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書評 李信建著『こどもの神学-神を「こども」として語る』


書評 李信建著『こどもの神学-神を「こども」として語る』
   評者 濱和弘
 
 李信健氏による本書は、すこぶる良書である。本書が取り扱うテーマは、この世界に神はどのような姿で立ち現れ、どのような姿で自らを啓示しているかということから展開する「組織神学(教義学)的課題である。そして、その課題の中心には、現代社会の中で虐げられ抑圧されている者の姿がある。そこにおいて、「こども」は、その虐げられ抑圧されたものの代表であり象徴的存在となっている。それは、「こども」は、通史的に言っても、もっとも弱く虐げられた存在であるという著者の理解に基づく。
 この『こどもの神学 神を「こども」として考える』の著者である李信健氏を評者は直接にも間接的にも知らない。それゆえに、著者について知りうる情報は本書に記されたプロフィールと本書本文の中から読み取れる情報のみであるが、著者である李信健氏は、チュービンゲン大学で神学博士号を取り、ソウル神学大学で組織神学の教鞭をとり、聖潔神学研究所の所長も務めておられるようである。その著書や訳書を見ると、K.バルトやJ.モルトマン等の現代神学に通じていることはうかがい知れるし、聞くところによると韓国国内における一級のモルトマンの紹介者であるようである。実際本文を読むとわかるが、本書は随所でもモルトマンやバルトといった現代神学者との対話が散見される。とりわけモルトマンの神学の影響が強くみられる。
 そこで本書だが、本書は本文全7章と二つの付録からなるが、ここでは本文の7章についてのみ述べ、付録の二つの論文については触れない。
 
第一章 虐待を受けるこどもたち

本書の第一章だが、この第一章で、著者はまずもって、韓国の国内のこどもが置かれている虐待という悲惨な現状を提示する。しかし、それは韓国という国での出来事として傍観することを許さない。なぜなら、我々の国を含み世界中においても起こっている出来事である。そこには、家父長的な支配と抑圧の構造があり、その家父長的な支配と抑圧の構造からの解放が、キリスト教的「救い」の福音の中心にあるものだからである。だからこそ私たちは、この章において、著者が見つめる悲惨さを著者と共に向き合うこと求められる。そして、その悲惨さの中で、著者は「なぜこの世界に苦しみがあるのか」という問いを立て、それを第二章で展開する。その意味で、第二章は本書にとって極めて重要な位置を占めていると言えよう。この第二章をきちんと読み解かなければ、本書を理解することは難しいかもしれない。
 
