雑記

世の中、批評家気質というものを持っている人間がいる様で、そういう人間は表現をするよりも、その表現を解体して、どのようなもんであるかを解釈して見せる力をもっておって、そのような力を持つと、それ自体がひとつのメタ的な芸になり、人を惹き付ける魅力を持つのではあるまいか。しかし、難儀なものでこれが実作に於いては寧ろ弊害になる場合もある様で、例えばなにか他者に伝えようと言うとき、ただただ叫ぶより、理路整然と説明して見せる方が分かってくれる可能性が高くなるかもしれんが、それ故に本当に伝えたい状況なり精神なりをあまりうまく伝えられぬ場合だってある。

おそらく立川談志という人は批評家気質だっただろうし、それによって割りを食ったことも、そしてそれ故に認められたことも両方、経験した人なんじゃなかろうかと。最近、よく思う。彼の枕で行う先輩芸人に対する物真似は一級品であった。特に馬風の物真似は、あのドスの効いた声を良く真似ている。それによって聴いているこちらの馬風に関する印象をそっくり把握している訳だ。要するに、物真似というのも、批評ができなければ、できぬ芸当な訳で、対象に独自の解釈や批判意識を持たぬ者の批評等というものは聞くに耐えぬ代物になる。その点で談志は批評精神を持っていた。彼には馬風や志ん生といった先輩芸人に対する破談感覚があったが故に、彼らの真似を、ひとつ舞台の上で披露できる代物に仕上げられた。しかし、思うに、それ故に談志というやつは志ん朝にあった肌感覚というものを一度無くした様な気もする。実際の演目を観てないので大きな声では言えんが、彼が晩年に落語を「イリュージョン」と定義してみせたのも、志ん朝の落語に対する畏敬の念ではなかろうかと常々考える。志ん朝の落語は、あたかもそこに江戸が生きているかのごとく見せる落語であり、それは批評精神でもって把握する認識論ではなく、江戸そのものを表現して見せる表現力によって魅せるものであった。この点で談志という人は、ひどく遠回りした様である。芸を磨くというのは、おそらく何物かを認識するのではなく、そこにあたかも動いているかのように魅せるセンスの力なんだろう。そして、それがイリュージョンなのだろう。

しかし、馬鹿がイリュージョンだのなんだの言うてもキチガイ扱いされるだけだどな。

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