母にカミングアウトした

現在の世の中でカミングアウトというと、好きな対象は女性です、とかそういう内容に見えるのだけど、そういうのではなく。

母は音楽家ではないので、自分の娘に「30分でいいから椅子に座れるようになってほしい」という理由でピアノを習わせ始めたばっかりに、その椅子に座れなかった娘がまさか芸高やら芸大にまで行ってしまう人生を歩むことになるとはまったく思ってなかったと思うし、周りのものすごいサポートがあってようやく芸大まで入ったあとに「チェンバロをやりたい」と言われるというのは晴天の霹靂というか、考えもしなかった未来だったと思う。

チェンバロを始めるときは本当に大変だった。まずチェンバロとはなにか、というところからプレゼンをしないといけなかった。見たことも聞いたこともない楽器の名前を素人に説明する、というのは結構難しい。いろんな先人たちの名前を挙げ、動画を見せ、その人たちがどんな仕事をしているのかを話した。それでも満足しなかった母は私が習おうとしていた先生に電話をかけ、「そのチェンバロとやらを学んだところで、うちの娘はそれで稼げるようになりますか」と聞いていた。とんでもないモンペというか、かなりやばい親だと思う。稼げるようになるかはこれからの頑張り次第というか卒業後の自己責任の世界だし、それは先生の知るところではない。まあ最終的に何が決め手になったのかわからないが母はいろいろ諦め、私はチェンバロ科の大学院を受験できることになったし、修了後にはまぁそれなりに食べていけるくらいには仕上がった。

そういえばここまで書いて思い出したけど、大学院を出てフリーランスをしていた3年半、仕事の大半でオルガンを弾いていたことも特に言った記憶がない。
うちの母は、私が高校に入って以降に弾いたほぼすべての本番を聴きに来なかった。さすがに奏楽堂でやる高校の公開実技試験とかとても大きいものは聴きにきたけど、でも大学の卒業試験は聴きに来なかったし、大学院の修士リサイタルも学位審査も来なかった。日程も知らなかったかもしれない。スタジオピオティータでやったソロリサイタルは来ていたと思う。どうして母が聞きに来なくなったか、というのは話せばとても長い。反抗期からの戦いの歴史だから私の黒歴史もだいぶ公開しないといけないのでここではやめておこう。笑
まあそんな黒い歴史の積み重ねで母はあんまり私の本番に来ない。だから私の友達たちや演奏仲間で私の母に会っている人はとても少ない。私はたくさんの友達のお母様方の顔を把握しているから、そう考えるとうちの母がかなり特殊だと思う。
そんなわけで留学するまで実家には住んでいながら、毎日出かけていく私が、本番を弾きに出かけているのか、リハーサルに出かけているのか、はたまた遊びに行っているのか、バイトしているのか、母は全く把握していなかった。友人音楽家たちのお母様方が大人になったこどもをあらゆる方面から手厚くサポートしているのを見ると、うちの母は悪く言えば音楽家の親にしてはかなり無関心の部類に入ると思う。先生に電話かけてまで稼げるかあんだけ心配していたくせに、とか思ったりもするけど、親にあれこれ口を出される生活よりは、これくらい放置されるほうが私には心地よかった。だからわざわざオルガンを弾く仕事をしていることも言う機会もなかった。とはいえ実際のところは、放置というよりは信頼して遠くから見守っていた、と言ったほうが正しいと思う。
まあこどもが20代も後半になってからとかならともかく、高校生の時点で親のほうから子離れして、子を信頼して放置するというのはとんでもなく大変なことだったと思う。ましてや椅子に30分すら座れなかった娘だ。母は偉大と思ったことが人生で何回かあったが、このことは間違いなくそのうちの一つである。

で、留学してフォルテピアノを極めにいこうということになって、私はチェンバロを始めるときにやったあの格闘をまたやるのか…と頭を抱えた。今回は先生が外国人だから安易に電話にはならないと思うけど、フォルテピアノとはなにかから始めて、先人たちがどんなことしているのか、チェンバロが弾けることに加えてフォルテピアノも弾けたら何ができるのか、どれだけ稼げるのかをプレゼンするのか…
んー…めんどくさ!と思った私は、フォルテピアノを勉強しにいくとは言わずに出発することにした。笑 (良い子は真似しないでください)
というか、めんどくさ!、と思ったのは確かだけど、正直私もフォルテピアノが弾けたところで何ができるのかよくわからなかったし、私がわからないものを説明しても母がわかるわけがないし、と思っていた。モダンピアノが弾けたら伴奏仕事ができるし、チェンバロが弾けたらコンティヌオ仕事ができる。でもフォルテピアノは???