第二章 虐待を受けているこどもにとって神はどのような存在か。

 著者は悲惨な虐待される子供の現実の中でたてられた「なぜこの世界に苦しみがあるのか」という問いは、本来は、神学的にはいわゆる神議論に至る問題である。しかし、著者は、第二章において著者の立てる問いは神議論でなく、神は何者かを問う。すなわち、「この世界に存在する苦しみや痛み」に対して、神はどのように向き合っているのかを問うのである。そしてその問いの立て方は正しい。神議論は、結局のところ従来の神学においては、回答を提示できない問いだかである。そしてそれは、従来の神学が神の属性を問う、神の本質を語ろうとするからである。しかし、神は、私たち人間がその本質を語ることができない謎なのである。
 だからこそ、私たちは、神が私たちにどのように関わり、どのようなことを求めておられるのかという人間存在を起点にした視点からでしか神を語ることができない。本章における著者の問題の立て方は、まさにそのような問題の立て方である。まただからこそ、子供の虐待という現実の問題から神を問うのである。そしてその問いの中に立ち現れる神は、私たちが思い描く全能の神の姿ではない。それは、弱く、無力な神の姿である。
 この弱く、無力な神を、著者は、現代社会の、いや人間の歴史に通史的に立ち現れる権力と豊かさを求める世界観とは真逆な世界観の中で抗いつつ生き、受難の死を遂げたイエスという人物に見ている。さらには、そのイエスの姿を、もっとも小さきものである虐げられた「こども」の中に見ながら著者は「あなたは本当の神の姿を、そして本当にイエス知っているか」と問いかけている。そこには、我々が思い描く神の姿とは異なる「知られざる神」の姿がある。
「我々は神を知らない」。言葉には現れないが、このテーゼが、この第二章の根底に流れている。そして「我々が神を知らない」のは、従来の神学が、神は全能であり全知の神であって、この世を支配する存在であるということから構築された神学だからである。そして、その神学の主題は、神による「罪とその個々人の『罪の赦し』」にある。
 しかし、現実に著者が向き合っている問題に、罪の赦しを与える全知全能の神は答えを与えることができない。だから従来の神論たて方では、著者の問題意識には答えきれないのである。著者の向き合っている問題は、社会の中で虐げられ苦しみ痛む人間の姿である。それは、「こども」が犯した罪の結果ではない。むしろ人間社会が常に、強者が権力と力で人々、とりわけ弱者を支配し抑圧してきた歴史を持ち、それゆえに私たち人間もまた、権力と力を求めて生きてきたかことによってもたらされたものである。そのような人間の歴史の中に、神が神の力をもって、この世界の力を制し、力をもってこの世界を支配するならば、それは結果として権力と力とが絶対的な是となる。だとすれば、人間はそれまでも歴史どうように、相変わらず力と権力を求め、それによってこの世界を治めようとする構造は変わらない。
 そして、もし神が、神がこのような苦しみと痛みをもたらす社会を是としていないとするならば(そして確実に神は、それを是としない)、この構造を逆転しなければ、私たちは本当に神に近づくことはできないのである。だからこそ、神は最も弱く小さき者である「こども」の中にご自身を表すのであるという著者の論理が、新鮮な新た示唆をもって、この第二章に響き渡っている。しかしなぜ、「こども」なのであろうか。
著者は、本書において一貫して子供を弱く虐げられた者に位置づける。もちろんそこには、弱く虐げられた者を表す象徴的意図がある。しかし、弱く虐げられた者は、単に子供だけではない。例えばフェミニズムの問題もまた、弱く虐げられた者を主題とする問題であり、フェミニズムもまた父権的男性中心主義に対する批判から始まった運動である。つまり、事のはじまりは男女の両性間から出発したものであり、それはいわば知性ある大人の問題なのである。しかし、著者の問題意識は、そのような知性ある大人の問題ではなく、むしろ、知性ある大人社会と社会的には無知な存在とされ、大人に対して抗う力を持たない「こども」との間に起こる支配と抑圧の構造にある。つまり、真の支配と被支配の構造は、最終的に、大人と「こども」関係に現れ出ているというのである。このような著者の視点、発想は実に興味深い。
 そのことを著者は明らかにしつつ、社会的無知ゆえに、神を知るという宗教的・信仰的な問題に分け入っていく。いや、この社会的無知さゆえに、初めて宗教的・信仰的に神を知り、神を信じることができるというのである。そこにあるのは、自然の不思議を驚く「こども」の直観という間性であり、その直観力によって、真に頼るべきものを知る人間本性に属する知でありる。それが、大人の持つ認知能力に基づく知性と対比的に捕らえられているが、しかし、それこそが、神を知るという問題の核心にある問題であろう。つまり、神を知性的に捕らえるならば、神は「知られざる神」となり、「こども」の心で感じる感性によってはじめて神は「知りうる神」となるのである。神学は神を知らなければ、神を叙述できない。それは、「こども」の感性をもって、神を知らなければ真の神学的叙述はできないことを意味する。だからこそ「こども」であり「こどもの神学」なのである。
 
