浦島子伝説

✡はじめに

浦島太郎と浦島子は似て非なる人物のようで、浦島太郎はおとぎ話の世界の人物であり、浦島子は浦島太郎の原話の人物かは解らないが、実話かとも思われ、内容は少しずつ違うが古代文献の『日本書紀』『万葉集』『丹後国風土記逸文』にも類話がある。まず、その決定的な違いは名前にある。「浦島太郎」という名前は中世の物語から登場し、それ以前の文献では「浦島子」の伝説として記録される、と言う。ハッキリ言うと浦島太郎というのは子女向けのおとぎ話の人名であり、浦島子は社会的な地位(氏やカバネがある人)を有する人物の名前ではなかったか。行き先も大きく違い、浦島太郎は龍宮へ行き、浦島子は「蓬莱(とこよのくに)」へ行ったという。それ故、浦島子伝説は、異郷淹留(えんりゅう)譚(仙境淹留譚)に分類される、と言う。換言するならば、浦島太郎はおとぎ話の夢の国へ行ったのであり、浦島子は異国(日本列島の別の地域とか、朝鮮半島など)へ行ったと言うことになるのだろう。一応、ここでは主人公が浦島子と言われ、何やら実在性もありそうな浦島子伝説を取り上げてみたいと思う。

✡浦島子の名前の意味

浦島子の伝承地は丹後半島にあり、現在の京都府与謝郡伊根町で、その名も浦嶋神社(宇良神社とも言う)と言い、主祭神を浦嶋子(浦島太郎)とする。ただ、創祀年代が平安時代、淳和天皇の825年(天長2年)7月22日と言い、伝説と少しかけ離れているのは残念。浦嶋子を筒川大明神として祀ったという。神社のあるあたりは筒川と言う川が流れており、筒川という地名があったようだ。川にさえぎられた地域という意味か。あるいは、住吉三神は筒男三神と言われこの場合の筒は海と解するより川と思われるので筒とは川のことか。あまり浦島子という名前とは関係がないようである。そこで「浦島子」の名前を分解してみると、
浦と島子に分かれ、「浦」は地名で、「島子」は当時のカバネかと思われる。
浦島子の出身地である、現在の京都府与謝郡伊根町で「浦」の付く地名は、

*京都府与謝郡伊根町の「浦」地名
大字日出字大浦
大字平田字浦田
大字平田字大浦
大字平田字大浦坂
大字亀島字大浦
大字亀島字浦谷
大字亀島字大浦道ノ下
大字畑谷字大タモノ浦
大字本庄浜字浦島
大字野室字浦ヶ峯
ほどあり、結構多い方ではないかと思われる。海岸に沿った町なので「そんなこと当然だ」と言われればそれまでだが、浦島伝説ができた頃はまだそんなに大きな町ではなかったと思われ、それを考慮すると「浦」という地名は現在の市町村単位の広域地名ではなかったかと思われる。即ち、伊根町の古層の地名は「浦(うら)」で、その後多くの人が住み始め地名も多種多様になり「浦」地名はその中に埋没したのではないか。
「島子」の意味は当時のカバネで、出典は『魏志倭人伝』の「東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸」かと思われ、「官日兕馬觚」の「兕馬觚」は「しまこ」と発音したのではないか。そうだとしたら、浦島子は邪馬台国から派遣された大国「浦国 (うらこく)」の筆頭官だったか。

