卑弥呼女王が魏の皇帝から賜った銅鏡

★はじめに

『魏志倭人伝』で倭の卑弥呼女王が魏の皇帝から賜った銅鏡は一時はマスコミを大いに賑わわせたものだが、昨今は全く世の関心はなくなったものと見えて一部の好事家がコツコツと自分のサイトで論じているくらいなものである。ところで、倭の女王が魏の皇帝から賜った鏡は、

景初二年(238年)<239年(景初3年)か>十二月 詔書報倭女王曰 制詔 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝
正始元年(240年) 并齎詔 賜、金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物 倭王因使上表 答謝詔恩

とあり、景初二年(238年)<239年(景初3年)か>の百枚、正始元年(240年)の一枚、都合百一枚ではなかったかと思われる。
これはどういう鏡であるかは解らないが、一般的にはいわゆる三角縁神獣鏡ではないかと考えられている。三角縁神獣鏡の中には「古墳時代前期の古墳から多く発掘され、面径は平均20センチ程度。鏡背に神獣(神像と霊獣)が鋳出され、中国、魏の年号を銘文中に含むものは2点発掘(他に、青龍三年(235)の銘をもつ方格規矩神獣鏡、景初四年<存在せず>の銘をもつ斜縁盤龍鏡)されている。」とか、「日本で三角縁神獣鏡があらわれる前の3世紀前葉には、神獣鏡類の画文帯神獣鏡と呼ばれる中国鏡が畿内を中心に出土している。」とか、やや賛否まちまちである。
「また3世紀前期から中期にかけて下賜された鏡が、年代的に大きくずれた4世紀の古墳からしか出土しないことにも疑問を持たれている。」と言われている。
ところで、三角縁神獣鏡の出土状況にはやや特異性があり、古墳の中からまとまって多量に出るケースがあることである。何か銅鐸や銅剣等がまとまって出雲国で処分されたような雰囲気がある。まとまって一基の古墳から出た例として、

*椿井大塚山古墳
 副葬品:三角縁神獣鏡32⾯
 所在地:京都府木津川市山城町
 築造時期:3世紀末
 被葬者:船舶管理者であり、津(港)の管掌者か。
     日子坐王
     武埴安彦
*黒塚古墳
 副葬品:三角縁神獣鏡33⾯
 所在地:奈良県天理市柳本町
 築造時期:4世紀初頭-前半
 被葬者:彦国葺
     伊迦賀色許男命
     日子坐王
*黒塚古墳同笵鏡36面
 項を改めて説明する。

数(かず)合わせのようで恐縮であるが、

椿井大塚山古墳 32面
黒塚古墳    33面
黒塚古墳同笵鏡 36面
合計      101面
となり、何やら卑弥呼女王が魏の皇帝から賜った銅鏡の数に一致する。なぜこんなことになるのかと言えば、景初二年(238年)<239年(景初3年)か>に卑弥呼女王へ魏の皇帝からの諸々のご下賜品に詔書がついていて、「還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝」と言う一文があり、卑弥呼女王は老齢の朕には無理と考え、重臣の三名に銅鏡だけを持たせご下賜品の披露に及んだのではないか。言わば「四道将軍の派遣」の前身のような話であり、あるいは三人の重臣の話が「四道将軍の派遣」のように書き換えられたか。但し、椿井大塚山古墳と黒塚古墳の被葬者は卑弥呼女王の言うことを十分理解していなかったようで、自分の墓を銅鏡の保管庫とした。また、これは考えづらいことだが、黒塚古墳同笵鏡の数であるが、水堂古墳のように発見された銅鏡一枚、それが黒塚古墳同笵鏡と言うことで問題はないが、複数枚発見された古墳については果たして黒塚古墳同笵鏡は何枚あるのかはやや問題ではあるが他の古墳と比較考慮して一枚と解する。

★黒塚古墳同笵鏡

「奈良県歴史文化資源データベース・黒塚古墳」(http://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/bunkashigen/main00401.html)と言うウェブサイトで、天理市教育委員会事務局文化財課と言う部署が作成した「黒塚古墳・他地域の関連する歴史文化遺産」として、黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡と他地域の同笵鏡を並べており、私見が勝手に北から南へ並べ替えたものが以下のごとしである。

東日本
01.前橋天神山古墳群馬県 群馬県前橋市広瀬町

中部日本
02.龍門寺1号墳岐阜県 岐阜県岐阜市長良真福寺龍門寺
03.内山1号墳岐阜県 岐阜県岐阜市太郎丸内山/太郎丸
04.東天神1号墳岐阜県 岐阜県海津市南濃町駒野
05.連福寺古墳静岡県 静岡県磐田市二之宮(にのみや)
06.平川大塚古墳静岡県 静岡県菊川市(旧小笠郡小笠町)上平川(かみひらかわ)
07.赤門上古墳静岡県 静岡県浜松市浜北区内野

