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ただそばであろうとすること|NO.9 不滅の旋律 感想

NO.9 不滅の旋律
赤坂ACTシアター
11月14日 19時
11月28日 19時

脚本:中島かずき
演出:白井晃

せっかく今年はモーツァルトを帝劇で見たから、ベートーヴェンも、という安直さで観てきました。
上演中ですので、ネタバレ等自衛してください。

今年は中島かずきさん脚本で始まったんですが、締めも中島さんになりそう。

2回観て私、とてもニコラウスが好きなんだなってなりながら見ていました。あと女性陣が強いですね。それぞれが折れない。強い。

ルートヴィヒに関しては、彼の言ってることがよく理解できてしまったので多分めちゃくちゃ仲悪いと思います。ついでに言うとマリアとマリアの姉のナネッテとも仲悪い気がする。

なんで仲悪いかなって思うのは、多分私がルートヴィヒの考えはわかるし、マリアとナネッテは彼女たちのようにありたくないけれど、そう生きている自覚があるので、理解はできるけど受け入れたくはないなって感じです。
要するに同族嫌悪です。

ニコラウスとマリアの姉の旦那さんことアンドレアスは好きです。本人たちを客観的みると幸薄い感じなんですけど、

ピアノ選びから始まる今作ですが、まずセットが面白いですね。
ピアノたくさん。ひとつだけ本物であとは作りかけ。ただ音は両端の生演奏ピアノから出るのもいいなって思います。
個人的にACTシアターの音響好きなんですよ。一階席の二階席が屋根になっているところ以外は聴きやすいなって思います。
なので生演奏ピアノと生合唱ってとても楽しみでした。迫力ありましたね。

マリアとの出会いは、年齢軸がわからないのでどれくらいなのかなと思いました。
2幕でウィッグ変えてきたり、ナポレオンを倒したりで時が経つ変化は見やすいんですけど、1幕は出会ってから1幕の中で何年も経った感が薄く感じていて、なんでかなと思ってたんですが、始まりがどこなのかわからないからかなと思いました。
ここまで書いていて、お気付きの通り、私ベートーヴェンの生涯よくわかってないです。ついでに世界史は中世までしか習ってないので近代?わからないです。ご了承ください。

ただマリアがめちゃくちゃルートヴィヒを意識してたし、ナネッテは多分ルートヴィヒは天才だと見抜いてたし、旦那さんは嫁が楽しそうだなって感じてるなってのがなんとなくわかりました。

ここで肝なのはマリアが、自分の音楽だけ演奏すべきと言うところだなって思います。なんで姉ではなくマリアなのか。耳の良さは多分姉のがいいと思います。単純にスキルとしての耳の良さは。だけど指摘するのはマリアで、ヴィクトルです。

おそらく技術的には問題ない演奏をしたルートヴィヒに対して、自分だけの、っていうのは最大の侮辱であり最大の賛辞だと思います。
それをこの2人が指摘するのって、ある意味でルートヴィヒにとっての救いを示してるんだなって思いました。

世界には自分の音楽を心から愛し、理解してくれる人がいる。
1人は自分の音楽を世界に広めようとする男。
1人は音楽を楽しむ市民の女。
誰も理解しなくても芸術は成り立つと言う人がいますが、私はあまりそうは思いません。
自分以外の人の琴線に触れることで芸術が生まれる、それが子供の落書きでも親が感動したなら芸術です。
ルートヴィヒはこの時、なにがあっても自分の音楽を理解し、愛してくれる人に二人出会いました。
マリアに関しては、ナネッテがいるので、ナネッテが無償の愛をもった理解者だとルートヴィヒは錯覚しますが2幕で気づきます。

ヴィクトルは詐欺師のようです。というか詐欺師ですが、そんな彼が唯一騙せず騙さずにいたのがルートヴィヒです。そこにヴィクトルのルートヴィヒの音楽への敬意と愛情を感じました。

ルートヴィヒに関して言えば、欠かせないのはナネッテとヨゼフィーネと言う二人の女性です。
作中でもあるんですが、「愛した人に対してはとことん献身的に尽くす。それもとても苦しそうに」というセリフ。ルートヴィヒの愛した女性だけでなく、ルートヴィヒの音楽に対する向き合い方そのものだと思いました。

