見出し画像

雑草LOVER

雑草という名の草はないとか。

それはそれで名言だ。

この言葉の由来も含めて前後の文脈から名言であることは理解している。

けれども、その上で敢えていう、私は雑草という呼び方が好きだ。

雑草という言葉に一括りにされる、そのカテゴリーの中にいる植物たちへの敬意や愛着のようなものを感じてやまないのだ。

雑草のイメージ。

それは生きる逞しさ。

命の賛歌。

生きてるって素晴らしいを通り超えて、スゴイって思わせる力。

雑草、雑草と悪玉のようにいわれるのも、ちょっとこちらが情けをかけると、あっという間に蔓延ってしまうからという事実もある。

庭仕事が好きであるがゆえ、その気持ちは痛いほどわかるのだが、それでも、雑草に惹かれてしまうのだ。

雑草には、強い生命力を感じる。

厳しい環境でも生き抜く逞しさとでもいうのか。

何かを「好き」という感情にもいろいろだが、私は、自分にないモノを持っているという感覚で、雑草に憧れの気持ちを抱く。

雑草が力強く生きる姿に、自分にはないモノで、かつ、自分が求めているモノを重ねてしまうのだろう。

今の自分は、体力が乏しく、体が思うように動いてくれない。そのこと自体に大変不満を感じている。

生きているだけで儲けものだと、自分にいい聞かせつつ、生命力や生きる力で私の数倍上をいっているような雑草に憧れてしまうのだ。

コンビニの駐車場、縁石の脇、そんな場所に小さな隙間を探り当て、土へと根を下ろし、逞しく生きる雑草たちの姿を見つけては、私もまだまだ頑張らねばと思う。

そのような意味で、雑草は憧れの存在であり、私の気持ちを鼓舞してくれる、ありがたい存在なのだ。

雑草というのは、どれだけ逞しく生きていたとしても、地域の一斉清掃だとかいう「タイミング」がくれば、無情にもあっけなく抜き取られていく。

そんな目に遭ったとしても、地中で虎視眈々と時期を待ち、季節がめぐりくると繰り返し芽吹いて花を咲かせる。次世代へとバトンを繋ぎ、新しい地を開拓さえしていくのだ。

そんな雑草たちの営みを垣間見て、憧れの眼差しを贈り、自分もなんとか雑草のような生命力に近づいていきたいものだと溜息をつく。

これを愛と呼ばずして、なんと呼べばよいのだろうか。