畿内
08.西求女塚古墳兵庫県 兵庫県神戸市灘区都通3丁目
09.水堂古墳兵庫県 兵庫県尼崎市水堂町
10.権現山51号墳兵庫県 兵庫県たつの市御津町中島(みつちょうなかしま)
11.吉島古墳兵庫県 兵庫県たつの市新宮町吉島
12.コヤダニ古墳兵庫県 兵庫県洲本市下加茂
13.北山古墳京都府 京都府向日市向日町北山
14.内里古墳京都府 京都府八幡市内里
15.椿井大塚山古墳京都府 京都府木津川市山城町椿井三階・太平
16.西山2号墳京都府 京都府城陽市久世・平川
17.芝ヶ原11号墳京都府 京都府城陽市寺田大谷(芝ヶ原古墳群)
18.新山古墳奈良県 不明。大塚新山古墳とは別物か。  
19.茶臼山古墳奈良県 奈良県桜井市外山
20.佐味田宝塚古墳奈良県 奈良県北葛城郡河合町佐味田
21.大塚新山古墳奈良県 奈良県北葛城郡広陵町大塚
22.織部古墳滋賀県 滋賀県大津市大萱3丁目、瀬田南大萱町
23.古富波古墳滋賀県 滋賀県野洲市冨波乙
24.雪野山古墳滋賀県 滋賀県近江八幡市新巻町・東近江市上羽田町・蒲生郡竜王町川守
25.万年山古墳大阪府 大阪府枚方市枚方上之町  
26.黄金塚東槨大阪府 大阪府和泉市上代町(うえだいちょう) 

四国
27.宮谷古墳徳島県 徳島県徳島市国府町西矢野。
28.奥3号墳香川県 さぬき市寒川町奥
29.西山古墳香川県 不明。 

山陽
30.備前車塚古墳岡山県 岡山市中区四御神(しのごぜ)。湯迫車塚古墳共々前方後方墳が基本か。
31.湯迫車塚古墳岡山県 岡山市中区湯迫 (ゆば)。備前車塚古墳と同群の古墳とする。
32.中小田1号墳広島県 広島市安佐北区高陽町小田字中小田。

山陰

九州
33.石塚山古墳福岡県 福岡県京都郡苅田町。
34.老司古墳福岡県 福岡市南区老司。
35.御陵韓人山池古墳福岡県 不明。福岡県大野城市、御陵古墳群か。
36.持田古墳宮崎県 宮崎県児湯郡高鍋町持田。群馬県前橋天神山古墳と同笵鏡。

これを俯瞰的に見ると、何やら景行天皇の日本統一版図に見えてくる。景行天皇は『日本書紀』によると、
1.即位2年、3⽉3⽇に播磨稲日大郎姫を皇后とした。子に大碓皇⼦、小碓尊。
2.即位4年、美濃国に⾏幸。八坂入媛命を妃とした。子に稚足彦尊(成務天皇)、五百城入彦皇子。
3.即位12年、九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐。
4.即位27年、熊襲が再叛すると小碓尊(16歳)を遣わして川上梟帥を討たせた。
5.即位40年、東国の蝦夷平定を小碓尊改め日本武尊に命じた。
6.即位51年、8⽉4⽇に稚足彦尊を立太子。
9.即位52年、5⽉4⽇の播磨稲日大郎姫の崩御に伴い7⽉7⽇に八坂入媛命を立后。
10.即位53年から54年にかけて日本武尊の事績を確認するため東国巡幸。
11.即位58年、近江国に⾏幸し高穴穂宮に滞在すること3年。即位60年、同地で崩御。

01.前橋天神山古墳は、誰を論功行賞したのか。
景行天皇53年8月、日本武尊を追慕し東国巡幸。伊勢国経由。10月、上総国の淡水門へ。12月、伊勢の綺宮へ。
景行天皇54年9月、帰国、とあるが、これは『日本書紀』の編者が『高橋氏文』に惑わされたもので実際は親征で、大事なのは次からである。
景行天皇55年2月、彦狭島王が東国へ赴任。途上の春日穴咋邑で死去、上野国で埋葬。景行天皇56年8月、彦狭島王の子の御諸別王が東国へ赴任。即ち、前橋天神山古墳の被葬者は彦狭島王か御諸別王であろう。両王は一歩退いて「ワケ王朝」の創設に協力した。