音楽をやっていると、小さいときからそれはそれは数えられないくらい「将来何になりたい?(何がしたい?)」と聞かれる。私より上手い人は世の中にたくさんいすぎて私はピアニストになれる器じゃない、というのは年長さんからコンクール続きだった小学生〜中学生ゆきちゃんはとっくに理解していたから、記憶の限りピアニストと答えたことはない。
芸高生にもなるとそんなことは聞かれなくなる。将来の選択肢がピアニスト一択みたいな環境。でもずっと普通のピアニストになる気はなかったというか、なれる人材じゃないというのは思い続けていた。
大学に入って以降音楽を仕事にするようになって、特にチェンバロを弾くようになって、アマチュア楽器演奏家/歌い手の方々に出会うようになって、たぶんそこまでメジャーな楽器ではないからこそ、また「将来は何になるの?」と聞かれるようになった。「将来何がしたいの、何になりたいの、何ができるの」というのは答えるのがとっても難しい。その時々にやっていることで未来なんかすぐ変わってくるし、人生における目標なんて、音楽家に限らず、明確に持ち合わせている人は少ないんじゃないかと思う。だから聞かれたときはだいたい「ねえ〜どうするんしょうね〜〜」とはぐらかしている。まぁ強いていえばあなたが今目の前で見ている私の姿が将来でも変わらない私の姿である。

そういうわけで母にフォルテピアノプレゼンをしないまま留学して1年半が経ったこのたび、山梨の古楽コンクールを受けるために一時帰国した。山梨のコンクールというのはとてもおもしろい。鍵盤楽器部門ということになっていて、チェンバロ奏者とフォルテピアノ奏者とまとめて一緒くたに審査される。フォルテピアノでエントリーしてチェンバロでもエントリーする、みたいなことができない代わりに、適切だと思う場合課題曲の一部をチェンバロで弾いていいことになっている。チェンバロでエントリーする場合も同様に、一部をフォルテピアノで弾いていい。本来の古楽というかHistorical informed performanceという考え方からするとそうであるべきだと思うし、そういう選択肢があるコンクールが増えたらいいのになと思う。
そんなこんなでコンクールはフォルテピアノでエントリーし、無事に3位をいただいた。で、終わったあとに夫から「そういえばそろそろお母さんにベルギーではフォルテピアノをやってるって言ったら?ちょうど結果がついてきたことだし」と電話で言われた。確かに。もう後戻りできなくなってからカミングアウトするというのは人を諦めさせるのにちょうど良い。

というわけで母に話したところ「騙された」と言っていたが、軽いプレゼンをしただけで解放された。まあ今さらやめろとかだめとか言っても留学費用は返ってこないのだから仕方ない、とかなんとか言っていたけど、たぶん本音としては心配はしつつも、なにをやっても応援する、というスタンスらしかった。ずっと変わらない母の「信頼して放置する」がまた続いていく。ありがたくもうちょっとだけスネをかじらせていただこうと思う。

3専攻目をしていて思うのは、つくづく私の周りの人たちは私に対して寛容だな、というところである。言っても聞かない、という諦めもあるかもしれないけども、私が「これやります」という決定事項的に話すことを、ダメです、としてくる人がいない。芸大では副科を履修するのに専攻の先生のサインが必要で、門下によっては副科を取らせてもらえないとか、一回に伴奏で抱えられる人数を制限されていたりとか、逆に望んでないのにあらゆるコンクールを受けさせられるとか、バイト禁止とか、とにかく専攻実技が疎かになる可能性があることは認めない、という教授がいると聞く。私はというと、高校も大学も、あわせて7年間ずっと専攻実技の優先順位が一番低かった。まぁこんなんでよく大学に入れて卒業もさせてもらえたもんだと思う。こんなやべえ生徒を7年間も面倒を見てくれたT先生は、私が副科オルガンを取りたいと言ったときは「いいねぇ〜〜」、大学院はチェンバロで受けますと言ったときは「いいねぇ、頑張ってねぇ〜〜」で終わった。T先生と並行して外部ではK先生のレッスンも受けていたけど、これもまた「おもしろそうだね、ゆきにはその道が合うよ」で終わった。随分気楽なもんだ。今になって思えば何をさせてもあまりやる気が見られないこの私が「これやります」と熱意をもって持ってきたものを否定してやる気を削いだらこいつはいよいよ何もやらない…と思っていたかもしれないとかとも思う。笑

そういうわけでフォルテピアノを勉強するべくベルギーに戻りました。すぐに試験期間が始まります。今年は私の試験はないのですが(なんで?)、助演の予定は盛りだくさんでチェンバロもフォルテピアノもたくさん弾くので、ビシビシバシバシ頑張ってきます。という今回のnoteをブルージュ一次予選を聴きながら書きました。いろんな演奏が聴けて楽しい。結果ははて・・・?

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