✡浦島子が出現した背景

兵庫県豊岡市の袴狭〔はかざ〕遺跡から出土した木製品に描かれていた線刻画の船団は、おそらく軍船で、倭・高句麗戦争(わ・こうくりせんそう)の後始末のため応神天皇が結成した軍団ではなかったか。従って、船団の画は大げさに言うと倭国海軍の演習の様子か。当時は倭国軍は朝鮮半島から引き上げてきたものの好太王の追討の不安もあり、山陽道には応神天皇自身が吉備国へ出向き、「『日本書紀』応神天皇22年9月6日条では、天皇が吉備の葉田葦守宮(岡山市足守付近か)に行幸した際、御友別は兄弟子孫を膳夫として奉仕させた。その功により、天皇は吉備国を割いて御友別子孫に分封した」と言うが、こんなのはいい加減な話(大伴氏は会議に参加できなかったか、あるいは、会議の内容が高度な機密事項だったので内容はオミットし、その後の宴会の話だけを記録したか)で応神天皇と御友別は完璧な防御態勢を築いたのではないか。その後、応神天皇は現在の兵庫県明石市の豪族阿曇氏と会談、摂津国では大伴武以と最後の砦を決定し万全の上にも万全を期したのではないか。
一方、山陰道の方は応神天皇としては好太王が攻めてくる可能性は低いと見ていたようだが、それでも抜かりがあってはならぬとばかりに、大伴氏を司令官にして防衛体制を敷いたのではないか。この場合の大伴司令官は大伴武以ではなく武以の弟か大伴氏の重臣であろう。大伴氏はまず人材を集めることが肝心と近隣の指導者に徴兵令を発したのではないか。浦島子もその召集に応じ当時の倭国の山陰方面における中核都市である現在の兵庫県豊岡市にある軍隊に入営したのではないか。大伴氏が司令官というのは、何か豊岡市に大伴という苗字が多く、「名字由来net」では、大伴さんの比率が多い地域として、兵庫県豊岡市 0.308%が第一位となっており、また、「日本姓氏語源辞典」では、大伴さんの分布比率(市区町村)で、1 兵庫県 豊岡市(0.192%)とあり、これまた第一位になっている。豊岡市と大伴氏はあまり縁のない組み合わせであり、あるとしたら大伴氏が権勢を誇った「ワケ王朝」までさか登らなければならない。また、当時の伊根町は有力な地域だったらしく浦島子は畿内の方から派遣された浦村の村長だったのかも知れない。
入営後の浦島子の様子は全くわからないが、他の応召した人たちとともに軍事訓練を行っていたのか。ただ、「浦島物語」には亀が出てくるが、「亀の恩返し(報恩)と言うモチーフを取るようになったのも『御伽草子』以降のこと」と言い、新しく追加された概念かも知れないが、昔の大学の先生には亀とは女性の名で、あまり高貴な人の名ではないという。亀が人間の女性から動物の亀に代わったのは子供に理解させるおとぎ話になってからか。亀というのが女性とするとざっくばらんに言って浦島子の現地妻と言うことになるのだろうが、大伴司令官もそんな「おままごと」の様なことをされて納得したのかどうか。
もっとも、この私見の推測は遺跡とは大いに異なる。当時の伊根町はあまり発展した地域ではないらしく、遺跡の古いものとしては「伊根町大字亀島小字中崎で、五世紀代のものと推定される組合せ式石棺が発見され、「カルビ古墳」と名づけられた。」とあり、石棺のおおよその概要は「規模は内法(うちのり)で全長165cm、幅は頭部幅で46cm、脚部幅で23cmであり、墓石も含めて全体の形体が船に似ている、と言い、主な遺物は人骨」と言う。悩ましいのは亀島で、当時にあっては亀島が一番発展していた地域かとも思われ、亀姫という女性も出てくるので彼女は島主(一説に海神)の娘か。当時は寒村であったと思われる本庄浜(宇良神社のあるところ)の浦島子は押しかけ女房ならぬ押しかけ入り婿で亀島を乗っ取ろうとしたのではないか。浦島子にとっては亀島は竜宮(蓬莱)に見えたのかも知れない。カルビ古墳も浦島子の墓か。あと、「中尾古墳」と言うのがあり亀島小字大浦中尾で、六世紀末から七世紀初頭のものと推定される、無袖式の横穴式石室をもつ円墳と言う。いずれにせよ、あまり著名人のいない地域なのでカルビ古墳か中尾古墳が浦島子の墓と言うことになるのではないかと思われるが、双方の古墳は消滅古墳という。とは言え、『日本書紀』(巻十四)には、雄略廿二年秋七月に丹波國餘社郡管川人・瑞江浦嶋子の話として史実のごとき記録を載せている。『日本書紀』にも取り上げられるくらいなので当時何か大きな外交案件があったと言うことか。例として、「宋書」倭国伝の倭王武が外交使節を派遣している。
以上をまとめると、倭・高句麗戦争でさしたる成果もなく帰国した倭国軍は高句麗軍の追討に備えなければならず、山陽道では吉備国を、山陰道では但馬国(袴狭遺跡)が防衛拠点と定められたのではないか。従って、浦島子は漁に出て行方不明になったのではなく、但馬師団からの召集に応じて出かけたと言うことかと思う。竜宮(蓬莱)とは詰まるところ現在の豊岡市の円山川と出石川の合流するところになり、そこいらに遺跡も多い。竜宮から帰ってきたところはどこかと言えば、浦村か元々の出身地の住吉(大阪市、あるいは、神戸市)かと思われる。白い雲(煙)の意味はわからないが、人間誰しも心労が重なり一定の年月が経(た)てば老化現象も顕著になって、頭は白くなったりハゲたり、顔にはしわが多くなり、目や歯や耳もままならなくなる。おそらく、竜宮(蓬莱)には現代に言う鏡の類いはなかったのではないか。、
但し、実際には好太王は日本へは来ていない。王は享年39歳と言い功績の割には短命であったようだ。応神天皇も自己評価よりは外部の人の評価が高かったようで、例えば、吉備国(魏志倭人伝の狗奴国)などは卑弥呼女王や大伴氏、景行天皇などには積極的に戦っていたが、応神天皇の言うことには「はい、はい」と従っている。また、当時、東アジアの軍隊の単位と言えば中国は50万人、高句麗の好太王で5万人、おそらく日本の応神天皇は5千人くらいではなかったか。それでも応神天皇は高句麗などと互角に戦っているのだから好太王も応神天皇を高く評価していたのではないか。
それ故、倭国の対高句麗前線の基地は好太王の死とともに自然消滅したのではないか。 

