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日本的共創マネジメント069:「サムライPM」〜武道と士道の系譜 (徳川家康)~

武道と士道の系譜 (その5)

2.武道としての武士道
④ 大久保忠教(彦左衛門)『三河物語』(1622)
『三河物語』は徳川家と大久保家の事蹟を交えて、武士の生き方を子孫に残した家訓書である。上中下の3巻から成り、上巻と中巻では徳川の世になるまでの数々の戦の記録が、下巻では泰平の世となってからの、著者大久保忠教(ただたか)の経験談や考え方などが記されている。徳川家康が天下をとるまでの過程で、大久保一族の忠勤と自身の活躍を述べたものである。具体的で臨場感にあふれており、戦国時代から江戸時代初期の武士社会を知るための一次史料として評価されている。
 大久保忠教(彦左衛門)は、江戸庶民から「天下のご意見番」と呼ばれ、「一心太助」などにも登場する。徳川幕府創業のために、家康・秀忠二代に仕えて、戦ってきた武功派だった。しかし三代目家光の時代になって、幕府は体制の整備を急いだ結果、武功派は退けられ、民生、経済、外交などの実務能力を持つ吏僚派(文治派)が新官僚として登用された。家光側近の松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛、三浦政次、太田資宗、阿部重次などは、すべて20代30代の青年であった。戦争を知らないこの世代は、戦争しか知らない武功派を評価せず、窓際族へと追いやるようになった。
 『三河物語』では、主君に対する絶対的な忠誠を説くが、それは共に戦場で闘ったという「運命共同体的な観念(情誼的一体感)」の上に成立するものであった。従って忠教(彦左衛門)とっては、家康・秀忠二代に対しては成立するものの、戦場での経験を共有しない家光に対しては成立しない。家光に対しては「只今は御主様(家光)之御かたじけなき御事は毛頭なし」と「奉公と御恩」の関係を否定する。そして忠誠の対象を、主君という個人ではなく、「御家(徳川家)」や「御国(日本国)」という、より上位の存在に転換させるという工夫を見せる。
 このように、彦左衛門の『三河物語』は徳川成立史に名を借りた、武功派の不満の書であり、吏僚派に対する愚痴と恨みの書であった。そのことが戦国時代の遺風と呼ばれながらも、不満武功派層に広く受け入れられた要因である。

武功派 vs. 吏僚派(文治派)の対立
三河物語』は突き詰めると、武功派と吏僚派(文治派)の対立の書である。戦闘こそ自分の働き場所として、戦の功で出世した武功派は、逆に、国全体を動かすような政治手腕は無かった。一方、係数に明るく、政策立案能力もある吏僚派は、戦場働きより経済、内政などの政治を扱うことで出世したグループである。戦がなくなり泰平の世となり、体制の整備が急務となった徳川幕府では、武功派から吏僚派へと権力基盤が移行するのも自然の流れであった。この過渡的権力移行が、「武功派 vs. 吏僚派(文治派)の対立」という構図を生む。例えば「関ヶ原の戦い」は、豊臣家と徳川家の天下分け目の戦いのように見られているが、その実は豊臣家内部の武功派と史僚派の内部抗争が発端であった。そこに目を付けた家康が、武功派に肩入れし、武功派(加藤清正、福島正則、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政)と吏僚派(石田三成、増田長盛、長束正家)の対立を煽って、史僚派の三成を追い詰めていった結果に他ならない。

武功派vs.文治派

これはいつの時代にも言えることである。創業世代と情誼的一体感で大きくした組織が、ある程度大きくなると、組織の基盤整備が必要になる。その時に導入されるのは多くの場合、合理的手続きに基づく官僚的組織であるが、そのことが創業時からの現場主導と軋轢を生む結果、現場と本社の対立へと発展する。非統制側(現場、ボトムアップ、経験主義、部分最適、プロジェクト指向)と統制側(本社、トップダウン、合理主義、全体最適、プログラム指向)では立場も違えば行動も違ってくる。しかも、それらの違いを統御していた創業者がいなくなれば、混乱は助長され対立が増幅するのは必然である。創業世代から次世代への権力継承に失敗し、停滞し、消えていった組織は枚挙にいとまが無い。
 ここに、部分(現場、プロジェクト)と全体(本社、プログラム)の最適統合を指向する、P2M(プログラム & プロジェクトマネジメント)の存在意義があると考える。

