古代の京都

✡はじめに

以前のインターネットの投稿を見ていたら「古代の京都はどうなっていたんだ」と言うような文章が時折あったが、現在ではあまり見かけなくなった。おそらくこういう人は京都は京都でも現在の京都市街のことを言っているのではないかと思われる。おそらく、京都が現在のような発展をしたのは平安時代以降であり、その前は湿地地帯で人もまばらな過疎地ではなかったかと思われる。全国区的な主な地名を見ても、

賀茂(かも) 河(かは)、面(も)の転で、川沿いの地。
河原町(かわらまち) 中古まで寺町より東は川原なりしゆへに号す。源融別邸の河原院から。豊臣秀吉の都市改造。
烏丸(からすま) 河原の洲の間、「かわらのすのま」が縮まって「からすま」となった。おそらく「涸らす間」で湿地。
御池(おいけ) 鎌倉時代に公卿・二条良実の別邸にあった龍躍池(りゅうやくち)より。現在の神泉苑(内裏の禁苑)。 
清水(きよみず) 湧水。湧水の多いところ、延いては湿地。
梅津(うめづ) 梅宮大社・京都府京都市右京区梅津フケノ川町。梅は植物の梅ではなく「埋め」で埋立地。フケも湿地。
宇多(うた) 湿地。『長門風土記』(国立公文書館蔵、著者不明(1831)、?) には「湿地をウダという」とある、と言う。
などがある。

現在の京都市街は盆地の地形が示すように古くは湖沼地帯で古墳時代になって応神天皇ともども朝鮮半島から引き上げてきた秦氏(正式な名称は太秦氏と言うようだ)が現在の京都市右京区太秦界隈に入植し、干拓等を開始してやや大げさに言うと「都市化(正しくは農村化か)」が始まった。朝鮮半島では当初より倭国支持の秦氏には倭国へ逃れる以外の選択肢はなかった。但し、『日本書紀』等では秦氏は弓月君に率いられて日本に帰化したとなっている。(例、弓月王。誉田天皇[謚応神。]十四年来朝。上表更帰国。率百廿七県伯姓帰化。并献金銀玉帛種々宝物等。天皇嘉之。賜大和朝津間腋上地居之焉。)秦氏関係者は玉石混淆の集団だったようだが技術力の高い人もいて、応神天皇は大和国への帰途最寄りの豪族に希望する技術者を割り当てたもののそれでもたくさんの人があまり淀川流域(大阪府寝屋川太秦中町等の地名がある)や山城国(現在の京都市)に一括配置となったようだ。その後の秦氏の活躍はめざましく、大和朝廷の財政をつかさどる一方、鋳工・木工・鉱山の開発・灌漑(かんがい)・土木事業を推進するなど殖産氏族としての活動が顕著で、平安遷都には財政面で尽力した。

✡上古の山城国

山城国八郡(乙訓<おとくに>、葛野<かどの>、愛宕<おたぎ>、紀伊、宇治、久世<くぜ>、綴喜<つづき>、相楽<さがら>)のうち、葛野<かどの>、愛宕<おたぎ>の両郡は平安京ができてから著名になったが、それ以前の山城国は乙訓、紀伊、宇治、久世、綴喜、相楽の諸郡が優勢であったと思われる。
国府も推定では、
1. 相楽郡 8世紀前半まで。京都府木津川市山城町上狛(かみこま)と推定。当地には山城国分寺も所在。
2. 葛野郡 8世紀前半から延暦16年(797年)まで。京都府京都市右京区太秦と推定。
3. 乙訓郡 延暦16年(797年)から貞観3年(861年)まで。京都府長岡京市神足または久貝(南栗ヶ塚遺跡)と推定。長岡京南。
4. 乙訓郡 貞観3年(861年)以後。京都府乙訓郡大山崎町大山崎の河陽離宮(離宮八幡宮)と推定。
と言う。国府が現在の京都市域に置かれたのは葛野郡(京都市右京区太秦)のみである。

