アチャラカこもんせんす②

かつて、日本には〈批評〉という非常に特殊な表現活動が存在した。それは、〈いま・ここ〉に軸足を置きながら、そことはまだ別の抽象的な世界を構築せしめようとする、分裂した表現活動であった。
しかし、今はその様な形での批評は存在しない。〈批評〉を成立されるのは、〈いま・ここ〉という現実の視点を〈夢〉という己の可能性としか捉えられぬものに思考を膨らますことであり、この二律背反の「ヒリヒリとした緊張感」が無ければ、批評は存在しえないのである。
小林秀雄は「批評とは己の夢を懐疑的に語る事である」と言った。それは夢と言う小林個人の単独の地平線を、懐疑というデモーニッシュな意志により、転倒させることで、表現活動として成立されうる批評という奇妙なジャンルの確立の産声であった。小林は常に思索者であると同時に、市井の人であったが為に、ユゴーの如く、青春の歌を無垢に歌うこともできず、ボードレールの如く、すべて受け入れる否定という立場もとれなかった。その小林が唯一、市井の人であると同時に思索者でえりうる言葉を見つけ出したものが〈批評〉なのである。従って、批評は思索者であると同時に市井の人で、あるという緊張感から成り立つものなのだから、どちらか一方が沈んでしまうことは批評それ自体が沈む事になる。
例えば、あらゆる「棄却の言葉」を粗大ゴミ化した保坂和志と、あらゆる価値の崩壊を告げ、バトルロワイヤル系なるものを発明した宇野常寛は乖離しずきている。従って、どちらも、緊張感が緩み、ぬるい共同体にとどまっている気がしてならない。重要なのは具体的な状態の把握と、それに対する自己批判の永遠革命を永続させることではないだろうか。

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