流されて行け241

ここすき2 「やる夫のクロノトリガー」の使い回されるやる夫のAA

流されて行け             
               ――やる夫

 私は「やる夫スレ」が好きだ。「やる夫スレ」とは、アスキーアート(AA)を使って漫画のように物語をつくるジャンルのことだ。二〇〇七年の「刺身の上にタンポポのせる仕事の採用試験に受かったお!!!!! 」から「やる夫が小説家になるようです」にかけての最初期の作品とともに始まり、翌二〇〇八年には「四大長編」と呼ばれる「やる夫がときめきメモリアルな体験をするようです」「やる夫のロマンシングなサーガいきなり3」「やる夫が徳川家康になるようです」「やる夫が空を目指すようです」が発表されその表現の可能性を押し広げていった「やる夫スレ」と呼ばれるジャンルは、今日でも多くの作品が投稿され、読まれている。
 あまりにもたくさんの作品があるので、「やる夫スレ」を初めて知った人が読むべき作品は何か、という話題になると議論は百出してしまうだろう。
 私としてはまずはじめにアルフレッド・ベスターの同名のSF小説を原作とした「虎よ虎よ」(二〇一二年)を読ませたい。

 これではじめにアスキーアートの表現力、演出力の幅の広さを知ってもらいたい。そして、次に読ませたいのがタイトルに示した「やる夫のクロノトリガー」(二〇一三年~二〇一五年)である。

