日本の山名の末尾

✡はじめに

日本の山名の語尾には山とか、岳(嶽)とか、森とか、峰(峯)とか、いろいろあって全部で七十種類以上あると言うのが専門家の見解のようである。大雑把にその比率を見てみると、「山」72.1%、「岳(嶽)」13.0%、「森」3.5%、「峰(峯)」3.3%、「その他」8.1%、と言い、東アジアの漢字圏では似たような傾向をたどっているのではないかと思われる。無論、これらの文字は日本でできた国字ではなく、全部中国から来たようであるが、傾向としては朝鮮半島、日本では「山」は土などの盛り上がったところを山と言うようで、普通名詞と言っていいようである。これに対し、「岳(嶽)」は日本では日本アルプスにあるような三千メートル峰(21座、23座、26座とかの諸説あり)に名付けられることが多く、山がつくのはわずか富士山、御嶽山(嶽の字は入っている)、立山(立山とは、主峰の雄山(標高3,003m)、最高標高峰の大汝山(標高3,015m)、富士ノ折立(標高2,999m)の総称である)だけのようだ。朝鮮半島には三千メートル峰はなく、比較的低山に岳の名がついた山がある。中国でも日本に近い黒竜江省、吉林省、遼寧省(旧満州国)などでは日本発刊の地図には岳の文字がついている地名・山名は皆無と言っていい。また、三千メートル峰も北京を通り越した「五台山(ごだいさん)は、中華人民共和国山西省忻州市五台県にある古くからの霊山である。標高3,058m。」と言うのが、中国東北部に近い最高峰のようである。但し、中国には、チベットとか新疆ウイグルとかには標高8000メートル以上の世界最高峰級の山々が存在している。この場合は山名の末尾は「峰」(チベット、新疆ウイグルが主)が多くなっており、その次に「山」(雲南省など多数)が来るようだ。もっとも、山岳の数の上では「山」が多いようだ。しかし、中国の山名に「岳」は皆無とまでは言わないまでも一カ所とか二カ所程度でとても数の内に入るものではない。そこで、中国における「岳」の使用法について調べてみると、

四岳、五岳

四岳とは、 中国で古代、諸山の鎮とした四方の山。東岳は泰山、西岳は華山、南岳は衡山、北岳は恒山。天子巡狩の際、その方面の諸侯を、この四岳の下で召見した。

五岳とは、中国の五大名山,すなわち東岳泰山,南岳衡山,西岳華山,北岳恒山,中岳嵩山(すうざん)の総称。五嶽とも書く。神仙の住む所とされ,歴代多くの帝王がみずから祭祀を行った。とくに泰山には群臣を率いて参拝し,封禅の儀式を行った。五岳については《爾雅(じが)》釈山篇の記述が根拠となっているが,戦国時代(前4~前3世紀)に五行思想の影響のもとに五岳の観念が生じたといわれる。国家祭祀の制度としては漢の武帝に始まり,漢の宣帝が確定した、とある。

四岳とか五岳の岳は山とは別の概念の言葉かと思われるが、驚くなかれ我が国の辞書にはその意味を説いているものがある。

新村出編『広辞苑』(第六版)ー岩波書店
 がく(岳、嶽) 1.高い山を数える語 2.妻の父母の呼称に用いる語、と言い、同書は亦、
 たけ(岳・嶽)(だけとも) 「たか(高)と同源」高くて大きい山。高山。山岳。源氏若紫「富士の山、なにがしの岳」、とある。
「1.高い山を数える語」は、一種の助数詞と見ているようで、漢字文化圏では多いようだ。但し、日本では山の助数詞は「座」と言う説もある。

因みに、新編 「大言海」 大槻文彦著 富山房では、「がく」の項はなく、たけ(嶽・岳) 高嶺(たかね)の約。万葉集0385「あられ降り、吉志美が高嶺(たけ)を険しみと草取りかねて、妹が手を取る、と。吉志美が高嶺(たけ)はどこの山か解らぬとのこと。

多くの辞書が、 1.たけ。険しい山。高く大きな山。ごつごつと高く険しい山。「岳麓/山岳・富岳」 2.妻の父母の呼称に用いる。「岳父」「岳母」「岳翁」
と言っている。中国の辞書ではこの後に、3.として「人の姓」が加わるようだ。

