時間に凍結されない私たちへ

※本記事はアナと雪の女王2(原題:frozen2)の内容・結末に言及しています。ご注意ください。


はじめに


2019年11月21日、日比谷のジャパンプレミアでエンドロールの流れるスクリーンを見つめながら、私はしばらく呆けていた。

五年前からエルサとアナの二人の姿を追いかけ続けてきた人間にとって、その話は予想をはるかに上回るパワーとスケールを持っていた。情報量が多くて理解しきれない。何が起きたのか、どういうことなのか。呆けた私は、呆けたまま寒風吹きすさぶイルミネーションの中を潜り抜け、うっかり落っこちないようにホームのタイルの壁に身を寄せ、運よく座れた椅子でまた呆けて、家に帰り尽く頃になってやっと戸惑いが湧いて来た。

エルサとアナは一体どういうわけでそんなに遠い所へ行ってしまったのだろう。

『エルサのサプライズ』と『家族の思い出』でエルサとアナは現実世界とほぼ同じスピードで年を重ねて来た。そのことが実際私にも力を与えてくれていた。エルサとアナがスクリーンを飛び出して生きているような気がするというような他愛ない話ではなくて、エルサとアナが年を取るキャラクターとして設定されているということが嬉しかった。白雪姫は永遠の14歳で、シンデレラは永遠の17歳、プリンセスの時間はみんな最も美しい時に凍り付いている。もちろん続編が作られることはあるが、それらの内容は多くの場合大衆やグッズ展開に反映されることはなかった。美女と野獣などプリンセス像そのものが更新されていくことはあっても、物語のその先が描かれることはなかった。だから、私のまわりにいるプリンセスたちはみんな十代の姿に美しく凍り付いていて、そこに追いついたら連なる氷像を振り返り振り返り、自分の道を惑うしかなかった。そこに現れたのが限りなく人間であるエルサとアナだったのだ。また、今までのアナ雪作品は愛をテーマに家族の姿が描かれてきた。アナ雪1は「壮大な姉妹喧嘩」と一部で揶揄されたようにアナとエルサが相互理解を得る話だったし、短篇・中編も失われた家族の時間を取り戻すことに重きが置かれていた。すべての物語は映画を見るうちに愛しくなっていくアレンデールとアレンデール城が舞台となっていた。エルサとアナに対する愛情深い筆致が、時代も立場も重なり得ない二人に対して不思議と感じる身近さが多くのファンを引き付けてやまなかったのだと思う。そして今日、エルサとアナは私たちを軽々と追い越して行った。


1 なぜエルサは北の森に暮らすのか


未知への旅を経て自らの力の根源を理解したならば、それでエルサがアレンデール城に帰ってくることを選ばなかった理由は何なのか。自然と近代文明社会の人々の架け橋となる存在がエルサならば、むしろ彼女こそがアレンデールの王に相応しいようにさえ思われる。王位継承が行われる必然性とエルサが北の森に残らなければならない理由が私には初見ではわからなかった。アナ雪1で描かれたような氷の城とアレンデール城の2つの城の対照に比べて、アンバランスさが目立つ。アナとエルサは2つの土地の血が混ざった存在だが、そもそもアナ雪1でアレンデールは様々な人種の国民が住む多国籍国家とされていた。血を分けたからその土地に住むというのは、一見筋が通っているようでいて、矛盾している。
「2人でやっていく」ならば、アレンデールという国家の枠組みを破壊するか(国・土地の融合)、2人で国家を運営していく(アレンデールの領土を弁える)のが自然な流れではないだろうか。つまり、国家を運営することに対置されるところ、エルサが惹かれるところが明確でないのだ。これは単に、シュガーラッシュオンラインやマレフィセント2を始めとした依存からの脱却のディズニーコンテクストに流された結果の、「空気を読んだ」メタ的選択だったのか。

その理解のヒントとなるのが、サーミ文化である。ノーサンドラのモデルとなったのはスカンジナビア半島周辺の先住民族サーミ人と考えられる。トナカイの毛皮で作ったテント(下写真)に居住する遊牧民族で、自らを「太陽と風の子」と呼ぶ。彼らの作るククサと呼ばれる白樺の木を使ったコップ(下写真)伝統的な工芸品は日本でもアンティークとして広まっている。

サーミのテント

ククサ2

サーミ人は男女を問わない最年長者である指導者とは別に、精霊と人間の間を取り持つ「ノアイデ」と呼ばれるシャーマン(多くの場合が女性)を置き、その人物を中心とした精霊信仰を行っている。ノアイデは精霊の声を直接聞くことができるとされている。16世紀のキリスト教圏の拡大による宗教的弾圧と国家の成立による民族の分断を受けた。国家の成立とはすなわち、国境の明確化である。1852年のノルウェーとフィンランドの1888年のスウェーデンとフィンランドの国境の閉鎖によってサーミ人は本格的にキリスト教国家の中に吸収されるに至った。扉は閉じられたのである。