02.龍門寺1号墳岐阜県 岐阜県岐阜市長良真福寺龍門寺
03.内山1号墳岐阜県 岐阜県岐阜市太郎丸内山/太郎丸
04.東天神1号墳岐阜県 岐阜県海津市南濃町駒野
美濃国(現・岐阜県)は景行天皇二番目の皇后(八坂入媛命)の出身地でその一族を行賞。

10.権現山51号墳兵庫県 兵庫県たつの市御津町中島
11.吉島古墳兵庫県 兵庫県たつの市新宮町吉島
播磨国(現・兵庫県)は景行天皇最初の皇后(播磨稲日大郎姫)の出身地でその一族を行賞。

05.連福寺古墳静岡県 静岡県磐田市二之宮
06.平川大塚古墳静岡県 静岡県菊川市(旧小笠郡小笠町)上平川
07.赤門上古墳静岡県 静岡県浜松市浜北区内野
景行紀には駿河国・遠江国に関する直接の記述はないが日本武尊が『古事記』では、「相模の国で、相武国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。」、『日本書紀』では、「駿河が舞台で火攻めを行うのは賊。」とかあるが、古墳のあるのは遠江国で、一説に「古墳時代には景行天皇(倭建命)の東国巡行に伴って物部氏一族の者が次々に国造に任命され、次代の成務天皇朝に印岐美命が遠淡海国造(遠江国磐田郡、現在の磐田市)に、仲哀天皇朝に印幡足尼が久努国造(遠江国山名郡久努郷、現在の静岡県袋井市鷲巣・久野)に任務された。」と言うが意味不明。但し、私見で恐縮だが、台与女王の没後いわゆるイリ王朝と神武王朝との間で跡目相続争いがあり、吉備王朝系の人と思われるイリ系の人は畿内では誰も知らず、それを挽回すべく淀川系豪族(穂積、物部など)の後ろ盾で対抗しようとしたが神武系に圧倒されて沈没。物部氏は職を失い、大伴氏に就職依頼をして遠淡海国造や久努国造になったか。時を経て「倭・高句麗戦争」が起きて徴兵のため倭国と朝鮮半島を行き来するうち大伴氏に協力したのが遠江国の物部氏ではなかったか。従って、この論功行賞は応神天皇が行ったものであり景行天皇とは関係ない。

08.西求女塚古墳兵庫県 兵庫県神戸市灘区都通3丁目
09.水堂古墳兵庫県 兵庫県尼崎市水堂町
10.11.は記述済みなので省略。
12.コヤダニ古墳兵庫県 兵庫県洲本市下加茂
西求女塚古墳兵庫県は大伴角日の古墳か。水堂古墳兵庫県は物部氏分家筋の古墳か。コヤダニ古墳兵庫県は応神天皇の皇女「淡路御原皇⼥」に関係する人か。同皇女は根鳥皇⼦妃と言う。
兵庫県に黒塚古墳同笵鏡が多いのは大伴氏が摂津国出身、景行天皇皇后播磨稲日大郎姫が播磨国出身だからであろう。

13.北山古墳京都府 京都府向日市向日町北山
14.内里古墳京都府 京都府八幡市内里
15.椿井大塚山古墳京都府 京都府木津川市山城町椿井三階・太平
16.西山2号墳京都府 京都府城陽市久世・平川(西山古墳群)
17.芝ヶ原11号墳京都府 京都府城陽市寺田大谷(芝ヶ原古墳群)
北山古墳京都府は八咫烏氏子孫の墓か。内里古墳京都府は甘美内氏一族の墓か。椿井大塚山古墳京都府は彦坐王の墓か。西山2号墳京都府は天皇級古墳の久津川古墳群の支群の西山古墳群の西山1号墳(前方後方墳)に次ぐ古墳(方墳)で被葬者の特定は難しいかと思う。また、芝ヶ原11号墳(記録古墳)京都府にも同様のことが言え、木津川右岸における古墳の被葬者たちは特異な人たちではなかったか。同地域(一部大和国を含む)には葛城(葛木)とか、久米とか、賀茂とか、内とか、八咫烏とか、その祖神を高皇産霊神とか神皇産霊神としており、これらの豪族が饒速日命を祖神とする淀川流域系豪族を撃破し、「ワケ王朝」を創設したのではないか。

18.新山古墳奈良県 不明。大塚新山古墳とは別物か。  
19.茶臼山古墳奈良県 奈良県桜井市外山
20.佐味田宝塚古墳奈良県 奈良県北葛城郡河合町佐味田
21.大塚新山古墳奈良県 奈良県北葛城郡広陵町大塚
以上は奈良県北葛城郡に多く同郡は葛城氏の墓域という見解もあり、被葬者は葛城氏にまつわる人々か。葛城氏は大伴氏を除くと「ワケ王朝」の創設に功労が大で葛城襲津彦の子女(むすめ)は皇后となっている。