音楽を紡ぐのは、幼少期の苦しい記憶やオペラを酷評するフランス兵など苦しさを伴います。それでも、音楽を手放さない。音楽のために良いピアノを求め、他者の音楽も聞くし愛するし、また生み出そうとする。
ルートヴィヒにとって音楽を紡ぐことは最大の愛なんだなと思います。
耳が聞こえなくなっても、音は自分に流れている、だから紡ぐことをやめない。

そんなルートヴィヒの愛し方にすごく似ているなって思うのはマリア、ナネッテ、ヨゼフィーネです。NO.9のルートヴィヒは稲垣さんが演じるのと子供っぽさが相まってあまり感じませんが、本質的な考え方は結構女性的じゃないかなと思いました。
同じように愛することを苦しいことと定義つけるナネッテやマリアとは本質的に合うので、長年側に居続けたんだろうなと思います。

そして、そんなルートヴィヒと3人の女性と真逆の位置にいるなと感じるのが、ニコラウスとマリアの姉の旦那アンドレアスです。
私がニコラウスとアンドレアスが好きなのはそこです。 彼らの愛し方愛され方がとても好きです。

苦しみながらも、もがくように愛すルートヴィヒは、ひたすらに献身的に尽くします。そこに善も悪も関係ないです。だから何度でもお金をせがまれれば、せがまれただけ渡します。彼の愛する音楽と同じように、ひたすら献身的に愛します。
マリアは彼の音楽を自身の苦しみすら飲み込んで愛します。彼を音楽ごと愛するマリアは例え、自分の感情を犠牲にしてもナネッテやヨゼフィーネに向き合います。カールの母親ともそうです。手放そうにも心底愛してしまっているから、その音楽を生み出すルートヴィヒの望みを愚かにも思えるほど叶えようとする。苦しそうなのに献身的に愛する姿はまさにルートヴィヒと同じ気がします。
そして、ナネッテも彼女の作るピアノに、ヨゼフィーネは恐らく自分を献身的に愛するルートヴィヒに対しての苦しみを抱えながらも貴族の妻であることを、苦しみながらも献身的に愛しているんだと思います。

そんな中印象的なナネッテの旦那のアンドレアスと、ニコラウス。
私すごくこの二人が好きなんですけど、彼らの存在がマリアやナネッテに対する存在の拠り所になるからです。

アンドレアスの言動だと分かりやすいかなと思うんですが、ピアノを愛する彼女ごと愛しているって言う台詞があります。まさにそれだなと言う感じなんですけど、人を思う種類には様々なものがあると思うんですがいわゆる「愛だな」って言える感情って、その人に対する祈りの感情だと思っています。
私割りと祈りとか救いとかの話をよく考えるんですが、つまりは芸術に対してよく愛が溢れる作品って言う「愛」ってなんだってことです。

絵画の始まりが文字を読めない民衆に対して、聖書の教えを絵で描き伝えるように、芸術は思いを繋ぐものというイメージを持っています。人々の琴線に触れると芸術になる的なことを言いましたが、絵画や音楽に人々がどんな思いを見るのかという事で、その芸術がどんなものかが決まると思っています。それは宗教的な意味だけではなく、作中であったウェリントンの勝利で民衆が見た戦争の高揚だったり、最後で描かれるNO.9の人々の共鳴への喜びだったりします。

そんな中で私が人に対する一番優しい「愛」だと思っているのが、祈りの愛だと思っています。
これって言葉で言うと簡単で難しくはないと思うのですが実際できるかって言うと難しいなって思っています。ただ寄り添うことというと分かりやすいかな。
その人が苦しいときも嬉しいときも、ただそばにいる。その人のそばを離れず、辛さも悲しさも寄り添うって相当難しいことだと思っています。私は性分的に答えを見つけたい哲学者的な考えなので、何も聞かず、何も責めず何もいわずにただ寄り添うようにそばにいるができないので、アンドレアスのようにそれができるのがすごいなと思うし、憧れます。

ニコラウスとアンドレアスは私の中で祈りの愛を感じられるので好きなんですが、マリアはと聞かれると彼女は、祈りではなく自分のために彼のそばにいるイメージが強く出ているのであまりそう感じませんでした。献身的な無償の愛と祈りの愛は違うものだと感じているので、よりニコラウスやアンドレアスのように祈りの愛を感じられる2人が好きなんだと感じたんだと思います。