また、古墳群にあっては、
「久津川古墳群(支群・芝ヶ原古墳群)」京都府城陽市 久津川車塚古墳、丸塚古墳、芭蕉塚古墳、芝ヶ原9号墳、同12号墳。
「乙訓古墳群」京都府向日市 五塚原古墳、元稲荷古墳、寺戸大塚古墳、恵解山古墳。
「宇治古墳群」京都府宇治市 二子山北墳、二子山南墳、二子塚古墳。
などが著名であって、現在の京都市域で著名な古墳は太秦氏関係と思われる蛇塚古墳(へびづかこふん)あるいは、天塚古墳(あまづかこふん/あまつかこふん)くらいなものである。いずれも京都市右京区太秦に所在する。
なお、椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん・京都府木津川市山城町)は、奈良県桜井市の箸墓古墳、岡山県岡山市の浦間茶臼山古墳、奈良県天理市の黒塚古墳などとともに出現期古墳と総称される、と言う。山城国の木津川沿岸や桂川沿岸はある意味古墳の宝庫と言えるのではないか。以下、山城国の代表的古墳の中身を検討してみる。

✡山城国の古墳

1.椿井大塚山古墳
 ・三世紀末の出現期古墳のうちの一基。箸墓古墳の二分の一縮尺古墳。 
 ・副葬品
  三角縁神獣鏡32⾯、三角縁神獣鏡より少し古い内行花文鏡2面、
  方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面が出土。
  日本最古の刀子
  武器・武具では、鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上
  鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領が出土。
  工具・農具では、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7
  本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が出土。
  漁具では、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本が出土。
 ・被葬者
  日子坐王伝承のモデルとなった人物(有力説)

2.久津川車塚古墳
 ・古墳時代中期前半、5世紀前半の築造。丸塚古墳と同時期の築造。
 ・副葬品
  銅鏡 7面 - いずれも国の重要文化財。 泉屋博古館保管。
  画文帯神獣鏡 1面
  三角縁神獣鏡 1面
  変形画文帯神獣鏡 1面
  変形四獣鏡 4面
三角板革綴短甲15領
  鉄剣・玉類
 ・被葬者
  甘美内宿禰か。(参考)武内宿禰と甘美内宿禰は何の関係もない赤の他人。

3.五塚原古墳
 ・古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造。前方後円墳の祖型か。
 ・副葬品
  後世の周辺埋葬になる埴輪棺1基
  埴輪棺の埴輪は、五塚原古墳から下る妙見山古墳(向日丘陵4代目首長墓)と同じもので、4世紀中葉頃の製作。
  埴輪棺の被葬者と五塚原古墳の被葬者とは血縁者と⾒られ、五塚原古墳・妙見山古墳の両被葬者にも親族関係があったか。
 ・被葬者
  八咫烏の八咫(谷田、矢田など)系の人の始祖か。

4.元稲荷古墳
 ・古墳時代前期の3世紀後半頃の築造。前方後方墳。
 ・副葬品
  銅鏃 1
  鉄鏃 7片
  鉄剣 2片
  鉄刀 3片
  盗掘のため主たる副葬品はない。
 ・被葬者
  八咫烏の烏(唐須など)系の人の始祖か。

5.恵解山古墳
 ・5世紀の前半の築造と推定。前方後円墳。
 ・副葬品
  前方部に木棺状の副葬品埋納施設が検出され、鉄刀、鉄鏃など総数700点以上の鉄製武器類が出土。
  東西の造出部から蓋(きぬがさ)、家形、水鳥などの形象埴輪が出土。
 ・被葬者
  不明と言うも、淀川沿岸にあるので淀川系豪族(穂積、物部、采女など)も考えられる。
  その場合は、鉄、鉄、鉄とか武器、武器、武器に固執しているので物部氏が適当か。
  かって物部の物は武器のことであると言う説があった。物部氏は武器製造が本来の職掌か。  
  五十琴連、牧古連、伊莒弗連と連なるが伊莒弗連が正当か。場合によっては牧古連か。