【余話 ④】 徳川家康「名言」

葵の御紋

家康は幼少時代から人質生活が長く、人一倍苦労を重ねて育った。この経験から、他人の心の動きや心理も敏感に読み取り、戦国の世を生き抜いてきた。「信長が搗(つ)き、秀吉がこねし天下餅、座して食らうは家康」という言葉があるように「棚からぼた餅」的に天下を手に入れた家康だが、その道のりは長く失敗も多かった。従って、家康の言葉には、「待つこと」「耐え忍ぶこと」に関する言葉が多い。その中から、P2M(プログラム & プロジェクトマネジメント)にも関連しそうなものを掲げると、下記のようなものがある。

・ 「人の一生は重き荷を負うて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず」
・ 「不自由を常と思えば不足なし、心に望みおこらば、困窮したる時を思
        い 出すべし」
・ 「堪忍は無事長久の基、怒りを敵と思え」
・ 「勝つことばかり知りて、負くるを知らざれば、害その身に至る」
・ 「人は負けることを知りて、人より勝れり」
・ 「己を責めても人を責むるな」
・ 「及ばざるは、過ぎたるに、勝れり」
・ 「最も多くの人間を喜ばせたものが最も大きく栄える」
・ 「大事を成し遂げるには本筋以外のことはすべて荒立てず、なるべく
        穏便にすませ」
・ 「戦いでは強い者が勝つ。辛抱の強い者が」
・ 「いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある」
・ 「決断は、実のところそんなに難しいことではない。難しいのはその前
        の熟慮である」
・ 「世におそろしいのは、勇者ではなく、臆病者だ」
・ 「あぶない所へ来ると、馬から降りて歩く。これが秘伝である」
・ 「平氏を亡ぼす者は平氏なり。鎌倉を亡ぼす者は鎌倉なり」
・ 「滅びる原因は自らの内にある」
・ 「得意絶頂の時ほど隙が出来る」
・ 「重荷が人をつくるのじゃぞ。身軽足軽では人は出来ぬ」
・ 「天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず」
・ 「道理において勝たせたいと思う方に勝たすがよし」
・ 「願いが正しければ、時至れば必ず成就する」
・ 「真らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず」
・ 「怒ったときには、百雷の落ちるように怒れ」
・ 「我がために悪しきことは、ひとのためにも悪しきぞ」
・ 「大将たる者が、味方の諸人の『ぼんのくぼ(首の後ろのくぼみ)』を
        見て、敵などに勝てるものではない」
・ 「愚かなことを言う者があっても、最後まで聴いてやらねばならない。
        でなければ、聴くに値することを言う者までもが、発言をしなくなる」
・ 「最初に軽い者を遣わして埒があかないからといって、また重い者を遣
        わせば、初めに行った者は面目を失い、討ち死にをするほかはない」
・ 「およそ人の上に立って下のいさめを聞かざる者の、国を失い、家を破
        らざるは、古今とも、これなし」
・ 「家臣を扱うには禄で縛りつけてはならず、機嫌を取ってもならず、遠
       ざけてはならず、恐れさせてはならず、油断させてはならないものよ」
・ 「大将というものはな、家臣から敬われているようで、たえず落ち度を
        探されており、恐れられているようで侮られ、親しまれているようで
        疎んじられ、好かれているようで憎まれているものよ」
・ 「家臣を率いる要点は惚れられることよ。これを別の言葉で心服とも言
        うが、大将は家臣から心服されねばならないのだ」
・ 「多くを与えねば働かぬ家臣は役に立たぬ。また、人間は豊かになりす
        ぎると、結束が弱まり、我説を押し通す者が増えてくる」
・ 「人を知らんと欲せば、我が心の正直を基として、人の心底を能く察す
        べし。言と形とに迷ふべからず」
・ 「われ志を得ざるとき忍耐この二字を守れり。われ志を得んとするとき
        大胆不敵この四字を守れり。われ志を得てのち油断大敵この四字を守
        れり」

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