二つ目のヒントとなるのが、イデュナの存在である。イデュナが幼い頃にアグナルを助けて、そのまま森の外に出たとするならば(争いの際の「声」の直後森は閉ざされている)、イデュナはその後成人を迎えるまでの時間をアレンデールで過ごしたはずだ。クロッカスの国章のついた舟に隠れ乗った様子や水の記憶が再現した夫婦の会話(王妃の衣装のイデュナが過去を隠していたことを告白している)から、アグナルがイデュナの功績を知っていたとは考えられない。また、アグナルの直近の護衛であるマティアスさえ森の中に閉じ込められていたことから、アレンデールに帰りついたのはアグナルとイデュナだけだと思われる。舟の漕ぎ手も用意されていた可能性もあるが(イデュナはそのために人目をはばかった)、水の精霊の力を借りて、水面を滑るノーサンドラの暮らしが描かれていたことを見ても、アレンデールに帰国するに当たって、あえてそのような人物を描く必要はなかっただろう。

少し脇道にそれるが、王位継承者が帰り、王の死を告げるという構図はライオンキングにも表れるものである。この時、スカーはムファサの死とシンバの死という虚偽の情報を持ち帰ることで、王位を得るのだった。アナ雪1ではハンスがその役目を担った。現女王であるエルサの死を伝えることで、アナの恋人であるハンスがその権利を得るのだ。戴冠式には男女取り混ぜた人々が出席しながらも、協議の場に男性のみが集っていること、そしてアナという正当な後継者が城内にいながらも、その恋人であるハンスが「頼り」にされるという状況に男性性の優位が強調されてもいる。しかも、他国の大臣たちが一時的にしろ王位を認定するという奇妙な状況が生まれている。これは、王家への信頼というアレンデール国民の傾向が悪い方に働いたもので、私はもし今後アナ雪がさらなる変貌をとげるならば、それはおとなしすぎるアレンデールの民衆が王家と一人一人対話を始める時だと感じている。これは必ずしも対立や蜂起である必要はなく、夏の寒さにおろおろ歩き、町の破壊に丘で身を震わせる、一つの背景画としての存在からの脱却ということだ。続編小説を見ても、エルサ、アナ、オラフといったそれぞれの人物と市井の人々の人間的な心の交流がうまく行っていることは明らかで、ここにいかに王家という存在が噛んでくるかは気になるところだ。

横道の横道から一本帰ってくると、ディズニーのコンテクストにおいて王の死の報とともに後継者として帰還する者は悪役であった。しかし、アグナルは違う。アレンデールに帰還した彼は立派に王位を務め、国家の繁栄に貢献し国民からの厚い信頼を得る基盤を作り上げた(もちろん、スカーがムファサの死についてシンバに虚偽を語ったように、アグナルの父が崖から落ちたことの証言についても疑いは持ち続ける必要はあるが、個人的には父殺しの可能性はあまり考えたくない)。たった一人の「生き残った」王子をイデュナが連れ帰った時、城の人々がどのように対応したかは二つの可能性が考えられる。まず一つ目はイデュナが英雄として迎え入れられ、国家の扶養のもと成人したパターン。そして二つ目はアグナルがアレンデールの人々に救出されるのを見届けた後、森に帰ることもできずにアレンデールで孤児として生活し成人するパターンだ。イデュナのことを国民も城の人々も特別視している様子がないことから、これは後者である可能性が高いと考えられる。すなわち、森に暮らす孤児が王家の人間を救い、結婚するというクリストフとアナの構図はすでにイデュナとアグナルによって形作られていたと言うことができるのだ。そして、イデュナは実の娘たちが若き日の姿を見てもわからないほどに、アレンデール人となっていた。エルサと同じように過去の秘密を抱えていたわけだ。多国籍国家であるはずのアレンデールは、あらゆる出自の人々が自分らしさをありのままに見せられる国ではなく、アレンデール文化にそったふるまいを求められる場でもあった。

アナ雪1の戴冠式の様子や夏至祭の飾りから、明言は避けるもののアレンデールはキリスト教国家として表現されている。日本版パンフレットの表紙にも用いられている一本の道を歩くエルサ、アナ、クリストフはそれぞれが星を目指して歩いたことが台詞にあるように、東方の三博士がイメージされていることが明らかである。そして、アナは洞窟の中で「星」を見失う。アナ雪1・2を通して凍結という仮死と復活を与えられた姉妹は、それぞれを神化していくのだ。欧米には冬の王をもてなし、冠をかぶせることで、隙を見て襲い、春の王を招く祭の風習があるが(イエスの荊冠もこれに関連するという説もある)、雪の女王たるエルサは、アナ雪シリーズを通してを暖かさを象徴してきたアナへとその冠を渡すのである。

女性の自立と喧伝されたアナ雪1の評判をものともせず、アナ雪2には宗教の融和と国境の「扉」の解放というテーマが描かれているのだ。キリスト教国に拠点を置く会社の作った映画としてこれほどチャレンジングなものがあろうか。ダムの話は醜いエゴへの警鐘を鳴らし、血がつながっているからといって全てが決定する訳ではないというエクスキューズを付け加えているものの、サブテーマ、語弊を恐れずに言えば目くらましに過ぎないと私は考える。エルサがアレンデールを去り、精霊信仰のノアイデとなることはその大テーマを念頭に置いて俯瞰した時、必然だったのだ。


