修辞的、あまりに修辞的な

氾濫する客観的立場、今日に於ける論理過剰の時代は、プラトンが批判したソフィストのそれではない。むしろの論理過剰を是とする者共の方こそがソフィスト的な詭弁を使い、退廃している。ソフィストは、価値判断の尺度の検討ではなく、他者を論破することのみのためにレトリックを使用した。そして現代に於ける詭弁家たちもまた論理を論破の道具として使用しているのだ。そして、かの詭弁家どもは論理性なき代物をいっさい認めようとしない。修辞とは、真理を見えにくくするものではなく、真理を頚髄化させる事によって、真理を雄弁に語らしめる技法ではないのだろうか。古今東西、あらゆる真理と呼ばれるものは人間が発明した言語の枠としての「論理」なるものからは汲み取れはしない。むしろその真理を否定するが故に、その空白におさまってしまう様な、そのような存在の事を、人は真理というのである。真理が真理たりえるのは、それが事実だからではなく、いまだ来てない夢想地帯であるが故であり、例えば、コロンブスにとって真理は「インド」のことであったはずだ。そしてコロンブスは「アメリカ」という真理を発明した。しかし彼はそのことに気付かずこの世を去った。言うなれば、これは、アメリカという真理がコロンブスという作家の修辞によって、発明されたから起った珍事なのである。論理であれば事実を知覚することが真理の到達であるとされるが、修辞は違う。修辞はその事実を誤読したところに存在しうるものを真理と呼ぶのだ。事実では汲み取れぬ未開地としてのアメリカを発見する事が修辞の第一目的なのである。そして、己が事実を「正しく」読み込んでいると錯覚している詭弁家どもの論理もまた、修辞の世界に誘われている。

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