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ともしび|科白劇舞台刀剣乱舞/灯 感想

舞台 刀剣乱舞/灯
綺伝 いくさ世の徒花(打ち消し線)
改変 いくさ世の徒花の記憶

脚本・演出 末満健一

7月19日17時30分ステラボール
8月9日17時 日本青年館ホール(大楽配信)

まずはじめに、この状況下で感染症予防に徹底的に努め、上演を行ってくださったことにお礼申し上げます。
感想をすぐにでもあげたかったけど、この状況で見ている方が少ないこと、そして自分自身も観劇した日より2週間以上経ち、健康状態も良好だと思いますので感想をあげます。

はじめに


2月末からどんどんと公演が中止になっていく、手元のチケットがお金になって戻ってくる。
在宅勤務が始まり、楽しみだけが奪われたなか家で仕事をするだけの日々の中で、わたしの好きな舞台というものの幕が上がるのか、そんな日が来るのか本当に分からなくて苦しい日々でした。
きっとそれ以上に、運営、スタッフ、キャストの皆さんは苦しかったのだと思う。
それでも上演を行う。誰一人この作品が原因で感染したと言わせないくらいの徹底ぶりに、物語だけでなく舞台を紡いでいく覚悟を見ました。本当に嬉しくてたまらなかった。あらためて、ありがとうございます。

演出についてのはなし

物語としては特命調査慶長熊本ベースですが、今回はいつもの刀ステ本丸のみんなが経験するものではなく、「似た経験をした別本丸の特命調査」を刀ステ本丸のみんなで振り返ろうと言うのが軸になります。
いわゆる感想戦みたいな感じですね。

別本丸の特命調査資料と一緒に、奇妙な刀装が送られてくる。
「講談師」と言う刀装は、別本丸が体験した慶長熊本の特命調査を語り出す。

これすごいことしてるなと思いました。
万全の状態で本公演ができない、けれどこのキャストで行うには慶長熊本しかできないとい制限。
だからこそ別本丸。ここすごく「刀剣乱舞」というジャンルの、ユーザーの数だけ本丸がある。という設定の強みを改めて感じました。

最初に講談師さんが出てきて、昨今の情勢は~と話を始めるんですが、つかみとしては面白いお話だと思います。
「演者もこの透明なマスクをしてます。ですが、人間というものは想像する生き物ですから、見ている皆さんもきっとこのマスクが見えなくなるでしょう」の一言。この演劇のお約束をうまく使った言い回しに改めて舞台を見るぞ!っと気持ちになりました。
わたしこの演劇の可能性みたいなものがすごく好きなんです。演劇の中で生きて死ぬ、それをお客さんと板の上の役者が互いに同じお約束をしてるから成り立つ物語。すごく素敵だと思ってます。

他作品の方が割と顕著ですけど、小道具や体を使っての「見立て」
さもそこにあるように演者が演じるからこそ、見ている観客がそこにあると認識するお約束で舞台は成り立つ。
末満さんといったら西田シャトナーさんの劇団、惑星ピスタチオ出身ですが、シャトナーさんの演出でも小道具をできるだけ使わずに身体表現で見せる「パワーマイム」が多く見られましたね。
演劇だからこそ、演者と観客のお約束で成り立つ「想像」あたらめて演劇というもののジャンルの見せ方が面白いなと感じました。

そん感じで始まった舞台刀剣乱舞灯。
いつもの本丸のシーンは内番服、別本丸のシーンは戦闘服でしたね。

もっと静かに動かない朗読劇的なものを想像してたんですけど、いい意味で裏切られました。
徹底的に演者の距離を保った移動をするという制限。一定の距離以上近づかない、対面での演技は見せられない、息を飲むような近い位置での迫力のある殺陣がない。それでもこれだけの人数の導線が重ならないように徹底され、それを逆手に撮った演出。
圧巻でした。正直、他の作品も公演が再開されてから見に行ったんですが、ここまで舞台上の距離を意識した2.5作品はないんじゃないのだろうかというほどの徹底ぶり。
それでいて、普段の刀ステの縮小版ではなく、別のアプローチで表現した刀ステにしっかりとなっている。

8月3日に末満さんの「すえ咄vol.2」を見てたのですが、そこで2018年末にブロードウェイに行って刺激を受けたと話しを思い出しました。慈伝の時からちょっと演出変わったなと印象を受けていたのですが、それがしっかり形としても見えてきた維伝、そしてさらにそこから幅として厚みを増してきたのが科白劇という印象を受けました。

