スル件」を決定、「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とされた[13]。会議では海軍から「太平洋戦争」「対米英戦争」、さらに「興亜戦争」などの案が出された[12][注釈 1]。しかし、海軍のこれらの名称案は「支那事変(日中戦争)」を含めた場合や、ソビエト社会主義共和国連邦との交戦が後に起きる可能性を考えると適当ではないと反対された。その結果、「大東亜戦争」が採択されている[12][15]

閣議決定

12月12日閣議において、「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」が閣議決定された[4]。この閣議決定の第1項で「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」と明記し、支那事変(日中戦争)と「対米英戦争」を合わせた戦争呼称として「大東亜戦争」が公式に決定した[4]。また「平時、戰時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス」ともされた[4]

内閣情報局

同日内閣情報局は「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大東亞新秩序建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味に非ず」と発表され、戦争目的はアジア諸国における欧米植民地支配の打倒を目指すものであると規定した[12]。しかし、日本の戦争目的については、「自存自衛」とするもの、また「自存自衛」「大東亜新秩序形成」の二本立て、また「大東亜新秩序形成」のみが戦争目的とするものの間で当時見解が分かれていた[16]。当時大本営参謀であった原四郎は情報局の「戦争目的」発表について「情報局は何を血迷ったか」との感想を持ったと回想している[12]

12月15日、次官会議で英国中心の語辞である「極東」を日本人が使うことは不名誉至極として、公文書で使用しないよう申し合わせを行った[17]

情報局の発表は1943年(昭和18年)11月大東亜会議で「再確認」がなされている。

昭和17年法律第9号

1942年(昭和17年)1月に「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」を帝国議会に提出する際、内閣が作成した「説明基準」において対米英戦争と支那事変(日中戦争)のみならず、対蘭戦、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含むと確認された[18]。その中で「今次勃発ノ對米英戰ノミヲ支那事變ト區別シテ大東亞戰爭ト稱スルモノニ非ザル」とし、前年12月12日の閣議決定[4] は「今後大東亞戰爭ナル呼稱ヲ用フル場合ニハ昭和十六年十二月八日前ノ支那事變ヲモ包含スルモノナルノ意ヲ含ム。」と説明された[19]

2月17日には法律第9号(大東亞戰爭呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律)が閣議決定され、「勅命ヲ以テ別段ノ定ヲ為シタル場合ヲ除クノ外各法律中<支那事変>ヲ<大東亜戦争>ニ改ム」として、法律において「支那事変」の呼称を「大東亜戦争」と改めるとされた[12]

「大東亜」の範囲

大東亜の地図(1943年)

松岡洋右外相によると大東亜共栄圏とは「従来東亜新秩序圏乃至は東亜安定圏と称せられてゐたものと同一」であるとし、大日本帝国・満州中国に加え、フランス領インドシナオランダ領東インドをも含めた範囲であると説明した[12]

1942年(昭和17年)2月28日の大本営政府連絡会議では「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スヘキ大東亜ノ地域」を決定し、大東亜の地域を「日満支及東経九十度ヨリ東経百八十度迄ノ間ニ於ケル南緯十度以北ノ南方諸地域、其他ノ諸地域ニ関シテハ情勢ノ推移ニ応シ決定ス」と規定した[12]

大本営参謀を務めた瀬島龍三は「大東亜の地域とは、おおむね、南はビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジアの大陸、並びにおおむね東経一八〇度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋の海域を指すのであります。インド、豪州は含まれておりません」と記している[20]

戦後

降伏



ウィキソースに大東亞戰爭終結ノ詔書の原文があります。



玉音放送。昭和天皇が大東亜戦争終結ノ詔書を読み上げるラジオ放送。昭和20年(1945年)8月15日正午放送

Duration: 4 minutes and 36 seconds.4:36

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ミズーリ艦上にて日本の降伏文書に署名するダグラス・マッカーサー(1945年9月2日)

8月9日の御前会議において昭和天皇が「戦争指導については、先の(6月8日)で決定しているが、他面、戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速やかに具体的研究を遂げ、これを実現するよう努力せよ」と戦争終結のことを口にした。本土決戦による「一撃講和」を諦めきれない陸軍内で混乱が深まったが、首相の鈴木が天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより、昭和天皇からの信頼が厚かった陸軍大臣の阿南惟幾が、徹底抗戦を主張する青年将校らを「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と身を挺して説き伏せ[21]8月14日終戦の詔書が発されポツダム宣言を受諾(日本の降伏)することになった。その後も米軍による爆撃は続き、グアム島からの第315爆撃団B-29、134機が8月14日午後10時から8月15日午前3時まで日本石油秋田製油所まで爆弾12,000発を投下し、87名の従業員らが爆死した[22]。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の陸軍青年将校グループが、玉音放送 が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内省などを襲撃する事件を起こしたが(宮城事件)、これは陸軍自身によって鎮圧された。8月15日正午、昭和天皇の玉音放送が放送された。

8月16日大本営は全軍に対して、戦闘行為を停止するよう命令を発した。この後、鈴木貫太郎内閣は総辞職。玉音放送の後には、海軍において一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗(厚木航空隊事件)した他は大きな反乱は起こらなかった。8月17~18日に起きた米軍機への迎撃(「B-32 (航空機)#歴史」参照)を最後に内地の日本軍は戦闘を停止したが、後述するように、日本軍民への攻撃を続けるソ連軍への抗戦(占守島の戦いなど)を中心に外地では戦闘が一部続いた。

翌日には連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かうなど、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。

8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになるアメリカ陸軍のマッカーサー大将も同基地に到着し、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。

9月2日には、東京湾内に停泊した米海軍の戦艦「ミズーリ」において、イギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席[注釈 2]の下、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より6年にわたって続いた第二次世界大戦は終結した。

GHQによる使用禁止





1944年制定の大東亜戦争従軍記章の図案(左:表面、右:裏面)。敗戦後は占領軍により製造分が破棄され、さらにGHQ/SCAPが「大東亜戦争」の語の使用を禁止したため、1946年に未発行のまま廃止されて「幻の従軍記章」となった。

1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言受諾後も、大東亜戦争の名称はしばらく使用され、11月24日には幣原喜重郎内閣が「大東亜戦争調査会官制」を公布した[16]

しかし12月15日連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本政府に対する覚書「國家神道、神社神道ニ對スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ關スル件」(いわゆる「神道指令」)[23] を発した。この中で「『大東亜戦争』および『八紘一宇』などの、国家神道軍国主義国家主義に緊密に関連する言葉」の使用を公文書において禁止することが指令された[16]。これによって政府部内の「大東亜戦争調査会」などは「戦争調査会」と改称され、関連法令にある「大東亜戦争」の語句もすべて「戦争」に置き換えられた[16]

同年9月10日には「ニューズ頒布についての覚書」、9月19日には「プレス・コード(新聞規約)」が発出され、マスコミに対するGHQの規制も強化された[16]。GHQはさらに「プレス・コードにもとづく検閲の要領にかんする細則」を発して新聞・雑誌がGHQの検閲を受けること、さらに「『大東亜戦争』『大東亜共栄圏』『八紘一宇』『英霊』のごとき戦時用語」の使用を避けるように指令した[24]

12月7日には朝日新聞が「太平洋戦争」の語を初めて使用し[24]、12月8日(開戦4周年)には新聞各紙がGHQ民間情報教育局(CIE)作成の「太平洋戦争史−真実なき軍国日本の崩壊」の掲載を開始し、満州事変から太平洋戦争までを連続したものとみなし、日本の侵略と残虐行為を詳細に叙述し、他方で米軍の役割を強調するもので、東京裁判の「一部軍国主義者による共同謀議」という見方と一致するものだった[24]。この連載は1946年(昭和21年)3月にGHQ民間情報教育局『太平洋戦争史 奉天事件から無条件降伏まで』(高山書院)として刊行し、10万部が完売し、GHQ指導で学校教育でも奨励された[24]

NHKで「眞相はかうだ」のラジオ放送も開始された。

GHQの検閲

日本における検閲」および「プレスコード」も参照

GHQは出版物についても検閲を行い、「大東亜戦争」表記の排除を図った。まず占領政策の前期においては、あらゆる出版物が「事前検閲」を受け、「大東亜戦争」はすべて「太平洋戦争」に書き換えられた[注釈 3]

占領政策後期に入ると「事前検閲」は「事後検閲」へ変更され、印刷製本済みの出版物を占領軍が検閲し、「大東亜戦争」その他占領軍に不都合な記述(GHQへの批判等)があれば、発禁処分をおこなった。出版社は莫大な損害を蒙ることになるため、自主的に占領軍の検閲に触れるような文章を執筆する著者を敬遠し、占領軍の意向に沿わない本を出版しなくなった。江藤淳は、これを「日本人自己検閲」と呼び、この構造が言論機関に定着するに従い検閲は占領軍によってではなく、日本人自身の手によって行われるようになったと主張している[25]

こうした経緯から「大東亜戦争」という用語が強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていったとの批判がある[25][26]。江藤淳は、占領軍が日本軍の残虐行為と国家の罪を強調するために行った宣伝政策[27] についてウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」)としている[25]

なお、1952年(昭和27年)4月11日に公布された「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」(法律第81号)によって、GHQの「大東亜戦争」呼称廃止覚書は失効している[28]

日本政府の対応

GHQの政策以降、現在にいたるまで、日本政府は公的には「今次戦争」「先の大戦」「第二次世界大戦」という呼称を用いている[16]。たとえば村山談話では「大東亜戦争」や「太平洋戦争」の用語はいずれも用いられず、「先の大戦」「過去の戦争」「過ぐる大戦」「第二次世界大戦」などが用いられた[29]

ただし、公的機関の史書などで「大東亜戦争」の語を用いる場合もあり、1955年(昭和30年)の内閣官房編纂『内閣制度七十年史』では「大東亜戦争」の語を用い[30]衆議院参議院共同編纂『議会制度七十年史』(1960年1961年)では、「大東亜戦争・太平洋戦争」の語を並列で用いた[31]外務省1969年(昭和44年)に発刊した『外務省の百年』では、「大東亜戦争」の語を用いているが、他の省庁の編纂物では用いられていない[31]。ただし、『大蔵省百年史』に序文を書いた福田赳夫(当時内閣総理大臣)が「大東亜戦争」の語を用いている[32]