第三章 こどもなるイエス

その弱く・無力で虐待される子供たちの間に立ち現れる神、それは、これまでの神学においては「知られざる神」である。その「知られざる神」神を、神のひとり子なる神として受肉したイエス・キリストを通して、著者は、第三章を通して丁寧に指し示す。それは、神の懐にあるひとり子の神が父なる神を啓示するという聖書の言葉によるならば、確かに可能な事である。
 「知られざる神」、それは「無知」で「無能力」で「力のない神」である。その「知られざる神」が、イエス・キリストの姿を通して虐げられ弱められた「こども」に連帯し、自らを表していく。そこには、「こども」は神の連帯者であり、「こども」こそが、最も神の本質を知る者であるという著者の理解がある。
 「こども」を通して「知られざる神」を「知りうる」神として語り直した著者は著、この第三章において、三章において、イエス・キリストの子供時代に目を向けさせる。しかし、イエス・キリストの子供時代の資料を正典に求めることはできない。ただ、新約聖書外典のみがそれをつたえるのであるが、著者が引用する外典が描き出す幼年期のイエスは、「無知」で「無能」な存在ではない。むしろ、力を有し、能力のある存在である。ただ、その力と能力の使い方において未熟さを表す幼年期なのである。それに対して、正典は幼年期のイエスについては全く黙黙している。しかし、この沈黙が重要なのである。
 著者は、この正典の沈黙の中に真の人として来られたイエス・キリストの姿を見ている。つまり、真の人の姿は、「こども」なのである。福音書が描き出すイエス・キリストは成人した神性を帯びた存在である。しかし、福音書があえて描き出さない「こども」のイエスは、真の人間として沈黙の中に立っている。こうして、神人イエスの姿が描き出されると同時に、真の人間本性は「こども」の中に見いだされるのであり、だからこそ、イエス・キリストは「こども」こそがわたしたち人間の真の模範として提示し、イエス・キリスト自身の中に「こども」の特質をあらわしたと著者は述べるのである。それは、神と人との関係における特質であり、模範である。
 
第四章 こどもなる神

  このように、「こども」の中に、真の人間本性を見いだした著者は、四章において「こども」を通して「知りうる神」となった神を、「こども」の持つ特質の中に現れ出る神として描き出すことを試みる。これはまさに、従来の組織神学的叙述方法に準ずる叙述の仕方であるが、しかし、実際にそのようなことが可能なのであろうか。この問いに、著者は三つの観点、すなわち実存論的観点、キリスト論的観点、三位一体論的観点から、可能であると答える。
 実存論的観点とは、神は父権的男性社会の視点おいては父(男)として、フェミニズムの視点中においては母(母)として自らを表したとすれば、「こども」の視点においては「こども」(友)として自らを表すことができるのではないかという視点であり、その根幹には、神はいかなる形でも自らを表すことができるという神への信頼がある。この点では、従来の神学の枠組みでは語りきれない問題を語ろうとしつつ、従来の神学の枠組みの内で思惟している点は否めない。せっかく「無知」で「無能力」で「力のない」知られざる神を描き出したにもかかわらず、ここでは全能の神が顔出しているからである。この点は問題点として指摘しておきたい。
その上で、次のキリスト論的観点であるが、キリスト論的観点では、神の御子の受肉という出来事に根拠を置く。そして真の人として受肉したイエス・キリストは、神を啓示するひとり子の神なのである。この神人イエス・キリストの中に「こども」の特質が見られることを著者は、前章で述べた。だとすれば、その「こども」の性質に神の属性が現れ出るのはある意味、論理的必然である。それゆえに、著者が本章で描きだす「こどもの顔を持つ神」は、前章のイエス・キリスト自身の中に現れた「こども性」と一致する。
それを著者は三位一体論という教義学的観点からさらに解きほどていく。
 その三位一体的観点であるが、三位一体の神においては、父と子と聖霊といった三つの位格の神が、それぞれ個別の独立し、その働きを担うとしても、この三つの位格に、神性が相互内在しているという神学的理解である。三位一体の神は、内在論的には、その本質において一つに一致している。この理解に立って、神の御子であるイエス。キリストの中にある「こども」の性質に神の属性が現れるということが可能になるのであるが、とりわけ「遊ぶ神」として、取りあげた内容は、全知全能の神自身が自らを自己制限することで開かれる世界を描き出しつつ、厳格な規範と規律を求める厳しい神のイメージから、喜びの中に生きる神のイメージを示すが、それこそがまさに「知られざる神」の顔であるとも言えよう。
 また聖霊論に関する「こどもの聖霊体験」において、著者は聖霊の働きが人間を神との交わりに導き入れ、また人間を教え働くものであると述べる。この聖霊論に関わる部分においては、著者の記述は内在論的三位一体論から、経綸的三位一体論にシフトしている。その経綸的三位一体論の中で、この神との交わりは新生による新しく稀る経験であり、新しく生まれたものとして、教え導く働きを聖霊が担うのである。つまり、新生とは、自分が神の前に「こども」であることを認識させ、より成熟したキリスト者へと導くのである。もっとも、このような働きは「こども」としての働きというよりは親としての要素である。著者は、そのような聖霊の親としての働きを示しつつ、聖霊がイエス・キリストの上鳩のように降ったという言葉をもとにして、旗の姿に弱く柔和な姿を見いだし、イエス・キリストが、自らを低くし、弱く、苦難の道を歩むネシアの生き方に導かれたことの中に、そ「こども」性を見ているのである。
 