演出としてはそういった新しいアプローチ、そして新しい演劇の形を示すぞという気合いを感じました。
どんな状況下でも、ただでは転ばない覚悟。この状況下では簡単に下せない選択を、関係者が腹を括って取り組んで生まれたこの作品。今後の刀ステにも大きく影響があるだろうなと感じました。楽しみです。

放棄された世界のはなし

特命調査という「やっかいな任務」
放棄された世界の分岐点が維伝では説明されてましたが、今作では分岐された世界の始点と終点の話をしていましたね。
それにしても黒田官兵衛もとい黒田孝高。あいつはなんなんだ…!

なんとなくなんですが、維伝の放棄された世界は龍馬自身が最後の朧になるまでここが放棄された世界という自覚がない(薄い)という印象です。
だけど今作は、慶長熊本はきっかけとなる核のガラシャからしてここが正史ではなく分岐された世界であることを理解している。なんとなくなんですが、放棄された、分岐した歴史ということを理解しているとある程度制御できるのではないのかなと今回感じました。

そして、気になるのは時間遡行軍が未来をガラシャに見せること、そこでガラシャが未来を変えたいと思うこと。
そこが今回の放棄された慶長熊本の始点です。
そう考えると、悲伝の足利義輝の何度も繰り返すことによって歪んだ時空が見せた自身の死はある意味で放棄された世界への始点となりうる場所だったんでしょうね。
おそらく、その始点の核となったのは足利義輝ではなく、刀ステ本丸の三日月宗近だったのではないかなと思います。

維伝(早く感想を書けよと自分でも思ってきました)で、時間遡行軍の姿となった山姥切国広が言った「物語を送る」
ニュアンス的にはページをめくるに近いのだろうなと思っています。

黒田孝高いわく、分岐された世界ってこうなってるんですよね。

科白劇

何度も繰り返される分岐した放棄された世界という円環。
その円環を抜け出したい。奇しくも黒田孝高と三日月が同じ願いを持っているのが面白いですね。

ここまで書いてなんとなく思ったんですけど、ジョ伝もあの状態では刀剣男士が負けて歴史改変がなされていたという可能性がるんですよね。それを防いだのが、「山伏国広の刀剣破壊の阻止」だとしたら、三日月宗近のお守りの力だとしたら…。
ある意味で序伝での段階では負けとなり、放棄される世界となりうる可能性があった、それを防いだのが三日月宗近という存在というのが何かしら今後も引っかかるのではないのかなと思いました。
黒田の話だしね。

黒田官兵衛の歴史を変え、分岐した世界の円環を超え先に進みたいと願う思いの障害は、なんとなく三日月宗近の気がしてます。
でもここにイレギュラーとして、あるいは希望の光として存在するのが山姥切国広だとしたら、彼がどう動くかで三日月宗近の選択もまた変わってくるのかなと思います。

孝高の台詞で「歴史とは連綿と続く人の営み」と言うものがあるのですが、これは私が悲伝で感じたものと同じだなと思いました。
刀ステの歴史のあり方は「ただ起きた事実のみがある」そんな感じを受けています。
ただ起きたこと、起こしたことが事実として積み重なっていく、だからこそ未来を知ってしまうというのは起きたことを事実として受け入れられなくなってしまうのではないかなと思いました。

さらに孝高の台詞で、「生きたいといともう願い・祈り・慈悲」「それを人はなんと呼ぶ?愛だ」
ハッとさせられました。
わたしたちは過去の出来事を知っているからこそ、歴史は改変してはいけないと思う。でも彼らにとっては生きている「今」の物語なんですよね。わたしだって2020年のこの状況を変えられるのなら変えたいなと思うことはあります。だって変えたことで将来がどうなるかなんてわからない、変えることで思い描くものになるのなら変えたいと思ってしまう。
その根幹にあるものが、人を自分を思う心(=愛)だとしたら、わたしのいう「歴史改変はよくない」の説得力のなさが凄まじいものになってしまいますね…。

でもここでばっさりと「その思いごと斬る」と宣言してくれたのが山姥切長義です。
今作に彼がいて本当に良かった…。
彼は歴史を変えたいと言う人の願いを理解した上で「斬り捨てる」と言うんですよね。あまりに何度も言うので鋼の意思だなってのが伝わりました。