1966年(昭和41年)の『戦史叢書』の際には、本文には「大東亜戦争」や「支那事変」の語を用いることもあるが、可能な限り他の表現(たとえば「今次大戦」)を用いた[33]

皇室

天皇の「おことば」などでは「先の大戦」「あの不幸な戦争」といった表現を用いることが通例となっている[29]2008年平成20年)に宮内庁は「その(人間宣言)後も戦争名を頭に付けない表現を繰り返しているうちに定着した。特定の意図をもって○○戦争という言い方を避けているわけではない」と回答している[29]。一方で記者会見などでは「第二次世界大戦」という言葉を用いることもある[29]

法令での様態

日本の法令では1946年(昭和21年)、「昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク国有財産法中改正等ノ件」(昭和21年3月14日勅令第142号)等により、法律や勅令の文中に「大東亜戦争」の呼称を使用していた法令の文言は「今次ノ戦争」と改められた[34]

支那事変と大東亜戦争についての昭和20年帝国議会

前年1945年(昭和20年)11月30日の第89回帝国議会・貴族院「昭和二十年勅令第五百四十二号(承諾を求むる件)特別委員会」において貴族院議員村上恭一は、「昭和17年法律第9号がある以上、大東亜戦争の開戦は昭和12年ではないか」と質問、松本烝治国務大臣は、この法律によって「法律、勅令の適用の範囲」に付いては「支那事変」と「大東亜戦争」とは「一体を成して区分すべからざる状態」になったとしているが、支那事変と大東亜戦争は「観念に於いて区別がある」と答弁している[35][36]。なお靖國神社は、「支那事変」と「大東亜戦争」を1941年(昭和16年)12月8日で分けている[36]

その後の1952年(昭和27年)4月11日に公布された「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」(法律第81号)では、ポツダム宣言受諾によって発された法令(いわゆるポツダム命令)について、別途法制化されない限り失効するとされ、日本政府は勅令第142号について手続きを行わなかったため、同法は失効した[28]が、この後に制定された法令の条文などでも、「大東亜戦争」という表現は使用されず、「太平洋戦争」あるいは「今次の戦争」という表現が使用されている[注釈 4]

2006年の政府見解

2006年(平成18年)の日本政府による公式見解では、1941年(昭和16年)12月12日の閣議決定において大東亜戦争の呼称について記載されているが、「大東亜戦争」の定義を定める法令はないとされる[37]。また、1945年(昭和20年)12月15日付け連合国総司令部覚書以降、一般に政府として公文書において「大東亜戦争」という用語を使用していない[37]。いかなる用語を用いるかは文脈によるので「大東亜戦争」の用語が不適切かは一概に回答できないとされた[38]

他方、「太平洋戦争」という用語についても「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年法律第173号)等に使用されているが、「太平洋戦争」の定義を定める法令はなく、これに日中戦争が含まれるか否かは法令上定められておらず[37]、政府として定義して用いている用語ではなく、また「大東亜戦争」と「太平洋戦争」は同一の戦争かについて回答することは困難とされた[39]

2007年の政府見解

2007年2月の閣議決定で『「太平洋戦争」という用語は、政府として定義して用いている用語ではない。』としている[40]

2024年の政府見解

2024年には陸上自衛隊第32普通科連隊の公式Xが、「大東亜戦争」の用語を用いて投稿を行ったが、「現在一般に政府として公式文書で使用していない」と問題視され[41]、投稿はその後削除された。木原稔防衛大臣は「大東亜戦争」と言う言葉については現在政府については一般的に使用していないと述べている[42]。また林芳正内閣官房長官は「いかなる用語を使用するかは文脈などによる。一概に答えることは困難だ」と述べている[41]

「大東亜戦争」を使用する立場

当時の宣伝画像(1943年)

「大東亜戦争」呼称を使用する立場や理由については以下のように様々である。戦争目的の不統一、占領政策、その後の日本国内における近現代史に関する歴史認識の「政治化」の影響を受けて、さまざまな議論がなされている。庄司潤一郎はほとんどの呼称はイデオロギー的色彩を帯びる結果となっていると指摘したうえで、全般的には、戦争を正当化・肯定する人々は「大東亜戦争」、アジアに対する侵略戦争とみなす側は「15年戦争」及び「アジア・太平洋戦争」を使用する傾向があり、相対的に中立的な呼称として「太平洋戦争」が使用されるとしている[43][注釈 5]

1953年(昭和28年)、参謀本部作戦課長の服部卓四郎が『大東亜戦争全史』を刊行、戦後初めて「大東亜戦争」を冠した著作である[45]

歴史認識

哲学者上山春平は『中央公論1961年1月号で発表した「大東亜戦争の思想的意味」において「太平洋戦争」は「占領軍によって付与された米国側の見方」とし、そのような考え方に慣れた日本人にショックを与えるため、大東亜戦争を用いたと述べた[46]

1963年(昭和38年)から1964年(昭和39年)にかけて林房雄が『大東亜戦争肯定論』を発表し、「大東亜戦争」は薩英戦争馬関戦争[47]ペリー来航以来の西欧列強のアジア侵略に対抗して日本がアジア解放を目的とした「大東亜百年戦争」の集大成だったという立場から使用された[48]

上山春平は1964年に『大東亜戦争の意味』を刊行、「大東亜戦争」という呼称を「タブーとみなす心情のうちに、太平洋戦争史観を鵜のみにする反面、大東亜戦争史観には一顧だにあたえようとしないという二重の錯誤の根をみとめた」と当時「大東亜戦争」呼称をタブー視する風潮を批判し、「太平洋戦争」「抗日戦争」「帝国主義戦争」いずれも政治的イデオロギーであるにもかかわらず「大東亜戦争」のみ断罪するのはアンバランスであると批判した[48]

ドナルド・キーンも1964年、論文「日本の作家と大東亜戦争」を発表した[49]

竹内好は1964年の「日本のアジア観」で「日本の対外戦争のほとんど全部は、自衛のほかに東亜の安定を名目としておこなわれた。その最大、かつ最終のものが大東亜戦争だった」とし、「第二次世界大戦の一部」だけにつくされない、「日本人がアジアを主体的に考え、アジアの運命の打開を、自分のプログラムにのせて実行に移した」という「大東亜戦争固有の性格があった」とした[50][51]。竹内は敗戦によって日本人はアジアを主体的に考え、アジアの一員としてアジアに責任を負う姿勢を失ったとも述べた[52]。また、個人として、時には国家の命令にそむいてアジア解放運動に協力した日本人はビルマ、インドネシアだけでなく満州にもいたと指摘している[53]

三島由紀夫は、「大東亜戦争」と呼ぶのが適切であるとし、「大東亜戦争でいいぢやないか。歴史的事実なんだから。太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢやないか」という意見を述べた[54]

1977年(昭和52年)、元大本営参謀原四郎は「大東亜戦争」は日本の政府が正式に決定した名称であり、平和条約によってGHQ指令も失効したため、正式名称である「大東亜戦争」は「当然復活すべきもの」で、「歴史的に正確な表現」と述べた[55]

左派系とされる歴史家信夫清三郎も1983年、次善の策として「太平洋戦争」の語を「便宜的に」用いる家永や歴史学研究会らは「怠惰、怯懦」であると批判し、「大東亜戦争の使用が戦争の肯定支持を意味する」わけではないとし、「戦争の歴史的性質を最も的確に表現し、戦争の実体を最も広く蔽いうるもの」として「大東亜戦争」を用いるべきとし、さらに東南アジア、インドの独立運動に及ぼした日本の積極的な役割などを踏まえれば「大東亜新秩序(大東亜共栄圏)を目的とする戦争」という「歴史的意味」も含蓄していると述べた[49]

松本健一は「戦争の呼び名は歴史的であって、後の時代に、その呼び名を変える(たとえば太平洋戦争)ことによって、歴史的性格を変えてしまうことは、意味がない。歴史を否定するためにこそ、歴史の歴史的把握が必要」として「大東亜戦争」を用いた[51]

信夫や後藤乾一三輪公忠らは、「大東亜戦争」の名の元に示された理念が建前であったにしても、その理念に自己のアイデンティティを求めた日本人が東南アジア各地に少なからず存在したと言うことをあげ、そうした人々を否定しないためにも「大東亜戦争」の語をあえて用いるとしていた[56]

1990年(平成2年)に中村粲大東亜戦争への道』が刊行。

「大東亜戦争肯定論」の立場に立たない倉沢愛子は「大東亜戦争」の語を用いているが、この場合にはカギ括弧を付するなどしている[57]。また松浦正隆は、大東亜戦争は当時の公式名称であり、またアジア主義との関連を強調するためにも「大東亜戦争」を使うべきとし、カギ括弧付きで使っている[57]

産経新聞論説委員を務めた岡部伸は「軍国主義や戦争を美化するつもりはない」としたうえで、「大東亜戦争」の語が「GHQによって植え付けられた自虐史観から脱却」することにつながるとしている[7]

戦域の一致

「大東亜戦争」の「大東亜」はイデオロギー面とは無関係であり、戦争の範囲をあらわす名称であるという立場である。駐米大使や外務事務次官を務めた村田良平は『村田良平回想録』(ミネルヴァ書房、2008)で、「大東亜」の「大は英語に訳せばgreater,即ち東亜のみでは主として日中朝鮮モンゴルのみを指すことが多いので、より広義の東アジアを指す」ものであり、「中国大陸、ビルマまでの戦いなども考えれば、米国の強制した太平洋戦争の方がおかしい」と主張した[55]。また、防衛研究所の庄司潤一郎研究幹事は、「単なる地理的呼称であるとするならば、イデオロギー色のない呼称となる」として、「戦争肯定という意味合いではなく、原点に戻って、『大東亜戦争』に落ち着く」と提言する[7]