文献的には、文献初出は、
古事記(712)上「竺紫の日向の高千穂のくじふる多気(タケ)に天降りまさしめき」と言い、高く険しい山を言ったもののようだ。
次いで、源氏(1001‐14頃)若紫「ふじの山、なにがしのたけなど、かたりきこゆるもあり」とある。「ふじの山、なにがしのたけ」を併記しているところを見ると、「岳」は富士山に匹敵するような高い山を言ったのであろう。但し、『万葉集』巻7-1088 柿本人麻呂の和歌に「あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が嶽に 雲立ち渡る」とあり、柿本人麻呂は斉明天皇6年(660年)頃 - 神亀元年(724年)3月18日頃の人とされ嶽(岳)の文字がこの頃に頻出するような感じだ。また、大和国(巻向)に「弓月が嶽」という山名があるのも驚きだ。『万葉集』の成立は7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年(宝亀11年)ごろにかけてとみられる、と言う。

[語誌]
(1)「たけ(長・丈)」とともに、形容詞「たかし(高)」の語幹「たか」と同根で、下二段動詞「たく(長)」とも関連付けられる。特に方言では、薪や茸などを採る生活圏内のヤマに対して、しばしば信仰の対象となる生活圏外のものを指す。(注・タケのこと)
(2)中世の辞書類には多くダケがあげられ、「日葡辞書」にも「本来の語は Daqe(だけ)である」とあるなど、濁音形ダケが単独でも用いられたが、第一音は本来清音。

がく【岳・嶽】
〘名〙
① 高くて大きな山。たけ。
※色葉字類抄(1177‐81)「岳 カク ヲカ 又作嶽」
② 岡。丘陵。
※日葡辞書(1603‐04)「Gacu(ガク)。ヲカ〈訳〉小山、丘」
日葡辞書を正とするならば、岳と言っても山容は徐々に低山となってきているようだ。

文字は、古文で岳、篆文(てんぶん)で嶽。漢音、呉音ともに「ガク」。

がく【岳・嶽】はそのほかに中国では地名や人名の苗字にわずかながらある。

地名としては全国区的な地名としては、湖南省岳陽市がある。ほかにも地域名クラスの岳のつく地名は、新疆ウィグル自治区 岳普湖ヨプルガ県(ヨプルガけん)、四川省広安市岳池県(がくち-けん)、四川省資陽市安岳県(あんがく-けん)があるが、いずれも低山・丘陵の地のようで良く解らないので岳陽に絞って説明をする。
岳陽の地名の変遷を見ると、
1.西晋が成立すると280年(太康元年)には巴陵県が、291年(元康元年)には巴陵郡(はりょう-ぐん)へと改編されている。
南朝梁により巴州が設置され、隋が南朝陳を滅ぼすと、589年(開皇9年)に岳州と改称された。
2.606年(大業2年)、岳州は羅州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、羅州は巴陵郡と改称された。
3.621年(武徳4年)、唐が蕭銑を平定すると、巴陵郡は巴州と改められた。623年(武徳6年)、巴州は岳州と改称された。742年(天宝元年)、岳州は巴陵郡と改称された。758年(乾元元年)、巴陵郡は岳州の称にもどされた。岳州は江南西道に属し、巴陵・華容・沅江・湘陰・昌江の5県を管轄した。
4.1119年(宣和元年)、岳州に岳陽軍が置かれた。1155年(紹興25年)、亡き岳飛を誹る者の意見を採用して、岳州は純州と改称された。1161年(紹興31年)、純州は岳州の称にもどされた。宋の岳州は荊湖北路に属し、巴陵・華容・平江・臨湘の4県を管轄した。
5.(途中略)清のとき、岳州府は湖南省に属し、巴陵・臨湘・華容・平江の4県を管轄した。

 どうして同じことをくどくどと引用するのかと言えば、巴陵と岳州と言う地名が交互に出てくる。巴は中国四川省東部の異称(周時代の国名)あるいは「近づく」乃至「地名」。陵とは、おか。大きなおか。巴陵とは「後漢の末期、孫権側の名将であった魯粛は命令を受けて巴丘を守り、水軍を訓練し、洞庭湖と揚子江を接する険要場所に巴丘古城を建てました。建安二十年(紀元215年)、水軍の訓練と閲兵のために、魯粛は巴陵山の上に閲軍楼を築きました。この閲軍楼が岳陽の前身であるといわれています。閲軍楼は、両晋、南北朝時代に巴陵城楼と呼ばれていましたが、唐代に入ると初めて岳陽楼と呼ばれるようになり、」とあり、岳陽とは巴陵の同義語かとも思われる。日本でも岡山市という城下町があり「岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。」と言う。岳陽楼は岳と言うだけあって、もう少し高かったようである。

