テオフィル・ド・ジロー著『子供のいないキリストー初期キリスト教における反出生主義』(2)第一章

The Childfree Christ
―Antinatalism in Early Christianity-
By Théophile de Giraud

第一章 生きることへの嫌悪、死への称賛、そして旧約聖書における「生まれる」ことへの拒否

 旧約聖書でさえ、神が人類に与えられた有名な創世記1章28節、および9章1節にある「産めよ、増えよ、地に満ちよ」を指し止める命令の徴(sign)のもとに置かれているにもかかわらず、反出生主というの印章によって記された幾分の調和しない諸主張は、彼らの自身の主張を困難にした。

ヨブ記に記されたヨブの悲劇的な歴史はよく知られている。彼は神と悪魔(サタン)の間で交わされたヨブをめぐる議論の犠牲になった。それは、悪魔によってあたえられた苦難と苦悩の目的は、この信仰者が神を信じる信仰を拒否させるためである。もし彼が神を信じる信仰を放棄なかったとすれば、どうして、ヨブは、ヨブ記13章1節から13節にあるように彼が命を受け取ったという事実に対して、以下に示すような抗議を現したのであろうか。

   この後、ヨブは口を開いて、自分の生まれた日を呪った。ヨブは言った。私の生まれた日は消えうせよ。男の子を身ごもったと告げられた夜も(1-2節)、・・・その夜は不妊となり、喜びの声も上がるな(7節)・・・なぜ、私は胎の中で死ななかったのか。腹から出て、息絶えなかったのか(11節)。・・・それさえなければ、今頃、私は横たわって憩い、眠って休息を得ていたであろうに。

 もし、ヨブが様々な苦痛と彼の友人たちから発せられた侮辱的な言葉[1]に圧倒されなかったならば、ヨブはヨブの個人の問題である彼の出生を悲嘆するということなどなかったであろう。コヘレトの言葉(伝道者の書)を記した聖書記者は、すべての事柄に空しさがあることを宣言するによって、また民衆が苦しめられる不正が加えられるといったことを深く考えることによって、誰しもにとって望ましい運命は死であるという思想を、あるいはさらに生まれない方がより良いといった思想を広めている。

私は再び太陽の下、空である様を目にした。一人の男がいた。孤独で、息子も兄弟もない。彼の労苦に果てはなく、彼の目は富に満足しない。「誰のために私は労苦し、私自身の幸せを失わなければならないのか。」これもまた空であり、つらい務めである。一人より二人のほうが幸せだ。共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。たとえ一人が倒れても、もう一人がその友を起こしてくれる。一人は不幸だ。倒れても起こしてくれる友がいない。また、二人で寝れば暖かいが、一人ではどうして暖まれよう。たとえ一人が襲われても二人でこれに立ち向かう。三つ編みの糸はたやすくは切れない。貧しくても知恵ある少年のほうが、もはや忠告を聞き入れない。老いた愚かな王よりまさる。彼は王国に貧しく生まれ、牢から出て王となった。太陽の下、生ける者すべてが代わって立ったこの少年に味方するのを私は見た。あらゆる民に果てはない。彼らの前にいた者はすべて後の時代の人々に喜ばれない。これもまた空であり、風を追うようなことである。神殿に行くときには、足に気をつけなさい。聞き従おうと神殿に近づくほうが愚かな者がいけにえを献げるよりもよい。彼らは知らずに悪事に染まるからだ(コヘレトの言葉4章1-3節)。名声は良質の香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる(コヘレト7章1節)。