評論家の村上兵衛は「東アジアで行われた大きな戦争」の意味で「大東亜戦争」を用いるべきであるとした[58]原四郎も戦争目的は「アジアの新秩序建設」ではなく、「大東亜において戦われる戦争」であるから「大東亜戦争」と呼ばれたのであり、GHQが禁止したのは「大東亜戦争をもって大東亜新秩序を建設する戦争と誤解したからである」と回想している[59]。『失敗の本質』は、「戦場が太平洋地域にのみ限定されていなかったという意味で、」「大東亜戦争」の呼称を用いる、としている[60]

アメリカの歴史家ジョン・ステファンは『日本国ハワイ』(恒文社1984)で「第二次世界大戦」はあまりに広い範囲で、「太平洋戦争」は「あまりに狭すぎる」ので不適切であるとし、「いささか決まり悪いものの」やはり「大東亜戦争」という名称が「日本がインド洋や太平洋、東アジアおよび東南アジアで繰り広げようとした戦争を最も正確に表現している」と指摘している[59]

2018年に新潮社から発売された『決定版 大東亜戦争』は、『決定版 日中戦争』の続編であり、戸部良一ら7人の歴史家が参加した。書名を選んだ横手大輔「新潮新書」編集部次長は、「イデオロギー抜きにすれば、最も的確に伝えると自然と思い浮かんだ。集結した歴史家の先生たちは、あえて『大東亜戦争』の表現を選び、この呼称が売れ行き好調につながったと思う」と述べている[7][57]

地域呼称として

『アジア太平洋戦争』(1995年・岩波書店)を著した岡部牧夫は、「大東亜」を地域名称であると読み替えてしまえば、「アジア・太平洋戦争」の提唱の趣旨と変わらなくなり、呼称問題における対立の根拠は失われるかも知れないとしている[61]。また防衛研究所の庄治潤一郎はイデオロギー性を否定したうえでの「大東亜戦争」もしくは「アジア・太平洋戦争」が適切ではないかとしている[62]

一方、斉藤孝は信夫の主張を批判した『「大東亜戦争」と「太平洋戦争」』において、「大」の語は自らを誇示しようとしている語であり、地域名称であるとするならば「東アジア」でもいいとし、「大東亜戦争」の語は「占領軍の指令がなくとも、本来日本国民自身が否定すべきもの」「タブーではなく、回避したい呼称」と主張した[63]

中南米における「太平洋戦争」と被ることへの批判

1865年のチリ・ペルーとスペインの戦争(スペイン語でLa guerra del Pacifico)、1879年〜1884年のチリとボリビア・ペルーとの戦争(スペイン語でLa guerra del Pacifico、ポルトガル語でla guerre du Pacifique)は翻訳すると「太平洋戦争」となる。日本の辞書等でも「太平洋戦争」として掲載されている[64]

ただし英語では中南米の「太平洋戦争」は(the) War of the Pacific、日本の「太平洋戦争」は(the) Pacific Warと表記され、中南米の戦争とは区別されている[64]。米英などの連合国においては「the War in the Pacific (Theater)」「WWⅡ-Pacific Theatre」「the Pacific Theatre in the Second World War」などと、第二次世界大戦戦線名も用いられている[64]

「太平洋戦争」にイギリスの存在が薄いことへの批判

イギリス歴史家クリストファー・ソーンは「太平洋戦争」を批判して[65]、「極東戦争」という呼称を提唱し[7]、日本が「大東亜戦争」を呼称したのは理解できるとしている[65]。「太平洋を挟んだ日米両国間」だけでなく、英仏蘭など太平洋側以外も日本は戦っていたことからという点である[7]

なおイギリスの歴史家であるA・J・P・テイラーなども、日本がアジアでの英国勢力を駆逐するために開戦し、結果としてイギリスは植民地を失い「敗北」したため、「大東亜戦争」と称するのはかまわないとも述べている[65]

その他の呼称

太平洋戦争#名称」も参照

戦後日本では、開戦時の戦争目的の不統一、GHQの政策、歴史認識問題などによって、日本が戦った戦争の呼称について様々な議論と呼称がある[62]。なお、同一の戦争に対する呼称が国家によって異なることは他国でもあるが、国内で呼称が分かれている例は日本以外ではほとんど存在しないといわれる[62]。この状況を秦郁彦1984年(昭和59年)の『昭和史を縦走する』において「呼び名などどうでも良い、という考え方もあろうが、『名は体を現す』で、著者の基本的歴史観を判定するのに、それ(戦争の呼称)が踏み絵の役割を果たしてきたことも事実だ」と指摘している[66]

2020年に毎日新聞が行った「この戦争の呼び方はどれが適切ですか」というアンケートでは第二次世界大戦47.9%、太平洋戦争38.5%、アジア太平洋戦争10.9%、十五年戦争2.7%となっている(大東亜戦争は不明)[67]

太平洋戦争

太平洋戦争」の呼称そのものは1925年大正14年)の日米未来戦記『太平洋戦争』などが初期の使用である[28]

戦後は、前述したGHQの『太平洋戦争史』を筆頭に、青木得三『太平洋戦争前史』(1950-1952)、1953年には日本外交学会編『太平洋戦争原因論』やマルクス主義史学の歴史学研究会の『太平洋戦争史』、同様にマルクス主義史学の遠山茂樹今井清一藤原彰の『昭和史』(岩波書店、1955年)でも「太平洋戦争」が使われた[68]

日本国際政治学会1962年(昭和37年)の『太平洋戦争への道』で大東亜戦争は日本側からの一般的呼称であるとし、学術的にも「War in the Pacific」の語が国際的に用いられていると説明している[46]。その後も児島襄『太平洋戦争』(中央公論社、1965年~ 66年)、家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)、林茂『日本の歴史 25 太平洋戦争』(中央公論社、1974年)などの著名な本の中で「太平洋戦争」の語が使用され、完全に定着していった[46]日本新聞協会において正式な戦争名が討議されたことはないが、朝日新聞読売新聞毎日新聞中日新聞東京新聞)では圧倒的に「太平洋戦争」の使用例が多く[69]、図書や雑誌の見出しでも同様である[70]。このような流れから、1960年代にはすでに「大東亜戦争」の語がタブー視されるようになっていた[46]。日本政府の刊行物においても、『自衛隊十年史』(1961年)、『防衛庁技術研究本部十年史』(1962年)などで使用されている。

太平洋戦争の語自体は日米戦争を現すものとして戦前から使われており、戦争名討議の際にも海軍が提案している。また旧海軍軍人の中には戦後「日本にとって真の敵は(中華民国やソ連ではなく)アメリカであり、したがって大東亜などと無駄に戦域を拡張すべきでなかった」との反省から、「太平洋戦争と(歴史的には)呼称すべきだ」と主張する人々が存在した[71]

アジア・太平洋戦争

1985年に柳沢英二郎は、日米戦争はアジア勢力圏確立のための手段であったがため「アジア・太平洋戦争」が国際政治上は最適とした[72]。近年では「アジア・太平洋戦争」の語が用いられるケースが増加している[73]

児童文学家の山中恒は「ボクラ少国民」シリーズにおいて「大東亜戦争」の語を用いていたが、これは「こちら側の戦争」という同時代意識を現すためなどの理由からで、「『大東亜戦争』という用語に固執するのは『侵略戦争ではないと擁護する側の人たちが多い』」と考え、「アジア・太平洋戦争」の語を用いるようになった[57]

大東亜・太平洋戦争

ピーター・カルヴォコレッシー英語版)、ガイ・ウィントジョン・プリチャードは、「十五年戦争」はあいまいで、「極東戦争」は地理的にヨーロッパ中心主義であり、「対日戦争」も一方的であるため、「大東亜・太平洋戦争」という呼称を提案した[74]

保坂正康は「大東亜戦争」の語を用いないのは「前歴の否定」であるとし、「太平洋・大東亜戦争」の語を用いるべきとしている[75]

十五年戦争

1931年(昭和6年)の満州事変1937年(昭和12年)の盧溝橋事件に始まる日中戦争を大東亜戦争と一体のものとみて、鶴見俊輔が1956年(昭和31年)に提唱した十五年戦争という呼称がある[76][注釈 6]。ただし、マルクス主義史学の歴史学研究会は1953年の『太平洋戦争史』では特に理由を説明していないが1973年の新版では、「大東亜戦争」は「侵略戦争を美化した」ものとし、また「太平洋戦争」との呼称は日米間戦争を重視いているため適当ではなく、15年間のアジアへの侵略戦争との認識から「十五年戦争」と呼ぶべきであるが、広く使われている言葉として「太平洋戦争」の語を用いたとしている[68]

同様に家永三郎も1968年の『太平洋戦争』(岩波書店)で「十五年戦争」の立場を取っているが、一般に浸透した言葉として実用的見地から「太平洋戦争」を用いた[46]。また家永三郎は「大東亜戦争」の使用は「断じて不可」とした[77]。その後、家永は1970年に「太平洋戦争も大東亜戦争も、特定国の政治的立場が露骨にあらわれていてよくない」と述べ、1985年には著書で「15年戦争」を用いた[77]。このように「太平洋戦争」から「15年戦争」へと呼称を変更したものにはマルクス主義などの「進歩派」が多い[77]

ピーター・カルヴォコレッシーガイ・ウィントジョン・プリチャードは、「十五年戦争」は「妙に性格のはっきりしないあだ名で、米国や英国では支持されそうもない」と1989年の著書(邦訳1991年)で批判している[74]

昭和◯◯系

藤村道生の「昭和大戦」や、日米同盟によって日本が加担した朝鮮戦争ベトナム戦争を含めて「昭和40年戦争」というものもある[78]読売新聞満州事変から太平洋戦争までを「昭和戦争」と呼称するよう提唱したが、同紙以外で使用されることは稀である[79][80]

第二次世界大戦

第二次世界大戦」の語には価値判断が含まれていないため、多用される傾向にある。秦郁彦は、「日独戦役」が「第一次世界大戦」に置き換わったのと同様になるのではないかと予想している。ただし第二次世界大戦はポーランド侵攻から始まったヨーロッパの戦争のイメージがあるという問題がある[81]