2  アナの即位


アナ雪2は先にいくつか例を挙げたように、あらゆる構造や要素がめまぐるしく相似・反転していくことがその大きな魅力となっている。例えば、アナ雪1との呼応は各所に目立つ。アナとエルサの氷像化と背後から剣を携えて忍び寄る悪役という真相は言うまでもなく、メイン曲である「未知の旅へ」にも「雪だるま作ろう」のイントロとリプライズがわかりやすく取り込まれ、「雪だるま作ろう」とエルサはアナに提案して大団円を迎える。さらに言うならば、「扉開けて」で用いられた半音外しによる暗示が「未知の旅へ」のイントロにも使われているようだ。だが、それ以上に指摘したいのが、wake upやawakeという語がふんだんに取り込まれていることだ。例えば、問題の解決となる巨人を呼び覚ましたのはアナの「起きて」の呼びかけだった。エルサは声に城でも冒険においても眠りを妨げられている。思えばアナ雪1の第一台詞はアナの「起きて起きて起きてよ」だった。構造の緻密さは想像を絶するものがある。

しかしながら、そんなアナ雪2にも些か詰めが甘かったのではないか、とどうしても思ってしまう点がいくつか存在する。もちろん、吹替と字幕を一度ずつ見ただけの身だから単に私が製作者の意図理解しきれていない可能性が多いにあることはご留意いただきたい。


まず一点目として、恋愛をしないエルサを描くことで新たなプリンセス像を作ろうとしたはずが、より人間らしさを失いノーサンドラの地に追いやられたことによって、むしろアナの結婚が強調される結果に陥ってしまっているということだ。つまり、結局のところキリスト教的な恋愛至上主義が物語の暗黙の了解として利用された故に、唐突な結末があったようにも感じられるのである。
「アナと続いていく」というエルサの言葉によるアナとクリストフの子どもにアレンデール王家が繋がっていくという示唆が、氷河から森、海へと至る川の流れによって補強されている構造が見出だされる。小麦の模様がエルサとアナの三つ編みと豊饒の象徴に通じているのならば、そこには齟齬がある。ノーサンドラの地に力の根源を探しに行きたいという当初の希望と、ノーサンドラの地で生きたいというエルサ自身の願望が十分に接続していないことも、彼女が追いやられたように感じられる一因だろう。

そして二点目は、エルサは火風土水と対峙できたのかということだ。
エルサが火とやり合って手懐けたこと、馬の形の水と格闘して従えたことはわかりやすい。また、風もエルサに凍らされることで落ち着いてた。オラフをスモールエルサとみなすなら、名付けによる支配が働いたと考えることもできるだろう。対峙➝使役のステップが踏まれている。しかし、土はアナが巨人をダムの破壊に利用しただけで、何も乗り越えの「儀式」を行っていない。すなわち、使役の容認が得られていないのにアナ、そしてエルサに跪いている。さらに、エルサの台詞によれば、アレンデールがアナと続いていくことを精霊が望んだという。
アナとエルサが2人で橋を支えるというような表現が何度かされていたことから、アナとの対決によって土が恐れ入って、2人の制御が二者一体のものとして働いていたと、仮に考えるとしよう。それでも、宗教的観念を抜きにした時、アナが選ばれる理由がわからない。前作はともかく、今作においてエルサとアナは同等にアレンデールのために力を尽くしているからだ。
北欧神話には多くの巨人が登場するが、その立ち位置の理解が難しい。日本の神話において、その土地の女と結ばれることは即ち土地の支配を示すが、クリストフはノーサンドラの民ではないからアナとの結婚でそのように説明を果たすこともできない。エルサを追いやってアナを王位に据えることこそが、結果としてアナをスペアとして用いることになってしまってはいないだろうか。


おわりに


アナ雪2は名作であると今の私は胸を張って言える。アナ雪の登場人物たちを愛しているからこそ、彼女たちの選択の意味と是非についてこの2日間ずっと考えていた。一見、私たちをその持ち前の脚力で姉妹は追い越して、遠く遠く去って行ってしまったかのようにも思われた。そのことに驚き、戸惑いもした。しかし、彼女たちは手の届かないところに行ってしまったのではなかった。

オラフは冒頭でアナに年老いることが怖くないかと尋ねる。アナはそれに怖くないと答える。エルサは魔法でもこの幸せな時を凍らせることはできないと歌う。

彼女たちはおとぎ話の中の氷像となるのではなく、私たちとともに凍り付かない時間を手をつないで生きていくことを選択してくれたのだ。普遍的な問題と向き合う勇気と力を与えるために、姉妹は巨大なスケールの「未知の旅へ」と飛び出していったのだ。

エルサとアナの魔法は、時間を凍り付かせることのできない私たちへの贈り物だと、私は思う。


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