映画の感想でも書いた気がするのですが、刀剣男士はただそこに「在り」続けた存在であるからこそ、死んでいく人の物語をも内包する。歴史はただ積み上げられた事実でしかないということを分かった上でそれを慈しみ愛でるという存在ではないのかなと改めて思いました。
山姥切長義と山姥切国広の話もどこかでしたいなと思いつつ(詳しくないし、なんか問題になってたのでやらないかもしれない)、長義の自分が人の思いによって生まれた付喪神だと言う自覚がすごいなと思いました。

今作の刀剣男士は結構「物語を内包している」ことに自覚的だなと感じました。
誰かの生きた物語を内包する上で成り立っているからこそ、そのひとつひとつの物語に敬意を払う。それが彼らを付喪神とした人の思いに答える術なんだろうなと思います。

ガラシャと忠興のはなし

友人に送った科白劇の感想が「歴史を変える夫婦喧嘩〜とある庭師の物語を添えて〜」って言っていたので、配信を見た友人に笑われたのですが、わりと的を得てるって思ってます笑
黒田官兵衛がね、初代クラウスだし、役所も相まってTRUMPシリーズ(概念)を感じました。

と言う冗談はさておき、ガラシャも忠興も素直になれないけれど互いを本当に愛していたのだなと思いました。
あの時代で生きる人の意志の強さ、あの2人は「愛憎と言う感情にとてもあらわされたいるのだなと思います。

蛇のような女だ。
鬼の妻には、蛇のような女が似合いでしょう。

おそらくなのですが、ガラシャは信じる心が強い人なんでしょうね。
忠興が信仰が夫となったと言うように。ガラシャの「武士の妻」としてあろうとする、細川の家を守るために妻である自分でさえも斬り捨ててしまうような「鬼」である苛烈な忠興を愛していた。だからこそ、自身の最期が忠興の手によるものでないのが憎くてしょうがない。いや、それよりも前に謀反人の娘として離縁した際に、家に返して縁を切るもしくは、謀反人の娘として殺して欲しかったのではないのでしょうか。
自分が愛した細川のために鬼となる忠興を、突き通して欲しかった。その姿を盲目的に信じて愛していた。
だからこそ、幽閉された時に「愛しているはず」の忠興を「憎んでしまった」自分が嫌なんでしょうね。だから救いを求めて信仰にはまっていた。

ガラシャの洗礼名が「神の恩恵」を意味する。
神の「いつくしみ」を意味する恩恵という言葉。「いつくしみ」は「愛しみ」「慈しみ」とも書きますね。
どこまでも愛情が深い人ですね。

幽閉から戻ってきたガラシャがつっけんどんに忠興に返すやりとり。
歌仙の名前の由来となったガラシャに見惚れた庭師を斬った忠興が、ガラシャの着物で血を拭う。
そこで放たれる蛇と鬼のやりとり。

おそらくですが、ガラシャはただただ忠興に「鬼」とあって欲しかったのかなと思います。
でも、あの時の忠興は口では「蛇」というもののガラシャのことは「花」だと思っていたんでしょうね。

謀反人の娘だからこそ、妻であっても肩入れをしていいのかわからない。
でもその美しさを愛している。花として自分の妻として愛している、だからこそ忠興はその花を踏み散らす「鬼」にはなれなかった。

わたし、忠興が右近に殺されてしまった時、ちょっとだけ良かったなと思ったんです。

「殺さずに済んだ、でも殺してあげた方がきっと良かったんだろう…」

この台詞が言うように、最後までガラシャに対して忠興は「鬼」ではなかった。そして忠興はガラシャを最後まで「蛇」ではなく「花」としてみていたんでしょうね。花としてのガラシャを愛していたからこそ蛇になろうとするガラシャが憎くてしょうがなかったのだと思います…。

だから忠興の死をもって「花」としてのガラシャは死に、「蛇」としてのガラシャが生まれる。
忠興は改変された歴史の中でも、正史と同じようにガラシャを「花」として突き通したんだと思います。それがこの物語の救いだなと思います。

ここで獅子王がいう鵺のような人々のような歴史人物たちの思いの道が決まっていきます。
悲伝風にいうなら名前を得なかった鵺の刀が「時鳥」の名前をもらって存在が定まったように。

ガラシャが「蛇」としてなるのなら、誰かが「鬼」となってガラシャを斬らねばならない。
ここでそれができるのは地蔵か歌仙となるんですが、地蔵はガラシャを「花」と呼ぶんですよね。