苗字では「岳飛」と言う人が著名で、相州湯陰県(現・河南省安陽市に位置する県)の出身。岳飛は元々は豪農の出であったが、幼い頃に父を亡くし、生母の姚氏に育てられた。岳飛の子孫は現在までも多数存在しているようで、杭州(現・浙江省杭州市)の西湖のほとりには岳王廟が建立されている。なお、岳飛と地名の岳陽は関係がないようだ。なお、「岳」苗字は中国では133位とか。《百家姓》第223位と言う。
岳という苗字は日本にもあり、九州に多く、発祥の地は周りの山々が「○×岳」と言う山名が多い。嶽と言う苗字もあるが、発祥地が「薩摩国日置郡嶽村が起源(ルーツ)である。近年、鹿児島県揖宿郡に多数みられる。」と言うが、岳よりは全国的に拡散している苗字である。とは言え、苗字に関する限りは日本の方が岳(嶽)の原意に即しているようだ。

✡岳に関する異説

『日本の地名 付・日本地名小辞典』鏡味完二著(講談社学術文庫2669)

鏡味完二先生の上記の著作によると、

p.107 第8表 地名の層序年表
層 地名の語根型
1. Ira・Era(発音) 飯良、江良(漢字) 西瀬戸内(分布の重心) 瀬戸内文化(所属文化) 先史地名(地名の時代型区分)
2. Tadokoro(発音) 田所(漢字) 300(文献年代) 瀬戸内(分布の重心) 瀬戸内文化(所属文化) 先史地名(同上)
3. Sue,Haji(発音) 陶、土師(漢字) 瀬戸内(分布の重心) 瀬戸内文化(所属文化) 先史地名(同上)
4. Agata(発音) 県(漢字) 東瀬戸内(分布の重心) 瀬戸内文化(所属文化) 先史地名(同上)
5. ーbe(発音) ~部(漢字) 600(文献年代) 東瀬戸内~近畿(分布の重心) 近畿文化(所属文化) 古代地名(地名の時代型区分)
以下、(文化の重心)に近畿が続く。省略。

p.85 「空洞」と言われる「地名のない部分」の現象
1.山の名で、その語尾を「ー岳」と言う地名の分布を見てみると、第18図のように中国と四国とに空白部がある。
 その空白部の山の名は、「ー仙」(中国)と「ー森」(四国)とが、そこを満たしている。空白部、または著しい低密度部を「空洞」と呼ぶことにする。
2.この空洞は、その形成の原因によって抵抗空洞と周圏空洞の二つになる。
  抵抗空洞というのは、ある新しい同じ語根型の地名が多数発生して、広い地域に広がってゆくとき、その途中に当たる部分に、古い別の地名が、集団をなして、抵抗をしているために、そこに新しい地名が空白部を形成するときにできる。
例として、フリ、フル、フレ地名。九州と近畿に多い。中国が抵抗地域であった。
  周圏空洞は、ある地名型が文化の中心から四方に広がってゆくとき、新村は都に近い周りの土地より、もう一つ外側に発達する。
例として、ヌタ、ニタ。

p.87 第18図 山の名「ー岳」
図を引用して良いのかどうか解らないので、以下、小生の所見を文章にする。

1.「ー岳」が密なのは、九州西部(図にはないが沖縄も)。日本アルプス。

2.「ー岳」が空洞あるいは低密度なのは中国(山口県は岳・嶽の比率がやや高い。岡山県は低密度。)、四国、摂津国、河内国。東海。関東から東北太平洋側。

✡鏡味完二先生の見解を総括

鏡味先生の見解はほかにもいろいろな論文があって一説としてまとめることは難しいが、『日本の地名 付・日本地名小辞典』でまとめてみると、

1.日本の文化の始まりは瀬戸内海沿岸である。従って、天皇氏発祥の地は瀬戸内(吉備国か)である。但し、天皇氏発祥地は諸説ある。
2.「空洞」と言われる「特定の地名のない地域」がある。例として、「ー岳」と言う山名の語尾で、中国と四国とに空白部分がある。その空白部の山の名は、「ー仙」(中国)と「ー森」(四国)とが、そこを満たしている。しからば、「ー岳」を運んだのは大和の人かと言えば、奈良盆地には「ー岳」と言う山名はなく、あるのは奈良県南部の吉野あるいは紀伊山地と言われるところである。

