荻生徂徠についてのメモ

1.先王の道と天について

丸山真男の荻生徂徠観は、封建的な自然的秩序を是とする、朱子学の思想に対して批判を加えた思想家として召喚される。

自然的秩序の論理に於いて、秩序の中に置かれて居たとすれば、それを完全に転換される立場は当然気聖人にかかる内在性から救い出して、逆に秩序から秩序を作り出す者としての地位を与えねばならない。

丸山は常民を治る者、言いかえれば制度設計者の視点を持ち、自然的秩序を理とする主体的近代人として徂徠の顔を浮き彫りにする。しかしそれは徂徠の側面的な人相に過ぎず、なぜ制度設計者は制度を作りうる存在となれるかと言えば、「天命を識る」からである。従って、徂徠の思想は、理性的は把握しきれぬ「天」を信ずること以外には生成し得ないのである。

先王の道は、天に本づき、天命を奉じて以てこれを行う

「先王の道」は徂徠は「みな術なり」と解く。しかし術であったとしても天というものを、なにかであることは論理的に説明不可であり、天は人間では手が届かない所に存在する。その点で古文辞学の対象である五経を生み出した尭舜は、永遠にその価値は否定されることはなく不可知なのである。

古文辞学とはつまるところ尭舜の時代の詩経というものを現代に蘇らせる。今やない聖者を単数から複数に置き換えることで再現化する試みなのではなかろうか。従って、これは例えば、「もはやないものに対しての悠久の気分」と言った様なセンチメンタルな逆説的プラトン主義ではなく、もはや死んで物質的にはなくなってしまった聖人を、墓から掘り起こすかんかんのうなのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?