 ベン・シラは、シラの知恵(以下シラ書)の一部分で、「人間から動物に至るまで、すべての肉なるものに」(シラ書40章8-9節[2])に対して、不幸な人に対する歓迎される救済として迎えられる死以前(シラ書41章2節[3])の生まれた時から死ぬ時までの(シラ書40章1節[4])苦しみと不幸な出来事のありきたりさ(苦しみや不幸が日常茶飯事であること)を断言する。
 そのことが、一見したところ異常とも思われる正しい人の時期早々の死に反映されているが、ソロモンの知恵(旧約聖書外典知恵の書)では、次のような真実が主張されている。すなわち、正しい人の時期早々の死は、神からの贈り物であると言う事実である。そこにおいては、人の一般的な寿命よりも早く訪れた死は、神によって意図された特権であった。それは邪悪さのただ中から、急いで出ていくことに他ならなかったからである。それは、知恵の書4章7節から17節にある次の言葉のごとしである。

 正しい人は若死にしても憩いのうちに過ごすこととなる。誉れある老年は、長い年月を経ることによって得られるのでもなく、年の数によって測られるものでもないからである。人にとって思慮深さこそが白髪であり汚れのない生涯こそ長寿である。彼は神の御心に適う者となり、愛され、罪人の中で暮らしていたときに他の場所へと移された。悪が彼の聡明さを変えてしまわないように、偽りが彼の魂を欺かないように、彼はこの世から取り去られた。劣悪さの幻惑は善を曇らせ、欲望の渦は善良な魂を変えてしまうからである。彼は僅かの間に完成され、長い歳月を満たした。彼の魂は主の御心に適った。それゆえに、主は急いで彼を悪の中から取り去られたのである。人々はこれを見ても理解せず、心に留めようともしなかった。〔すなわち、主に選ばれた者たちには、恵みと憐れみがあり、主の聖なる者たちには、主の訪れがあるということを。〕生の労苦を終えた正しい人は生き続けている不敬虔な者たちを断罪し、速やかに完成された若年は、義の者のよわい長き老年を断罪する。彼rhらは知恵ある者の最期を見ても、その者のために主がいかなる計らいをなされたかに気付かず、なぜ主が彼を安全な場所に移されたかを理解しない。

 バビロニア帝国によってエルサレムが破壊されるのを目撃した預言者エレミヤは、神の人として神から独身者であり、子供を設けないことを命じられたのちにその決意をしている。注目すべきことに、聖書テキストは、悲劇的状況を繰り返すことよりも、すべての人がエレミヤ書16章1節から4節にしるされている知恵に満ちた助言を追い求めるように示唆する。そのエレミヤ書の言葉とは次のようなものである。

主の言葉が私に臨んだ。あなたはこの場所で妻をめとってはならない。また、息子や娘を得てはならない。主は、この場所で生まれる息子、娘について、またこの地で彼らを産む母や、彼らをもうける父について、こう言われる。彼らは死に至る病によって死ぬ。嘆く者も、葬る者もなく、地の面で肥やしとなる。彼らは剣と飢饉によって滅びる。その死体は、空の鳥と地の獣の餌食となる。

 「苦しみに満ち溢れている」。エレミヤは、この言葉をヨブと同じように用いている。そして「苦しみに満ち溢れている」と言う事態は、エレミヤがこの世に生まれてきたと言うことに対する最終的な暴力を伴った反乱となるであろう。エレミヤ書20章14節から18節を見てみよう。そこには次のように記されている。

呪われよ、私の生まれた日は。母が私を産んだ日は祝福されてはならない。呪われよ、私の父に「あなたに男の子が生まれた」と言って伝え。彼を大いに喜ばせた人は。その人は、主に覆されて慰めも受けない町のようになれ。彼は、朝には叫び声を真昼には鬨の声を聞くであろう。その日に、私を胎内で死なせず、母を私の墓とせず、その胎をいつまでも身ごもったままにしておかなかったからである。なぜ、私は胎から出て、労苦と悲しみに遭い、生涯を恥の中に終えなければならないのか。