鏡味説を検討してみると、

1.日本国家発祥の地は瀬戸内海沿岸というのも、ある意味事実であって、『記紀』による天皇氏系図においても、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇は吉備国出身と思われる。但し、このお二方が実際に天皇の地位に就いたかどうかは不明で、『魏志倭人伝』 に言う官有として「邪馬壹国  官有 伊支馬(活目入彦五十狭茅か) 次曰 彌馬升(観松彦香殖稲か) 次曰 彌馬獲支(御間城入彦五十瓊殖か) 次曰 奴佳鞮(足仲彦)」とあるが、これらの人は瀬戸内出身で、『魏志倭人伝』では、「官」とあり、『記紀』では天皇となっている。『魏志倭人伝』 には官の上位には女王(卑弥呼と台与)がいたと思われ、これらの人々が倭国(日本)の王乃至女王即ち天皇ではなかったのか。しかし、Wiki「箸墓古墳」では、
「2018年(平成30年)4月、奈良県立橿原考古学研究所が前方部出土の壺形土器と壺形埴輪26点、後円部頂上から出土した葬送儀礼用の土器の破片54点を調査した結果、前方部の土器は地元の土であるのに対し、後円部は吉備地方の土の特徴と酷似していることが分かった。このことから吉備地方で製造された完成品を後円部に並べたこと、吉備地方の勢力が大きな力を持っており、箸墓古墳の造営に重要な役割を果たしたことが推測される」と。また、「特殊器台や特殊壺などの出土から三世紀後期以降の古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられている。」とも言い、吉備(瀬戸内海沿岸)は大和朝廷発足当初より政権に参画し、主導権を握っていたのかも知れないが、大和朝廷は畿内豪族の複合体であり、瀬戸内地域だけがヘゲモニーを握っていたわけではない。文献的には陵墓関係の先駆的な記事として、『古事記』中巻垂仁天皇條末尾に「大后比婆須比賣命之時、定石祝作(石作部の誤写)、又定土師部。」とあり、天皇の墓制を大きく変更した人物と思われ箸墓古墳はその記念すべきモニュメントだったか。但し、この場合の石作部とか土師部と言うのは、後世、武内宿禰が財政再建のため国営事業に格上げした墳墓造営事業とは異なり、石作部は播磨国の人であり、土師部は吉備国の人であろう。これに対し、武内宿禰の時代の伊福部氏(いおきべうじ/いふくべうじ)は因幡国の人であり、本業は石工であったと思われる。土師部氏は吉備氏系の土師部氏とは異なり出雲氏系(野見宿禰の子孫)の人のようである。

ところで、「空洞」と言われる「特定の地名のない地域」即ち「ー岳」と言う山名で鏡味先生は「中国と四国とに空白部分がある。」と強調しているが、小生の見るところではほかに「摂津国、河内国。東海。関東から東北太平洋側。」も空白部となっており、有り体に言うとこられの地域は平野部で摂津国、河内国(大阪平野)、東海(濃尾平野)、関東(関東平野)であり、これに岡山平野を加えると「ごつごつと高く険しい山」と言う「岳」の語義に合致しない。即ち、これらの地域に「ー岳」と言う山名は考えられない。次いで、中国・四国地域の最高峰の山名を見てみると、中国地方は「大山」で、山名の文献初出は『出雲国風土記』(天平5年(733年)2月30日に完成)に出てくる「<國来。國来。>引来縫國者、三穂乃埼。接引綱、夜見嶋。固堅立加志者、有伯耆國、火神岳、是也。」とあり、火神岳(ひのかみのたけ)<文章によっては大神岳(おおかみのたけ)>と当初より「ー岳」となっている。おそらく大山というのはその後のことなのだろう。また、四国地方は「石鎚山」で、最高峰に位置する天狗岳(てんぐだけ、標高1,982 m)・石鎚神社山頂社のある弥山(みせん、標高1,974 m)・南尖峰(なんせんぽう、標高1,982 m)の一連の総体山を石鎚山と呼ぶ。三角点は別にあり、三角点山また北岳と呼ばれている。天狗岳というのは山岳信仰から来たもので後世のものか。天狗岳とか北岳という山名があるので、四国に「ー岳」と言う山名がなかったとは言い切れない。