忠興の物語を内包する地蔵と、歌仙。
歌仙が「鬼」である忠興の物語をしめすものとしてガラシャと対峙する。歌仙が刀として、1つの物語を示す、確かにいろんなものを内包している鵺のようだな。

アヴェマリアが流れる中での戦闘は神々しくも切なかったですね。
最後に、ガラシャの血を拭う歌仙に文化人として雅を愛した忠興の刀ではなく、苛烈な「鬼」としての忠興の刀としての在り方を見ました。
歌仙なりの忠興とガラシャの物語への敬意の示し方。
鬼としての忠興を愛した蛇のガラシャへの餞だったと思います。

歌仙兼定のはなし

まずは、歌仙役の和田琢磨さん。本当にお疲れ様でした。
多分今までにないプレッシャーだったと思います。和田さんがカテコで泣いてるの初めてみたかもしれない。

友人に義伝の後からずっと「歌仙主役で1本書いて欲しい」と言い続けてたんですが、叶いました。
維伝の大楽をライビュで見ていたそうで、そのお話をしてましたね。
とても頭の悪い話をするですけど、過去作の予告はわりと出演男士を数人発表してる印象なんですが(悲伝は三日月のみ、慈伝はありませんでいたね)、綺伝の発表は伝令ではなく歌仙のみの映像で、和田さんの顔の良さを前面に推し出してきたなマーベラス…!って思いました。めちゃくちゃきれいでしたね。

そんな歌仙の見所が本当に多かった今作。
歌仙の言葉(歌)ではなく、行動で刀剣男士の在り方を、細川忠興の物語を示そうとするのがとても良かったです。

この話では、歌仙は別本丸なので本公演でどう語ってくれるのか楽しみなのですが、悲伝で歌仙は燭台切に「僕たちは刀だ」と言うんですね。その言葉が、綺伝でどう見せてくれるのかとても楽しみです。

科白劇の歌仙は、歌を詠む時を選びたいと言っていました。(原作の特命調査でもですが)
それは細川忠興の刀として雅を愛する文化人の一面と、苛烈な鬼のような一面を内包する歌仙らしいと思っています。

ガラシャ(たま)と忠興が熊千代をあやしているシーン。
茶茶を入れる歌仙が可愛くてたまらない。こんなにも幸せに、こんなにも互いを信じている2人を見ているからこそ後半が苦しくなる。
忠興の気持ちがわかるから、ガラシャの思いもわかるから、どうにか間を取り持ちたい。
でも自分はそこにあるだけの「刀」だから何もできない。もしかしたらその時に歌仙が歴史を変える力があったのならと考えてしまうよな過去の回想でしたね…。
でも、歌仙も刀です。ただそこに在り、ただ紡がれる物語を歴史を受け入れ、その歴史ごと愛してゆくと言うのが歌仙の、刀剣男士のあり方なんだと感じました。

あと、宿のシーンですね。
青江と篭手切に心配されるシーン。
人見知りと言われる歌仙ですが、どちらかと言うと口下手なんだなって思います。いろんな感情が思いが巡るように溢れてくるからこそ、愛と憎しみの強い感情から生まれた刀だからこそ、うまく言葉で表現できない。
そんな歌仙のあり方を本丸のみんなが長い年月を経て知っていったからこそのシーンだなと思いました。
仲間のあり方を、その物語を否定するわけでも矯正するわけでもなく、そこに敬意を払った上で仲間として心配する。素敵な関係性だなと思います。

一昨年の京博での刀の展示で歌仙をみました。
解説に、片手で振るうための刀とあったので、同じ打刀ながらも片手で刀を振り回す歌仙と、鞘と二刀流のようにする山姥切国広(長義)、刀と銃で闘う陸奥守との対比が面白いですね。
歌仙の感情をまっすぐに表すような大きく振りかぶりながら力強い殺陣。今回時間遡行軍が映像だったので、早く実際に殺陣をする姿がみたいです。

山姥切長義のはなし

2回目の出演。そして歌仙と唯一の続投キャストということで期待が高まっていた梅津さん演じる山姥切長義。
前回出演した慈伝では顕現したばかりだったので、今回は練度を積んだ姿かと思って楽しみにしてました。

そして「あいにく酒は飲めなくてね」で時間の流れを感じました
今回の山姥切はだいぶクレバーでしたね。(慈伝はアンジェリコ様みたいとか言ってたのに…笑)