先の大戦

天皇や政府の談話などで多用される表現であり[31]戦後70年談話でもこの名称で呼ばれている[67]

日本国外における呼称

中国・韓国など特定アジア

特定アジア」も参照

中華人民共和国大韓民国においては「大東亜戦争」の語は、「戦争や植民地支配を正当化するもの」とされている[82]

大東亜戦争出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


安倍内閣総理大臣談話(あべないかくそうりだいじんだんわ)は、戦後70年を迎えるにあたって、2015年(平成27年)8月14日に第97代内閣総理大臣安倍晋三閣議決定に基づき発表した声明。安倍談話(あべだんわ)、戦後70年談話(せんご70ねんだんわ)として知られる。

概要

この内閣総理大臣談話は、1945年(昭和20年)8月15日終戦から70年経つ2015年(平成27年)8月15日の前日の8月14日に、内閣総理大臣の安倍晋三が閣議決定に基づいて発表した声明である。

安倍首相はこの談話の作成について、「できるだけ多くの国民と共有できるような談話を作っていくことを心掛けた」と述べている[1]

内容

冒頭、歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないとの言葉から始まり、西洋諸国の植民地支配に言及し、その危機感を原動力として日本近代化し、アジアで初の立憲国家となり、日露戦争における勝利がアジアやアフリカの人々を勇気づけたとの話から始まる。

その後、日本が先の大戦に突入したことについて、欧米によるブロック経済が日本を苦しめたことに言及し、外交的、経済的な行き詰まりを力の行使によって解決しようと試みた結果であり、こうした経過の中で日本が進むべき針路を誤り戦争への道を進んで行ったとした。

国内外で斃れた全ての人々へ哀悼の意を表明し、戦火を交えた国と戦場となった地域での犠牲や戦場の陰で深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいた事も忘れてはならないと言及した。

先の大戦への反省として「何の罪もない人々に計り知れない損害と苦痛を我が国が与えた事実」について言及。「事変侵略戦争」と先に例を挙げた上で、「いかなる武力の威嚇や行使」も、国際紛争を解決する手段としてはもう二度と用いてはならない、「植民地支配」から永遠に訣別しなければならないとし、先の大戦における行為について「痛切な反省」と「心からのお詫びの気持ち」を表明し戦後一貫してアジアの平和と繁栄のために力を尽くしてきた歴代内閣の立場は、今後も揺るぎないとした。

戦後に引揚者が日本再建の原動力になったことや、中国残留日本人が帰国したこと、アメリカイギリスオランダオーストラリア各軍の捕虜が日本を訪れ、互いの戦死者を慰霊しているということを心に留め置かなければならないとした。

寛容な心によって戦後に日本が国際社会へ復帰できたとして、和解のために尽くしたすべての国と人々へ感謝の意を表明した。

これからの日本人については、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」としつつ、過去の歴史に真正面から向き合う必要はあるとした。

最後に、これから日本は「積極的平和主義」をとり、世界の平和と繁栄のために貢献していくとしている。

過去の談話との比較

村山談話1995年)、小泉談話2005年)はいずれも、8月15日に閣議決定、発表されているが、安倍談話は8月14日に閣議決定、発表された。15日の前日の14日に行った理由は、15日に「おことば」を述べる天皇に配慮したものだと言われている[2][3][4]

字数は3000字を超えており、約1300字の村山談話、約1100字の小泉談話を大きく上回る分量となっている[5]

過去の談話(村山談話・小泉談話)の「キーワード」とされていた、「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「おわび」については、文言としては盛り込まれている[6]。しかし、「植民地支配」と「侵略」について、過去の談話では日本自身が行った行為として明示されていたのに対し、安倍談話では日本の行為との文脈では明確には触れられておらず[7]、いずれも一般論としての言及となっている[8]。「侵略」については戦後日本の不戦の誓いの形での言及であり[9]、かつての日本の行為が「侵略」であったと直接言及することも避けている[10][11]。また、「痛切な反省」と「おわび」についても、過去の談話を引用する形での言及にとどめ、首相自身の言葉としては語らず[12]、首相自ら直接謝罪を表明することも避けている[8][13]。ただし、「歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」と表明している[14][15]

過去の談話等でなされてきた「おわび」等の「謝罪」については、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言及した。これには謝罪の繰り返しに歯止めをかけ[16]、区切りをつける狙いがあるとされる[17][18][19]。この文言について首相周辺は、「『謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない』は大事なところ。もうこれ以上、謝る必要はないんだよ」と発言[12]日本経済新聞も記事の中で、「『謝罪外交』に終止符を打つ意思を表明」とした[20]

安倍内閣総理大臣談話出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

https://web.archive.org/web/20150919040553/http://www.sankei.com/politics/news/150918/plt1509180095-n1.html


外務省は18日、歴史認識をめぐり中韓両国が日本に謝罪を繰り返し求めている問題を念頭に、将来世代が謝罪を迫られないよう現世代で解決すべきだとの立場を明確にした「歴史Q&A」改訂版をホームページに掲載した。8月14日に閣議決定した戦後70年の安倍晋三首相談話を受けた対応。

 改訂版は、談話内容に沿う形で「戦争と何ら関わりのない、将来の世代が謝罪を続けねばならない状況をつくってはならない」と強調。「これは今を生きる、現在の世代の責任だ」と訴えた。

 旧日本軍による従軍慰安婦問題を踏まえ「21世紀こそ女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしていく」と説明。犠牲者数をめぐり日中間で議論がある南京事件については「非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」とする従来見解を踏襲した。

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https://web.archive.org/web/20150629163757/http://www.sankei.com/politics/news/150406/plt1504060029-n1.html


福田康夫元首相は6日、都内で講演し、冷え込んでいる中国、韓国との関係について「(改善しない要因に)歴史認識問題があるなら、正直いってもうそろそろ卒業したい。戦後70年たって、70年前のことにいまだにとらわれて、にっちもさっちもいかない」と述べ、関係改善を急ぐべきだとの考えを示した。

 また、中東や北アフリカで約4年前に始まった民主化運動「アラブの春」に触れ、「(中国の)習近平国家主席は相当ショックを受けたのではないか」と分析。「いずれは中国も民主化する。少しずつでも前進する兆候があるなら歓迎、応援すべきだ」と述べた。

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https://web.archive.org/web/20150704070109/http://www.sankei.com/politics/news/150420/plt1504200030-n1.html



 安倍晋三首相は20日夜、BSフジの番組に出演し、今年夏に発表する戦後70年談話に関し、過去の日本の植民地支配と侵略を認めた戦後50年の村山富市首相談話や戦後60年の小泉純一郎首相談話の文言をそのまま盛り込むかどうかについて「歴史認識においては基本的な考え方を継ぐ。引き継ぐと言っている以上、もう一度書く必要はない」と述べた。

 村山談話などには「植民地支配と侵略」のほか「心からのおわび」が入っている。安倍首相は「私の考え方がどう伝わるかが大切だ。同じことを言うのであれば(新たな)談話を出す必要はない」と強調した。

 中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に関しては「悪い高利貸からお金を借りた企業は結果として未来を失う。アジアの一員として、そういうものにしてはならないという思いが強くある。米国やオーストラリア、他の先進7カ国(G7)も同じ懸念を持っている」と述べ、参加を決めた主な国にも公平性や透明性で懸念があると指摘した。
その上で「中国に対してこうした懸念への答えを求めていくことで一致している。6月にドイツで開催される主要国首脳会議(サミット)でも議論することになろう」と述べた。

首相、70年談話で「過去の談話をもう一度書く必要はない」 インフラ銀には「G7と懸念を共有」



安倍晋三首相は14日夕、官邸で記者会見し、戦後70年の首相談話を発表する。先の大戦に関し「侵略」「反省」の文言を盛り込むほか、「おわび」にも言及するとみられる。その上で、首相が掲げる「積極的平和主義」に基づき、国際社会の平和と安定に貢献していく決意を示し、全体として「未来志向」を強く打ち出す方針だ。

 談話は午後5時からの臨時閣議で閣議決定。首相は午後6時からの記者会見で自ら談話の全文を読み上げるとともに、談話に込めた思いや狙いを説明する。英訳文も同時に公表。中国語と韓国語の訳文も後日、公表する方向で検討する。

 談話は▽先の大戦への反省▽戦後の平和国家としての歩み▽国際社会における今後の日本のあり方-で構成する予定。大戦に至った事情や、政府開発援助(ODA)や国連平和維持活動(PKO)といった国際貢献の実績も述べる。このため、戦後50年の村山富市首相談話や60年の小泉純一郎首相談話より分量が増える見通しだ。

 村山談話と小泉談話は終戦記念日の8月15日に閣議決定されている。今回は、天皇陛下が全国戦没者追悼式でお言葉を述べられる15日を平穏に迎えられるよう配慮したとみられ首相は、第2次政権発足直後の平成24年末、産経新聞の単独インタビューで「21世紀にふさわしい未来志向の談話を発出したい」と表明。根底には「歴史認識を冷静に捉え直すとともに、謝罪やおわびの繰り返しを終わりにする談話にすべきだ」(首相側近)との考えがある。

 今年2月には、談話作成に向けて有識者会議「21世紀構想懇談会」(座長・西室泰三日本郵政社長)を設置。懇談会は今月6日に首相へ提出した報告書で「満州事変以降、大陸への侵略を拡大」と明記する一方、安全保障分野での日本の役割拡大に期待感を示した。

 首相は、報告書や「過去の談話と意味が大きく変わってはならない」とする連立与党の公明党の意向を踏まえ、文言調整を続けてきた。

戦後70年談話

未来志向強調、14日夕に閣議決定

2015/8/14 09:44




安倍晋三首相はアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議に出席するため、21~23日の日程でインドネシアのジャカルタを訪問する。22日の演説では、戦後70年の節目であることを踏まえ、先の大戦の反省を踏まえた戦後日本の平和の歩み、国際貢献の実績と今後の方針などを語る。中国の習近平国家主席も首脳会議に出席する見通しで、両首脳が接触するかに注目が集まる。