✡日本における岳・嶽

岳・嶽の語であるが、日本にも中国にもあり、日本には朝鮮半島の高句麗や百済を経由して入ってきており、中国には満蒙人(満州族・蒙古族<モンゴル人>)を経由して導入されたのではないかと思われる。但し、トルコでは「dagn(岳)」、イランの南部で急傾斜を意味する「ダカン」等を語源とする説がある。また、嶽の山冠の下にある獄には固いという意味があり、嶽は固い石でできた山を言うと解する見解もある。岳も山の上に丘があり、似たり寄ったりの意味合いを持つ漢字のようだ。大陸方面では山と言えば岩山を言うようで、日本のように比較的低山が多く、山の語尾に森(3.5%)がつく国とは違うようだ。戦後、満州から日本へ引き揚げてきた作家は満州は岩山ばかりで、日本の山が異様に見えたそうな。日本には岩山がなかったせいか古代山岳信仰では磐座・磐境が社殿建築以前の古代祭祀における祭場あるいは岩山自体の代用となったようである。考古学的に磐座が明確になるのは古墳時代以降と言う。日本の宗教は意外と新しいものかも知れない。『魏志倭人伝』にも「山」(邪馬台やまと)国、即ち『日本書紀』の訓読みは「日本、此を耶麻謄(やまと)と云ふ」とある。)はあるが、「たけ(岳)」は地名にも見当たらず、竹の字が、一大国「多竹木叢林」、倭国「竹箭或鐵鏃或骨鏃」、「其竹篠簳桃支」がある。
日本にタケ(岳)の語がいつ頃入ってきたのかと言えば、高句麗や百済の国が滅亡し、避難民がドドッと日本に押し寄せてからのことであろう。この避難民は人数はどのくらいかは解らないが(716年(霊亀2年)に、関東各地(当時の7カ国)に住んでいた「高麗人」1,799人が武蔵国に集められ、「高麗郡」ができました、とある。また、百済からは665年に男女400余人、翌年には男女2000余人、669年には男女700余人が亡命し、大和朝廷から官位や土地を与えられて日本に定住した。当時の我が国の人口の推計は500万人と言われ、現在の推計1億2,454万人と比較すると現在は24倍に膨れ上がり、高句麗の1,799人、百済の3,100人の計4,899人×24=117,576人が現代においていかなる意味を持つか、また、これらの人は正規の手続きにより来た人で、非正規の渡来者もたくさんいたというのが識者の見方だ。)、自分たちの生活風俗等をも持ち込んだのではないか。宗教なんかはその最たるもので、人数の多い百済の国の渡来者について、熊本県教育委員会が「鞠智城と古代社会」と言う論文にまとめてあるのでそこから抜粋してみる。

