『騒動師たち』➀

「別に革命なんかいう大それたことでないねん。もういちど、みな腹減らしてガツガツしてる面みたいだけや」

「書を捨て街へ出よ」と言うが、あの時代に、街へ出た若者たちが積極的に社会を「変えよう」として出たとはおれには思えない。むろん、此処でいう「あの時代」とは「アンポ、反対」とか言って学生が「運動」をしていた時代のことであり、「あの時代」の「小説」が、野坂昭如の「騒動師たち」である。別に彼らには「崇高な理念」も「ゆずれぬ信念」があった訳ではない。ただ、戦争がおわり、すべてが0かマイナスにまで下落して「可能性」に満ち溢れていた時代から、膠着した経済大国になりつつある「戦後」をぶっ壊したかったのである。主人公である「ケバラ一同」は、ただ喧嘩をもとめ、あっちへふらふら、こっちへふらふらするだけ、革命とか言ってるが単に暴れたいが為に過ぎない。しかし、彼らには「欲」という人間が絶対的にもつ合の視点を意識的に持っていた。多くのばあい、多少、頭が良くなると何故が欲望を隠蔽しようとするが、欲望を否定する様な革命家が革命ができるわけがない。すべての革命は「欲望」から始まるのである。思えば「戦後民主主義」というやつも、元はそういうコンセプトから始まったように思える。「不自由」で「食いたいものが食えなかった」時代が終わり、「自由」の時代がやってきたと、それはむろん、よく言われる様に「アメリカ様が下さった」わけではない。ただ、「戦争がおわった」という時代の特殊性によって、一瞬、幻想としての「自由」が闇市という特殊な場所によって成立したに過ぎないのである。

闇市では、あらゆる前世代の階級が解体され、「これからやってやろう」という気風が感じられたのである。そういう「可能性」の時代が終わり、朝鮮特需から、儲かった奴と儲からなかった差が生まれだし、そして、流れは「自由」で「汚い」戦後民主主義から、「不自由」で「殺菌」された戦後民主主義へと旋回する。そんな不自由になりだした頃に暴れだしたのが、「若者」である。その点で言うと彼らは「書を捨て」というが、彼らの支配のない闇市的世界観は俺からしたら、すごく「小説」の様な感じがする。そして、例の如く現実では、「若者」は「大人」になすすべなく破れる。しかし「騒動師たち」では、ゲハラ一同は安田講堂を破壊して勝っているのだ。これは、おそらく「現実」を知りながら「自由」の立場に立とうとする、闇市派野坂昭如の「時代の若者」に対する哀悼と賛歌におれは思えるのだ。

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