 「首相からは積極的平和主義のもと、アジアとアフリカの発展と繁栄に貢献するとの決意を発信する」

 菅義偉(すが・よしひで)官房長官は17日の記者会見でこう述べた。ただ、演説時間は5分ほどであり、それほど多くの内容は盛り込めない。

 一方、歴史認識をめぐって対立している中国や韓国は、首相の演説が今夏に出す戦後70年談話の「原型」になるとみなして注視している。

 バンドン会議50周年の2005年の首脳会議には小泉純一郎首相(当時)が出席し、過去の「植民地支配」や「侵略」を謝罪した戦後50年の村山富市首相談話を踏襲する演説を行った。これらの文言は、同年8月に出された戦後60年の小泉談話にも引き継がれた経緯がある。

 首相はこれまで「歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継ぐ」としながらも今夏に出す戦後70年談話では、過去の首相談話の文言をそのまま踏襲することはしない考えも示している。首相が2月に戦後70年談話に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」(座長・西室泰三日本郵政社長)を立ち上げたのも、「未来志向」の色合いを強めたいという思い首相が出席予定の習氏と接触すれば、昨年11月に北京で行われた日中首脳会談以来となる。政府関係者は「中国側は首相の演説内容を確認してから、接触するかどうかを判断するのでは」とみている。

 50周年記念会議の際には、小泉氏の演説後に胡錦濤国家主席(当時)との日中首脳会談が実現した。当時も日中関係は冷え込んでおり、会談は直前まで不確定だったが、中国側は村山談話を踏襲した小泉氏の演説を評価したとされる。

 首相は演説後、インドネシアのジョコ・ウィドド大統領ら複数の首脳と会談する予定。韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領や北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)第1書記は会議を欠席する見通しだ。



バンドン会議 1955年4月、インドネシアのスカルノ大統領やインドのネール首相らが反植民地主義を掲げ、インドネシアのバンドンで開いた「アジア・アフリカ会議」の別名。日本を含む29カ国が参加した。今年の60周年記念行事には109カ国、25国際機関が招待されている。

首相、バンドン会議出席へ 戦後日本の歩みや国際貢献をアピール 日中首脳接触は流動的

2015/4/18 22:53


【ロンドン=内藤泰朗】ハモンド英外相は14日、安倍首相が戦後70年の談話を発表したことを受け、「日本政府が発表してきたおわびの声明を再確認し、国際法の下で70年以上にわたる日本の平和への貢献が継続することは喜ばしい」と歓迎する声明を発表した。

 さらに、安倍首相が英国人元捕虜らによる慰霊などに言及したことを評価。「談話が日本と北東アジアの隣国との和解のためにプラスとなるよう受けとめられることを希望する」と締めくくった。

「喜ばしい」英外相が歓迎 英国人元捕虜への言及も評価

2015/8/15 10:06


民主進歩党主席で総統候補者の蔡英文は15日、「台湾を照らす、故郷に希望を」の花蓮2日目の日程において、安倍首相が14日発表した戦後70年談話についての感想をメディアから求められ、安倍首相が歴史を正視し平和の約束をしたことを受け入れるとともに、日本が引き続きこの地域における平和に対し重要な役割を担っていく事を希望している、と述べた。

また、安倍首相が初めて侵略植民地などの言葉を述べたことを肯定するとともに、日本が引き続き地域の安定平和に重要な役割を果たしていくことを期待し、我々もアジア地域の平和と安定を共に維持したいと考えており、各国が経済問題への対応に専念できるようを望んでいる、との考えを示した。

GDPが2%を達成できなかったことについて蔡主席は、台湾の経済情勢は非常に難しい状況にあり、多くの困難は周期的なものではなく構造的なものである。よって、政府は強力な政策で問題に対処することが必要だ。しかし馬政府はこの数年来、我々が現在直面している挑戦に対し、構造的な政策手段でしかるべき対応をとってこなかった。そのことにより、今日のGDPが下降し続ける状況に陥ったのである、と述べた。

蔡英文主席は、もし来年政権を執れば、民進党は有力なプランを出すつもりであり、中長期的なシステム的な問題の対応についても、短期的で経済調整の手段についても完璧な計画を持っている。あらゆる構造問題の中でもっとも重要なのは、台湾産業のグレードアップであり、将来民進党は続々と産業政策を出して、台湾の社会に説明していくつもりである、と述べた。

蔡英文主席は、台湾には多くの解決しなければならない構造的な問題がまだまだあり、人口高齢化の問題、マンパワー市場の需要のアンバランスの問題、財政危機、年金問題、そして産業経済発展のエネルギー不足の問題など、その全てが、政府が有力な政策をとって主導する必要のあるものだ。全国民で一緒に参与していかねばならない、との考えを示した。

馬英九と洪秀柱のスケジュールにかぶっていることについて、張り合っている意味があるか、との質問に対し、蔡英文は、元々の計画にそって今回の選挙戦を進めているのであって、選挙の過程で、多くの選挙民とコミュニケーションをとり、直接顔を合わせることを望んでいる。政策とチームが人々から最大の支持を集められる事を期待している、と述べた。

宋楚瑜がTV番組で2人の元民進党首長が彼を支持していると話したことについて、支持者を奪われる感じがするか?との質問に、蔡英文主席は、宋氏の言う元民進党の地方首長が誰かは知らないが、民進党の地方組織全体の運営は落ち着いており、地方の首長はみな努力をして執政を行っている。民進党政権の県市は落ち着き、進歩がみられ、各地の組織も運営がうまくいっている。よって、選挙戦という観点から見ると、組織でも選挙戦でも問題はない、と述べた。

この他、花蓮の人が今回花蓮での得票目標は40%だと言った事について、蔡英文主席は、この数年民進党の地方幹部と蕭美琴立法委員が心を一つに協力して活動してきたので、このことが選挙の票に繋がって、蕭美琴議員が花蓮地域代表の立法委員として、地域の人たちのために働けることを期待している。花蓮の建設と産業に力をもち、関心を持っている立法委員を立法院に入れて、花蓮の皆さんに利益をもたらさせて欲しい、と述べた。



国務院台湾事務弁公室主任が台湾の選挙に介入しないことを表明したことについて、蔡英文主席は、北京が台湾は民主主義の社会であり、政権交代は非常に当たり前の現象であることをしっかり認識することを希望している、と述べた。また、人々に支持されるには執政の機会を持つことであり、執政が失敗すれば政権交代ということになる。これは民主主義社会にとっては当然のことである。中国大陸が民主社会の人々の選択を尊重し、台湾人の人々も両岸関係の安定と平和に関心を持って欲しいと述べた

2015年8月15日土曜日

蔡英文主席:安倍首相の戦後70年談話を受け入れる。ともに地域の平和を守ることを期待する



23:45





木原稔防衛相は9日の記者会見で、陸上自衛隊の部隊が公式X(旧ツイッター)で3月末に日米合同慰霊式が執り行われた硫黄島(東京都小笠原村)を「大東亜戦争最大の激戦地」と表記したことについて、「硫黄島が激戦の地であった状況を表現するため、当時の呼称を用いた」と説明した。ただ「大東亜戦争」の表記は問題視される形で報じられ、同隊は削除した。木原氏は「現在一般に政府として公式文書で使用していないことを踏まえ、修正した」と述べるにとどめた。

問題視するメディア

陸自第32普通科連隊(さいたま市)は5日、Xで3月30日に執り行われた日米合同慰霊式に同隊隊員が「旗衛隊」として参加したことを報告。「大東亜戦争最大の激戦地硫黄島において開催された日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式に参加しました」と書き込んだ。

その後、「大東亜戦争」の表記は「政府は公式文書では用いていない」「戦後、占領軍の命令で『大東亜戦争』は禁止された」「ネット上で『植民地統治や侵略を正当化する名称』『公機関が使ってはいけない』と波紋を呼んでいる」と一部で報じられる。同隊は8日に該当するXの投稿から「大東亜戦争」などの表記を削除した。

林芳正官房長官は8日の記者会見で、「大東亜戦争」を公文書で使用する適否を念頭に「いかなる用語を使用するかは文脈などによる。一概に答えることは困難だ」と述べるにとどめた。

禁じたGHQ指令は失効

先の大戦を巡っては、日米開戦直後の昭和16年12月12日、「大東亜戦争と呼称する」と閣議決定された一方、連合国軍総司令部(GHQ)は戦後、国家神道を廃する「神道指令」で「大東亜戦争」について「国家神道、軍国主義、過激な国家主義」とし、公文書での使用を禁じた経緯がある。

ただ、神道指令は27年の主権回復後、失効した。大東亜戦争の表記を禁じる根拠を失った形となる。先の大戦に関して閣議決定された名称は「大東亜戦争」以外になく、実際に政府も公文書への使用を禁じてはいない。

韓国の中央日報(電子版)も8日、日本の報道を引用する形で、「大東亜戦争」について「事実上タブー語として認識されている」と報じた。ハンギョレ紙(電子版)は9日、「大東亜戦争」について「日本の起こした戦争はアジアの植民地を解放するためのものという歪曲された意味を含んでいるため、日本でも使用がタブー視されている」と解説した。

同隊の問題視されたX投稿からは「大東亜戦争」の表記に加えて、「慎んで祖国のために尊い命をささげた日米双方の英霊のご冥福をお祈りします」と当初あった文言も削除されている。公式Xには「『大東亜戦争』だけでなく『慎んで祖国のために尊い命をささげた日米双方の英霊のご冥福をお祈りします』という文言までなぜ、削除されるのですか」といった書き込みや「(大東亜戦争の表記を)削除せざるを得なかった担当者の悔しさが見て取れる」といった書き込みがある。(奥原慎平)

「大東亜戦争」と呼ぼう 岡部伸

埼玉の陸自連隊、公式Xから「大東亜戦争」表現削除

波紋を広げる「大東亜戦争」表記 禁止されていないが問題視され陸自部隊はX投稿削除

2024/4/9 14:10


80年前の8日、日本海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃して日米開戦の口火が切られた。しかし、その1時間以上前、日本陸軍が英領マレー半島コタバルに上陸を強行して日英が一足早く干戈(かんか)を交えたことは人々の記憶にあまりない。