第五章 神のかたちと「こども」

 評者の個人的な神学的視座と傾向から言わせてもらうならば、この第五章が本書において、最も重要な問題を扱っていると言うことが出来よう。というのも著者は、神の「こども」性を示しながら、著者は、この第五章で人間が「神のかたち」であることにする言及するからである。そして評者は、この人間が「神のかたち」に造られているということ、そこに宗教としてのキリスト教の意義と意味がある考えているのである。
 そこで、その「神のかたち」であるが、著者は、この「神のかたち」に対するこれまでの理解を丁寧に示しつつ、これまでの理解が、本質論的に「神のかたち」を把握する傾向性にあるか、あるいは機能論的に把握する傾向性があることを示しつつ、それは人間を霊肉に分断し理解することであると批判する。そしてもっと人間を総体的に捕らえるべきであると主張するのである。この著者の主張は、現代の人間理解のあり方に即しており、極めて正しい。それゆえに 当然、「神のかたち」もまた統体的に捕らえられるものであると主張されるのであるが、この場合、「神のかたち」とは、その本質においてはマルティン・ブーバーの「我―汝」に見られる関係性であり、神と人との間の作用として信頼や慈しみの心や喜びといったものとなって現れ出るとされる。この信頼や慈しみの心や喜びと言ったものの純粋な表れが「こども」の中に見られるというのである。
 同時に、「神のかたち」は、機能論的であるとして働く。神の代理者として、神のみこころに沿って、この世界を統治するという働きである。その際、同時に、大人の「神のかたち」と「こども」の「神のかたち」との間にある問題が提起される。それはその両者の異同と優劣の問題である。著者は認めるように「神のかたち」は、この世界に対して、神の代理者として、神のみこころの沿って治めるという機能に着目するとき、その点においては、能力的にいって大人の方が優れているということを認める。
 しかし、この問題をどのように乗る超えるかにについて、著者は明確に語っていないが、本書全体を読み、また各書の出てくる語句を読み込むならば、その輪郭おそらくは見えてくるであろう。すなわち著者は、それは「神のかたち」の成長という視点で考えているのであろうと思われる。つまり、「こども」が持つある「神のかたち」が、成長し成熟していくことで「成熟したキリスト者」になっていくということが見据えられているのであろう。この点が、評者が、この第五章が極めて重要であるという所以である。


第六章 パラダイスへのヴィジョン

 このように著者は、「こども」に着目し「こどもの神学」を展開してきた、当然のことであるが、その論の終着点でとしてしての終末論的視点は、我々が「こども」のようになることである。なぜならばイエス・キリストは、神の国は「こども」のようなものの国であり、誰もが「こども」のようでなければ神の国に入れないからである。
 著者が描く神の国のイメージは、「完全、純潔、豊穣、自由、平和、楽しみ、不滅」といったものであり、それは終末論的未来の希望である。そして、著者は、それらの神の国のイメージは、家父長的父権社会の権力構造を打破しところにあるものであると捉えている。その意味で著者は、終末論的希望である神の国を、家父長的父権社会の権力構造から解放された「こども」の国として描いていると言えよう。「弱く」、「力のない」存在だからこそ、神に信頼し、神の愛と恵みに頼って生きるからであり、そのような信頼とより頼みが成熟した関係として神と人との間に構築されることがあって始めて神の愛と恵みが支配する神の国が築き上げられるからである。その意味では、神の国は、「人間の国」でもあるかもしれない。それは逆説的に言えば、今のこの時代は「人間の国」ではないということであり、その「人間の国」ではない現実が、本書一章で提示した悲惨な現状へと還流するのである。
 
