『人間・この劇的なるもの』を読んで、考えてみよう➀

いきなりnoteを始めてしまったので、書きたいことが思い浮かばない。やっぱりこういう所でおれには「才がないんだなあ」と思っちゃうよね。仕方がないので、昔からの愛読書である福田恆存著「人間・この劇的なるもの」を読みながら、「感じたこと・考えたこと」について考えてみようと思う。
1.「演じる人生」

おれがこのとんでもない本を読んだのは、高校一年の頃で、そのぐらいの年齢だと自分の〈実体〉とはかけ離れた「夢」を夢想しちゃう訳だけども、そんな様な時期の人間には、衝撃だったねからね、この本は。


わたしたちはわたしたちの生活のあるじたりえない。現實の生活では、主役を演じることができぬ(p14)

要するに主体(己のやりたい様にやる)事なんて出来やしないんだと。現実はそんなようにはできていないという訳だ。しかし、これだけだと、そこらにいる嫌味ったらしいジジイとか、ネットによくいる僻みったらしいクズなんかでも言えるんだよ。「オメエが思ってるほど、人生甘くはねえんだぞ」と、単に「主役を望みながら主役になれなかった自分」を癒すための「慰撫」でしかない訳だけども、福田さんは続けてこう書く。

いや、誰もが主役を欲しているとは限らないし、誰もがその能力に恵まれているとも限らない。生きる喜びとは主役を演じることをいみしない。端役でも、それが役であればいい、なにかの役割を演じること、それが、この現實の人生では許されないのだ。(p14)

この、エッセイはサルトルの「嘔吐」からの引用で始まるんだけども、そこに出てくるのは「完璧な瞬間」を夢想して、それを実現してやろうとする女と「空気の読めない」男なんだよ。自分のやりたいこと、思っていることが端からぶち壊されていく。完璧な持続にならず断片に終わってしまう。言い換えれば、我々はいつも「演じている」のではなく「演じようとしている」んだな。なにかの役割を欲さない人間なんぞいない。演じようとしないのは動物である。動物はいつも、裸で過ごし、寝たい時に寝て、食べたい時に食べる。しかし動物は人間のように「演じようとする意志」さえ持てぬ「自然の奴隷」であるからそれができるのだ。福田曰く人間は本質的に「自然」になんぞなれない。なろうとすれば、「演じようとする意志」が発生する。つまり、人生とは、この「演じようとする意志」につき動かされ舞い踊る「演技」にほかならないのだ。

2.「自由について」

ひとはよく自由について語る。そこでも人々は間違ってゐる。わたしたちが眞に求めてゐるのは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起こるべくして、起こってゐるといふことだ(p19)

人々は「自由を求める」という事をいまだ勘違いしている。そしてその「勘違い」には「個性」というものがつきまとっているわけだが、実際のところ、「個性」それ自体を求めているのではなく、個性らしき「個性の記号」を個性と呼んでいる。すごくわかりやすく言うと「個性っぽい」ものという「役割」に飢えているに過ぎない。つまり自由だと呼ばれているのは「不自由を選択する自由」であり、「演じようとする意志」の土台が「自由」と呼ばれている概念なのだ。そしてその「自由」はなぜ、「演じようとする意志」へ向かうのか。それは「自己確認」のためである。自己が演技から疎外されるという事は、自己の実在感の喪失に繋がってくる。なぜ私は私なのか?という自己問答はそれの典型だ。自己がならねばならぬものを喪失したときに欲しがるのは、古今東西「その意味」であり、意味はつまり不自由に対する欲求にほかならない。「演じようとする」意志は「自己確認」のために演じようとしている。現実の対する過剰な諦観ととも苛烈なまでの「理想主義」が日常を淡々といきる我々に力を与える。日常から脱却して、日常より上位の「全体」を見ようとするならば「足場」は揺らぐ「完璧なもの」は常に手に入らないであろうから我々は「完璧な瞬間」を求める。例えば「おれはそんなものいらねえぜ」と強がりを言う人がいたとしても、それは無意識のうちに「演じようとする意志」に動かされている。「演じようとする意志」を否定しようとする思惑自体が否定する「役割」を欲しているから、それをするのだ。常に我々は「完璧」になろうともできず「不完全」になることもできない「二律背反」の自由のなかで生活しているのであろう。

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