アチャラカこもんせんす①

私の生き方ないし考へ方の根本は保守的であるが、自分を保守主義であるとは考へない『私の保守主義観』
戦後の文芸批評家である福田恆存は保守を「主義」とはせず生き方ないし態度とした。あらゆる「主義」は、現実を説明する際に使う「枠」であり、主義とは背叛する現実を「不合理」であると否定する。不合理を否定する合理主義はあらゆる「主義」のなかに存在し、従って、あらゆる主義は、どのような言説であれ、その正体はすべて、プラトン持込みの現実否定の合理主義である。自由主義者は、共産主義や社会主義等のラジカルに現状を否定する立場を否定するという点で、その他の主義とは一線をかしているように思われるが、そこに「あるべき自由」という統一の理性的な磁場を作っているという点で、合理主義からは逃れることができない。枠を規定せず、自分の親しき実感のなかで以て言葉を探る生き方、それが「保守的な生き方」である。
我々は例えば自由の持ったことのない(従って抽象の中でしか考えることのできない)ロシア人やトルコ人の感覚に追従して「自由」について論ずるという誤りおちることがあってはならない。(自由の政治経済学)

オークショットは「自由」を、抽象的な概念(乃至、価値)として解釈するのではなく、イギリス人が具体的な生活様式の中で実感出来うるものとしている。従って、オークショットの言う意味での「自由」は、国という固有性からは逃れられないし、自由は生活様式である点で以てのみ価値が存在する。この、オークショットの「自由観」を言いかえれば、それは「生き方」に他ならない。福田恆存が現実を急激に目的に到達させようとする「政治主義」に制限しようとする「主義」に反旗をを翻したように、オークショットもまた、抽象的な理念で、あらゆる「会話」のなかに内在しうる不和のよどみを解消し、すべてを抽象的な「合理」へ回帰させようとするあらゆる「計画」に反対したのである。

つまり、オークショットと福田恆存という偉大な先人に共通するのは、常に合理的な理屈を現実に当て嵌めようとする作法に対する嫌悪であり、なにか、抽象的な理論で現実を解き明かそうとしなかったことである。その変わりに彼らが重要視したのは「道具(モノ)に対する愛着」である。どんなに新しく進歩的なものであったとしても、それが、進歩である限り、その能力は未知数であり、不確実でしかない。しかしいまある現実は、それよりかは、まだ確実であり、慣れ親しんだものであるから、可能性をある程度は、想像できる。ドイツの哲学者ハイデガーは、人間は世間の中に存在しており、そして世間の中で、会話することが道具と同じく「使われる」ことだと規定している。世間に居る人間たちは、日常の中で「頽落」し、存在そのものを忘れてしまう。しかし、ふとした時にその「日常」をぶち壊す、死の恐怖に出会うことで、「存在そのもの」に人は回帰する。ハイデガーの要約すればこういうことになると思うのだが、しかしハイデガーの言うように「世間」は「存在」と矛盾するのだろうか。世間の中で、我々は「頽落」していると同時にその頽落は裏で誰とも繋がりあえないという孤独な存在論を産出しているように思う。人と人の会話には、繋がろうとする飛躍の意識と、繋がり会えないという内省が存在する。この二つの溝の中で言葉は生成され、他者との繋がり=切断を構想する。

人生は、この、二つのみぞの中で揉まれた、一つの結晶であり、言葉を生産する事で結晶を生み出すのである。


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