『転向論』を読む

先ず初めに断っておきたいのは、転向論の作者である吉本隆明は、まあ解りにくい書き方をする。本当にこの人は自分が書いているものの意を分かっているのだろうかと思ってしまうほどである。ただ、吉本隆明という人が、それほどまでの「悪文」であるにも関わらず、なにかおれを掴むものがあるとするならば、それは彼の「情況を味方につける力」であろう。常にうつろい行く時間の流れを論理の地平線に於いて我が身につける、あるいは、それを洞察する力は、凡百の物書きにはない凄みがある。そもそも吉本が名をうった。花田・吉本論争にしても、純粋に論理レベルでは花田の方が優位にたっており、吉本はふぁしすとだのなんだのとしか言っていない。しかし吉本には、党派的な運動に幻滅していた学生という「情況」が味方についていたのだ。その一点に於いて、吉本は勝つべくして勝ったのだと言える。

『転向論』もまた情況論的な議論である。戦前左翼の対ファシスト闘争に於ける、敗北として転向。そこで、「弾圧」による転向が囁かれるなか、吉本は弾圧とは違った可能性を提示した。吉本によれば、獄中転向をした佐野にせよ、非転向を貫いた小林にせよ、両者とも現実から遊離したがゆえの結末だったと言える。

佐野、鍋山が、わが後進インテリゲンチャ(例えば外国文学者)と同じ水準で、西欧思想や知識にとびつくにつれて、日本的小情況を侮り、モデルニスムスぶってる田舎インテリに過ぎなかったのではないか、という普遍的な議論につながるものである

簡単に言ってしまえば、日本に居場所がないのでイギリスに行き、そこで日本について語る出羽守と同じようなものである。その日本に居場所がないという孤独と向き合わず、遠い理想へと逃げ込み、己を孤独にどんどん沈んていった。佐野・鍋山にせよ、出羽守にせよ、基本、その物言いは、日本からの逃げ口上でしかない。

そして、吉本の面白い所はこの「転向者」を非転向者と同列に扱う所にある。つまり、転向者が内部意識からの逃走ならば、非転向は外部意識を変容させることによって、己にとって不都合な現実を見ずにすむということになる(書いておいてなんだが、むしろ非転向者の方が出羽守ではなかろうか)。そして吉本はこれら現実から遊離した、言いかえれば、情況から背反してしまったインテリを棄却し、『村の家』に於いて父銀次を通し、日本の情況に触れた転向者・中野重治を擁護する。中野のみが天皇制というものを間違いなく据えられた。それは銀次を通して「封建的な」日本で生活を営む大衆と接したからである。父の言葉はどこの百姓でも言いつのる事は可能だ。しかしその言葉こそが現実であるということを据えねばあらゆる前衛はワヤになるのである。

吉本隆明の転向論は、なぜ、弾圧説を棄却し、内面かの転向を唱えられるかの詰め方が甘いので、はっきり言えば、あまり鵜呑みにするのはよくない。ただ個人的な見解を申せば、けっきょくのところ、弾圧というのは「獄中死」であり、獄中死とは大衆から遊離した者達が久々に出会った現実なのではなかろうか。従って、本質的に弾圧説と吉本の内面説は、矛盾なく両立しうる事は可能だ。そしていまだ思想に於ける情況からの遊離は、大変な問題であろう。

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