「このような百済仏教が最初に到来したのは、九州であり、そこで勃興したのが八幡信仰である。この信仰でポイントとなることは、山岳信仰と放生思想である。
前者の山岳信仰は、新羅のみではなく、百済でも見られ、『三国史記』法王代に
法王二年創王興寺。度僧三十人。大早王幸漆岳寺祈雨。(法王二年王興寺を創る。僧三十人を度す。大早(早朝)、王は漆岳寺に幸し、析雨す。)とあり、従来に斎行されていた祖廟や神祇祭祀場ではなく、漆岳寺に行幸し、折雨している。したがって、百済の山岳寺院における神仏習合現象も考えられ、この思想は日本にも伝来したと推察できる。その事例として、『日本霊異記』に記載される百済僧弘済が中国山地に立てた三谷寺跡(寺町廃寺・広島県三次市向江田町728-2)の創建説話があり、日本の山岳信仰にも大きく影響を与えたことは間違いないであろう。その山岳信仰として豊国の宇佐地域における原始的な祭祀の様相は、宇佐神宮の南西に見える御許山馬城峰の大元神社にみられ、わが国の原始信仰を彷彿とさせる磐座や原始林が神域(禁足地)として残っている。」(以下、放生会に関しては割愛する。)
私見で何が言いたいのかと言えば、660年に百済滅亡、663年の白村江の戦いに日本・百済遺民連合軍敗戦、668年に高句麗滅亡、と朝鮮半島では短期間で混乱の極みに達し、敗戦国の遺民は日本の九州北部へ逃亡したことは間違いない。もっとも、高句麗は継承国として西暦698年渤海国を建国。九州にやって来た敗戦国の遺民は、無為徒食の輩ばかりでは受け入れ側の日本でははなはだ迷惑なことで、まず、太宰府に集められ適性、特技、体力など何らかの基準で選別され、できの悪い人物は九州西岸から沖縄方面(鏡味完二先生の描く「第18図 山の名「ー岳」p.87。「ー岳」が密なのは、九州西部(図にはないが沖縄も)。」)、へ追いやられ(この組が神仏習合の山岳信仰を持ち込んだのではないか。)、腕力はあるが反乱を起こされるかも知れない者は日本海側(この組が一番多かったのではないか)、読み書きそろばんを習得、学術修得している者は日本の役人として採用。宅地建物支給。
山名に「ー岳」が密なのは九州西部で、沖縄県55%、鹿児島県44%、長崎県40%などとなっている。
「御嶽(おたけ)とは、鹿児島県奄美(あまみ)諸島と沖縄県で、神社に相当する聖地をいう。森(もり)あるいはオガミともいい、一般に「うたき」とよばれる。たいていは樹叢(じゅそう)をなし、本殿にあたる神聖な部分をイベ、ウブなどといい、樹木や岩石を祀(まつ)る。礼拝や祭儀は、その前方の拝殿にあたる場所で行う。今日では、屋根と祭壇を設けた拝殿ができている御嶽もある。」 と。
「御嶽(おたけ)」とは、読んで字のごとく嶽(岳)で山のことであり、森(もり)あるいはオガミ(丘峰か)の森も山のこと、「うたき」は御嶽の沖縄式発音、イベ、ウブも元は同音で伊部造(百済帰化族。出自百済国人乃里使主也)か、名護市安部(あぶ)の地名あり。安部姓は大分県、福岡県の九州に断トツに多い。また、伝承もあり、『肥前国風土記』松浦郡値嘉郷に「この島の白水郎は容貌が隼人に似て、常に騎に乗って弓を射ることを好み、その言葉は世人と違っている」と。即ち、長崎県五島列島の人は容貌は隼人(鹿児島県人・鹿屋市)に似て、馬に乗って鷹狩りを愛好し、言葉は日本語ではない、と言うことだ。長崎県や鹿児島県に百済人がいたと言うことではないのか。日本で鷹を調教したのは百済の帰化人・酒君(さけのきみ)だという。鹿児島県から沖縄県へ百済文化を運んだのは日本人か。
また、半島からの逃亡者の日本側受け入れ態勢は、役 小角(えんの おづぬ、舒明天皇6年〈634年〉伝 - 大宝元年6月7日〈701年7月16日〉伝)と言う人物が現れ、多くの文献では生没年不詳とされるため実在しなかった人ともされるが、天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場でも役小角・役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。
いくつかの文献では実在の人物とされているが生没年不詳。人物像は後世の伝説も大きく、前鬼と後鬼を弟子にしたといわれる。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場でも役小角・役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。大阪府箕面市にある箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳(標高499m)にて入寂したと伝わる、とか、石鎚山(天狗岳とも言う)の山中で亡くなった、とも、言われている。役小角のことを言ったらきりがないので、一応、百済や高句麗が滅亡した頃の人物であり、半島からの渡来者の生活関連の世話をして、その中に就職の斡旋(役小角は、役は使役の意にて役民を指す。 すなわち役氏とは役民の長たりし氏にほかならず。現代で言う労務管理者。) や渡来民の寺社の建立等を行い百済流修験道(山岳信仰に仏教(密教)や道教(九字切り)等の要素が混ざりながら成立した)を日本へ導入したのではないか。因みに、役小角が開山したという寺社は非常に多く、山名には岳のつく山が多い。例として、奈良県の大峯山山系の大峯山(山上ヶ岳)、稲村ヶ岳、八経ヶ岳(山名は、役行者が法華経八巻を埋めたという伝説からきている。)、行者還岳(役行者が、鋭くそびえる岩壁の姿をひと目見て、あまりの巌しさに踵を返して引き返したことに由来します。)など。登山家のサイトでは何百という山が役小角の開山とか言っている。
百済では国王の祈願寺として「漆岳寺」なる寺院があり、この「岳」が日本へ入ってきたものか。但し、漆岳寺は仏教寺院であり、王(百済の第29代の法王)は仏教徒であって山岳信仰(修験道)の信者ではない。
中国山地の日本海側に「○×山」を「○×セン」と読む山がある。「セン」と読むのは呉音と言うことで、呉音は、建康(今の南京市)付近の漢字音とも言われ(平たく言うと中国南方方言)、7-8世紀に漢音(長安付近の音韻・中国北方方言)が伝わるより前にすでに日本に定着していた漢字音をいう、とあるが、日本で言う関東山の手の標準語と。関西弁の違いである。しかるに、近時、百済語と日本語との混合した発音として、「学際研究者の藤井游惟は「呉音は呉地方の方言音ではなく「朝鮮音」であり、白村江での敗戦で大量亡命してきた百済人の子孫による「日本語訛りの朝鮮音」が定着したものだ」、と宣い、少なくとも「山(セン)」に関しては百済人が関与していることは間違いないようなので、「山(セン)」と「岳(ガク・タケ)」の二種類の百済人が日本へ来たものと思われる。「山(セン)」は兵庫県、鳥取県、岡山県の山岳地帯に多く、地域が限定されて後発の人と思われ、「岳(ガク・タケ)」は先発の人たちで数も多く百済でも広く使われていたせいか、日本に入っても全国的に拡散している。もっとも、大槻文彦著『新編大言海』によると「たけ(嶽・岳) 高嶺(たかね)の約」と言い、新村出編『広辞苑』でも「たけ(岳・嶽)(だけとも)「(たか)(高)と同源)」高くて大きい山。高山。山岳。」となっており、日本の国語学の大家は「たけ(岳・嶽)(だけとも)」は日本由来の語彙で百済からは嶽・岳の漢字だけを取り入れたと言うもののようである。ただ、鳥取県の大山を『出雲国風土記』に「大神岳」(現存する写本では大神岳はない)や「火神岳」と記されているので、セン(山)よりタケ(岳)が早かったのではないか。