 第七章 こどもらしい霊性

 このように「こどもの神学」を展開してきた著者は、最後の章で、神の子として産まれたキリスト者が、神の子として産まれたのであるから、神の前に「こども」として生きることを求めてくる。それを、筆者は「こどもの霊性」と呼ぶ。霊性とは、神に向き合う姿勢であり、態度であり、接点である。
 著者は、その「こどもの霊性」に入る前に、まず「こども」となるということを「新生」という視点から語る。一般にプロテスタント神学においては、救われるということを義認として捕らえ、法的概念で救済の問題を概念化するが、著者はそれを、新しく生まれるという「新生」という概念で言葉化する。評者は、著者の信仰的背景がよくわからないから推測するしかないのであるが、本文の記述を読みつつ、また著者がソウル神学大学で教鞭を取っているという事実から推測するならば、おそらく著者は、日本で言うホーリネス系の信仰をバックグランドに持っているのであろう。「新生」という言葉で救済の業を概念化する傾向は、プロテスタントの教会においては、ウェスレアン・アルミニアンの系統であり、日本においてはホーリネス系の教会の伝統だからである。この「新生」という点を、著者はヨハネ福音書のニコデモの記事にあるギリシャ語ανωθενの二つの字義から、上から生まれることと新しく生まれることとして述べて行く。
 このανωθενは、関係に変化をもたらすが、本書の優れているところは、この関係の変化を単に神と人との間の変化だけに留めるのではなく、人と人との関係の変化にまで広げて捉えている点である。従来のプロテスタントの神学における救済論は、どちらかと言えば個人の救いに収斂してきた。そのため、「この世」という世界の救済を見落す傾向にあったが、本書は、その点を見落とすことなく述べている。この点は評価すべきである。
 このような新生という救済概念をもって、著者は「こどもの霊性」について語り、こどもの霊性について学ぶ必要性を語っていくのである。
 
 総括
以上、本書の各章を概観してきたが、評者の理解が正しいとするならば、著者は、弱く苦しめられている者に寄り添う、慰め憐れむ神を描くことを主たる目的とはしていない。むしろそれは、目的に至るための手段であり、その結果としてそこに立ち現れる神の姿である。著者が真に目的としているのは、私たちキリスト者が、現在社会の中で、いかに生きてくかを、我々に問ところにある。そしてその帰結は、私たちキリスト者が「こども」の特性の中に見いだすことができる「成熟したキリスト者」の成長した「神のかたち」の完成を目指す生き方を生きることであると言えよう。
 このような評者の理解に基づき、評者は本書の本書のほとんどの内容において同意し評価する。もっとも、あまりにも「こども」という点に、焦点を集中してしまっているため、誤解を招くのではないかと危惧する点もないわけではない。それは、子供であるということと「こども」となるということは違うということである。本書のタイトルには(原語にあるかどうかは定かではないが少なくとも邦語訳にはある)副題として『神を「こども」として語る』とある。それは、あくまでも「こども」として語るのであって、神が子供であるというわけではない。同様に、わたしたちも「こども」になるのであって子供であるということではない。本書における「こども」はあくまでも、弱く虐げられた者を象徴的に指し示す指であり、神学の起点である。子供であることと「こども」となることとは違う。大人(成熟した存在)でありつつ、「こども(弱く、虐げ下られた者)」と成るということが大切なのであって、大人でありつつ「こども」となるという二重性の中で生きることが大切であり、求められていることでもある。つまり、本書が最終的に帰結する「こども」とは成熟した大人でもあるのだ。それゆえ、「こども」という言葉にあまりにも集中してしまうと、本書が持つ神学的深さが見落とされてしまう危険性を危惧するのである。

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