宣戦布告なしに奇襲上陸した日本軍は、開戦から70日で難攻不落とされたシンガポールを陥落させた。マレー進攻作戦である。

このほか日本軍はアジアや太平洋各地で軍事行動を開始。3年9カ月におよぶ米英中など連合軍との太平洋戦争に突入したとされてきたが、日英が交戦したミャンマーやインパールは地理的に太平洋戦争とするには違和感がある。

太平洋をはさんだ日米両国間の戦いにとどまらず、アジアの地を舞台に、英仏蘭など西欧諸国を相手に日本が戦ったとして、英国では歴史家クリストファー・ソーンが「極東戦争」との呼称を提唱している。

満州事変から始まり敗戦まで足かけ15年の戦争は、「先の大戦」「あの戦争」など曖昧な呼称で論じられてきた。何と呼ぶべきか。

戸部良一氏ら歴史家7人による共著で、7月に新潮社から刊行された『決定版 大東亜戦争』(新潮新書)の上、下巻ともに増刷となり、上巻が1万5000部、下巻も1万4500部と好評を博している。

平成30年に出版された『決定版 日中戦争』の続編で、「大東亜戦争」のタイトルをつけた編集者の横手大輔「新潮新書」編集部次長は、「イデオロギー抜きにすれば、最も的確に伝えると自然と思い浮かんだ。集結した歴史家の先生たちは、あえて『大東亜戦争』の表現を選び、この呼称が売れ行き好調につながったと思う」と振り返る。

「大東亜戦争」を使用した理由を、防衛研究所の庄司潤一郎研究幹事は、「単なる地理的呼称であるとするならば、イデオロギー色のない呼称となる」として、「戦争肯定という意味合いではなく、原点に戻って、『大東亜戦争』に落ち着く」と提言する。

そもそも「大東亜戦争」という呼称は日米開戦の2日後の昭和16年12月10日の大本営政府連絡会議で決まり、同12日の閣議で正式決定された。しかし、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が「神道指令」によって禁止し、代わって「太平洋戦争」が強制的に使われるようになった。大東亜新秩序を目的とする「侵略戦争を肯定する意味合いを持つ」という理由からだった。

2年前、インパール作戦で戦場となった現インド北東部のコヒマを訪ねた際、現地の古老から聞いた「日本が来て英軍と戦ってくれて独立できた」という感謝の言葉が心に残っている。英国統治からの独立運動を主導したチャンドラ・ボースが最前線に来て、日本軍とともに戦っていた。

「日本は欧米の植民地を占領し、アジア諸民族を独立へ導いた。アジア諸国は日本によって白人支配から独立した。『侵略』ではなく『解放』したのです」

平成27年に「話の肖像画」でインタビューした在日外国人記者最古参の英国人、ヘンリー・S・ストークス氏の発言を思い出した。

軍国主義や戦争を美化するつもりはない。GHQによって植え付けられた自虐史観から脱却してイデオロギー抜きに祖父や曽祖父が戦った「大東亜戦争」に胸を張りたい。(論説委員)

「大東亜戦争」と呼ぼう 岡部伸

2021/12/7 09:00





韓国大法院はこれらの判決で、徴用工の賠償権を認めるとともに、「日本の朝鮮統治が不法であった」とする、「歴史に対する弾劾」という大きな使命をも果たしているつもりなのでしょう。この「統治の不法」という論理をベースにすれば、慰安婦などの諸問題を「不法行為に対する慰謝料」という形で裁くことができ、今後、影響が大きく広がる可能性があります。

日本統治を望んだのは当時の朝鮮側

しかし、歴史を振り返れば、「日本の朝鮮統治が不法」とするとらえ方自体に問題があることがわかります。日本の朝鮮統治は合法的に始まっています。1910年の日韓併合は朝鮮側(当時は大韓帝国)の要望によって、なされたものです。

「我が国の皇帝陛下(当時の大韓帝国の李氏朝鮮皇帝のこと)と大日本帝国天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」これは大韓帝国の開化派の政治団体「一進会」が、「韓日合邦を要求する声明書」(1909年)において述べた一節です。一進会はこの声明書の中で、「日本は日清戦争・日露戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし、韓国を独立させてくれた」と述べています。

当時の朝鮮では、無為無策の朝鮮王朝を見限って、日本に朝鮮の統治を託そうとした親日保守派が少なからずいました。金銭や利権に釣られて日本になびいた者も含まれていましたが、彼らの多くは日本の力を借りてでも、朝鮮を近代化させるべきだと考えていたのです。朝鮮の内閣閣僚も、李完用(りかんよう)首相をはじめとする親日派で占められており、日本の朝鮮併合を望んでいました。

これに対し、日本は元々、朝鮮の併合には慎重でした。韓国統監であった伊藤博文は「日本は韓国を合併するの必要なし。合併は甚だ厄介なり」と述べていました。朝鮮を併合してしまえば、日本が朝鮮王朝を終わらせることになってしまい、朝鮮人の反発を買うと懸念していたのです。朝鮮の親日保守派は、自分たちで朝鮮王朝の息の根を止めようとはせず、日本にその汚れ役を引き受けさせようとしていました。伊藤はその狡猾さを見抜いていたのです。

また、当時の朝鮮のような貧しく荒廃した国を併合したところで、日本には何の利益もなく、統治に要するコストばかりが費やされることは目に見えていました。
「馬鹿な奴だ」と言って息絶えた伊藤博文

しかし日本側でも、ロシアの南下に備え、極東地域における日本の安全を保障する上で朝鮮併合は避けられないとする意見が日増しに強くなり、伊藤も併合に反対しきれなくなっていきます。

こうした状況の中で、伊藤は殺されてしまいます。1909年、伊藤は満州・朝鮮問題についてロシアと話し合うため、満州におもむきました。そして、ハルビン駅で朝鮮の民族運動家、安重根に拳銃で撃たれます。

安はその場でロシアの官憲に取り押さえられました。犯人は朝鮮人だと随行者に告げられた伊藤は、『そうか。馬鹿な奴だ。』と一言いい、それから数十分で絶命しました(*3)。伊藤は朝鮮併合を止めることができるのは自分だけだと考えており、自分が死ねば併合は免れないという意味で「馬鹿な奴だ」と言ったのです。

伊藤の暗殺を受け、日本国内の世論は朝鮮併合へと一気に傾きました。朝鮮側の李完用首相も併合を急ぐように要請しましたが、一方で朝鮮国内では暗殺者の安重根を讃える声が大きく、民族主義者が勢いを得ていました。彼らが暴動を起こせば、李完用ら親日派は真っ先に殺されてしまいます。朝鮮の民族主義者から見れば、李完用たちは自らの命惜しさに日本にすがり付く売国奴でした。

李完用首相ら朝鮮側の閣僚の求めに応じて、1910年、韓国併合条約が調印され、大日本帝国は朝鮮を併合しました。

そもそも併合などするべきではなかった

朝鮮人が自分たちで末期症状に陥っていた李氏朝鮮王朝を終わらせ、近代化を成し遂げることができれば、わざわざ、日本が莫大な予算を費やして、貧弱な朝鮮を併合することなどもありませんでした。無能な朝鮮の閣僚や支配者たちのため、結局、日本が朝鮮王朝を始末する役を押し付けられ、民族主義者たちの恨みを一身に浴びることになってしまいます。

当時の日本の指導者たちも、伊藤が「合併は甚だ厄介なり」と言った意味をよく理解するべきであったし、伊藤が主張したように、朝鮮を保護国化する程度で、ロシアを牽制することは充分に可能でした。まして、腐敗した李氏朝鮮王朝の始末などは朝鮮人につけさせるべきであったし、日本が朝鮮を併合して、その統治に関わるようなことはするべきでなかったと思います。
それでも、日本は朝鮮側政府の要望により、大韓帝国を合法的に併合し、合法的に統治をして、その近代化を支援しました。こうした日本の誠意が、現在の韓国の大法院の判決にも見られるように「不法」と罵られ、その「不法行為」に対する「慰謝料」を請求されることになるとは、当時の朝鮮統治に関わった日本人も想像できなかったでしょう。

日韓基本条約では合法性論議を棚上げに

1965年、日韓基本条約が結ばれ、日本は韓国政府に総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)を供与しました。これは当時の韓国の国家予算の2倍以上の額で、この巨額の支援金を使い、韓国は「漢江の奇跡」といわれる経済復興を遂げました。

一方で、締結に向けた交渉の中で、韓国側の担当者は、日韓併合条約を含む旧大韓帝国と日本間の条約は「民族の総意」に反して結ばれたために当時にさかのぼって無効であり、そのことを基本条約に明記するよう主張(*4)。国際法上も正当な国家間の条約であったという立場に立つ日本政府は、これに強く反発しました。最終的には「もはや無効であることが確認される」という玉虫色の文言で、併合をめぐる解釈の違いを棚上げにして基本条約を締結したのです。

その後国際的に活躍する韓国企業も育つなか、韓国国民の間には、自分たちは優秀であるというエリート意識が芽生えはじめます。しかし、ふと自国の歴史を振り返れば、内輪の権力争いや国論の分裂に引き裂かれ、結局は他国頼みでしか問題を解決できなかったつらい現実があるばかりです。近代化への道も自分で切り開けず、日本の統治を自分たちの手で排除できたわけでもなく、朝鮮戦争でもアメリカ頼りでした。

日本の支援により「漢江の奇跡」のような経済発展を遂げたといった事実は、韓国人にとっては目を背けたいことです。こうした状況のもとで、今日の徴用工裁判判決のような現象が必然的に生じているのです。

(*1)韓国大法院ウェブサイトの判例『日帝強制動員被害者の日本企業を相手にした損害賠償請求事件』(2018.10.30.)
http://www.scourt.go.kr/portal/news/NewsViewAction.work?pageIndex=1&searchWord=&searchOption=&seqnum=6391&gubun=4&type=0
(*2)日本弁護士連合会『三菱重工事件釜山高等法院判決(差戻審) 仮訳』(2013)
https://www.nichibenren.or.jp/activity/international/nikkan_shiryo/korea_shiryo.html?revision=0&mode=0
(*3)国会図書館デジタルコレクション 室田義文翁物語編纂委員編『室田義文翁譚』P274(1939)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1217103
(*4)藤井賢二『第1次日韓会談における「旧条約無効問題」について』東洋史訪 15 P76~P84(2009)
http://hdl.handle.net/10132/2674

