市井の言葉と英雄の言葉

人間が本質的に置ける立場は三つしかない。
市井の立場と英雄の立場と異者の立場である。この、三区分は、右翼や左翼、若者と老人、理性と感情と言った二項対立よりラディカルだろう。

「市井の立場」とは、言いかえれば、大衆の立場であり、それは自然的に内在する状態を引き受ける事である。従って、市井の立場はエリートによる扇動というモチーフである「英雄の立場」とは矛盾するよう「仮定的」には思われるかもしれない。しかし、事実、そうとは限らない。大衆が本質的に持ちうる感情は「英雄の待望」であるからだ。例えば、これまで近代以降に見られたファシズムは民衆の熱烈な支持、乃至は都市化される以前の農村共同体に対するロマン主義によって生成されている所を見れば分かり易いだろう。

異者の立場はどうだろうか。異者の立場とは言わば、市井の立場に疎外された差別者ともいうべき存在で、これも市井の立場によって批判され生まれる存在にほかならない。で、あれば英雄―市井―異者という三区分は、奇妙な形でバランス感覚をとりながら、市井を中流点に置いたで、そこから英雄と異者という2つの立場は生成乃至イメージされるのである。従って、市井の立場のイメージがヤワな人間がイメージする「英雄」「異者」もヤワになる。逆を言えば、英雄主義を批判するだけでは、英雄の再生産は止めることが不可能で、つまり、英雄―市井―異者のどれかを批判したいのならば、そのなかの1つを否定するだけでは、不十分で、三区分全体を批判する必要があるのである。

英雄の立場、市井の立場、異者の立場、すべてが矛盾するように見えつつ、バランスを取ることを可能にしている訳で、大衆批判というのは得てして大衆肯定の英雄を呼び込む可能性もあり、その英雄の政策により異者を再生産される可能性がある。始めに戻ろう。あらゆる人間がとりうることが可能な立場は、市井の立場、英雄の立場、異者の立場しかない。従ってこの三区分のイメージをラジカルに捉えることが、筆者は社会を見る際に必要なことだと思うのである。

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