✡まとめ

既に長々と書いているので「まとめ」は箇条書きにする。

1.日本で岳・嶽と言えば<険しい山。高く大きな山。ごつごつと高く険しい山。「岳麓/山岳・富岳」>となっており、山が、盛り上がったところを示す万能語なのに対し、岳・嶽は山岳に限定されたごつごつと高く険しい山即ち岩山に限定されているのではないかと思われる。これは、岳・嶽の漢字が中国から直接日本へ導入されたのではなく、7~8世紀頃に高句麗・百済人とともに日本へもたらされたものではないか。

2.鏡味完二先生の「「空洞」と言われる「地名のない部分」の現象」の意味合いだが、
空洞は、その形成の原因によって抵抗空洞と周圏空洞の二つになる。
 抵抗空洞というのは、ある新しい同じ語根型の地名が多数発生して、広い地域に広がってゆくとき、その途中に当たる部分に、古い別の地名が、集団をなして、抵抗をしているために、そこに新しい地名が空白部を形成するときにできる。
 周圏空洞は、ある地名型が文化の中心から四方に広がってゆくとき、新村は都に近い周りの土地より、もう一つ外側に発達する。

これも「岳・嶽」の語が日本古来からの語彙なのか、はたまた、朝鮮半島などから持ち込まれた外来語なのかによって結論は異なると思われる。一応、日本の著名な言語学者や鏡味先生は「岳・嶽」の語は日本古来からの語彙と解しておられるようなので、「岳・嶽」と旧来の「山」勢力(中国・四国)が抵抗し、中国・四国地域では「岳・嶽」は空白となったと言うのだろう。考えられるのは『魏志倭人伝』の卑弥呼女王の邪馬台国と卑弥弓呼王の狗奴国の対立である。邪馬台国はヤマトと読めるが、狗奴国は吉備国とは発音が全く違う。或いは、美作国久米郡の久米あたりが吉備の古い呼称だったか。久米が狗奴と訛ったものか。垂仁天皇は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと) - 『日本書紀』、伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記』と記紀に記載されているが、この活目入彦乃至伊久米伊理毘古は伊久米からやって来た人の意味か。久米(本体)に対し伊久米は畿内に近い方を言ったものか。また、『上宮記』には第二十六代継体天皇の母方の系譜が、第十一代垂仁天皇から八代に渡って記録されており、始祖の名に「伊久牟尼利比古大王」と書かれています。「伊久牟尼利比古大王」は垂仁天皇と言い、現存する文献上で最も古く「大王」号を使われている天皇は垂仁天皇ということになります、と。大和朝廷の中には垂仁天皇を開祖とする王朝があったと言うことか。天皇氏系図に言う垂仁、崇神の二代の王朝か。もし、「岳・嶽」が外来語とすると百済、高句麗が滅亡して数次にわたって渡来した場合、山を仙・山(セン)と言った人と岳・嶽(タケ)と言った人の二派が別々にきてそれぞれの行き先で仙・山(セン)と岳・嶽(タケ)を山名に付けたのではないか。中国・四国地域で岳・嶽(タケ)が少ないのは瀬戸内海航路で畿内にやって来た人が皆無に近かった。瀬戸内海を通って畿内に来た人は少数のエリートだった。即ち、現代流に言うと、就職内定者であってあっちこっち寄る必要はなかった。これに対し、九州西岸や山陰路を指示された人は何もかにもが未定の不安定な人たちだったのではないか。

