福音主義と福音派。その用語使用の正当性をめぐって

 たまたま、書棚に目をやると山口勝政氏の『福音主義聖書論』という本のタイトルが目に入った。既に読んだ本であり、その内容は福音主義の聖書論は無誤性に立つ聖書信仰であるという主張を展開するものである。その背景としては近年、サンダースやN.T.ライト等によるいわゆるNPP(New Perspactive of Paul)による聖書解釈方法にともなうパウロ理解の変化や、藤本満氏によって出版されされた『聖書信仰』が、「聖書信仰」とは本来、歴史神学的にはシカゴ声明に現わされた無誤性にたつ狭義の聖書信仰ではなく、もっと幅広いものであるという主張がなされたことにある。この『福音主義聖書論』は、主として藤本氏の主張に対する反論として書かれていることであることはまず間違いがない。そのような背景と内容であるということを理解した上で話だが、その上であらためてこの書タイトルを見返してみると、これってルター派の人たちに対してとっても失礼なタイトルなんじゃないかなって思わざるを得ないのである。というのも、「福音主義」という言葉は、本来はルター派の神学思想を指す言葉だからである。
 だから、私自身、自分の立つ信仰の立場を福音派とは言うが、けっして福音主義とは言わない。私自身はルター派ではないし、むしろエラスムスの研究をし、エラスムスにシンパシーを感じる私はルター派とは一線を画するところにいる。それでも、ルターにも、またルター派に対しても尊敬の念も尊重する思いもあるので、ルター派の神学思想を表す「福音主義」という言葉を、自分自身に、また山口氏がその言葉を用いている立場に対して意識的に福音主義と呼ばないようにしている。

 このような内容の私の意見に対して二人の方から応答があった。ひとつは

「ドイツ語で福音主義は、広くプロテスタントという意味と思いますが、違うのでしょうか」。

というものでありもうひとつは

「宗教改革時代、ルッター派が福音主義を呼ばれたのは、彼らの、聖書観、聖書に対する姿勢の故であって、この呼称は、ルッター派の独占物ではありませんでしょう。同じ聖書観、姿勢に立つどの教会(教派・教団)にも当てはまることと判断しています」。

というものである。

 お二人とも信仰の大先輩の御言葉ではあり、後者の方は牧師としても大先輩である。そして、お二人が語ることが理解できないわけではない。しかし、たとえそうであっても、それでもなお、自分自身が福音主義であるということに抵抗を感じている。というのも、繰り返しになるが、宗教改革期において、福音主義とはまぎれもなくルター派のことを指す言葉だったからである。のちに、今日の改革派も含んでドイツにおけるいわゆるプロテスタントを広義の意味で福音主義と呼ぶようになった経緯もあるので、先の

「ドイツ語で福音主義は、広くプロテスタントという意味と思いますが、違うのでしょうか。」

と言う応答はあながち間違ってはいない。ところが、問題はそう簡単ではない。と言うのも実際に日本で『福音主義』と言う場合、けっして広義のプロテスタントを指す言葉ではない。そのことは、「ドイツ語で福音主義は、広くプロテスタントという意味と思いますが、違うのでしょうか。」と言われた方も十分に理解しておられるようで、さらに「英語の福音主義は、自由主義神学に立たないプロテスタントの意味だと思ってます。文脈で使い分けてます」と言う応答を下さった。

実は、この2度目の応答が肝である。つまり、英語の福音主義、とりわけアメリカにおいてのEvangericalizumと言う語は、宗教改革期、とりわけ宗教改革第一世代においてカトリック教会とルター派の対立構造の中でに向けてevangelischenと言う言葉が用いられたのとは異なる意味と用法でつかわれているのである。宗教改革期においては、その対立構造の中心にあったのは95ヶ条の提題であり、贖宥の問題である。神学的用語を持ちているならば信仰義認論がカトリックとプロテスタントの対立の争点にあった。このようにルターの信仰義認論を巡る対立構造の中で、Evangelischenと言う言葉が用いられたからこそ、Evangelischenと言う言葉は、信仰義認論に立つ立場に関して包括的に、すなわち後に広義において改革派を含めて用いることが可能になったと言える。

 ところが、アメリカにおけるEvangericalizumは、プロテスタント教会内の自由主義(リベラリズム)と保守主義、あるいはファンダメンタリズムとの対立構造の中で保守主義、あるいはフンダメンタリストに向けて福音主義と訳されるEvangericalizumと言う言葉を冠して用いるのである。このとき、このリベラルとEvangericalizumである「福音主義」を分ける争点は、聖書論である。すなわち、聖書は人の言葉による神証言であるとするか、もしくはそのような人の言葉が、聖霊の働きによって実存的に神の言葉になるとするリベラリズムと、「聖書は神の言葉である」という保守主義、あるいはファンダメンタリズムとの対立の中で、保守主義、あるいはファンダメンタリズムに対して福音主義と呼ぶのである。

 このことは、先の大先輩の牧師の方の

 「宗教改革時代、ルッター派が福音主義を呼ばれたのは、彼らの、聖書観、聖書に対する姿勢の故であって、この呼称は、ルッター派の独占物ではありませんでしょう。同じ聖書観、姿勢に立つどの教会(教派・教団)にも当てはまることと判断しています」。

