デスマスク百景〜修辞的、あまりに修辞的な〜

あらゆる人間の死顔は安らかではない。

息を引き取った骸の顔は安らかであろう。しかしそれは人間ではない。人間、もっといえば生命というのは運動をする存在である。運動は単なる持続ではなく、持続が切断を呼びうるものとして運動は存在する。植物でさえもその点で、運動しているのである。生とは運動のことだ。死とは静止のことだ。静止は無常につながる。無常を知ったものは生きながらえて、骸になってしまった存在に近い。

人生に於ける真理があるとするならば、それは運動をすることだ。絶えず運動せよ。そして骸に対する疑問符を持て。持てないものがドグマに堕する。身体は運動を欲しているのだ。それが、身体が尤も身体たりえる珠玉の状態に他ならないからである。

ジンテーゼは大して重要ではない。なぜならジンテーゼとは運動のことであり、運動は絶えずアンチテーゼを欲しているからだ。ミネルヴァの梟は永遠に飛びはしない。飛んだとき。それは最後の晩餐が近い証拠だ。事実として骸になりそうな状態だ。

決断はその点でやくにたつ。人は何がしかの運動を行う際、決断する以外に道はないのである。バカはいつも相対化をやりたがる。相対化と運動は背反しないが、その本源がいつも決断によって繰り出されることを忘れてはならない。

うまいものを旨いと感じ、それを言葉にするときに人は、感動と言う形で決断するのだ。そこに理屈はない。不味いものを旨いというデマゴギーを作る際に使われるのが論理である。論理は静的にもなりうる。あまり考えすぎるということは言いかえれば考えてないことに近い。ある程度、のんべんだらりと持続しているモノをモノとして再生産するさい、決断しなければならない。

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