以上を検討してみると、
1.椿井大塚山古墳の被葬者は、箸墓古墳の被葬者が大王(おほきみ、国王)とするなら、現代の大臣クラスの人なのだろう。副葬品も立派で何よりも三角縁神獣鏡32面は秀逸である。埋納品も鏡、武器・武具、工具・農具、漁具とまんべんなく取り入れられており、ある意味何をしていた人なのかと言う意見もあるだろうが、統括責任者として国務を執政していたのではないか。皇族とも思われ格段と地位の高い人だ。
2.久津川車塚古墳の被葬者は、久津川古墳群、宇治古墳群に初めて大型古墳を築いた人物である。この地域は古くから鬱、淵(不遅)、内、菟道、宇遅、宇治などの文字で表される氏族がおり、これらの氏族がどういうつながりがあるかは解らないが、おそらく桂川、宇治川、木津川の三河川が合流して淀川に注ぐ地点から少し内陸へ入ったところという意味で「内」と言ったのかも知れない。もし、久津川車塚古墳の被葬者が甘美内宿禰としたら山城国南部の豪族で武内宿禰とは縁も因もない人である。あるいは、「倭・高句麗戦争」で成果を上げたので大きな古墳となったのではないか。
3.五塚原古墳、4.元稲荷古墳の被葬者については、この地域が初期の段階から分裂気味で墳形も前方後円墳と前方後方墳に分かれてしまったのではないか。桂川右岸が矢田系で左岸が烏(からす)系ではなかったか。後に統合して賀茂となったか。特に、注目すべきは右岸の矢田系の一団で、まず、矢田について言うと、丹波国、但馬国、丹後国の中で『延喜式』神名帳に矢田という神社が丹後国にだけある。具体的には、
*丹後国 与謝郡 矢田部神社
矢田部神社 京都府与謝郡与謝野町石川字矢田4626
*丹後国 丹波郡 矢田神社
矢田神社 京都府京丹後市峰山町矢田
*丹後国 熊野郡 矢田神社
矢田神社 (論)矢田神社  京都府京丹後市久美浜町海士
     (論)矢田八幡神社 京都府京丹後市久美浜町佐野
山城国の八咫烏の八咫と丹後国の矢田とは何らかのつながりがあるのだろうか。
また、山城国乙訓郡 乙訓坐大雷神社と言う神社が『延喜式神名帳』に登載されており、論社の一社に角宮神社がある。『山城国風土記逸文』には、「所謂丹塗矢者,乙訓郡社坐,火雷命在。」とか「乙訓郡社,乙訓坐火雷神社,今角宮神社。」とある。この火雷神(ほのいかづちのかみ)とは何者か、と言うことなのだが、丹後国一宮籠神社の社家海部氏の祖神で籠神社の主祭神彦火明命(ひこほあかりのみこと)とは何らかの関係があるのではないか。即ち、「火雷」と「火明」とには何らかの類似性がある。名のうち「火」は美称で、「雷」「明」が名の本体なのだろう。「雷」は瞬時の明るさを「明」は昼間の明るさを言ったものか。いずれも照明に関わる語である。また、乙訓という地名も何か本国(この場合は丹波国)に対する分国(この場合は乙訓)というイメージがある。換言すれば、火明命は本国の王であり、乙訓坐火雷命というのは分国の王の名前ではなかったか。後世の『日本書紀』垂仁天皇十五年春二月「唯竹野媛者、因形姿醜、返於本土。則羞其見返葛野自墮輿而死之、故號其地謂墮國、今謂弟國訛也。」というのもいい加減な話で、実際には
丹波道主命の乙訓別邸で亡くなったのではないか。
桂川左岸は古墳時代初期の古墳は皆無で嵯峨野古墳群のうち現存しているのは天塚古墳、片平大塚古墳(仲野親王陵古墳)のみで清水山古墳、段ノ山古墳、は消滅という。人の居住や水田稲作化は秦氏の開発に待たなければならなかったようだ。

✡まとめ

以上から判断すると「古代の京都」を現在の京都市街と解釈するならおそらくほとんど集落らしい集落もなく都市あるいは農村としての機能はほとんどなかったと思う。これを山城国という括(くく)りに広めると当時の倭国の首都とも言うべき大和国の延長線上にある地域で、卑弥呼女王の邪馬台国にも入るような範疇ではないかと思われる。古墳も当初より前方後方墳と前方後円墳が併存し、やや持って前方後円墳から始まったような大和国よりは国家としての古層を形成しているのではないかと思われる。特に、木津川、桂川の沿岸は遺跡も濃密なようで弥生時代、古墳時代の国家中心部の一角を担っていたようである。しかし、『魏志倭人伝』ではおそらく現在の兵庫県豊岡市を経由して出雲国へ行ったと思われるのに現在の京都市右京区嵐山から兵庫県豊岡市までの道路遺跡は朝来市和田山町加都の加都遺跡だけだ。そもそも『魏志倭人伝』の記載も雑なのだが、加都遺跡だけでは九州からの経路は断定できない。言ってみれば山城国葛野郡ばかりが栄えていたと言うことか。今の人は「京都」と言えばきらびやかな「一千年の王都」を連想するかも知れないが、現実はそんな甘いものではなく、人民の汗と涙の結晶なのである。

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