22.織部古墳滋賀県 滋賀県大津市大萱3丁目、瀬田南大萱町
23.古富波古墳滋賀県 滋賀県野洲市冨波乙
24.雪野山古墳滋賀県 滋賀県近江八幡市新巻町・東近江市上羽田町・蒲生郡竜王町川守
景行天皇は晩年「即位58年、近江国に⾏幸し高穴穂宮に滞在すること3年。即位60年、同地で崩御。」と言い、滋賀県での天皇の行動に貢献した人たちを顕彰したものであろう。いずれも被葬者はこの地帯を治める有力者というもの。

25.万年山古墳大阪府 大阪府枚方市枚方上之町  
26.黄金塚東槨大阪府 大阪府和泉市上代町(うえだいちょう)
万年山古墳は古墳が存在することを伝える所伝等は全くなく、黄金塚東槨の副葬品のなかに魏の景初三年(二三九)の銘のある鏡があり、注目を浴びたが、いずれも記録がないため詳細は不明である。万年山古墳は物部氏、黄金塚東槨は大伴氏にまつわる人か。

27.宮谷古墳徳島県 徳島県徳島市国府町西矢野。三角縁神獣鏡は木棺からではなく前方部斜面から出土。
28.奥3号墳香川県 さぬき市寒川町奥
29.西山古墳香川県 不明。
宮谷古墳は淡路島からの侵入に備えたものか。奥3号墳、西山古墳は吉備国からの侵入に備えたものか。景行・大伴の側面支援に協力か。

30.備前車塚古墳岡山県 岡山市中区四御神(しのごぜ)。湯迫車塚古墳共々前方後方墳が基本か。
31.湯迫車塚古墳岡山県 岡山市中区湯迫 (ゆば)。備前車塚古墳と同群の古墳とする。
32.中小田1号墳広島県 広島市安佐北区高陽町小田字中小田。
岡山県の二基は同一古墳群と言って良く吉備氏とは一定の距離を置く一族のようだ。広島県の中小田古墳群は瀬戸内海航路の要衝の港湾を管理した豪族ではなかったか。いずれも現在は氏名は解らない。景行・大伴の後方支援に協力か。

33.石塚山古墳福岡県 福岡県京都郡苅田町。
34.老司古墳福岡県 福岡市南区老司。
35.御陵韓人山池古墳福岡県 不明。福岡県大野城市、御陵古墳群か。
36.持田古墳宮崎県 宮崎県児湯郡高鍋町持田。群馬県前橋天神山古墳と同笵鏡。
景行天皇が熊襲征伐をしたときの行軍経路は、即位12年9月豊前国の長狹県に行宮(福岡県行橋市か)を設けた、10⽉、豊後国の碩田(おおきた、⼤分県⼤分市)に進軍、11⽉、熊襲国に⼊り⾏宮を設けた。これを高屋宮という。
33.石塚山古墳福岡県と36.持田古墳宮崎県はこの時の論功行賞で、特に、持田古墳は熊襲梟帥(くまそたける)、あるいは、その関係者の墳墓か。あるいは、日向国造の祖・豊国別皇⼦の墓か。
34.老司古墳福岡県、御陵韓人山池古墳福岡県は経路が少しそれているので、応神天皇の「倭・高句麗戦争」の協力者か。応神天皇による顕彰か。

★まとめ

発見された銅鏡を現代の科学で異同を調べたら、図らずも発見されている銅鏡には同笵鏡が多いことが解った。当然と言えば当然かも知れないが、鋳物というものは一つの鋳型でたくさんの製品を鋳出すのがコツで同笵鏡が多いのは当然かとも思う。疑問点もたくさん出されており、主なものは以下のごとくである。

1.三角縁神獣鏡は4世紀以降の古墳から出土しているが、邪馬台国の時代である3世紀の墳墓からは1面も出土していない。
  これも多数説はご下賜品が届いたら、即配布をして、墳墓を造営し、埋納をすると解釈しているようだが、ご下賜品が多いので品物を改めたり、重臣に一括してお披露目をせねばならず、「故鄭重賜汝好物也」と言われて卑弥呼女王は何を貰っていいものか、はたまた、「悉可以示汝國中人」と言われたのでお披露目のまねごととして百枚の銅鏡を分割して三名の重臣に持たせて地方の豪族に見せようとしたのではないか。卑弥呼女王の存命中(248年没か)にできたことはここまでくらいか。台与女王に至っては自分がもらったものではないのでその関心はかなり低かった。