私ニコラウスがすごく好きなんですが、演じている役者こと鈴木拡樹さんが好きって言うのももちろんあるんですけど、彼の生き方が好きだなと思いました。
あの登場人物の中で、彼だけが全方位に対して寄り添うことができる人なんです。アンドレアスはあくまで愛するのはナネッテなので、その祈りが向けられるのは一人だけなんですよね。ニコラウスは常に兄であるルートヴィヒを気にかけているし、兄に関わる人に対してすごく心を開くんです。
自分から解決策は言うことはないのですが、繋がった縁に対して不誠実にすることは決してないんですよね。兄のことも、カールのことも、医者の先生のことも、そしてマリアのことも。彼はただただそばであろうとするんですよね。
二幕の最初のマリアへの告白のところ、彼の告白は確かに恋慕から来るものですが、それ以上に優しさを感じました。マリアに幸せになってほしい。苦しむように愛さないでほしい。そんな思いを受けました。側にあることで支えられることができない、自分がいることでさらに苦しんでしまうからマリアに断られたときに身を引いたんだと思います。マリアに断られたとき、そこがきっかけでマリアはルートヴィヒに献身的な愛を捧ぐことになったし、身を引いたあとも一定の距離感をもって寄り添っていたんだなって思います。
人との関係性は確かにルートヴィヒが繋げたものかもしれませんが、最後の最後まで繋げ続けたのはニコラウスだったのではと思います。それは彼が誰に対しても、寛容と優しさをもって受け入れ寄り添うことができるからだと思います。
そんな人が自分に好意を向けてくれるってこの上ない幸せと思うんです。私にはできないことなので、その深い愛情から来る優しい祈りがとても素敵だなと思いました。私は実際にそう言った寄り添うような祈りを持つ人が、恩師としているのですが本当にそういう人が自分の話を聞いてくださるのってものすごく救いになります。だからこそ、ニコラウスのあり方が好きだなと思いました。

この作品は恐らく孤高の天才ルートヴィヒと、献身的な愛をもって支えるマリアを描きたかったんだと思うのですが、私の感じ方では、圧倒的な愛を持って作品を包んでくれたのはニコラウスでした。

権力にすがり、人の醜さも優しさも剥き出しの魂のままに感じるルートヴィヒを通して、最後に音楽が共鳴することを最上の喜びとするこの物語の終わりは、きっとまだ前途多難ですし、特にカールにとっては多感な時期に自分が透明な存在になってしまっているのでまだまだ苦しむんだろうなと思いますが、彼らの行く末の導く星のようにルートヴィヒの音楽が奏でられればいいなと思いました。

魅力的な詐欺師たちも、ちょっとつかみどころのない医者の先生も、ルートヴィヒという人生の奏でる音の一つとしての描かれ方が面白いなと思いました。
同じ音楽に向き合うことをテーマとした作品で、当たり前ですけどモーツァルトとNO.9で大きな差が出るのが面白かったです。見てよかった。色んな芸術家の色んな解釈を見れるのって絵画の美術展を見ているときもそうですが、自分の持つ芸術や孤独への考え、価値を再確認できるのですごく貴重な機会だと思います。

あと、見ていて感じたんですが、普段あまり舞台で見かけない人が多いせいか、間の取り方が独特だなと感じました。
言葉の繋ぎ目はもちろん台詞の応酬の間の取り方が若干早く感じました。なので感情がどんどん強く上にのってくる。ちょっと乱暴な言い方になりますが、見ている私は振り落とされました。強い台詞にさらに強く台詞を被せるように会話を進めるので一息がつけない。そして普通の状態が強いので、少し引いた台詞の時に引いた感じをあまり感じず、ざっくり言うと優しさを感じないなと思いました。苦悩を感じる台詞もひたすらに強かったので、どことなくコメディチックだなと思いました。
全体的に台詞が早いし強いので喜劇感を勝手に感じてしまいました。なので、その分繊細なピアノの生演奏がちぐはぐだったなと思いました。
単純に私があまりコメディを見ない、ドラマや映画を見ない人間なので視野が狭いんだろうなと思います。演技を批判しているつもりではないので、単純に好みの問題だと思います。

そんなこんなで見ましたが、やっぱり見てよかったなと思います。音の共鳴する高揚感を感じられるのは気持ちがよかったです。
今度はいっそのこと映画とかで見てみたいなと思いました。