宇山卓栄(うやま・たくえい)
著作家
1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『「民族」で読み解く世界史』(日本実業出版社)などがある。

(写真=近現代PL/アフロ)

"日韓併合は違法"とする徴用工判決の奇怪 "併合は厄介"とした伊藤博文の警告

PRESIDENT Online宇山 卓栄著作家



 「日本は朝鮮半島を軍事力で植民地化し、収奪の限りを尽くした」

 戦後の日韓関係は、このような歴史認識を前提として構築されてきた。だが、これは明らかに「歴史の歪曲(わいきょく)」である。(夕刊フジ)

 李氏朝鮮は1897年、国号を大韓帝国(以下韓国)に変更した。韓国は1905年、日本の保護国となり、日本人統監の支援の下で、自ら近代化への道を歩み始めた。

 ただ、当時の韓国には、近代国家へ脱皮するためのインフラが決定的に不足していた。さらに、儒教による身分制度でがんじがらめだった国家体制を、朝鮮人自身が打破することは極めて困難であった。

 そこで、かつて李朝に反旗を翻した東学党の流れをくむ人々が「一進会」を結成し、日本との合邦運動に立ちあがった。代表の李容九(イ・ヨング)は一進会100万人会員の名義で、全国民に訴える「合邦声明書」を発表した。続いて、韓国皇帝に対する上奏文、曾禰荒助(そね・あらすけ)統監、李完用(イ・ワンヨン)首相へ「日韓合邦」の請願書を出している。

 これに対し、初代統監だった伊藤博文は大反対した。彼の願いは韓国が近代化を遂げ、やがて日本とともに東亜(=東アジア)に並び立つことにあった。

 ところが、その伊藤を、安重根(アン・ジュングン)という人物がハルビン駅頭で暗殺してしまった。安自身は、日露戦争における「日本国天皇の宣戦書」を高く評価し、日本の勝利をたたえている。裁判の過程では、何と「天皇陛下の父君(孝明天皇)を殺害した」ことを、伊藤暗殺の理由の1つに挙げている。
彼は本来、日本国天皇に心酔する「親日派」であった。朝鮮への思いを同じくする伊藤を誤解し、殺害したことで、皮肉にも併合を促進する結果を招いてしまったのだ。

 日露戦争後もロシアは太平洋進出の野望を捨てておらず、当時の客観情勢から見て、朝鮮半島を日本国の一部にして直接守る以外に、国の安全を確保するすべがなかったのは事実である。

 しかし、それには膨大な費用が必要となる。実際、1905年から45年まで、国家予算の10%以上を朝鮮半島の支援に当てている。「収奪された」のはむしろ日本の納税者なのだ。

 一方、韓国にとっても日本と一体化する以外に外国の植民地とならず、近代化を遂げる道はなかった。当時、最大の政治勢力であった一進会の訴えもあって「日韓合邦」への「民意」が韓国内に拡大し、李完用首相以下閣僚も近代国家へ脱皮するための唯一の道として日韓併合を選んだ。

 「日韓併合」は当時の弱肉強食の時代に、日韓それぞれが生き残るために選んだ、ぎりぎりの「マイナスの選択」であった。

 ■松木國俊(まつき・くにとし) 朝鮮近現代史研究所所長。1950年、熊本県生まれ。73年、慶応大学を卒業し、豊田通商に入社。直後から韓国担当を務め、80〜84年、ソウル事務所に駐在する。2000年に退社。韓国問題を長く研究しており、「慰安婦の真実国民運動」前幹事長。著書に『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』(ワック)、『日本が忘れ韓国が隠したがる 本当は素晴らしかった韓国の歴史』(ハート出版)など。

近代化のため日韓併合推進した李氏朝鮮 それぞれが生き残るために選んだ「マイナスの選択」

2017/12/20 05:30




 外務省がホームページ上で公にしている先の大戦に関する政府の見解から「侵略」「植民地支配」が消えた。安倍晋三首相が今年8月に出した戦後70年の首相談話を踏まえた内容となっている。従来は、国策を誤ったため戦争への道を進んだとしていた村山談話をベースにしていたが、安倍談話の成果が徐々に浸透しているといえる。

 外務省は歴史問題に関する政府の立場をまとめた「歴史問題Q&A」を安倍談話が閣議決定された今年8月14日に一度、削除した。政府は、民主党の鈴木貴子衆院議員から提出された質問主意書に対する答弁書で、この点について安倍談話の内容を踏まえた新しいものを掲載するとしていた。その後、外務省は今年9月18日付で内容を更新した「歴史問題Q&A」を再びホームページに掲載した。

 削除前には先の大戦に関する認識については「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と指摘し、「痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを」心に刻むとしていた。
 戦後50年に出された村山富市首相談話は先の大戦について「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」とし、「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明する」としており、削除前のホームページは、この村山談話を踏まえたものになっていた。

 それが改訂後には「侵略」「植民地支配」には直接、言及せず、先の大戦に関して政府がどのような歴史認識を持っているかという問いに対しては村山談話や戦後60年の小泉純一郎首相談話、それに安倍談話のリンク先を紹介するにとどまっている。

 また、アジア諸国に対する謝罪に関しては「歴代内閣が表明した反省とお詫びの気持ちを、揺るぎないものとして、引き継いでいきます」としている。その一方で、「戦争とは何ら関わりのない、将来の世代が、謝罪を続けねばならないような状況を作ってはなりません。これは、今を生きる、現在の世代の責任であると考えています」としている。
慰安婦問題については、「多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた問題であると認識しています」との見解を表明し、民間から寄付を募って元慰安婦に「償い金」を届けたアジア女性基金の取り組みを紹介している。

 そして、「慰安婦問題に関する日本の考え方や取組に対し、国際社会から客観的な事実関係に基づく正当な評価を得られるよう引き続き努力していきます」と、国際社会に対して日本政府の見解などを積極的に広報していく方針を示している。

外務省HPから「侵略」「植民地支配」が消えた! 安倍談話の成果、徐々に浸透…

2015/11/30 06:00



「お詫びの気持ち」「侵略」の文言に込められたメッセージ

司会:それでは、これから質疑に移ります。質問される方は、所属とお名前を明らかにされた上でお願いいたします。

記者:共同通信のスギタと申します。総理は戦後70年談話について、世界に発信するものだと位置づけてきました。国内外に最も伝えたいメッセージは何でしょうか? また、過去の村山談話や小泉談話と違う形で、「お詫びの気持ち」や「侵略」の文言を入れた理由をお聞かせください。

安倍晋三氏(以下、安倍):戦後70年という大きな節目にあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、20世紀という時代を大きく振り返りながら、その教訓を胸に刻み、戦後80年、90年、100年に向けて、どのような日本をつくり上げていくのか、それを世界に向けて発信したいと考えました。

作成にあたっては、国民の皆さまとともに、日本が目指すべき国家像を描くという意味で、できるだけ多くの国民と共有できるような談話をつくっていく、そう心がけました。

より幅広い国民とメッセージを共有するという観点からは、一部だけを切り取って強調することよりも、談話全体としてのメッセージをご覧いただきたい、受け取っていただきたいと思います。

先の大戦における行いに対する「お詫びの気持ち」は、戦後の内閣が一貫して持ち続けてきたものであると考えています。そうした気持ちが、戦後50年においては村山談話という形で表明され、さらに60年を機に出された小泉談話においても、そのお詫びの気持ちは引き継がれてきたと考えています。

こうした歴代内閣が表明した気持ちを、私の内閣においても揺るぎないものとして引き継いでいく。そして、おそらく今後の内閣においても、そのことを今回の談話のなかで明確にしたところであります。

次に、「侵略」という言葉についてでありますが、今回の談話は「21世紀構想懇談会」において、有識者の方々が共有した認識、その報告書の上に立って作成したものであります。その報告書のなかにもあるとおり、なかには「侵略」と評価される行為もあったと思います。

だからこそ、談話においては、事変、侵略、戦争という言葉を挙げながら、いかなる武力の威嚇や行使も国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならないことを、先の大戦への深い悔悟の念とともに誓ったと表現しました。

先の大戦における日本の行いが「侵略」という言葉の定義に当てはまればダメだが、当てはまらなければ許されるというものではありません。かつて、日本は世界の大勢を見失い、外交的、経済的な行き詰まりを力の行使によって打開し、あるいは、その勢力を拡大しようとしました。その事実を率直に反省し、これからも法の支配を尊重し、不戦の誓いを堅持して、ということが今回の談話の最も重要なメッセージであると考えています。

その上で、具体的にどのような行為が「侵略」に当たるか否かについては、歴史家の議論に委ねるべきであると考えています。重要な点は、いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としてはもう二度と用いてはならない、ということであります。これが、私たちが過去から学び、教訓とし、反省すべきことであると考えます。

過去の村山談話と今回の70年談話の作成について

記者:東京新聞のセキグチと申します。総理は、2009年に、月刊誌の対談で、村山談話について「政権が変わるたびに、その継承を迫られるようになる、まさに踏み絵です。村山さんの個人的な歴史観にいつまでも日本が縛られることはない」と述べておられます。これらの発言と、今回の談話の整合性についてわかりやすく説明してください。

安倍:村山談話につきましては、これまでも全体として引き継ぐと、繰り返し申し上げてきたとおりであります。同時に私は、政治は歴史に対し謙虚であるべきであるとも申し上げてきました。

その信念のもと、今回の談話の作成にあたっては、「21世紀構想懇談会」を開き、学者、歴史家をはじめ、有識者の皆さんにお集まりをいただき、20世紀の世界と日本の歩みをどう捉えるか、大きく世界と時代を超えて俯瞰しながらご議論をいただきました。視座や考え方が異なる有識者の皆さんが、最終的に一定の認識を共有できました。