2.卑弥呼に下賜された鏡は100⾯とされるが、既に全国から540⾯以上見つかっている。未発見、個人蔵、破壊されたものを含めればそれ以上あると考えられる。また、数回に渡って鏡を下賜された記録はなく、100面の鏡というのも、同じ種類の鏡を100面下賜されたとは限らない。
  三角縁神獣鏡が爆発的に人気が上がったのは「ワケ王朝」で景行天皇が論功行賞として配ったからか。その後は、三角縁神獣鏡は日本でも中国でも製作されたとは思うが、物証は何一つないとか。国内では『和名抄』に大和国城下郡「鏡作郷」があり、ここで鋳造していたものか。場合によっては、銅の産地で直接鏡の鋳造等をしていたか。

3.特鋳説もあるが、三角縁神獣鏡の完品は中国国内では1面も出土しておらず、中国の鏡ではないと中国の学者が述べている。また試作品や失敗品、破損品、鋳型も何⼀つ発見されていない。
  これは中国ばかりでなく日本にも言えることで、今のところ生産地は不明と言うことのようだ。「故鄭重賜汝好物也」と言う皇帝の綸言もあり、倭の方から三角縁にしてほしいと言ったか。

4.改元されて実在しない中国の年号の銘が入った鏡がある。
  厳密に調査をしていないが間違いと言うことはままあることだ。

5.黒塚古墳では棺内に画文帯神獣鏡を副葬し、多くの三角縁神獣鏡を棺外に副葬するなど、その扱いが低いこと。
  黒塚古墳の被葬者の頃は画文帯神獣鏡が鏡の主流で三角縁神獣鏡はやや意味不明の鏡だった。女王からの預かり物だったので死んでも鏡を守ります的発想で自分の墳墓を保管庫にしたのではないか。少なくとも同じようなことをした人が二人いた。いちゃもんをつけるならこの65枚の三角縁神獣鏡はどこから来た、と言うことになろうか。30枚以上の鏡を一人の豪族が手配するとは考えられない。国家的権力者の配布によるものであろう。

以上を総括すると、真偽のほどは定かではないが、黒塚古墳や椿井大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡は舶載鏡という説がある。(泉屋博古館<三角縁神獣鏡は、舶載(中国製)と考えられる6面はすべて中国の三国西晋時代神獣鏡の分布範囲に入り、仿製と考えられる2面はいずれも古墳時代の日本製鏡の分布範囲に入った。>SPringー8による鑑定。鋳造者や鋳造地は特定せず)。なお、通説は魏の皇帝から賜った銅鏡百枚は当然のことながら中国で鋳造され、かつ、三角縁神獣鏡と解しているようである。私見で恐縮だが、黒塚古墳と椿井大塚山古墳には十枚の同笵鏡があるという。これは現代流に言うと量産化を急いでいた節があり、上述の特鋳説にもつながるものではないか。特定の鋳物師に量産させたと言うことである。三角縁神獣鏡は「日本にしかない」ということで日本からの働きかけがあったかと思うが、その出所は魏の皇帝であり、日本における受領・配布を行ったのは卑弥呼女王でなかったか。その先、景行天皇が論功行賞を行った地域には山陰や北陸がなく、多くの学者先生が推す黒塚古墳や椿井大塚山古墳の被葬者が日子坐王(彦坐王)というのは彼にはモデルの人がいたが、実在の人ではなかったのではないか。卑弥呼女王がお披露目しようとしたのは山陽道から四国九州地域(大伴氏担当か)、東海道から関東地域(賀茂氏あるいは内氏担当か)、畿内(久米氏か倭国造氏担当か)ではなかったか。従って、魏の皇帝から賜ったという銅鏡100枚は、椿井大塚山古墳 32面、黒塚古墳 33面、黒塚古墳同笵鏡 36面の合計101面となるのだろう。と言うことは、後は箸墓古墳からまとまった数の銅鏡が出るかにかかっている。また、卑弥呼女王の倭国同盟も景行天皇の統一倭国も同じ領域(版図)で、『記紀』に言う大彦命と武渟川別の親子の逸話や丹波道主の話は本来一人の話を二人に(大彦命と武渟川別)分けたり、二人の話(大伴氏と八咫烏氏か)を一人の人物(丹波道主命)にしたものか。はっきりしないが、卑弥呼女王や景行天皇は日本海側の北陸や山陰は今で言う過疎地域としてあまり重要視はしていなかったのではないか。

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