鏡味先生の上述著作、p.87 第18図 山の名「ー岳」

1.「ー岳」が密なのは、九州西部(図にはないが沖縄も)。日本アルプス。
2.「ー岳」が空洞あるいは低密度なのは中国(山口県は岳・嶽の比率がやや高い。岡山県は低密度。)、四国、摂津国、河内国。東海。関東から東北太平洋側。

何度も言うが「ー岳」が空洞あるいは低密度なのは中国・四国だけではない。平野や盆地の大きいところは当然のことながら高い山岳がないので「ー岳」の山はない。中国地方なら中国山地・冠山山地に、岳、山(やま、さん、せん)などのバラエティーに富んだ山々がある。大山は以前は火神岳と言ったようで、岳はその地域の最高峰に付けられ、山は汎用性が高かったのではないか。よって、岳の山名が少なかったと思われる。四国についても同じことが言え、石鎚山は最高峰に位置する天狗岳(てんぐだけ、標高1,982 m)・石鎚神社山頂社のある弥山(みせん、標高1,974 m)・南尖峰(なんせんぽう、標高1,982 m)の一連の総体山を石鎚山と呼ぶ。三角点は別にあり、三角点山また北岳と呼ばれている。言うなれば、大山と同じような主旨を述べている。○×岳の山も津志嶽、千羽ガ岳、二ツ岳、黒岳などがあるが数の内に入らないようだ。
インターネットを見ていると、一般の人は「岳・嶽」を「ごつごつと高く険しい山。岩山。」と解しているようで、往時の人もそのような解釈であったなら、日本にはそんな山は少なかったと思う。また、日本に「岳・嶽」が入ってきたのが7~8世紀頃とすると、「岳・嶽」の山名が入る余地はほとんどなかったのではないか。それが、山名の末尾が「山」72.1%、「岳(嶽)」13.0%、「森」3.5%、「峰(峯)」3.3%、「その他」8.1%に現れているのではないか。

3.山岳信仰と修験道

「修験道(しゅげんどう)とは、古代日本において山岳信仰に仏教(密教)や道教(九字切り)等の要素が混ざりながら成立した、日本独自の宗教・信仰形態。修験道の実践者を修験者または山伏という。修験道は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている。」と『修験道ーWikipedia』は宣っているが、まず、 役小角の出身氏族である役氏であるが、一説に、「役民の長なるより、役をもって氏となす。すなわち役氏とは役民の長たりし氏にほかならず。」と言い、役民とは夫役の人。夫役(ぶやく)は、日本史上の各為政者が農民などに賦課した労働課役のこと。古代には律令制度の下、公民は重い夫役に苦しめられていた。おそらく役小角は朝鮮半島から押し寄せてくる難民の整理や徭役(歳役と雑徭。歳役は年に10日間公民を徴発し、中央で造宮や造寺に使役する制度であり、雑徭は国司の指揮下で年に60日間、官舎・倉庫の建築や修理、堤防・路橋の新設など雑多な労働に服させる制度である。ほかに、雇役,兵士,防人,衛士,仕丁,采女 (うねめ) など。このような時代にあって「役小角は伝説的な人物」などというのは現実的ではない。役小角は日本歴史上出現すべき時代に出現した。「『日本霊異記』に記載される百済僧弘済が中国山地に立てた三谷寺跡(寺町廃寺・広島県三次市向江田町728-2)の創建説話があり、日本の山岳信仰にも大きく影響を与えた」と言うのも、役小角が半島からの難民の宗教問題に関わっていたと言うことではないか。「役小角は終生を在家のまま通した」と言うのも本業の役人としての仕事が多忙だったからではないのか。
以 上。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?