わりと人間に足しての塩対応な山姥切長義でしたね。
「おや随分と事情通なようだ」からのやりとりが、心底めんどくさいが出てて良いなと思いました。
わりと思いを知りつつも「斬り捨てる」というように人間に対して塩対応なんですけど、彼はきっと誰よりも人の思いというものの力を知っていると思うので、、あえて肩入れしないぞと自分に言い聞かせているのかなとも感じました。
人の認識が「山姥切」といえば国広をさしてしまうようになったのは、刀剣乱舞という作品がきっかけだと思うのですが、そうしてしまうことで自分が「山姥切」でなくなってしまう=山姥切国広の本科としての山姥切の物語を無くしてしまう。
だからこそ「山姥切」と認識されるべきは自分だとして「伯仲の出来といわれる写しを打たれた刀、山姥切」としての物語を守ろうとしているのではないかなと思っています。
そうでなければ、自身が「本作長義」としてのものがたりを強めてしまうと彼の写しである物語が失われてしまうのかと危惧したのではいのかなと。そうでなければ、聚楽第の「写が打たれなかった世界」の先行調査員もとい監査官が「山姥切長義」である必要がないのだなと…。(あくまで個人的な考えです)

全然関係ないですが、クライマックス近く闇通路のなかで古今と歌仙に助太刀する山姥切長義の登場が講談師さんの「誰だ!誰だ!誰だ!!!山姥切長義だ〜!!!」で出てくるところ、あまりのテンポの良さに何度見ても笑ってしまう。かっこいいですよ。でもテンポが良すぎる笑

最後に講談師とのやりとり
「戦い続けるしかないのでしょうな」
「心得ているさ、俺たちは刀剣男士だ!」
この言葉が、彼の強さだと思います。自分をちゃんとわかっている、自分が自分であることを知っている。
そうでなければ、山姥切の物語は写しに食われてしまう。でも彼は自分が山姥切長義で刀剣男士ということを知っている。
歴史を守ることで自分を守り、自分を愛してくれたものへの敬意を払う。
なんで山姥切長義が先行調査員ではなく監査官だったのか。彼の自分という存在への思いの強さ、そして歴史に対する思いの強さが時の政府にとってかなり重きを置くものだったからなのかもしれませんね。

そんな山姥切長義ですが黒田孝高との腹の探り合い。
三日月の隠し事とは別の方向で彼は政府関連で隠し事をしているのかなと思いました。どうでしょうね。

彼は彼で、物語の役割を与えられてるんでしょうね。
個人的に刀ステで役割を与えられているのは三日月、山姥切国広、そして鶴丸国永だと思っています。
そして悲伝を越えた後に来た山姥切長義には、また別の役割があるのではないのかなと思っています。楽しみですね。

今回あまりにカッコいい山姥切長義くんでびっくりしました。
梅津さんが久しぶりに演劇の世界に入れることが嬉しい的なことを、ご自身の配信でおっしゃっていたのが印象的です。
この背水の陣で臨んだ科白劇という作品に、演劇を愛する梅津さんがいて良かったなと思います。


最後に

言いたいことはたくさんあるのですが、長くなりすぎたのでここで終わりにします。

19日の公演、徹底した対策の中、客席にすさまじい緊張感が走る中、おそらく大多数の人間が久しぶりの観劇となったあの日。
静まり返る会場の中、揺れる松明の光が美しくて、末満さんが付けてくれた「灯」を象徴するかのような装置に、この灯をたやさず、戦い続ける座組みとして刀ステを紡いでいく。そんな覚悟を見ました。

維伝の維はつなぐという意味。
そして今回の科白劇の「灯」も同じく物語を繋いでいくという意味。

彼らが紡いでいく物語の先がどこに行き着くのか、そしてどう紡いでいくのか楽しみです。
いつか綺伝の本公演で。


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新作「大阪冬の陣・夏の陣」とっても楽しみです。
そしてまさかのステアラ!!!
3年ぶりに豊洲が良いの人になります笑

刀ステの他の感想(ちゃんと全部あげたいので尻叩きにリンクを貼ります)

虚伝 燃る本能寺
義伝 暁の独眼竜
外伝 此の夜らの小田原
ジョ伝 三つら星刀語り
悲伝 結いの目の不如帰
慈伝 日々の葉よ散るらむ
維伝 朧の志士たち
科白劇(これ)