✡まとめ

『万葉集』第9巻 歌番号1740番歌 作者 高橋虫麻呂 題詞 詠水江浦嶋子一首[并短歌]を抜粋すると、 
「春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得乎良布見者 古之 事曽所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝多 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不為 死不為而 永世尓 有家留物乎」
「後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見」
とあり、何か浦島子伝説が丹後国と摂津国の二カ所に同じような伝説があるようにも思われる。但し、墨吉の地名については丹後地⽅の網野町と摂津国住吉郡墨江村との二説があるようで、一説には、虫麻呂はおそらく摂津の住吉にいたのだろうが、浦島伝説の舞台をここに移し変えて「創作」した、との見解もある。
翻って、日本のおとぎ話を見てみると、著名な『一寸法師』とか『桃太郎』とか『浦島太郎』の話は、一寸法師は住吉大神のことと言い、桃太郎は吉備津彦命(吉備津彦命の温羅退治伝説)、浦島太郎は日下部首の始祖、開化天皇の孫・若筒木王(彦坐王の子)の3世孫・島根尼君に始まる、但遅馬国造族の日下部君(『古事記』、『大日本史』)、と言う。おそらく住吉大社は大伴氏の創建と考えられ、吉備津彦命と実際に頻繁に戦ったのは大伴氏であり、高句麗の追撃に備えるための防衛軍(司令官は大伴氏)に応召したのは浦島子でこれらに関わっているのはみんな大伴氏ではなかったか。一寸法師は室町時代以降の創作話で別という見解もあるがおそらくなにがしかの原話があったのではないか。
つらつら考えるに、日本の古典の『万葉集』、『古事記』、『日本書紀』の出所は一カ所でおそらく大伴氏の収集になるものではないか。『万葉集』にしても何人かの編纂者がいると言われるも最終的な編纂は大伴家持の出現を待って行われた、と言うのが有力説であり、『古事記』、『日本書紀』にしても日本の正史となると国政の中枢に長期に関与した人となるのではないか。これも初代神武天皇の重臣だった道臣命から始まり、「ワケ王朝」の重臣として活躍した大伴氏が有力だ。そもそも、「浦島子伝説」が『万葉集』と『日本書紀』にあるのも、無関係とは言いがたく、双方の書物に大伴氏が配置したものではないか。『古事記』にないのは大伴氏が編纂の協力を断ったからか。『古事記』の編纂者の太安万侶は言わば中堅官吏であり、『日本書紀』の編纂者は舎人親王で、二人は格が違うし、『古事記』は執筆の性格が解らず、官選の『日本書紀』の方へ協力したのではないか。『日本書紀』が力を入れている景行天皇の倭国統一事業の説話も『古事記』では脱落箇所が多い。また、浦島子伝説で浦島子が最後に白髪や皺(しわ)だらけの老人になるというのも当時の社会現象ではなかったか。倭・高句麗戦争で朝鮮半島へ渡った人は心労や食料・物資の不足で老け込みが早く、倭国でのほほんと何もしなかった人との差が出たのではないか。浦島子は朝鮮半島へまでは行かなかったものの国内勤務でもこの有様だ。

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