処女塚古墳

✡はじめに

神戸市にある処女塚古墳と言うのは両隣にある西求女塚古墳や東求女塚古墳ともども風情のある名前だが、物語としてはいいかもしれないが、墓の主は一般的には地元の豪族と解釈されており、「処女(おとめ)とは俺のことかと主(あるじ)言い」的発想になってしまうのではないか。誰がこんなことを考えたのかと言えば、すでに『万葉集』にも「菟原処女の伝説」として登載されており、相当古くからの物語であるらしい。造営も三古墳が一括して論じられることが多いようで、西求女塚古墳は三世紀後半、処女塚古墳は四世紀前半、東求女塚古墳が四世紀後半と、丁度当時の倭人の平均寿命と思われる50年間隔で造営されているようである。おそらく、当該地の豪族の当主が埋葬されているのではないかと思っている。そこで、豪族の被葬者には迷惑な話と思われるので、「菟原処女の伝説」を少しばかり検討してみる。

✡「菟原処女の伝説」とは

現在一般的に出回っている話は、『大和物語』(平安時代)の「生田川」で、墳墓は菟原処女は「津の国にすむ女」<菟原処女(うないおとめ)の処女塚古墳>、男は津の国の<菟原壮士(うないおとこ)の西求女塚古墳>と後世の和泉国(茅渟)の<茅渟壮士(ちぬおとこ)の東求女塚古墳>となっている。但し、菟原(うない、旧仮名:うなひ)は兵庫県芦屋市および神戸市東灘区付近を中心とした地名(摂津国菟原郡)。『万葉集』には菟名日、宇名比の他に「菟原」の表記があり、そこから「うばら」と読むようになったか。
まず、問題となるのがなぜ茅渟壮士(後世の和泉国の人)が、菟原(後世の摂津国菟原郡)に来たかと言うことだ。茅渟は一般的には「『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に同国大鳥郡を併せて和泉監が建てられた。元正天皇の離宮(珍努宮、茅渟宮、和泉宮とも)がこの地に造営されたことが、国司ではない監という特別な官司の設置の理由であると見られる。」が公式見解のようで、その和泉国成立以前から茅渟と呼ばれていた地域が存在していたと言うのはいいが、紀伊国から分離独立したというのはいかがなものか。
ところで、Wikiの「西求女塚古墳」の解説に、「石室の石材は、地元のものだけでなく、阿波(徳島県)や紀伊(和歌山県)などからも運ばれており、地元の土器は出土しておらず、祭祀に用いられた土師器には山陰系の特徴をもつものが出土している」とある。阿波(徳島県)や紀伊(和歌山県)からどういう経路で石材を運んだかと言えば、いずれの地域からも現在の大阪府泉南郡に集積され人力で菟原まで運ばれたのではないか。無論、海路も考えられるがいずれにせよ茅渟壮士が活躍したことは間違いないと思う。当時にあっては古墳造営では人力が必要で、茅渟壮士も菟原でスカウトされ土着したかも知れないが、その後菟原で菟原壮士と女性問題でトラブルを起こし、そのことが後年菟原処女との悲恋伝説となったのではないか。従って、「菟原処女の伝説」は何らかの事実に基づいて語られたのかも知れない。

✡処女(をとめ)の発音

処女塚古墳の「菟原処女の伝説」で、もう一つ引っかかるのは「処女(をとめ)」の語の発音である。菟原処女の伝説の発祥地は摂津国八部郡でこの郡は八部郡という前は雄伴郡と言い、淳和天皇の時代(在位823年 - 833年)、天皇の諱である「大伴」(おおとも)に発音が近いことから、八部郡(やたべぐん)と改名されたようだ。平安時代に入ってからの改名と言うことだが、その前はなんと言っていたかと言うことだ。一説によると、「須磨区大田町遺跡で、「荒田郡 中富里 荒田直□□」とへラ描きされた円面硯が出土したことによって、奈良時代前期には「荒田郡」が出土地(雄伴郡)のあたりのことを示すか」という説もある。しかし、文献的には「摂津国風上記逸文 (釈日本紀所載)」や「住吉大社神代記」には、それぞれ「雄伴国・雄伴郡」という記述がなされている。このように奈良時代には「雄伴郡」と呼ばれていたことが通説となっている。また、神戸市兵庫区には荒田町と言う古い地名がありそれのことかとも。なお、荒田直は、和泉国大鳥郡を本貫とする古代氏族であるが、摂津国との関係については不明。あるいは茅渟壮士の子孫か。
以上より、八部郡と言われたところはそれ以前は一貫して雄伴郡ないし雄伴国と呼ばれていたようであり、その発音は、「雄伴(をとも)であり、ローマ字表記をすれば「WOーTOーMOE」ではなかったか。発音記号で言うとMOEはMとOEを抱き合わせたようなO(オー)ウムラウト(ö)の音で、聞く人によっては「をとも」(雄伴)と聞こえたり、「をとめ」(処女)と聞こえたりしたのではないか。あるいは、文献的には根拠はないが、大伴氏は神戸にいた頃は雄伴(当時の標準表記では「小伴」か)氏と言っていたかも知れない。雄伴塚が処女塚となって「菟原処女の伝説」が生まれたか。
なお、円面硯の読みについては「兵庫県立考古博物館」の見解を書いておくと、
「出土した円面硯(透脚硯)は破片ですが、形態や出土状況から8世紀前半のものと考えられます。外面には「荒田 郡中 富里 荒田マ 直■徳■」と刻書されていますが、地名と考えられる「荒田 郡」「中 富里」は『和名類聚抄』などの文献には見られません。また、「荒田マ(部) 直■徳■」は豪族名と考えられます。」と。
別の資料は「本資料については、該当するこの時期の窯は周辺にはなく、胎土・技法等から陶邑産と思われる。」と。言うなれば、摂津国菟原郡と和泉国大鳥郡は古くから関係が深いと言うべきか。

✡まとめ

処女塚古墳群は歴史的には重要な古墳群と思われるが、何分にも古墳の周りには集落等がなく(西求女塚古墳近くでの集落遺跡は見つかっていない、と言う。)、墓の主は後世にその名も残すこともできなかった、と言う酷評だが、墓の周りには人が住んでいないと思われ現代流に言う墓の管理もままならなかったのではないかと思われる。それもこれも子孫とおぼしき人がなってなかったと言えばそれまでだが、その後50年間隔でポツン、ポツンと墓の造営がなされているところを見るとそれなりの資力や人員動員力があったのではないか。まずもって、西求女塚古墳は盗掘がなかったと思われるので墓守のような管理者がいたか。しかし、定期的ないし常駐管理ではないので墓に呼び名を着けて管理する必要があったであろう。その場合、雄伴郡ないし雄伴里と言うところにあったので「雄伴塚(をともづか)」と呼ばれていたと思われる。おそらく、当初は今の西求女塚古墳が雄伴塚古墳と呼ばれていたかも知れないが、領主の東進とともに古墳の呼び名も変わり、奈良時代からは現在の体裁に落ち着いた。墓守の子孫という人も現れてこないので領主の東進ともどもいなくなったのであろう。その後のこの一族の古墳は大阪市住吉区の帝塚山古墳か。
そこで、雄伴の発音(と言おうか、聞こえ方)は「をとも」「をとめ」の両様があり、「をとも」は地名として残り、「をとめ」は古墳の名として残ったのではないか。従って、「をとめ」と言ってもうら若き女性のことではなく、地名だったと言うことである。「菟原処女の伝説」の話は原話のような話はあったかも知れないが、少しばかり怪しいと言うことである。


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