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日本的共創マネジメント088:「サムライPM」〜宮本武蔵 『五輪書』 (その18)~

⑤ -4. 風之巻 : (その 1)

2.武道としての武士道 (023)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 18)
⑤ -4. 風之巻 : (その 1)
 今号では、下記の項目について述べる。
01 : 風之巻前文・他流の道を知る  《兵法、他流の道を知る事》
02 : 他流批判・大きな太刀  《他流に大なる太刀をもつ事》
03 : 他流批判・強みの太刀  《他流におゐてつよミの太刀と云事》

01 : 風之巻前文・他流の道を知る  《兵法、他流の道を知る事》
 他の流派のことを書きとめ、風之巻として、この巻にあらわす。他流を知らずしては、我が流派の道を的確に知ることはできない。他流の兵法を調べてみると、大きな太刀をつかい、力がつよいことだけを取りえとして、技をなす流派がある。又は、小太刀といって、短い太刀をつかって、兵法に専念する流派もある。更に、太刀数を多く案出して、太刀のかまえを「表」だ「奥」だと称して、兵法を伝える流派もある。これらはすべて真実の道ではない。他の流派の人々は、兵法の道を生計《身すぎ》の手段として、見た目を飾り、派手にして、売りものに仕立てようとするものであるから、真実の道ではありえない。また、世の中の兵法は、剣術だけに限定して、太刀を振る訓練をし、身のこなしをおぼえ、技巧を上達させることによって、勝つ方法を見いだそうとしているが、いずれも正しい道ではない。我が流派の兵法は、それらとはまったく異なる。ここに他の流派の欠点を、一つひとつ挙げてこの書に書きあらわす。よくよく吟味して、我が二刀一流の特長《利》を学んでもらいたい。
【解説】
 風之巻の前文である。他の流派について書かれている。武蔵流兵法がいかに他と違うか、世間の兵法にどんなものがあるかを記している。一言でいえば他流批判である。また、兵法を剣術のみに小さく限定した、剣術中心主義への批判でもある。

02 : 他流批判・大きな太刀  《他流に大なる太刀をもつ事》
 大きな太刀を好む流派がある。我が兵法からみれば、これを弱い流派と見立てる。その理由は、どんなことをしてでも人に勝つという道理を知らないで、太刀の長さを有利として、敵の太刀の届かぬ所から、勝を得ようとする気持があるからである。兵法の道理がないのに、太刀の長さを利用して、遠く離れて勝とうとする。それは心が弱いゆえである。これを弱者の兵法と見立てる。敵との距離《敵相》が近く、互いに組み合うほどの時は、太刀が長いほど打つことができず、太刀が役に立つことは少なく、短い脇差や素手の人にさえ劣るものである。長い太刀を好む身としては、いろいろとその言い分はあるだろうが、それは、ひとりよがりの屁理屈にすぎない。世の中の正しい道から見れば、道理のないことである。場所によっては、上下左右などに余裕がない所、あるいは脇ざししかない場合においても、長い太刀を好む気持ちがあれば、兵法に対する不信感があるからである。人によっては力が弱く、長い刀を使えぬものもある。昔から「大は小を兼ねる《大ハ小をかなゆる》」と云うから、太刀の長いのをむやみに嫌うものではない。ただ長い方がよいと執着する心を嫌うのである。多人数の戦い《大分の兵法》の場合、長い太刀とは多人数に相当し、短い太刀は少人数にあたる。小人数で多人数と戦うことはできないであろうか。小人数で大人数に勝った例は多い。小人数で勝つことこそ、兵法のすぐれた効用《徳》である。我が流派においては、そのように偏った狭い心を嫌うのである。よくよく吟味あるべし。
【解説】
 自身は安全な場所にいて勝ちたい。これは勇気のない証拠である。一寸(3cm)でも長い方が有利なら、短い太刀では、必ず負けるということになる。それは兵法を知らぬ者の行いである。兵法よってではなく、太刀の長さの有利をもって、「遠く勝とう」とする。太刀の長さを好む気持には、兵法に対する懐疑・不信・惑(まど)いがある。自分の兵法を確信していない。確信なくして勝てるわけがない。太刀の長いのをむやみに嫌うのではない。長い方がよいと偏る心を嫌うのだ。大分の兵法〔合戦〕の場合、長い太刀とは大人数、短い太刀は少人数のことである。少人数で勝つことこそ、兵法の徳、効能、すぐれた働きである。

03 : 他流批判・強みの太刀  《他流におゐてつよミの太刀と云事》
 他流に強みの太刀というものがある。太刀に「強い太刀」「弱い太刀」ということはない。強い心で振る太刀は、粗雑なものである。粗雑な太刀だけでは勝つことはできない《あらき斗にてハ勝がたし》。人を切るとき、無理に強く切ろうとすれば、かえって斬れないものである。試し斬りの場合にも、あまり強く切ろうとするのはよくない。敵と切り合う場合に、弱く切ろうとか、強く切ろうとか考えるものではない。どうしたら敵を殺せるかと思うだけである。強い太刀で、相手の太刀を強く打てば、勢い余って体制が崩れ、必ずしもよくない。相手の太刀に強く当れば、自分の太刀も折れ砕けることもある。多人数の戦いでも、強力な軍勢を持ち、強引に勝を得ようとすれば、敵も強力な兵をそろえ、はげしい戦いになる。どんな場合でも、正しい道理なくしては勝つことはできない《道理なくしてハ勝事あたはず》。我が兵法の道においては、無理なことは少しも思わず、兵法の智力によって、勝つところを得るのである。よくよく工夫あるべし。
【解説】
 「強みの太刀」とは、前条の「大なる太刀」と連続する教えである。強い心からする強引な戦いぶりについて、自身の強力を恃んだ強い戦法はよくない。「荒い」だけのことである。大太刀を持ちたがるのが「弱い兵法」だとすれば、これは「荒い兵法」である。荒いだけの戦法では勝てない。大分の兵法〔合戦〕にしても、こちらが強く当ろうとすると、敵も強く出る。こちらが強くなれば敵も強くなる。そうして強さの競り合いは終わりがない。勝つということは、強いから勝つのではない。道理なくしては勝つことはできない。道理とは、物理法則に適った合理性のことである。この徹底した合理主義こそ、武蔵的なものである。不条理な美学へ傾斜する後世の武士道とは違う。


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