と言う言葉に見事に表れている。ここでは、宗教改革における争点の誤認が見られる。というか、論点が掏らされている。宗教改革における争点の中心はあくまでも贖宥をめぐってもルターの信仰義認論にあるのであり、聖書主義も万民祭司性も、位置づけとしては、この争点を闘う際の理論武装と政治的戦略のためのInstrumentである。それが、「ルッター派が福音主義を呼ばれたのは、彼らの、聖書観、聖書に対する姿勢の故であって」という理解においては、聖書論に掏らされシフトしてしまっており、宗教改革は聖書論を巡って戦われたものであるかのような理解となっている。これは、アメリカにおけるEvangericalizumである「福音主義」から引き出された事実誤認である。95ヶ条の提題は聖書論に対して語られているのではない。あくまでも、贖宥を巡る教理的な問題に対する議論である。そこに聖書が関わってくるのは、ルターが贖宥という教理(実際にはまだ教理決定はされていなかったが)に疑問を持つきっかけとなった詩篇31篇1節の神の義の解釈の問題から始まった神の義に対する聖書解釈の問題としてかかわってくるという面と、その解釈から引き出してきた信仰義認という論理を何によって権威づけるかと言う問題に関わって聖書主義が問題になるのである。つまり聖書主義は、聖書の解釈権の問題であって、聖書が神の言葉であるか否かといった「聖書信仰」を巡るリベラリズムとEvangericalizumである「福音主義」との論争とは全く性質が異なる別の問題であって混同してはならない。繰り返すが「聖書主義」と「聖書信仰」とは、非常に近く結びついやすい性質のものであるが、その本来の意図と性質においては異なるものである。

その上で、聖書の神言性(聖書は神の言葉であるか否か)をめぐる「聖書信仰」に対する論争からEvangericalizumである「福音主義」と言う概念をもって「福音主義」を定義すると、宗教改革におけるEvangelischenである「福音主義」は、もはや福音主義ではなくなる。そしてリベラルと言う範疇に属するメインラインに属するルター派は、Evangelischenであったのにもかかわらず、もはや「福音主義」から排除されてしまう。ここにおいて、EvangelischenとEvangericalizumとは、もはや非連続、非対応の言葉となってしまっている。しかし、いずれも言語的には「福音主義」を意味する言葉なのである。私が日本と言う文脈(そしてアメリカと言う文脈)において「福音主義」という言葉に抵抗感を感じるのは、まさにこの点にある。それは、まさに「軒先かして母屋を取られた」的な感じなのだ。そういった意味では、やはり、「福音主義」と言う言葉は、その源泉であるEvangelischenに帰すものであり、だとすれば、「福音主義」と言う用語は、ルター派の方々がEvangelischenであることを拒否していない限り、「福音主義」と言う言葉はルター派に向けられるべきであろうし、広義の意味で汲み取るにしても、それはせいぜい信仰義認論の問題としてくくられるプロテスタントの立場と捉えるべきではないだろうか。そういったわけで『福音主義聖書論』の著者の山口氏が、そのタイトルのもとで、自らの立場ばこそが福音主義の聖書論の王道であるかのように捉え、そのうえで、藤本氏の主張を批判しているのだが、この段にいたって「福音主義」と言う言葉は、聖書の神言性を巡る用語からさらに細分されて「聖書は誤りない神の言葉である」という「聖書信仰」の「誤りない」と言う言葉が無誤性に立って理解するか無謬性に立って理解するかと言う問題にまで微細化され、無誤性のみが「福音主義」であるという主張に至っている。そのため、それって単に藤本氏への批判だけに留まらず、福音主義と言う言葉が極めて歪曲化され、もともとEvangelischenであり、かつメインラインにあるリベラルな立場にたつルター派の方々に対して失礼なんじゃないかなと思った次第である。山口氏自身がそのように思われ得れているかどうかは定かではないが、少なくともアメリカのEvangericalizumを土台とする用語としての「福音主義」の血を引く私自身ではあるが、山口氏のようなの学識はないながらも、ちょっとだけ歴史神学の分野をかじった者として、そのように思ったのである。

 しかし、現実には、アメリカのEvangericalizumに元ずく「福音主義」と言う概念が、日本においても、もはや引き返しができないかないほどに歴史を刻み認知されてしまっている。だからこそ、宗教改革の始祖であるルター派の方々への敬意と尊敬の念をもって、レトリカルな方法ではあるが、せめて受容可能な緩やかな変化として日本においては福音主義ではなく福音派、また福音派の神学と呼び、福音主義と言う言葉は、宗教改革の始祖であるルター派の方々へ向けるべきではなかろうかと思うのである。

 そんなわけで、私は自分自身の信仰の立場を福音派、それも日本の福音派と呼んでいる。むしろ、「福音主義」とは無誤性であるという立場の人にとっては「福音主義」ではない「福音派」だと言うのは、ありがたいことなのかもしれない。奴は「福音主義ではない」と言う名目ができるからだ。加えてあえて私が日本の福音派というのは、同じ福音派でもアメリカの福音派と日本の福音派とは重なりあう部分も少なからずあり、交わりも深いが、それでもなお必ずしも同じではなく、アメリカの福音派=日本の福音派という同定を避けるためである。

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