 こちらの作品は、むしろアスキーアートの本質的なバリエーションの乏しさを逆手にとった巧妙な演出で読者を魅了する。同じようなアスキーアート、同じようで少し違うアスキーアートを多用することで、この作品は独特のリズムと緊張感を生み出している。
 ・・・・・・もしも、読者のなかにやる夫スレの愛好者がいるとしたら、「こいつ自分の好きな作品あげてるだけでは?」と思うかもしれない。それはもっともである。というのも、上の二作品は少々「初心者向け」とは言い難いところもあるからだ。
 「虎よ虎よ」については、同名の原作を知っている人なら察しがつくだろう。これはきわめてクセのあるSF小説である。そしてこのやる夫スレは、そうした原作の魅力を最大限アスキーアートで表現しているのだ。
 一方で「やる夫のクロノトリガー」という作品は、原作と言うべき「クロノトリガー」というスクウェア・エニックスのゲームを知っているからといって、その内容を推し量ることはできない。この作品は、「クロノトリガー」と銘打っておきながら、設定をいくらか引き継いではいるもののまったくの別物である。
 「クロノトリガー」を題材にした作品は他にもある。たとえば「やる夫がドリームプロジェクトなようです」は「クロノトリガー」の内容をやる夫たちアスキーアートに向けて翻案した正統派の作品であり、これもまた名作である。
 だが、「やる夫のクロノトリガー」はそれとはまったく異なる。主人公やる夫が転送装置の実験の失敗により時間転移してしまう、というところまでは原作をなぞっていると言えるが、そこからはまったく違う話だ。原作では、主人公は中世世界に飛ばされ魔王と戦う。だが、やる夫は違う。中世の見知らぬ森の中に飛ばされた彼は、ある少女に助けてもらう。やる夫は、その少女の家に泊めてもらう。彼女は町の外れに母娘だけでひっそりと暮らしているのだった。ここから奇妙なことが明らかになる。少女の死んだ父親と主人公やる夫は名前も容姿も、そして能力も、まるで同じらしいのだ。
 ここでこのやる夫スレの読者は気づくことができる。これは、一体何故かは分からないが、同じ作者がかつて投稿していたが途中で制作を放棄した同名作品の内容を引き継いでいるのである。かつて、この作者は「やる夫のクロノトリガー」という同じタイトルで同じようなストーリーを投稿していた(二〇一一年)。そこでも主人公やる夫は森に飛ばされ、少女に拾われていた。そしてそこでの少女が、いまでは母として登場するのである。
 こうして母娘の静かな生活は、父親と顔も名前も一致する人物がやってくることによって一変してしまう。母のやる夫への優しい態度は少女がこれまで見たことのない種類のものだ。少女は自分たちの生活に土足で踏み込まれているような不快感を感じる。物語はやる夫と少女のギクシャクとした関係を軸に動く。そして、この関係がこのやる夫スレ作者一流のアスキーアートの使い回しによって緊張感たっぷりに表現される。やる夫は一向に魔王と戦わない。物語は奇妙なサイコサスペンスとして進行する。
 さて、これは物語の序盤にすぎない。これは全二百六十二話の大長編のほんのはじめの二十数話にすぎない(このことは二〇〇八年の「四大長編」が最長でも三十五話しかなかったことを考えると驚くべき長さである)。さらに、原作「クロノトリガー」のようにゲート探知機によって時空を転々とするので物語の舞台から登場人物までがらりと変わってしまうこともある。だから、ここで読者に長々とあらすじを説明することは止めておこう。
 だがその長い旅路も、主人公がやる夫である点では変わらない。彼は自分の家族のいるもとの世界へ帰ろうと、世界から世界へ転々と渡り歩くが、どの世界でも他人を傷つけてしまう。そして、目的の故郷にはけっしてたどりつけない。
 村上裕一の著書『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』は、やる夫スレを取り上げた評論としても先駆的な本である。彼が「ゴースト」を説明する際まず第一に取り上げるのが「やる夫」なのである。「ゴースト」とは「データーベースのキャラクター化」である。このことは既に言及した。だが、その際、私はこのことをあまりに自分の文脈に引き寄せて論じてしまったと思う。
 やる夫は物語から物語へ彷徨する。あるときはタンポポを刺身にのせるライン工、あるときは小説家を目指す男、またあるときは徳川家康その人。やる夫というキャラクターはそれぞれの物語にとらわれることなく、それらを渡り歩く。それは、村上裕一に言わせれば物語を可能にするデーターベース、アーキテクチャーそのもののキャラクター化である。やる夫というキャラクターそのものがやる夫スレという「新しい文体・ジャンル・共同体」*1、つまり環境そのものなのである。このような存在となったやる夫はやる夫スレという「終わらない祭り」*2のなかでけっして死ぬことができない。「ゴースト」とはこのようないつの間にか生まれてしまって、そして「死ぬことのできない」キャラクターなのである。それは、作曲と二次創作のアーキテクチャーそのものである初音ミクというキャラクターの葬式がありえないことと同種の現象なのである。
 さて、村上裕一は、やる夫スレの隆盛や初音ミクの繁栄といった現実の潮流について語るときには、この「ゴースト」というものを基本的に肯定的にとらえているように見える。だが、第三部でそれまでの社会論ないしネット論的な語り口から文芸評論的な語り口に一転しフィクションの世界から「ゴースト」を捉え返そうとするとき、「ゴースト」の永続性は一つの問いに変ずる。「しかし、現実に生まれ出てしまった記号は、その後どうすればいいのだろうか。」*3おそらく、このとき彼は死なないこと、死ねないことの呪わしさを薄々感じていたのではないだろうか。
 今日、われわれは死ぬことのできない「ゴースト」になるということの呪わしさを、フィクションの中でではなく現実の事件のなかで見ることができる。「恒心教」の嫌がらせの対象になっている唐澤貴洋は、いまや、超越神力と核兵器をそなえた時に踊って時に脱糞するコミカルなキャラクター「一般男性」としてさまざまな動画を跳ね回る。これは彼に限った話ではない。好奇と嘲笑の視線に晒されつづけた果てに一つのキャラクターに結晶化して不死性を獲得してしまった者は他にも大勢いる。そして一度生まれてしまったキャラクターは、たやすく死ぬことができないのだ。
 死ぬことができない。無限にコピーされつづけ、どこまでいっても物語から抜け出すことができない。「やる夫のクロノトリガー」という作品はこうした事態をパラノイア的なまでに強調する。やる夫はどこまでもコピーアンドペーストされ、物語はどこまでも延長する。出口はない。だが物語はつづいている。諦念と絶望のなかでやる夫はさとる。

流されて行け

 死ぬことができない「ゴースト」であるやる夫は、ただ流されることしかできない。救いはない。コピーアンドペーストの呼吸が物語を刻みつづける。この作品は、「ゴースト」の条件を、その最暗黒において描いたと言えるだろう。

*1 村上裕一『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(講談社BOX)、168頁。
*2 同上書、201頁。
*3 同上書、267頁。


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