私は、この「21世紀構想懇談会」の報告書を歴史の声として受け止めたいと思います。そして、その報告書の上に立って、先の大戦への道のり、20世紀という時代を振り返りながら、その教訓を胸に刻んで、日本がどのような国をつくり上げていくべきか、戦後70年の大きな節目にあたって、談話として取りまとめたものであります。

その上で、これからも果たして聞き漏らした声があるのではないか、ほかにもあるのではないかと、常に謙虚に歴史の声に耳を傾け、未来への知恵を学んでいく、そうした姿勢を持ち続けていきたいと考えています。

戦争は今を生きる私たちの世代の責任である

記者:産経のアビルです。今回の談話には「未来の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とある一方で、「世代を超えて過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」と書かれています。ドイツのヴァイツゼッカー大統領の有名な演説の「歴史から目をそらさないという一方で、自らが手を下してはいない行為について、自らの罪を告白することはできない」と述べたのに通じるものがあると思うのですが、総理の考えをお聞かせください。

安倍:戦後から70年が経過しました。あの戦争には、何ら関わりのない私たちの子や孫、その先の世代、未来の子どもたちが、謝罪を続けなければいけないような状況、そうした宿命を背負わせてはならない。これは、今を生きる私たちの世代の責任であると考えました。その思いを、談話のなかにも盛り込んだところであります。

しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて過去の歴史に真正面から向き合わなければならないと考えます。まずは何よりも、あの戦争の後、敵であった日本に善意や支援の手を差し伸べ、国際社会に導いてくれた国々、その寛容な心に対して感謝すべきであり、その感謝の気持ちは、世代を超えて忘れてはならないと考えています。

同時に過去を反省すべきであります。歴史の教訓を深く胸に刻み、よりよい未来を切り開いていく。アジア、そして、世界の平和と繁栄に力を尽くす、その大きな責任があると思っています。そうした思いについても、合わせて今回の談話に盛り込んだところであります。

習近平・中国国家主席との首脳会談について

記者:ブルーバーグニュースのレイノルズです。今年中に中国に訪問して、習近平国家主席と3回目の首脳会談を行う可能性が高くなると思いますか。そして今のタイミングは、中国の経済後退が懸念されているところですが、そのなかでの談話のインパクトが薄れる可能性があると思いますでしょうか。

安倍:中国の皆さんには、戦後70年にあたっての我が国の率直な気持ちをありのまま受け止めていただきたいと願っています。中国とは、習近平国家主席との2度にわたる首脳会談を通じて戦略的互恵関係の考え方に基づいて、関係を改善していくことで一致しています。

日本と中国は、地域の平和と繁栄に対して、大きな責任を共有しています。両国の経済関係は非常に密接であり、今後もさまざまなレベルで対話を重ねながら、安定的な友好関係を発展させ、国際社会の期待に応えていきたいと思っておりますし、首脳会談についても、機会があれば、そういう機会を生かしていきたいと考えております。日本の対話のドアは常にオープンであります。

平和安全法制は戦争を未然に防ぐために必要

記者:ニコニコ動画のナナオです。談話を踏まえて、安全保障関連法案についてお聞きします。改めて法案に関します識者などのご発言を見ていきますと、そのなかの1つに、軍事をめぐる中国の動向を脅威と見るか見ないかで、安保法案に対する賛否が分かれるといった傾向が見られます。こうした考えの隔たりは、国民も見ていると思うのですが、日本の安全保障上、このような大きな認識の違いをどうご覧になっているのでしょうか?

安倍:70年前、私たち日本人は二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないという不戦の誓いを立てました。この不戦の誓いは今後も決して変わることはありません。今回の平和安全法制は、戦争を未然に防ぐためのものであります。まずもって外交を通じて平和を守る、このことが重要であることは言うまでもないと思います。今後とも積極的な平和外交を展開してまいります。

その上で、万が一への備えも怠ってはなりません。この法案は国民の命、平和な暮らしを守り抜いていくためのものであります。もちろん、特定の国を想定したものではありません。今回の法制によって、日本が危険にさらされたときには、日米同盟が完全に機能する、このことを世界に発信することによって、紛争を未然に防ぐ力はさらに強くなっていく、高まっていく、日本が攻撃を受ける可能性はより低くなっていくというふうに考えています。国民の皆さまのご意見、ご批判にも真摯に耳を傾けながら、この大切、必要な法制について、理解が深まるように今後も努力を重ねていく考えであります。

70年前の歴史の教訓を世界に対して発信していくことの意義

記者:日本テレビのタケウチです。歴史認識の問題など、国民の間でも意見が分かれている部分があると思いますが、そういうなかでこの談話、あえて総理が込められた国民への思いとか、国民にどう受け取って欲しいかというメッセージはどういうところなんでしょうか。

安倍:まず、今回の談話においては、より多くの皆さまにご賛同していただけるものを作成していきたいとこのように考えました。その上において、アジアの国々をはじめ多くの国々とともに、未来への夢を紡ぎ出していく、そういう基盤にしていきたいと考えたところであります。

今回の談話を作成するにあたりまして、「国策を誤り」といった抽象的な用語に終わらせることなく、どのように針路を誤ったか、歴史の教訓を具体的にくみ取らなければならないと考えました。そして、「21世紀構想懇談会」を設けて、有識者の皆さんにその具体的な作業をお願いしたわけであります。

世界に目を向ければ、残念ながら、いまだ紛争は絶えません。ウクライナ、南シナ海、東シナ海など世界のどこであろうとも、力による現状変更の試みは決して許すことはできない。また、貧困やテロの問題は深刻さを増している現実があります。そうした時代にあって、70年前の歴史から学べる教訓を発信していくことは、日本1国のみならず、世界に対しても大きな現代的な意義を持つと考えています。

Occurred on 2015-08-14, Published at 2015-08-17 18:00

安倍首相「歴史の教訓を具体的にくみ取らなければならない」戦後70年談話に込めた思いを語る

8月14日安部首相記者会見 #2/2


政治的な意図によって、歴史が歪められることはあってはならない

安倍晋三氏:8月は私たち日本人にしばし立ち止まることを求めます。今は遠い過去なのだとしても、過ぎ去った歴史に思いを致すことを求めます。政治は、歴史から未来への知恵を学ばなければなりません。

戦後70年という大きな節目にあたって、先の大戦への道のり、戦後の歩み、20世紀という時代を振り返り、その教訓の中から未来に向けて、世界の中で日本がどういう道を進むべきか、深く思索し、構想をすべきである、私はそう考えました。

同時に、政治は歴史に謙虚でなければなりません。政治的・外交的な意図によって、歴史が歪められるようなことは決してあってはならない。このことも私の強い信念であります。ですから談話の作成にあたっては「21世紀構想懇談会」を開いて、有識者のみなさんに率直かつ徹底的なご議論をいただきました。

それぞれの視座や考え方は当然ながら異なります。しかし、そうした有識者のみなさんが熱のこもった議論を積み重ねた結果、一定の認識を共有できた、私はこの提言を歴史の声として受け止めたいと思います。

そしてこの提言の上にたって、歴史から教訓を汲み取り、今後の目指すべき道を展望したいと思います。100年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が広がっていました。圧倒的な技術優位を背景とし、植民地支配の波は19世紀アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって近代化の原動力となったことは間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守りぬきました。

日露戦争は植民地支配のもとにあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。

この戦争は1000万人もの戦死者を出す悲惨な戦争でありました。人々は平和を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。当初は日本も足並みを揃えました。

尊い犠牲の上に築かれた平和が、戦後日本の原点である

しかし世界恐慌が発生し、欧米諸国が植民地経済を巻き込んだ「経済のブロック化」をすすめると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は孤立感を深め、外交的・経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。

国内の政治システムはその歯止め足り得なかった。こうして日本は世界の大勢を見失っていきました。満州事変、そして国際連盟からの脱退、日本は次第に国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっていった。

進みべき進路を誤り、戦争への道を進んでいきました。そして70年前、日本は敗戦しました。戦後70年にあたり、国内外に倒れた全ての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を称すとともに、永劫の哀悼の誠を捧げます。

先の大戦では300万の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら戦陣に散った方々、終戦後、酷寒のあるいは灼熱の遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々、広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、沢山の人々が無残にも犠牲となりました。

戦火を交えた国々でも将来ある若者たちの命が数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では戦闘のみならず、食糧難などにより多くの民が苦しみ、犠牲となりました。

戦場の影には深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも忘れてはなりません。何の罪もない人々に計り知れない損害と苦痛を我が国が与えた事実、歴史とは実に取り返しのつかない苛烈なものです。

一人ひとりにそれぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実を噛みしめるとき、今なお言葉を失い、ただただ断腸の念を禁じえません。

これほどまでの尊い犠牲の上に現在の平和がある。これが戦後日本の原点であります。二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。事変、侵略、戦争、いかなる武力の威嚇や行使も国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。

植民地支配から永遠に決別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。先の大戦への深い悔悟の念とともに、我が国はそう誓いました。自由で民主的な国を作り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。

70年間に及ぶ、平和国家としての歩みに私たちは静かな誇りを抱きながら、この不動の方針をこれからも貫いてまいります。

子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない

我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。こうした歴代内閣の立場は、今後も揺るぎないものであります。

ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも決して癒えることはないでしょう。ですから、私たちは心に留めなければなりません。

戦後、600万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた3000人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜のみなさんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人のみなさんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜のみなさんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。そのことに、私たちは思いをいたさなければなりません。

寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後70年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

日本では、戦後生まれの世代が、今や人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

唯一の戦争被曝国として核兵器の不拡散と廃絶を目指す

私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。

それは、先人たちのたゆまぬ努力とともに、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

そのことを、私たちは未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。

この原則をこれからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

私たちは、20世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去をこの胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。21世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。

だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層力を尽くしてまいります。

私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由・民主主義・人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、積極的平和主義の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

終戦80年、90年、さらには100年に向けて、そのような日本を、国民のみなさまとともにつくり上げていく。その決意であります。

Occurred on 2015-08-14, Published at 2015-08-14 20:26

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8月14日安部首相記者会見 #2/2