菅原文太さんについて

菅原文太さんが亡くなられた。

まあおれみたいな小僧が菅原文太さんについて書くのも変な話だが、みなさんあまり書かない様なのでおれが書くことにした。

文太さんの映画は高倉健や鶴田浩二と違い、おきまりに束縛されない。高倉健や鶴田浩二の映画はいつも決まった型がある任侠道を重んじる極道が、対抗組織の嫌がらせに耐える。そして、例えば、親分が死んだときにブチギレて、対抗組織に乗り込み、ドスで皆殺しにする。そういうお決まりがあった。だけど、先ず文太さんは任侠道を重んじるヤクザをあまり演じなかった。確かに『仁義なき戦い』での広能は、暗躍をねる他の幹部に比べれば、潔い方であるが、あれは任侠道を重んじるというより常識人といった感じである。

深作欣二監督の『現代やくざ人斬り与太』ではむしろ組からはみ出た狂犬を演じている。強姦はするわ、女は殴るわ、である。こういう文太さんの、それまでの任侠映画とは異質の、自由な感じが好きだった。そしてこの文太さんが体現した自由こそが戦後のある時期まで、日本に残っていた自治の感覚ではないのだろうか。そして、やくざのフィルターを通すことで、社会からはみ出た異者が互いによりそう事で擬似家族を形成するという自治による可能性も提示されている。しかしそういうものは長く続かない。時代がそういう「なあなあ」な雰囲気を許さないからである。

『県警対組織暴力』に於いて、文太さんは広島県警の刑事を演じた。その刑事は松方演じるヤクザの組長と繋がっており、二人で金子信雄演じる市議の巨悪を暴こうとするのだが、梅宮辰夫演じるエリートの上司による、妨害(ヤクザとの絶縁)により、金子信雄をとりのがし、松方との友情も否定され終わる。これは、要するにそういうヤクザとの関係や、中間共同体によって育まれた共通感覚を時代が許さなくなったということである。戦後の闇市のなか、無政府状態であった日本も東京オリンピックを開催する時代にはもう、市民社会が形成されつつあった。市民社会は一律の規律を重んじるため暴力やコネによって保護されていた自由を認めなかった。しかしこれは日本が先進国の仲間入りをしたというなによりの証拠でもある。アメリカに於いても、最初期の「開拓精神」とやらは、近代化していくにつれ、邪魔者でしかなくなる。『ダーティ・ハリー』のハリー・キャラハンも西部時代では「無法者を殺すヒーロー」だが、現代では、「組織の和を乱す変人」でしかない。文太さん組織の中では「和を乱す変人」の役を演じ続けた。アメリカに於けるイーストウッド。そして日本の菅原文太は近代に押しつぶされる前=近代人を演じ続けたのである。

ただひとつ違うのは、イーストウッドは曲がりなりにも無法者をうちのめす事が出来たが、文太さんは、犯人を逮捕することができなかったことである。

おれは文太さんが、市民社会に一泡吹かせて、去っていく姿を観たかった。

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