 もし仮に、生まれたことへの嫌悪が、旧約聖書において明確かつ繰り返し断言されているならば、それが、神(ヤーウェ)自身が人とこの地上に生きるすべての生き物を創造したことを後悔した創世記6章5節から13節にある出来事[5]を想起させる価値観である。この明晰さの健全な瞬間から生じたノアの洪水後、悲観主義に堅く立つ神は、「人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ」(創世記8章21節)と告白するであろう。
 このことから、人間の持つ人間本性は矯正不能なものであり、出産をしないことでしか救われないのであると結論付けられるのである。そしてこのことは、キルケゴール(Kiekegaad)[6]が、まさにたどり着くであろう結論である。なぜならば、キルケゴールは以下のように述べているからである。

神は「人間」の悪事を知っておられるので、人の性質を変容させること志す。こうして、神の目指すところは、すべての人の上に及ぶ、そして極めて重要な点である貞操である。異質性(heterogeneity)、それは神が望んでおられるものである。この神が望んでおられる異質性は、この世界に対する異質性である。すばわち、喜ばしい生の代わりに死滅することを求め、結婚し子供を設けることの代わりに貞操を求めること、それが、神が世界に対して求めておられる異質性なのである[i]。

 父なる神は、人類に子を産みだすものとしたことを後悔し続けた。御子イエス・キリストがこの種族それは、ルカによる福音書3章7節で「毒蛇の子ら」と言われている「悪魔を父とする」(ヨハネによる福音書8章44節[7])種族であるが、その種族に救済論的なまた終末論的な「産む」と言う行為における決定的な絶滅以前に再生産をやめると言うことの学術上の基礎を教えるために降誕しなければならなかったと言うことは、極めて理に適っている。そしてそれが新約聖書の目的であると言えるであろう。



[1] ヨブ記には、全身に腫物ができ病に苦しむヨブに、彼に友人たちがやってきて、口々にヨブの苦しみはヨブが犯した罪を罰するためのものであるので、神の前に正しいもとならなければならないと教え諭した出来事が記されている。友人エリファズの発言は4章、5章に、同じく友人ビルダテの発言は8章に、またゾファルの発言は11章にしるされている、

[2] 旧約聖書続編シラ書40章8-9節「人間から動物に至るまで、すべての肉なるものには、―罪人にはその七倍だが―、死と流血、争いと剣災難と飢饉、そして破滅と鞭打ちが付き物だ」。

[3] シラ書41章 2節「ああ死よ、お前の宣告はなんと喜ばしいことか。困窮し、力も衰えた者にとって。老いさらばえ、何事にも気苦労が絶えず頑固となり、忍耐力を失った者にとっては」。

[4] シラ書40章1節「大きな労苦は主が定めた万人の運命。アダムの子孫の上には、母の胎を出た日から万物の母なる大地に帰る日まで、重い軛がのしかかっている」。

[5] 創世記主は6章5節から13節「地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。主は言われた。「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」だが、ノアは主の目に適う者であった。ノアの歴史は次のとおりである。その時代の中で、ノアは正しく、かつ全き人であった。神と共に歩んだのがノアであった。ノアは三人の息子、セムとハムとヤフェトをもうけた。だが、地は神の前に腐敗していた。地は暴虐に満ちていた。神が地を見られると、確かに地は腐敗していた。すべての肉なる者が、地上でその道を腐敗させたからである。神はノアに言われた。「すべての肉なるものの終わりが、私の前に来ている。彼らのゆえに地は暴虐で満ちているからである。今こそ、私は地と共に彼らを滅ぼす」。

[6] セーレン・オービエ・キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard)、1813年5月5日 - 1855年11月11日、デンマークの哲学者であり、実存主義の父と言われる。

[7] ヨハネによる福音書8章 44節、「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである」。


[i] キルケゴール(Kierkegaard), 1961, p.266, 本文中の訳文は英訳著者がフランス語からを訳 者が重訳したもの。原書の著者によるフランス語からの英訳は、God who knows the roguery of “man” [aims] to transform his character. Thus, He aims, above all, for the cardinal point: celibacy. Heterogeneity, that is God want, heterogeneity, to this world. To die to the world instead of the joy of living: celibacy instead of marriage and childbirth.

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